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スケールが違う!巨大隕石のクレーターの上に築かれた都市「ネルトリンゲン」 ドイツ南部のロマンティック街道沿いにある「ネルトリンゲン」は、中世の面影を色濃く残す、円形の市壁に囲まれた都市です。 しかし、とりわけこの都市をユニークなものとしているのは、1500万年前に落下した巨大隕石の衝突によって出来たクレーターの上に築かれたものであること。 「中世の真珠」とも形容される、歴史あるドイツの都市をご紹介します。 1. ぐるっと丸い市壁で囲まれた都市の全貌。 最初はこの市壁の部分がクレーターの跡かと思いましたが、直径24kmの巨大なクレーター(ネルトリンガー・リース)の中央部に、直径1kmほどの円形の街が築かれたとのことです。(落下した隕石は直径1.5km程度) 2. 14世紀に築かれた市壁の境界。1215年、神聖ローマ帝国の時代に帝国自由都市となり、最初の市壁が築かれました。 3. 南東に位置す
4月16 日本三景の一つ、松島は巨大地すべりだった カテゴリ:自然現象と災害地学・ジオロジー 松島・天橋立・宮島が日本三景と呼ばれています。 松島や ああ松島や 松島や で知られる宮城県の松島は、私は行ったことが無いのですが。先日の斜面工学研究小委員会で、香川大の長谷川修一先生の話を聞いて興味が湧きました。興味が湧いたといっても、風景に対してではないのですが。。。 確かに、お話を聞くとそれ以外の成因を考えられないというレベルで確かな話に聞こえました。「地すべり屋さんはすぐに理解してくれるが、地質屋さんにはなかなか理解してもらえない」と話されていましたが、両方に所属する私は、すぐに理解できました。 地すべり移動土塊というものの存在を理解していない地質屋さんはけっこういます。地すべり移動土塊と不動地塊とを連続した地質図(層序が連続した)として描かれたものを何度か見たことがあります。ただ、地質を
高い値 福島県飯舘村は、福島第1原発から北西に約40kmの距離(村役場までの距離)に位置する村です。報道などでは「舘」を常用漢字で「飯館村」と記載されることもあります。 この飯舘村の雑草や土壌などから高い濃度の放射性物質が検出されています*1 *2。また、飯舘村に隣接し、より福島第1原発に近い位置にある浪江町でも高い放射線量が測定されています*3。 どうしてこの2町村で高い値が測定されるのでしょうか。3月19日の原子力・安全保安院の会見によると、飯舘村の放射能について「風向きなどの影響」とみられる、とのことですが、もう少し詳しい説明がほしいところです。天気予報を見ていると風向きは日によってばらばらで、原発から飯舘村の方向へ吹くことが特に多いわけではないですから。 福島第1原発から浪江町を経て飯舘村にいたるまでの地形が、放射性物質の濃度に関係しているだろうと素人なりに考察してまとめてみました
深海調査研究船「かいれい」による海底地形調査結果について(速報) ~東北地方太平洋沖地震に伴う震源域近傍における海底変動~ 1.概要 独立行政法人海洋研究開発機構(理事長 加藤康宏、以下JAMSTECという。)では、平成23年3月15日から31日にかけて文部科学省の科学研究費補助金(特別研究促進費)による「2011年東北地方太平洋沖地震に関する総合調査」の一環として、東北地方太平洋沖地震の震源域で反射法地震探査、測深器を用いた海底地形の調査等を行いました。 調査は、東北地方太平洋沖地震の震源域・津波波源域において、JAMSTECが所有する深海調査研究船「かいれい」(以下「かいれい」という。)により、平成11年に実施した調査(KR99-08)と同一測線上で観測したデータ(KR11-05)の比較を行い(図1)、地震に伴う海底地形・地下構造の変化を調べました。 海底地形調査の結果、震源近傍から海
J-SHIS は、地震防災に資することを目的に、日本全国の「地震ハザードの共通情報基盤」として活用されることを目指して作られたサービスです。
江戸川は下流域も人工河川 江戸川(利根川と渡良瀬川の合流以降)の流路は1625の新川通し開削に続いて1641の関宿〜野田間のバイパス流路の開削など上流のほぼすべてが治水のために流路を変えられた人工河川です。 下流域では今に見える江戸川が大昔からそこにあった・・それが常識です。 否、三郷市以降の江戸川も江戸初期に開削された人工河川である、ことを考察してみます。 利根川の下流域は正保図(1644〜1648)の時代では、隅田川筋、古利根川筋(現中川)、利根川筋(現江戸川)の3筋があります(古利根川筋と利根川筋の間にもう一本無名の水路がある)。 現中川筋が古利根川、すなわち正保図時代ではここが往古の利根川だった。 しかし、太政官符にも吾妻鏡にも義経記にも「スミタ」と「フトイ」の2筋の河川名しかでてきません、3筋目の川はどこから現れたのでしょうか。 1947年のカサリン台風による桜堤決
ようこそ kasen.net 河川ネットへ このサイトは河川、水、災害について学ぶ皆さんのため作成しています。 What's New! 更新履歴 ● 日本の災害 (2016/06/20 更新) ● 日本の川 (2015/05/12 更新) ● 日本の川と災害の地図 (2015/05/12 更新) ● 施設別 index (2008/07/26 更新) ● 河川の被災事例 (2010/08/12 更新) ● 治水・利水・災害対策に尽くした人々 (2011/01/14 更新) ● 石碑の語る治水・利水・災害の歴史 (2016/06/05 更新) ● 治水の工夫 (2008/10/01 更新) ● 利水の工夫 (2008/07/26 更新) ● 住まい方 (2008/07/26 更新) ● 水辺環境の保全 (2008/07/26 更新) ● 河川景観の保全 (2008/07/26 更新) ● 水
空から測量 地表くっきり [10/09/21] 東京科学医療グループ・黒沢大陸 上空から森に照射されたレーザーが枝葉の間を抜けて、隠れた地面を浮かび上がらせる。樹木や建物を取りのぞいた状態の地図を描き出せる航空レーザー測量。洪水の予測や植生の解析、立ち入ることができない古墳の調査、都市の3次元地図作りと、活躍の場が広がっている。 ◇古墳調査・洪水予測 多彩な利用法 奈良市の中心部近くにあるコナベ古墳。堀に浮かぶ古墳はうっそうとした木々に覆われ、林の中の様子はうかがえない。 昨年末、この古墳の上空650メートルをヘリコプターが行き来してレーザーを何度も細かく照射、測量データから地表面の3次元画像ができた。 「考えていた以上に、きれいだった。優れた土木技術の造形美だ」 奈良県立橿原考古学研究所の西藤清秀埋蔵文化財部長は、画像を見て驚いた。前方後円墳をかたどる直線と円形が段状に、くっきり残って
「起伏のある土地は、必ず平らになろうとする」 地形や地質に詳しい知り合いが、以前そんなことを言っていた。確かに、多くの人が暮らしている平野部は、長い年月をかけて山間部から運ばれてきた土砂が堆積して造られたものだし、その山間部に行けばあちこちで土砂崩れが起きていて、のちのち平野に運ばれていくであろう土砂が今も生産され続けている。つまり、長期的に見れば山間部は縮小し、平野部は拡大していくのだと思う。 中でも、古くから同じ場所が崩れ続け、大量の土砂を産出し続けている山がある。それらは「崩壊地」と呼ばれ、放っておくと下流に必要以上の土砂を押し出してくるため、数十年から百年以上という時間をかけて砂防工事が行われている。 今回はそんな「崩壊地」のひとつ、静岡県の「大谷崩(おおやくずれ)」を観に行った。 (萩原 雅紀) 土砂の川、安倍川 東名高速を静岡で降り、市内を流れる安倍川のほとりにやってきた。 安
Since 2006, NASA's Mars Reconnaissance Orbiter (MRO) has been orbiting Mars, currently circling approximately 300 km (187 mi) above the Martian surface. On board the MRO is HiRISE, the High Resolution Imaging Science Experiment camera, which has been photographing the planet for several years now at resolutions as fine as mere inches per pixel. Collected here is a group of images from HiRISE over
この日本史教科書の記述は、ある意味では正しいと言えますが、十分な説明がないと誤解を与える表現とも言えるかもしれません。 その理由は以下の通りです。 「縄文海進」とは、約7000年前ころ(縄文時代に含まれる)に、現在に比べて海面が2〜3メートル高くなり、 日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入した現象をさします。 この時代には日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られました。その後海面は現在の高さまで低下し、 かつての入り江は堆積物で埋積されて、現在水田などに利用されている比較的広く低平な沖積平野を作りました。 この海進の現象は日本では東京の有楽町で最初に調べられたこともあり、地質学的には「有楽町海進」、 あるいは「完新世海進」とか「後氷期海進」などと呼ばれています。花粉化石や貝化石の研究に基づくと、 「縄文海進」の時期の日本列島は、今よりも数℃以上気温、水温が温暖な時期であったことも
中沢新一氏の『アースダイバー』やタモリのお散歩番組で、高まってきた東京地形散歩ブーム。縄文時代には、現在よりも海水面が高く、東京の下町や都心の一部に海が入り込んでいた時期がありました(縄文海進)。ではどこまでが入り江だったか?昨今の一般向け書籍やマスコミ報道では、必ずしも科学的に正確とはいえない説が紹介されています。縄文海進の真相について、地理学・考古学の研究者がコメントします。
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