長らく非モテで困っていた私が、当時働いていた秋葉原のLASER5社の取引先のひとつだたワコムの「おっさん」から呼び出されたのは夏過ぎだったと思う。ワコムは言わずと知れた、創業者が統一教会だけどあんまりそれっぽくないと当時から話題となっていた、液タブなどを手掛けるまともな製造業の会社さんである。昔もいまも、ワコムには悪い印象そのものはない。 美味しくない末広町のランチブッフェ(速攻潰れた)の派手な赤チェック内装でパスタランチをおごってくれるというので足を向けたのだが、当時はすでに私自身が投資で成功しつつあって、少し自信過剰になっていたのもよろしくなかったと思う。当時は気も大きくなって、誰とでも会い、仲良くするのが人間同士の付き合いだと思い込みすぎていた。 美味しくないランチブッフェでまず言われたのは「山本さん、お相手がいないんだってね」という単刀直入すぎる切り出しから来た「いつでもいい人紹介
国道17号と秋葉神社が、私をアキハバラに連れてきた その標識を見て「なんだ家のあたりから歩いてくればここにたどり着くのか!」と思った。秋葉原のいまやアニメ関連店のほうが多い(?)中央通りと、肉の万世のある外堀通りとの交差点に国道17号の標識が立っている。私の生まれた新潟県長岡市というところには、いわゆる一級国道として8号、17号が走っていたのを思い出したのだ。 国道17号は、上越線とほぼ並走していて三国街道から中山道へ入り目白通りから本郷を経由して秋葉原に出る。目白のオヤジこと田中角栄が、家を出て3回ハンドルを切れば新潟の実家まで帰れるという伝説があったのはこの通りである。 この《国道17号》ともう1つ、秋葉原について私の心の中でひっかかっていたことがあった。1985年に月刊アスキーの編集部に配属されて、仕事で頻繁に出かけることになった《秋葉原》だが、小学生の頃、遠足で《秋葉神社》というと
2020年11月24日 都市整備局 東京のしゃれた街並みづくり推進条例 外神田一丁目南部地区を街並み再生地区(10件目)に指定しました! 秋葉原文化の継承や神田川の水辺をいかしたまちづくりを目指して 東京都は、東京のしゃれた街並みづくり推進条例の街区再編まちづくり制度に基づき、外神田一丁目南部地区を街並み再生地区に指定しました。あわせて、同地区のまちづくりのガイドラインである街並み再生方針を定めましたので、お知らせします。 街並み再生方針等のポイント:括弧内は添付資料のページ数(添付資料:外神田一丁目南部地区 街並み再生方針) まちづくりの目標(2ページ) 老朽化した建築物の機能更新の機会を捉え、細分化された敷地の統合・集約化等を推進し、秋葉原全体の活性化に寄与する商業・業務等の機能を導入するとともに、訪れる人のための安全・安心な空間を形成 公共施設、敷地の整備(3~4ページ) 建築物の外
なぜ秋葉原から「本当のオタク」がいなくなったのか 世界有数の電気街として知られる東京・秋葉原は、テレビやPCなどの家電からコンデンサや抵抗器といった電子部品まで、機械なら何でも手に入るだけでなく、アニメグッズやゲームセンター、メイドカフェなどサブカルチャーの街としての側面も持つオタクの街。それが一般的なイメージだろう。 しかし、今の秋葉原の実態は観光客向けの形骸化した萌えとインバウンドの街であり、オタクの街ではない。それが秋葉原に10年以上通う私の意見だ。 現在ではPCパーツや電化製品はECサイトの価格競争により、秋葉原で買ったほうが安いという状況はほぼなくなり、すぐに欲しいという状況以外では秋葉原で買う理由を見出せない。もちろんセールで最安値になることもあるが、かつてのように、フラッと訪れても得な買い物はできない。 全盛期の秋葉原は、店員もオタクだった。商品のことを尋ねると、自らの経験や
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1960年代前半、東京五輪に沸く首都を活写した開高健の『ずばり東京』で、開高が描かなかった街・秋葉原。いまやJR東日本で9位の乗降客数を誇り、外国人観光客も多く呼び寄せる秋葉原は、どのように発展してきたのか。ノンフィクションライター・神田憲行氏が、その軌跡を辿る。 出典:「文藝春秋」2017年9月号・全3回 しかし開高の「ずばり」に、秋葉原という文字は一度も登場しない。これは今の感覚からするとけっこう不思議なことではないだろうか。 この連載が開高健の「ずばり東京」をモチーフにしていることは読者のみなさんもご存じだろう。1960年代前半、東京五輪開催直前の東京のあちこちを開高が歩き回った名作ルポである。 現在のJR秋葉原駅の1日の乗降客は24万6000人以上、JR東日本管轄の駅の中では9位に入る。上野や有楽町などよりも多い(2016年度、JR東日本調べ)。また「電気街」「アイドル」「アニメ」
若松通商といえば、知らない人は「秋葉原はモグリ」といわれるお店ですよね。丹青通商、秋月電子通商、湘南通商、千石電商、日米商事、本多通商……秋葉原の電子部品屋さんです。最近のカタカナのお店の名前と違って、風情がありますよね。国際ラジオ、福永電業、信越電機、アキバ商会、私が、いちばん好きな名前といえば、東京抵抗社ですけどね。そうした中でも、若松通商といえばコンピュータ系の人たちにもなじみ深いお店。現在は、末広町の交差点の近くにあります。ところが、下の写真を見てください。 若松通商と看板にあるんですけど、これは秋葉原ではないんです。実は、昨日の日記で書いたパソコン甲子園で訪れた会津若松の駅からほど近いところにある「若松通商」。第一日目のプログラミング部門が終わって、『プログラムはなぜ動くのか?』の著者矢沢久雄さんやクリエイターの檜山巽さんや、取材のメディア系のYさんなど、「軽く行きますか?」と
「ウチはバッタ屋じゃないんだっ!」と強く叱られたことがあります。まだアキバ慣れしていない時期、価格交渉の途中で、店長に相談することしきりでした。駅前電気街口至近のお店は「セガ(以前は西川無線)」で、その隣りに、現役店員時代から現在まで営業を続けている「トキワ無線」があります。この隣り、現在はヤマダ電機「LABI秋葉原パソコン館」の場所に、「ライオン電機」がありました。ココの店長が、「ウチはコレが最安値だと言えっ」とギロリ。 ☆ バッタ屋の定義 ☆ アキバには、店員が「三味線を弾いている」と呼ぶお客様も来店されます。「新宿で××円で売っていた」(だから、もっと安くしろ)とバチで弦を弾きます。その売価は、店出し原価から考えて「あり得ない」値段でした。まだヨドバシは新宿、ビックは池袋、北関東のYKKと呼ばれた、ヤマダ、コジマ、ケーズが、それぞれのテリトリーで販売していた時代の話です。当時のベテラ
辻本昭夫(つじもと・あきお) 1949年、東京都生まれ。東京工業大学附属科学技術高校卒業。同校在学中に、世田谷の自宅にて信越電気商会として創業。1970年6月30日、三島由紀夫が割腹した、まさにその日に秋葉原店をオープン。有限会社化を経て、株式会社秋月電子通商を設立。2001年にはネット通販を開始した。2012年、社長を息子の信昭氏に譲り、会長に就任。通信販売も行っている秋月電子通商のウェブサイト http://akizukidenshi.com/ いまや日本を代表する大観光地と化した秋葉原。東京から、地方から、海外から、日々さまざまな客が訪れるこの町に、異彩を放つ繁盛店がある。電子部品や電子工作用のキットを販売する秋月電子通商だ。場所は中央通りの西側に広がるパーツ街。用がない客には見向きもされない色気なしのこの一帯で、1970年、同店は商いをスタートした。 天井に隙間なく設置された蛍光灯
株式会社秋葉原ラジオストアーは平成25年11月30日、64年の歴史に無事幕を閉じる事ができました。 閉館発表からNHK、日本経済新聞、テレビ朝日をはじめ 数多くのメディアに取り上げられ、また多くのお客様から激励、感謝のお言葉を頂きあらためて歴史の重みを感じるとともに、その影響力の大きさに身の引き締まる思いでした。 また 私達はその歴史、伝統を後世に引き継いでいく責務から、旧テナント有志7社により「秋葉原ラジオストアー」及びロゴマークの商標登録を申請しておりましたが、この度特許庁より認可登録されました。 これを期に旧テナント一同及び関係企業は秋葉原ラジオストアーのスピリットを決して忘れることなく、今後も業界発展の為に貢献すべく決意を新たにしております。 秋葉原ラジオストアーへの長きにわたるご愛顧に感謝するとともに、今後とも旧テナント各社へお引き立て賜りますようお願い申し上げます。 詳細は下記
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