なぜ社会民主党がここ数年間、不調なのか?
その理由を探るためには8年前、つまり2002年の国政選挙までさかのぼる必要がある。
この選挙で歴史的な大敗退を経験した党があった。保守党(穏健党)だ(党の本来のイデオロギーが分かりやすい保守党という訳を以降使うことにする。英訳としてもThe conservativesとかThe conservative partyという言葉を自ら使っていたこともある)。この党は右派・保守勢力の第一党であり、90年代には22%前後の得票率を記録していたが2002年の国政選挙では15%にまで落ち込んでしまった。保守党は本来、保守主義と新自由主義・市場自由主義を掲げる企業経営者や富裕層を対象にした政党であり、税金を財源とする社会保障制度や労使間の自主管理によって成り立つ労働市場モデルに対して反発し、大幅な減税を主張してきた。この時の党首ボー・ルンドグレン(Bo Lundgren)は、選挙キャンペーンにおいて「1300億クローナ規模の大減税」という公約を掲げていたが、多くの有権者にはあまりに非現実的で、単なる人気取り政党という印象を与えていた。
このブログでも何度か触れたように、他党だけでなくジャーナリストによる説明追及・尋問もスウェーデンの選挙期間中は重要な役割を果たすのだが、この時もルンドグレン党首に対して「それだけの減税を実行した場合、社会保障政策や雇用政策の財源はどうするのか? これらの政策はどの程度、削減するつもりか?」と説明を求めたものの、彼は有権者を納得させる答えをうまく返すことができなかった。また、90年代にこの党の党首であり、右派・保守支持層の間で人気を博していたカール・ビルトと比べ、そのあとを継いだボー・ルンドグレンは、政治リーダーというよりも堅実な銀行マンタイプの人間であり、インパクトに欠ける人柄だったことも災いした。
ボー・ルンドグレン(党首:1999-2003年)
2002年の大敗北を機に、党内では敗戦分析が行われるとともに、若手のメンバーが立ち上がった。それが、後に首相となるラインフェルトや蔵相となるボリ、労働市場相となるリトリーンなどだった。ラインフェルトは当時まだ37歳だったが、この党が伝統的に掲げてきた保守主義や新自由主義的なスローガンでは政権獲得はおろか、支持率の維持も難しいと主張し、政策主張の総点検に取り掛かったのだった。
ラインフェルトは90年代前半は保守党の青年部会の代表を務めたことがあったが、彼はこの時、党の執行部にたてつくような政策主張を繰り返し行ったため、当時の党首・首相であったカール・ビルトなど幹部にこっぴどく叱られた経験があった(この時は若者らしい過激さで、公的社会保障の大幅な削減やより新自由主義的な政策を求めていたようだ)。だから、2002年9月の大敗北以降、まだ30代の若手メンバーを中心とした刷新グループが動きだしたことに対しては、党内の守旧派が当初はかなり反発したようだ。しかし、党内での足場を着実に、そして迅速に築いていき、その1年後である2003年10月に開催された党大会においてラインフェルトは全会一致で党首に選出されたのだった。
「こんな若造に党を任せても大丈夫かな・・・」
ラインフェルトを始めとする刷新グループが打ち出したのは、大幅な路線転換だった。税を財源とするスウェーデン型の社会保障政策や、労使間の自主交渉を基本とする労働市場モデルの重要性を認めるとともに、大規模な減税といった主張を取り下げた。減税をする必要はあるとしても、これまでの社会保障制度を維持する範囲で行い、また減税の恩恵は低所得者層を中心に与えるべきだ、と考えた。社会保障制度の改革についても、ただ単に大幅にカットするのではなく、綻びが見え始めていたベネフィットの享受と働くことのリンク(スウェーデンの社会保障を貫くワーク・プリンシプルと呼ばれる理念)を強化することを目的とした制度改革を行うべきだと考えたのだった。
これらの新しい政策主張を掲げて、彼らは2006年9月の国政選挙で見事、政権を獲得した。得票率は、4年前の15%から26%へと大躍進したのだった。このとき、社会民主党は40%から35%へと5%ポイント失った。そして保守党は、これらの新しいアイデアを、試行錯誤をしながらも実行して行ったのだった。
<以前の記事>
2006-10-14:新しい保守党(穏健党)? (1)
2006-10-15:新しい保守党(穏健党)? (2)
2006-10-20:新しい保守党(穏健党)? (3)
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でも、このことがなぜ社会民主党の低迷と関係があるのかって?
それは、保守党が中道にかなり移動したことによって、社会民主党と保守党の差が小さくなってしまったからだ。以前は、左派-右派というスペクトラムにおいて、真ん中から左にかけてはほぼ社会民主党の独占のようなものだったが、保守党がガバッとやって来て、スウェーデン型の社会保障モデルや労働市場モデルの意義を認めるなど主張し始めたから、政策議論において社会民主党が独自性を誇示できるスペースが小さくなってしまったのだ。しかも、保守党が雇用創出や社会保障濫用の阻止といった分野において具体性のある政策を提案してきたのに対し、社会民主党は目新しい抜本的な対策を打ち出せなかったのだ。しかも、2006年9月の国政選挙時の党首(および首相)は、傲慢な態度ばかりが目立ち、人気をもはや失っていた(太っちょの)ヨーラン・パーションだった。
簡単に図解するとこうなるだろうか?
左派-右派というスペクトラムにおいて、従来このような構図であったものが・・・
保守党の路線転換によって、このようになったと言えるのではないだろうか?
中道に移動した保守党が、社会民主党の支持層に大幅に食い込んだわけだが、保守党が本当に中道に移動したか?という点に関しては、当初は多くの人々が疑いを持っていた。もしかして、羊の頭をかぶったオオカミではないか?とも思われていたのだ。だから、保守党が政権を獲った直後に実行した失業保険改革がセーフティーネットの大きな削減を意味するものだと分かったときは、すぐさま支持率が低下し、社会民主党が再び上昇気流に乗るという展開となった。
しかし、その後、保守党もミスを認めて失業保険制度に再度修正を加え、さらに2008年秋以降の金融危機に際しても、健全な財政を維持しつつ(財政赤字も最大でGDP比わずか2%程度)、社会保障制度を維持することにもある程度、成功したことから保守党への信頼が大きく回復していった(ただし、これは人によって見方が大きく異なるだろう。疾病保険改革は一部では大きな問題をもたらしたし、失業保険改革によって不況期に受給権を失う人が多く生まれたために、生活保護や住宅手当の受給者が増え、社会格差が多少拡大したという点は否めない)。なによりも、2007年以降、継続的に低所得層の勤労者をより優遇する所得税減税(正確には税額控除)を行ったことも大きい。
だから、上の図からも分かるように、保守党が真ん中に陣取るようになったおかげで、社会民主党は自分たちの独自性を打ち出すことが難しくなったわけだし、同時に、もともと中道寄りにいた中央党や自由党も、自分たちの独自性を維持するために、少しずつ右のほうにポジションを変えるという動きも見られるようになっていった(ただし、右といっても極右とか国粋という意味ではなく、自由市場主義・規律の重視という意味)。もともと右端で保守党と競合していたキリスト教民主党は、ライバルがいなくなり喜んだ上に、家族主義の重視や保守的価値観をさらに強調して右端の支持層を獲得しようとした。しかし、次第に明らかになったのは、右端にはあまり有権者がいないことだった(だからこそ、保守党は左への大移動をしたのだった)。
以上が、社会民主党が落ち目にある一つの理由といえるだろう。
一つ注意しなければならないのは、社会民主党の衰退、イコール、社会民主主義の衰退であるとは限らないということだ。既に書いたように、現在の保守党はこれまで社会民主党や労働組合が築いてきた社会保障政策や労働市場モデルの重要性や意義を受け入れることなくして、政権を獲得することが難しかったからだ。右派勢力の第一党であった保守党が社会民主党的な政策をかなりの程度、受け入れる道を選んだのは、むしろ社会民主主義の勝利ではないか、という見方もある。
<以前の記事>
2006-11-07:『総選挙は、社会民主党の勝利であった』
その理由を探るためには8年前、つまり2002年の国政選挙までさかのぼる必要がある。
この選挙で歴史的な大敗退を経験した党があった。保守党(穏健党)だ(党の本来のイデオロギーが分かりやすい保守党という訳を以降使うことにする。英訳としてもThe conservativesとかThe conservative partyという言葉を自ら使っていたこともある)。この党は右派・保守勢力の第一党であり、90年代には22%前後の得票率を記録していたが2002年の国政選挙では15%にまで落ち込んでしまった。保守党は本来、保守主義と新自由主義・市場自由主義を掲げる企業経営者や富裕層を対象にした政党であり、税金を財源とする社会保障制度や労使間の自主管理によって成り立つ労働市場モデルに対して反発し、大幅な減税を主張してきた。この時の党首ボー・ルンドグレン(Bo Lundgren)は、選挙キャンペーンにおいて「1300億クローナ規模の大減税」という公約を掲げていたが、多くの有権者にはあまりに非現実的で、単なる人気取り政党という印象を与えていた。
このブログでも何度か触れたように、他党だけでなくジャーナリストによる説明追及・尋問もスウェーデンの選挙期間中は重要な役割を果たすのだが、この時もルンドグレン党首に対して「それだけの減税を実行した場合、社会保障政策や雇用政策の財源はどうするのか? これらの政策はどの程度、削減するつもりか?」と説明を求めたものの、彼は有権者を納得させる答えをうまく返すことができなかった。また、90年代にこの党の党首であり、右派・保守支持層の間で人気を博していたカール・ビルトと比べ、そのあとを継いだボー・ルンドグレンは、政治リーダーというよりも堅実な銀行マンタイプの人間であり、インパクトに欠ける人柄だったことも災いした。
ボー・ルンドグレン(党首:1999-2003年)
2002年の大敗北を機に、党内では敗戦分析が行われるとともに、若手のメンバーが立ち上がった。それが、後に首相となるラインフェルトや蔵相となるボリ、労働市場相となるリトリーンなどだった。ラインフェルトは当時まだ37歳だったが、この党が伝統的に掲げてきた保守主義や新自由主義的なスローガンでは政権獲得はおろか、支持率の維持も難しいと主張し、政策主張の総点検に取り掛かったのだった。
ラインフェルトは90年代前半は保守党の青年部会の代表を務めたことがあったが、彼はこの時、党の執行部にたてつくような政策主張を繰り返し行ったため、当時の党首・首相であったカール・ビルトなど幹部にこっぴどく叱られた経験があった(この時は若者らしい過激さで、公的社会保障の大幅な削減やより新自由主義的な政策を求めていたようだ)。だから、2002年9月の大敗北以降、まだ30代の若手メンバーを中心とした刷新グループが動きだしたことに対しては、党内の守旧派が当初はかなり反発したようだ。しかし、党内での足場を着実に、そして迅速に築いていき、その1年後である2003年10月に開催された党大会においてラインフェルトは全会一致で党首に選出されたのだった。
「こんな若造に党を任せても大丈夫かな・・・」
ラインフェルトを始めとする刷新グループが打ち出したのは、大幅な路線転換だった。税を財源とするスウェーデン型の社会保障政策や、労使間の自主交渉を基本とする労働市場モデルの重要性を認めるとともに、大規模な減税といった主張を取り下げた。減税をする必要はあるとしても、これまでの社会保障制度を維持する範囲で行い、また減税の恩恵は低所得者層を中心に与えるべきだ、と考えた。社会保障制度の改革についても、ただ単に大幅にカットするのではなく、綻びが見え始めていたベネフィットの享受と働くことのリンク(スウェーデンの社会保障を貫くワーク・プリンシプルと呼ばれる理念)を強化することを目的とした制度改革を行うべきだと考えたのだった。
これらの新しい政策主張を掲げて、彼らは2006年9月の国政選挙で見事、政権を獲得した。得票率は、4年前の15%から26%へと大躍進したのだった。このとき、社会民主党は40%から35%へと5%ポイント失った。そして保守党は、これらの新しいアイデアを、試行錯誤をしながらも実行して行ったのだった。
<以前の記事>
2006-10-14:新しい保守党(穏健党)? (1)
2006-10-15:新しい保守党(穏健党)? (2)
2006-10-20:新しい保守党(穏健党)? (3)
でも、このことがなぜ社会民主党の低迷と関係があるのかって?
それは、保守党が中道にかなり移動したことによって、社会民主党と保守党の差が小さくなってしまったからだ。以前は、左派-右派というスペクトラムにおいて、真ん中から左にかけてはほぼ社会民主党の独占のようなものだったが、保守党がガバッとやって来て、スウェーデン型の社会保障モデルや労働市場モデルの意義を認めるなど主張し始めたから、政策議論において社会民主党が独自性を誇示できるスペースが小さくなってしまったのだ。しかも、保守党が雇用創出や社会保障濫用の阻止といった分野において具体性のある政策を提案してきたのに対し、社会民主党は目新しい抜本的な対策を打ち出せなかったのだ。しかも、2006年9月の国政選挙時の党首(および首相)は、傲慢な態度ばかりが目立ち、人気をもはや失っていた(太っちょの)ヨーラン・パーションだった。
簡単に図解するとこうなるだろうか?
左派-右派というスペクトラムにおいて、従来このような構図であったものが・・・
保守党の路線転換によって、このようになったと言えるのではないだろうか?
中道に移動した保守党が、社会民主党の支持層に大幅に食い込んだわけだが、保守党が本当に中道に移動したか?という点に関しては、当初は多くの人々が疑いを持っていた。もしかして、羊の頭をかぶったオオカミではないか?とも思われていたのだ。だから、保守党が政権を獲った直後に実行した失業保険改革がセーフティーネットの大きな削減を意味するものだと分かったときは、すぐさま支持率が低下し、社会民主党が再び上昇気流に乗るという展開となった。
しかし、その後、保守党もミスを認めて失業保険制度に再度修正を加え、さらに2008年秋以降の金融危機に際しても、健全な財政を維持しつつ(財政赤字も最大でGDP比わずか2%程度)、社会保障制度を維持することにもある程度、成功したことから保守党への信頼が大きく回復していった(ただし、これは人によって見方が大きく異なるだろう。疾病保険改革は一部では大きな問題をもたらしたし、失業保険改革によって不況期に受給権を失う人が多く生まれたために、生活保護や住宅手当の受給者が増え、社会格差が多少拡大したという点は否めない)。なによりも、2007年以降、継続的に低所得層の勤労者をより優遇する所得税減税(正確には税額控除)を行ったことも大きい。
だから、上の図からも分かるように、保守党が真ん中に陣取るようになったおかげで、社会民主党は自分たちの独自性を打ち出すことが難しくなったわけだし、同時に、もともと中道寄りにいた中央党や自由党も、自分たちの独自性を維持するために、少しずつ右のほうにポジションを変えるという動きも見られるようになっていった(ただし、右といっても極右とか国粋という意味ではなく、自由市場主義・規律の重視という意味)。もともと右端で保守党と競合していたキリスト教民主党は、ライバルがいなくなり喜んだ上に、家族主義の重視や保守的価値観をさらに強調して右端の支持層を獲得しようとした。しかし、次第に明らかになったのは、右端にはあまり有権者がいないことだった(だからこそ、保守党は左への大移動をしたのだった)。
以上が、社会民主党が落ち目にある一つの理由といえるだろう。
一つ注意しなければならないのは、社会民主党の衰退、イコール、社会民主主義の衰退であるとは限らないということだ。既に書いたように、現在の保守党はこれまで社会民主党や労働組合が築いてきた社会保障政策や労働市場モデルの重要性や意義を受け入れることなくして、政権を獲得することが難しかったからだ。右派勢力の第一党であった保守党が社会民主党的な政策をかなりの程度、受け入れる道を選んだのは、むしろ社会民主主義の勝利ではないか、という見方もある。
<以前の記事>
2006-11-07:『総選挙は、社会民主党の勝利であった』
なによりもラインフェルト+ボリ+リトリーン的な若者3人組がいないことではないでしょうか。
今まであまりにも安楽なポストに胡坐をかいていたように思われます。中道右派4党が結束したことも大きかったですよね。
社民党は後手々々に回ってあがいても、新鮮な考えが全然出てこない。
保守党がこのままでいるのなら、社民党って必要なのかなあ、と思ったりします。一抹の不安はありますが、政治に対する国民の健全で素早い反応はとても大事なことだと思います。
それにしても、日本の政治を見ていると、もうちょっとどうにかならないかなあ、と感じます。
社会民主党も、おそらく探せば新しい人は出てくるでしょう(既にV Parmが挙がっています)が、それ以上に大変なのはアイデアの刷新でしょうね。