Oguchi T/小口 高 @ogugeo 電車の中で目にしたヴィクトル・ユーゴーの名言。「運命は花崗岩より堅固だが,人間の良心は運命より堅固である」。波乱に富んだ人生を歩んだ人の重い言葉。しかし地学クラスタとしては,なぜ花崗岩なのかと思い詰めてしまった。風化で砂質になりやすいので,堅固なものの比喩にはならないのではと。 2012-02-28 22:57:52
Oguchi T/小口 高 @ogugeo 電車の中で目にしたヴィクトル・ユーゴーの名言。「運命は花崗岩より堅固だが,人間の良心は運命より堅固である」。波乱に富んだ人生を歩んだ人の重い言葉。しかし地学クラスタとしては,なぜ花崗岩なのかと思い詰めてしまった。風化で砂質になりやすいので,堅固なものの比喩にはならないのではと。 2012-02-28 22:57:52
statpics - A Pearl: a Balanced Median Necklace 数学の概念を説明するのに,物理的な「たとえ」を使うことが,たまにあると思う。 例えば平均値の概念は,上の図の (a) のように「物理的なバランスが取れる点」として説明することができる。数直線を棒とし,値の点に等しい質量の重りを付けたときに,バランスを取ることのできる支点の位置が,平均値を表しているわけだ。 それでは中央値(メディアン)はどのように説明することができるだろう。平均値が「棒のバランス」だったのに対して,中央値は「滑車のバランス」で説明することができる。上の図の (b) のようにループ状の紐に重りを付けて,滑車にぶら下げたときに,最も下に位置する点が中央値となる。 この「滑車のバランス」は,左右の紐に同じ数の重りがあることによって得られる。どちらか片方からひとつの重りを選んで,それを極端
はじめに この本はオブジェクト指向技術を利用してソフトウェア開発することを目指す技術者および管理者のために書かれた本です。プログラムのコードや難しい数式などを排除してあり,図と文章によって基本概念や適用技術を平易に解説しています。オブジェクト指向技術を数学(形式)ぬきで探求する試みといえるでしょう。 本来,オブジェクト指向技術を,瓶から瓶へ水をもらさぬように,正確に伝えるには,数学(型理論)を必要とします。数学的形式化が行われていないと,オブジェクト指向で表面化する問題の議論がかみ合わず空転することが多いからです。あの時はこうだっだ,この時にはああだったと経験則の披露になりかねないのです。やはり何かしらの形式化は必要でしょう。しかし,数学的形式化の苦しみときたら並大抵ではありません。特に,後述するインヘリタンス(継承) や並列などが絡んだあかつきには残酷なのです。私だけかもしれません
はっきり言って生成文法も認知言語学も認知科学では有名だけど、その割に基本を理解してない人は結構いる。というか、そもそも分かりやすい紹介が日本ではあまり見当たらない。以下の議論では最近の専門的な傾向は無視してます。私だって詳しく知りません。それより一般にはそもそもの基礎さえ理解されてないんですから。あくまで素人による素人のための紹介ということで。 生成文法の基本は主語-動詞関係を基盤にした入れ子構造(または再帰構造)にある。分かりやすく日本語の例で説明しよう*1。一番単純な文は「俺は、うれしい」と主語と動詞との基本構造からなる。典型的な単純な句として「俺の、娘」のような所有格-名詞関係という基本構造も考えられる。こうした基本構造を理解すればあとは簡単だ。これを受け入れてもらえば後は同じような構造を繰り返して無限に文を生成できる。「俺は、娘が合格したのが、うれしい」。この場合は、「俺は、うれし
高気圧や低気圧、台風などは只の"現象"なので、「発達した」「上陸した」「進路を徐々に…」などの、生物を連想させる言葉を使うのはよろしくない。自然現象に何らかの意思が投影されていると捉えることは疑似科学の温床になっちゃうからね。 だから、僕たちは水伝などという特異な例をあげつらうよりも、日頃から疑似科学的な思考を人々に植え付けている天気予報に対して改善を叫ぶべきだ! # 疑似科学の源泉は、人間の「世界の捉え方」にあるのであって、無知や無学が原因ではない。むしろ、知識を得ることによって生来の世界観を抑えていると見た方がいい。本能を理性で抑えているように。 追記 これ、冗句って書いとくのを忘れてた。
僕の投じた一石が、思わぬ(?)波紋を広げてしまったのかも知れませんが… すでに収束気味? だとしたら、新たな波紋を広げることになるのかも知れませんが… 前置きはこれくらいにして。 「テクストの意味はそれが置かれた文脈に依存する」という表現には、おそらく少しでも哲学的な話を齧った人ならば同意するだろう(多分)。 それは、「テクストの意味は、テクストを構成する単語の意味(および統語規則)によって特定される」という原子論的意味論とでもいうべき言語観に対するアンチテーゼである(ホーリスティック=全体論的な言語観と言い換えてもよい)。 ちなみに、原子論的意味論は、私見ではヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」に最も象徴的に表れている。 論理実証主義はそのアイデアを極限まで推し進め、科学を正当化しようと試みた(が、残念ながら失敗に終わったと言わざるを得ない)。 その後のヴィトゲンシュタインが、原子論的
この記事はニセ科学批判 vs ニセ科学批判批判について の、続きのようなもの。 権威の取り扱い:Chromeplated Rat:So-net blog への回答として書きはじめたのですが、結果として散文的なただの読み物になってしまいました。 従って、回答の体を成しておりません。また、哲学や宗教に価値を見いだしていない人にとってはチンプンカンプンな内容です。 だけど、ニセ科学の周りで展開している様々な問題については、今回のようなアプローチを採らないとロジックが解けないと考えています。 あと、ヒジョーに長いです。暇な時にダラっとした感じで読んで頂ければ幸いです。 その1. あの記事は、ニセ科学批判批判者が「ともかくお前らの態度が気に食わない」というスタンスを取ってしまうのはなぜか、という疑問に対するもので、ニセ科学そのものは眼中に無かったんですよ。分かりにくくて申し訳ない。 そして結論は、
「ニセ科学批判 vs ニセ科学批判批判」というのは長過ぎるので、「批判 vs 批判」と表記することにしよう。 最近考えていたことがある程度まとまったので、断片を繋ぐ形で書いてみる。 私の中では、「批判 vs 批判」問題はこれでカタがついた。後は野となれ山となれ~。 「批判 vs 批判」において科学の更新性や真理の定義についてやり合っていることがあるが、あれは意味がない。 なぜなら、法則が差し代わろうが真理の定義が変化しようが、「科学は正しい」という合意が変化していないから。 最も重要なこと。 「正しいこと」は、権威を帯びる。 これは文化や規範を超えて働く、人類共通の法則だと私は考えている。 この「正しいこと」は種類を問わない。神や科学や真理や道(タオ)やダルマ、何でもよい。 例えば、ある人が「正しいこと」を発言し、聞き手もそれを「正しいこと」だと認識した場合、その発言や発言者は権威を帯びる
「自然科学が自然の近似」と言いたくなるキモチはボクもよく知っている。研究をすることで「自然」についての知識が少しだけ増えて、研究成果を発表することでそれが共有財となり、自然に対するビジョンがちょっとだけ広がる。それはきっと自然の「本当の姿」にちょっとだけ近づいているに違いない。 元を辿れば、多分(明示的に書いてないけど)、apjさんのエントリhttp://www.cml-office.org/archive/1226948122175.htmlに対して、哲学的な議論が好きな(多分ね)quine10 さんがエントリ科学について(あるいは真理について) - quine10の日記を上げて、そのブコメはてなブックマーク - 科学について(あるいは真理について) - quine10の日記に ublftbo さん(TAKESANさんと書く方が通りがいいかも)が書いたコメントにボクが噛み付いたことを受け
俺定義でおこたえします - 地下生活者の手遊びのコメ欄でやりとりしていて、思ったことを簡単に。 事実と価値(当為)を分離せよ、「である」と「べき」は違う、ザインとゾルレンを区別せよ、 などといわれますにゃ。実に広く有用な区別ですにゃ。特に、倫理・道徳や法(規範)を考えるとき、疑似科学のことを考えるとき、などには必須の考え方ですにゃ。 まあ、このあたりについてはみにゃさまもおわかりのことと思われますにゃ。 ところで、【自然】というのは、事実なのだろうか? それとも価値? 事実と価値の分離に意識的な論者は、あまり「〜は自然だ」という言い方はしにゃーと思う。「〜は一般的な傾向としてある」などという言い方をするのではにゃーかな。 日本語で、「〜は自然だよ」というとき、「ものごとが本来あるとおり(大辞泉)」という意味で使いますにゃ。英語においても、It is natural that 〜 と書くとき
過去にローンやクレジットカードの返済を延滞・滞納したことがある等、思い当たるふしがある方は、今後のカードローン審査に無事通るのか不安に思うのではないでしょうか。
自分の中でも今一つ(?)消化しきれてない気がするので、人様にどれだけ説得的に説明できるか、今一つ自信はないのですが。 せっかくトラックバックを貰ったので、頑張って書いてみよう。 トラックバックのURLを忘れてました(スミマセン)、コチラになります。 細かいなあ、オレも。 キーワードはエントリータイトル通り、「モデル化」と「近似」です。 まず、「モデル化」についてですが、一般には「モデル化とは、現象を理解・説明するための図式化ないし数式化」ということが言えるのではないかと思います。 で、「モデル化」で重要なことは、理解の手助けとなるかどうかであって、それが件の現象と近いかどうかはとりあえず問題にならない(モデルが現実と似ていれば理解の手助けにはなると思うが、必須ではない)。 その意味で、「モデル化」はとりあえず「近似」とは別物と考えられる。 科学とは別の例になってしまうが、「モデル化」の理解
きっかけはこちら⇒科学について(あるいは真理について) - quine10の日記 では、本題へ。 えー、とある疑似科学批判派(と思われる)のブログのコメント欄で以下の表現を見つけた。 「科学は自然の近似である」 「えっ?」と。 「マジで言ってんの?」と。 こう切り出し、ここから、「科学は自然の近似である」という見方を、哲学的な真理観の立場から批判しています。※引用にあたり、強調等の修飾は はずします さて、とある疑似科学批判派(と思われる)のブログのコメント欄、というのがどのブログかは判りませんけれども、疑似科学あるいはニセ科学を批判し、「科学は自然の近似である」という表現をよくされるのは、天羽さん(apjさん。以下apjさんで統一)なので、apjさんの論に対する批判と読みました。私が同じような言い回しをする際も、apjさんの論に賛同して使っています。 ※念のために書いておきます。ここでは
もういくつ寝ると 今年のはじめにやりたいことリストを作った。今見たら50項目あるリストのうち25個が達成済みだった。ちょうど半分やりたいことをやったということだ。私にしてはまあまあの結果だと思う。満足。 やりたいことリストにあるもののうち、「〜を食べたい」系は概ねクリアし…
えー、FC2のブログでは疑似科学に関することを取り上げて論じたこともあるわけですが(疑似科学批判ではなく)、当ブログでは疑似科学を取り上げる予定は当面ありません(未来永劫ない、とも言いませんが)。 最近、疑似科学批判(あるいは疑似科学批判批判、さらには疑似科学批判批判批判、and more…)に関わるブログ間のやり取りを眺めていて、思うところがあるので述べてみよう。 ただし、疑似科学に関するものではなく、科学に関するものであるが。 もちろん、疑似科学批判は主に科学的見地からなされる以上、科学に関することがらが疑似科学と全く無関係と断ずることも出来ないのだが。 言いたいことは、僕自身はこの論考を疑似科学(ないしは疑似科学批判)と絡めて論じるつもりはない、ということである(他の誰かがこの論考と疑似科学を絡めて論じることを阻む意思は全くない)。 では、本題へ。 えー、とある疑似科学批判派(と思わ
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