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スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

ドイツ - デンマークの橋が実現することに

2007-06-30 03:57:19 | スウェーデン・その他の社会
ドイツデンマークの間に念願の橋が架かることになった。Rødby(デンマーク)Puttgarden(ドイツ)の間のFehmarn Bælte海峡に架かる。(下の地図のの所)

そもそもヨーロッパ大陸とスカンディナビア半島を陸路で結ぶことは、北欧諸国の念願であった。2000年にスウェーデンデンマークを結ぶ橋(Öresundsbron)が完成したことによって、その念願はひとまず達成された。しかし、実際はドイツからデンマークの首都コペンハーゲンまで陸路で辿ろうとすると、随分と大回りをしないといけないことに気付く。地図を見れば分かるが、ユトランド半島のKoldingを経由して、Odenseのある島を通過し、コペンハーゲンまで辿り着かなければならない。

だから、実際はドイツとデンマーク間は船が使われている。例えば、ハンブルグからコペンハーゲンへ向かう電車は、の部分で電車ごとフェリーに乗せられてデンマーク側に渡る。また、ベルリンからスウェーデンのマルメへ向かう夜行列車Berlin Night Express)は、の部分でフェリーに乗り、スウェーデンへ渡る。(ちなみにのフェリーには車も乗せられる) ただ、貨物列車などはぐるっと陸路を大回りしている

で、の部分に今回、やっと橋が架けられることが決まったのだ。ユトランド半島経由の陸路と比較して、260kmも短縮されるという。

もともと、この計画はデンマークが1992年に立ち上げたものだった。しかし、ドイツ側があまり関心を示さなかったため、実現化は難航した。去年の暮れにドイツとデンマークの間で契約が結ばれかけたが、ドイツ側が資金負担を渋ったのでうまく行かなかった。そこで、ついに痺れを切らしたデンマークは、橋の建設費用の全額の債務を負担することで、今回ドイツ側と話をつけたのだった。デンマークの負担分は350億 DKK(デンマーク・クローネ =7800億円)、一方、ドイツはドイツ側の橋と道路の接続工事や整備のために、それでも70億DKK(1570億円)を負担するという。

橋の全長は何と19km日本で一番長い橋は東京湾アクアブリッジで4.4km、明石海峡大橋は3.9kmだから、いかに長いかが分かる。橋は道路が4車線、複線の鉄道も付く。2018年の完成を目指す。

この橋によって恩恵を受けるのはデンマークのみならず、スウェーデンもノルウェーも、ヨーロッパ大陸との距離がぐっと縮むはず。なのに、費用負担に加わっていない。これこそ、まさに「漁夫の利(?)」というのか「棚から牡丹餅(?)」というのか…。しかも、デンマークとスウェーデンの間の橋(Öresundsbron)の建設に加わったスウェーデン大手のゼネコンや技術企業も、今回の橋のプロジェクトに加わるだろうから、スウェーデン経済も潤うに違いない! なんとも狡猾…。

スウェーデンには、高速鉄道計画、というのがある。ストックホルムからヨンショーピンを経由してマルメを結び、そこからコペンハーゲン、そして、少なくともドイツのハンブルグまでを日本のような整備新幹線で結ぶという計画だ。あと30年たっても実現は無理、なんては言われてはいるけど、この橋ができれば、その実現まで一歩近づいたことになる。(ヨンショーピン大学で働いていたときに、その高速鉄道計画の予想旅客数を計算したことがある)

夏休み前にドタバタ

2007-06-29 08:26:23 | Yoshiの生活 (mitt liv)
先週、今週は忙しかった。

なぜかというと、多分ほかの職場も似たようなものだと思うけれど、多くの大学職員が来週始めから夏休みを始めるからだ。7月はまるまる休んで、8月に入ってからボチボチ職場に戻ってくる形になる。教授も一般の研究者も事務員も・・・。

だから、それまでに済ませておかなければならない手続き、例えば、書類の決裁や、研究助成金の申請、給料のこと、滞在許可証・労働ビザの更新に必要な書類の準備、など、それまでにやっておかなければならない。それを逃してしまうと、8月まで先延ばしにされてしまう。だから、研究室からあちこちへ電話をかけたり、必死に走り回って、教授や大学職員と連絡を取ろうと努力する。

一方、教授や研究者、事務員も、必要な仕事や手続きを夏休み前までに済ませておかなければならないから、彼らは彼らで走り回っているのだ。だから、なかなかつかまらない。電話もつながらない。こちらは焦ってくる。向こうも焦っている。そうやって右往左往しているうちに、夏休みが一日、一日とカウントダウンのごとく近づいてくる。そして、今日、ついに金曜日が終わってしまった。

結果は・・・?うまくサインをもらえた書類、出し損ねた申請書、最終段階まで順調に行っていたのに最後の最後で間に合わなかった契約書、などなど。

ある意味、年末よりも忙しい時期なのかもしれない。
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ちなみに、今年の夏至祭(6月22日・23日)は全国的に天気がすぐれなかった。私はNiklasの故郷、Karlstad(カールスタッド)に行ったが、外でバーベキューができず、家の中で彼の家族とのんびり過ごした。それはそれで楽しかったけど。

Falconビール。いつもは真ん中のスタンダード・タイプしか見かけないけど、夏の期間限定で、BBQバージョンやSpecial Brewも登場している。微妙にアルコールドが違う。度数が高いほど、酒税が高いのか、値段も高くなる。


夏至の天気予報について、面白いコメントをしている人がいます。海の写真も綺麗 → 5円玉の穴

ヴェッテルンルンダン(5) -完走を目指して・・・!

2007-06-27 08:15:42 | Vatternrundan:自転車レース
すぐ一つ前の書き込みに対するコメントの中で、キコママさんが「人生を見ているようで・・・」と書いてくださった。確かに、この大会の300kmの行程は人生にたとえることができるのかもしれない。まだ体力がみなぎり、若くてハツラツとしたJönköpingまでの109km。そして、そこから次第に人生の山と谷が始まっていく・・・。

とすれば、一度はリタイアを考えたものの、一休息の後に思い直して、再び前に向かって走り出している今は、私の「第二の人生」ということになるのだろうか・・・?

とにかく、気楽に行くことにした。Karlsborgの後はアップダウンが続く。岩山を削ったところに道路を作っているため、我々が走る両側は大きな山がそびえ立っている。やはり自分は上り坂に強い、と感じた。

Bovikenのサービス・ステーションを出ると、開けた平野に出る。ここで今までよりもさらにキツイ向かい風に遭遇する。こげども、なかなか前に進まない。でも、いい。こうしてペダルを一回転させれば、それだけ着実にゴールに近づいているのだから。無心になるしかない。

途中、見通しのいい平原で、トレーラーが横転し、国道の両脇に荷が散乱している所があった。これは、後で知ったことだが、金曜日の夜21時頃、2両編成の大型トレーラーが国道の真ん中で横転し、道をふさいだのだった。このとき既に、大会はスタートしており、早い参加者は翌朝の朝4、5時にこの地点を通過する予定だったという。大会主催者側は、この国道がすぐにでも再開通することを天に祈ったという。しかし、この地域の道路交通局事務所にある唯一のブルドーザーは、別の事故で出払っていたのだった! 果たして、翌朝の4時までに間に合うか? 道路交通局は四方八方に手を尽くして、別の地域からクレーン車を調達してくることに成功したという。そして、とりあえず、トレーラーの残骸と荷を国道の両側の農地(空き地?)に寄せることで、国道の再開だけは可能にしよう、と努力したのらしい。そんなこんなで、最初のサイクリストが通過するまでには何とか間に合ったという。そんな不可測な事態にも、ちゃんと対応してくれる人々がいるおかげで、この大会は成り立っているんだということを、後で実感したのだった。

Hammarsundetのサービス・ステーションの付近からは国道50号線を走ることになり、交通量も多くなる。しかも、傾斜のきつい上り坂が少なくとも2つか3つは控えている。それを乗り越えると、最後のサービス・ステーションであるMedeviがあるが、ゴールまであとわずか18kmなので、いつも止まらず通過する。

しかし、この最後の区間が本当にしんどいのだ。ここからは国道を離れ、舗装されているものの狭い林道を10km以上も走る。曲がりくねっており、自分が今どの方角へ向かっているのか見当が付かないし、いつ終わるとも知れず。体力が尽きた後は、これまで気力で走ってきたものの、それすらもう底が見えている感じだ。

ゴールまでの最後の6kmは、再び国道50号線に出る。ほとんど直線だ。最後の力を振り絞る。そして、ゴール!

時刻は13:08。スタートしてから、13時間58分を経てのゴールとなった。去年は、同じ自転車で参加して、11時間56分だったから、それに比べたら2時間以上も遅れを取ってしまった。でも、今回は完走できただけでも、良しとしようではないか!

ゴール後、完走者は順にメダルを首に通してもらい、ビールと軽食を振舞ってもらう。それを受け取り、湖沿いに腰掛け、ホッと一息つく。そして、それまでの14時間弱の回想を少しずつ始めるのである・・・。

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さて、父親とイギリス人の友人Davidだが、彼らは02:58に同時に出発し、Jönköpingまでは隊列を共にし、走ったらしい。Davidが後で曰く「我々の超特急集団ですら、後ろから果敢に追い抜いていく隊列があってビックリした。よく見るとスウェーデン国防軍のトライアスロン・チームだった。今までに見たことのない速い集団だったが、我々も付いていった。」とちょっと興奮気味に話してくれた。しかし、父親のほうは、乗っていた私のロードレーサーが自分の愛車よりも重く、超特急集団に付いていくのは難しくなったので、Davidには先に行ってもらったらしい。その後、Davidが徐々に引き離していった結果、Davidは9時間52分、父は10時間49分でゴールした。父の去年の成績が9時間45分だったから、自転車の違いでここまで大きく結果が違ってくることが分かる。

私は、ゴール直前でDavidに追い抜かれた。ゴール後、Davidは「坂がほとんどなくて思ったより楽だった。あと100kmくらい走れそう。」と余裕の表情。そう、彼にしても私の父にしても起伏の激しい日本で練習を積んでいるから、スウェーデンのちょっとした丘陵地帯なんて、なんでもないのかもしれない。

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この大会を終えた3日後に、隣の研究室のNiklasがヨーテボリのとある自転車クラブを紹介してくれた。定期的にグループ・トレーニングをやっているらしく、新入りも大歓迎というので、二人で早速、トレーニングに加わり80km走った。疲れてはいたけれど、グループ練習がとても楽しく、あまり苦にならなかった。(だが、疲れのピークは翌日にやって来た!) 現在、Niklasと二人でこの自転車クラブに参加しようと考え中。そうすれば、この大会が終わった後も、夏の間まだまだ自転車トレーニングができそうだ。

ヴェッテルンルンダン(4) -初めてのリタイア・・・か !?

2007-06-25 03:18:11 | Vatternrundan:自転車レース

あぁ、日が昇る・・・

ヨンショーピン(Jönköping)から次のサービス・ステーションがあるファーゲルフルト(Fagerhult)、そしてその先のヨー(Hjo)までは毎年、睡魔が襲ってくる。ウトウトしているうちに、一秒間でも意識が遠のいてしまうと、落車してしまう。だから、眠気との戦いだ。だから、この区間はあんまり覚えていない。だんだん体力が消耗してくるものの、何とか持ちこたえた気がする。Hjoに着いたのは朝の06:25。JönköpingからHjoまでは69kmであり、所要時間3時間24分だから、平均時速20.3km。こんなに遅かったのかと、今計算してビックリ。

と、ここHjoであることに気が付いた。もう体力が残っていない! そう、去年だったら「よし、あと半分弱、頑張るぞ!」と再び闘志を燃やすのだけれど、今年はもうグッタリ、という感じだ。今年はあまりトレーニングしてなかったせいもあるし、トレーニングでは軽いロードレーサーに乗っていたので、この重い自転車(マウンテンバイクもどき)に乗ってみて、その重さをまじまじと実感したのだった。

案の定、Hjoのサービス・ステーションを後にした直後から、全然進まなくなってしまった。辺りは一面の菜の花畑。そこを向かい風が吹きすさぶ。一緒に行けそうな適当な隊列も見つからない。体力も気力ももう限界。それに眠い。あと120km近くも走ることは無理。

ここでリタイアしてしまえば、すべてから解放される、と考え始めた。コース上にはサポートカーが常に行ったり来たりしているから、それを止めて、体調が悪い、とでも言えば、最寄のサービス・ステーションまで自転車ごと連れて行ってもらえ、そこからゴールまでは特別バスで運送してもらえる(こうやって毎年700~1600人の参加者がリタイアする)。ただ、そうなると今回4回目の出場はカウントされず、よって来年は5回目出場という、一つの区切りに達することができないだろう。しかも、こうやって安易に途中で諦め始めると、来年の大会でも、そして他のことでもすぐに諦める癖がついてしまうかもしれない。

万事休した。リタイアしようと道端に停車した。サポートカーを拾う前に、ひとまず寝ようと思った。ちょうど道の反対側に空き地があり、芝生が生えていたので、その上で仰向けになると、そのまま寝てしまった。夢を見た。まさにこの大会に参加している夢だった。必死に誰かの背中を追いかけている。それを追い越して、少し前にいる人のすぐ後に付くが、その人は実は今さっき私が追い越してきた人だということに気付く。しばらくして、その人を追い越して、さらに先にいる人のすぐ後ろに付こうとするが、その人も何故かさっきの人と同じ人だった。その人が突然振り返って私に叫んだ。「お前はいつも人の後ろに付いて風除けに使うだけで、自分から先頭を走ろうとしない!」 この叫び声で目が覚めた。

目を開くと、私の傍らにおじさんが立って、私を覗き込んでいた。「大丈夫か?」と尋ねるので「ああ、眠たくてしょうがないから仮眠を取っていたんだ」と答える。サポートカーでやって来た、大会関係者か医療スタッフかと思った。「実はリタイアしようと考えているのだけれど、どうすればいいのか?」と聞いてみた。するとこの人は実は大会関係者ではなく、すぐ側の民家に住んでいる人だということが分かった。窓越しに見ていたが、私がこうして仰向けになったまま動かないので、心配して様子を見に来たのだという。トレーニング不足で足が動かないこと、眠くてしょうがないこと、今年は例年になく風が強いことなど、そのおじさんとしばらく雑談をした。その人が言うには、そのコースの辺りが最終的に閉鎖され、遅い参加者が足切りさせられるまであと8時間近くあるという。それに、最終的にゴールが閉鎖されるのは夜中の24:00だという。「リタイアするのは自由だが、もう少し頑張ってみたらどうか?」とその人が言ってくれた。

こんな感じで道端で仮眠

そうだ、時間はまだたっぷりある。焦ることはない。マイペースで行こう。思い直して、再び自転車に乗ってみると、しばらく寝たおかげで少し眠気が無くなった気がした。

再び、走り出した。

ヴェッテルンルンダン(3) -最初の100km

2007-06-24 09:52:34 | Vatternrundan:自転車レース
今年こそは、ロードレーサーでVätternrundanにデビューできるか?と思ったが、結局、去年と同じく、重いマウンテンバイクもどきで今年も出場することになった。しかし、前輪だけは、ロードレーサーから拝借した幅の細い車輪に替えた。少しだけ減量。

出発前はいつも緊張する。装備は万全か、パンクしたときの替えのチューブと工具は持ったか、義務であるライトは装着したか、ICチップを足に付けたか、チェックして、いよいよスタート地点へと出発する。

今年のスタートは第96グループ、23:10。過去4回の出場経験の中で一番早いスタートだ。そのためゼッケン番号も「5730」とこれまでで一番若い。

スタート地点までの途上にて。22時40分。いざ出陣!

その週のはじめの頃はスウェーデンにしては稀なる猛暑で30℃近くあったが、週末に近づくにつれ、20℃前後と穏やかな気温になった。天気予報では、大会のスタートがある金曜日午後から土曜日にかけては曇りから雨になる、とのことだったが、幸い天気は持ちそうだ。しかし風がある。

23:10が来た。薄暗い中を他の59名の参加者と共にスタートする。バイクの誘導で街中を3km走った後、国道に出たところから自分のペースで走り出す。みな一つの隊列を形成していく。1列、または2列の縦隊になることで風の抵抗を防ぐことができるからだ。しかし、薄暗い中で走るため、前の自転車との車間距離を誤りかねない。早くも19km地点で、私の4台前を走っていた女の子が前の自転車と接触し、落車したため、後続2台が巻き添えになった。私は幸い除けることができた。こんな所で既に青あざを作っていたのでは、先が思いやられる。

とにかく、最初に形成された隊列はペースが遅かった。にもかかわらず、誰も自分から追い越して先に行こうとしない。というのも、自分一人で隊列から飛び出せば、風の抵抗をもろに受ける上、待ってましたとばかり、痺れを切らしていた他の早い連中が「金魚の糞」のごとく後ろに引っ付いて来かねないからだ。こういう場合、しかも今回のように風が強い場合にはひたすら待つのが肝心かもしれない。30km地点を越えたところで、我々よりも後にスタートした人たちの速い隊列がやっと追い抜いていこうとしたので、すかさず、それに紛れて先を急ぐ。43km地点にある最初のサービス・ステーションで自分のメーターを見たら、最高瞬間速度52kmなので驚いた。どこでそんなスピードを出したのだろうか・・・?

最初のサービス・ステーション(Hästholmen)にて。時刻は0時41分。

その後もバンバン飛ばした。私がいた隊列は特急から超特急並みの集団だったが、人数が大きかったので、中にいる限りは風の抵抗をほとんど受けず、私の重い自転車でも問題なく付いていくことができた。前の自転車と間を空けないように必死に付いていくが、集中力だけはフル回転! ちょっとでもよそ見をした隙に、前の自転車が減速したりすれば、すぐに接触しアウト! こういう場合、接触した側がバランスを崩し、ひっくり返り、後続の自転車がそれにモロに突っ込んで来るのだ! とにかく、この区間は私もいつになく飛ばした。80km地点の第2サービス・ステーションでメーターを見たら最高瞬間速度が59kmに上がっていた。そんな速さで自転車乗ったの人生初めてだよ・・・。

109km地点の第3サービス・ステーションは私が3年以上住んでいたJönköping(ヨンショーピン)。午前3時も回り北の空が朝焼けで輝いていた。そう、もうじき日が昇る。そういえば、このちょうど24時間前、このJönköpingの駅前で夜行バスを乗り換えたんだっけ(二つ前の記事参照のこと)。相変わらず、自分は動き回ってばかりいることに気付く・・・。行動力だけが、私の自慢! そう、その時も、北の朝焼けが綺麗だった。

日の出は近し!

最初の109kmのタイムは3時間51分。途中に休憩した時間も含めて平均時速28.3km。まずまずの出だしだ。

ちなみに私の父とDavidの出発時刻は2時58分。だから、ちょうどこの頃スタートしていたのだ。

ヴェッテルンルンダン(2) -いよいよスタート

2007-06-21 08:24:42 | Vatternrundan:自転車レース
私の古い自転車を取り、再びMotala(モータラ)へ戻ってきた。

この大会は毎年、夏至祭の直前の金曜日から土曜日にかけて行われる。17000人に及ぶ参加者とその家族は、早い人で木曜日からMotala入りする。参加者はスタートに先駆けて、ゼッケンとICチップを受け取らなければならない。各参加者はこのICチップを足に付けることで、スタートとゴールの時間、そして、途中3カ所の経過時間を自動的に計測してもらえるのだ。

町の中心の広場。ここでゼッケンをもらう。

人口わずか3万人前後のMotala市だが、この自転車大会の開催される週末はそれ以上の観光客がドッと押し寄せるのではないだろうか。町のあるスポーツ(兼自転車)ショップの売り上げは、この週末は通常の5倍に跳ね上がるというし、町の中心にいくつかあるレストランも、この大量の旅行客の腹を少しでも満たすべく、スパゲッティー+ミートソースなど、安上がりで大量に調理できるものを準備している(当然ながら味は表現できたものではないが・・・。まあ、スウェーデンだし)。

私と父は、ここMotala市に住むHolm一家で毎年、間借りをしてお世話になっている。子ども部屋を空けてもらって、そこに泊めてもらう上に、家のガレージも使わせてもらって、そこで自転車の組み立てや整備を行うのだ。Holm家には我々のほかにも参加者数人が同様に寝泊りする。Holm家のSonnyとIngela夫妻は、毎年、その家に寝泊りする大会参加者のゼッケン番号とスタート時間をリストアップし、途中経過を随時、インターネット上でチェックして、あとで紙にまとめてくれるのだ。台所も使わせてくれる。

他の参加者はホテルや民家などに泊まったり、キャンプ場や自家用車の中で寝泊りする。今年は初めての試みとして、ヨーテボリのある自転車クラブが貸切列車をヨーテボリからチャーターしてきたという。寝台車や普通の客車のほか、ビストロ、パブ、ディスコ専用車、自転車用の貨車など全部で10両以上の大掛かりな列車だ。これで140名が参加するという。

これがチャーター列車

さて、大会の本格的なスタートは金曜日の夜8時以降だが、高齢の参加者など、完走するのにもっと時間が必要!という参加者向けに、特別グループが夜7時にスタートする(20~30人くらい)。そして、夜8時以降は1グループ60人ずつ、2分ごとにスタートしていくのだ。町の郊外にあるスタート地点に皆それぞれ集まり、スタートする。最初の2~3kmはバイクに先導され、町の中心部をゆっくりと走って行き、国道に出たところで解放される。

金曜日 午後8時の空

今回、私は初めて午後8時のスタートを見に行った。このスタートは特別らしく、白バイの先導の後に、自転車警官が6名、その後に60人の参加者が続いた。

白バイの後に

自転車警察が続き、そのあとに大会参加者がやってくる


上の写真をクリックすると動画が見られます(音声あり)

何グループかの出発を見送って、カメラに収め、ひとまずHolm家に戻る。私の出発グループは第96グループ、出発時間は23:10だ。だから、しばらく一寝できる。

ヴェッテルンルンダン(1) -スタート前の熾烈なハプニング

2007-06-20 07:18:42 | Vatternrundan:自転車レース
今年のVätternrundanは、毎年この大会のためだけに日本からやって来る父と私のほかに、父の友人で地元・米子に数年滞在経験のあるイギリス人Davidが加わり、スウェーデンで合流することになった。

スタートの前日にうまく合流を果たしたものの、肝心のスタートに先駆けて思いがけないハプニングが発生した。フィン×ンド航空でやって来た父とともに、「取り扱い注意」のラベルのもとで厳重に空輸されてきたはずの彼の自転車だが、いざケースを開けてみると、後輪を支えるフレームにヒビが入り、折れ曲がっていたのだった。おそらく空輸の際に、上に重い荷物を乗せられたか、誰かが足で力を入れて踏みつけたとしか思えない。

しかも、そのことに気付いたのは、大会のスタート地点があるモータラ(Motala)の町についてから。父親は、それでもせっかくスウェーデンまで来たのだから、その破損した自転車で出場する心構えだったらしい。しかし、300kmという長い距離を走るだけに、途上でフレームがボッキリ折れてしまう可能性もある。しかも、私ではなく父親のこと、時速40kmを越えるスピードで飛ばしている最中にそんなことにでもなれば、大怪我だけでは済まなくなるかもしれない。

一方、私は去年まではマウンテンバイクに少し似た、フレームが重く、タイヤも厚い自転車で参加してきたが、去年の秋に日本から中古のロードレーサーを送ってもらったので、今回初めてロードレーサーにて出場するつもりだったのだ。しかし、去年と違い今年はトレーニングもロクにできていない。徹夜のために体調を少し崩してもいた。心構えも今ひとつ。なので、父には私のロードレーサーに乗ってもらうことにした。

で、私のほうは乗る自転車がないので、棄権しようと思っていた。しかし、年に一度のこの大会。17000人もの参加者が300kmの道のりを駆け巡っている間、一人で皆のゴールを待っていることができるのか・・・? スタート前日、夜も22時を回る頃、あるアイデアが閃いた。私のもう一つの自転車(マウンテンバイクもどき)で出よう! そのためには、ヨーテボリに再び戻って取って来る必要がある。行動するなら今しかない。ヨーテボリへはストックホルム発の夜行バスがあり、それはLink醇rping(リンショーピン)で夜中に停車する。じゃあ、Linköpingまで行けばよい! と、ローカルバスの時刻表を見てみるとMotala発Linköping行きのバスは22:20が最終だった。時は既に22:05。ダメもとでタクシーを呼び、5分後に来たタクシーに乗り込み、バスターミナルに滑り込む。ちょうどそのバスがやって来たところだった。

閃いてからわずか20分後にこうしてローカルバスに揺られて、再びヨーテボリを目指している自分がいることが、何だか奇妙だった。その後、Linköpingでは真夜中の冷気の中で2時間待ち、夜行バスに乗り、ヨーテボリを目指す。途中、Jönköpingでは朝の3時に夜行バスを乗り換えさせられて、しかも、運行トラブル発生でスムーズに乗換えができず、早朝の冷気の中で再び50分近く待たされる。ヨーテボリには6時前に到着。

休むまもなく自宅に戻り、自転車を分解して、専用の袋に入れ、担いで再び駅に急ぐ。そして、8時発の電車で再びMotala(モータラ)へ向かう。そして、Motalaには11:40着。

なーにやってんだか!? 上の地図を見れば分かるように、自転車レースに先駆けて、既にVättern湖を一周してしまったのだった。

生牡蠣(カキ)に舌鼓

2007-06-13 06:26:10 | Yoshiの生活 (mitt liv)
前触れもなく、ふと思いついて、それから無性に食べたくなる物がいくつかある。牡蠣(カキ)はその一つ。

ヨーロッパではフランスを中心に珍味として食べられている。特にクリスマスの時に生牡蠣を食べるのは伝統になっているらしく、ある年のクリスマスにフランス人の友人の実家に遊びに行ったときは、沢山ご馳走になった。ちなみにフランスではレモン汁をかけて食べていた。

さて、スウェーデンでも最近、珍味として手に入りやすくなってきた。といっても、口にしているのはおそらくごく少数の人で、クリスマスに一斉に食べる、といった習慣はない。

一口に牡蠣と言っても、いろんな種類があるらしいが、スウェーデンで手に入るものは主に下の二種類。

ヨーロッパ・ヒラガキ(Ostrea edulis Linnaeus)
大きくて丸くて平べったい牡蠣。日本では見たことなかった。1つ15~20クローナ(260~350円)くらい。高いうえに、殻をこじ開けるのに一苦労。馴れるまで15分くらいかかった。しかも、あまりおいしくない・・・!?
ちなみにスウェーデンの植物学者リンネが分類したため、彼の名前がラテン名に含まれている。



真牡蠣(Crassostrea gigas)
やっぱり、牡蠣といえばこれ! 日本で普通に手に入る種類がこれらしい。下の殻が丸くお椀のように窪んでいるのが特徴。1つ10~15クローナ(175~260円)くらい。おいしい!
ちなみにリンネの愛弟子で日本にも渡来経験があるThunbergによって分類されたのらしい。


ヨーロッパ・ヒラガキのほうはヨーロッパ原産で、フランスでも牡蠣といえば本来はこの種だったらしい。しかし1970年代に寄生虫が蔓延し数が少なくなってしまったため、その後、寄生虫に強い日本の真牡蠣がヨーロッパにも持ち込まれ、養殖されるようになったのらしい。だから、日本の真牡蠣は今ではヨーロッパでも広く普及し、私がフランスで食べた牡蠣も、真牡蠣だった。

牡蠣はスウェーデンでも野生に存在し、現在は養殖も行われている。しかし、生育条件として、海水が比較的暖かく、塩分濃度も2.5%を越えなければならないため、スウェーデンの西海岸でのみだ。(バルト海は淡水のため)

スウェーデンで買うと、多くの場合、ヨーロッパ・ヒラガキならスウェーデン産真牡蠣ならフランス産だ。スウェーデンでも真牡蠣の生産が始まったらしいがまだ小規模。私には理解できないが、ヨーロッパ・ヒラガキのほうがより美味しく、珍味だ、という評価が、ここヨーロッパでは一般的であるので、スウェーデンとしてはヨーロッパ・ヒラガキのほうをフランス向けに輸出して一つの産業にしたいのかもしれない。

さて、私の好みの食べ方は、温めたオーブンに牡蠣を入れ、殻の中の海水が煮え立つ直前にオーブンから出して、醤油を少し垂らし、煮汁を殻からこぼさないようにしながら、食べること。格別です!

未成年飲酒が減っているワケ

2007-06-11 06:23:46 | スウェーデン・その他の社会
スウェーデンの高校生のうち、男の子では約50%が、女の子では約40%が、1ヶ月のうちに1回は飲酒をしている、という調査結果が出ている。(ちなみに飲酒が許されるのは18歳以上、ただ自分でお酒を購入できるのは20歳以上)

ずいぶん大きな数字だが、他のヨーロッパ諸国と比べると比較的低く、しかも以前と比べても低下する傾向にあるのだとか。

低下傾向の大きな原因は、テレビゲームやパソコンの普及のために、お酒を飲んで騒いだり、カッコつけたりする以外の楽しみができたためだという。以前だったら、時間を持て余した未成年が夕方から晩にかけて街中でたむろしてお酒を飲んだり、親が出張や旅行で出かけている隙を狙って、友達を呼んで飲酒つきのパーティーをする(いわゆるföräldrafri fest)というのが“クール”だった。今では、パソコンに向かって黙々とゲームをしたり、チャットをしたりという楽しみも新たに加わった、というわけだ。

テレビゲームやパソコンといえば、スウェーデンでも依存症が問題になっている。親としては、子供が黙々とテレビやパソコンに向かうよりも、スポーツやもっと有意義なことに打ち込んで欲しいと願うもの。それと同時に、もちろん親に隠れて酒を飲んでもらいたくはない。

だから、親の一番の願いが叶えられるのは難しいとしても、テレビゲームやパソコンの普及のおかげで未成年飲酒が徐々に減る傾向にある、という一つの事実は、まぁ、プラスに評価してもいいニュースなのかもしれない。

危機動物のための動物園「Nordens Ark」

2007-06-06 07:25:55 | Yoshiの生活 (mitt liv)
5月はずっと忙しく更新が滞ってしまいました。6月に入った今もあまり状況は変わりませんが、頑張って更新を続けます。

先週末、「Nordens Ark」という一種の動物園へ行って来た。ヨーテボリから西海岸に沿って100kmほど北に行ったところにある。民間の非営利財団で、絶滅の危機にある動物の保護や繁殖を行ったり、再び野生に返したりといった活動をしている。そもそも「Ark」とは、聖書に登場する「ノアの箱舟」の「箱舟」を意味するらしい(と、一緒に行った人から教わった)。つまり「Nordens Ark」とは「北欧の箱舟」ということなのだ。
「Nordens Ark」のホームページ

ここで飼育されている動物は、世界中から集まっている。レッサーパンダ、フクロウ、鷹、狼、レオパルド(豹)、虎、鹿、リンクス、コウノトリ、キツツキ、オウム。特に、注目は最近、ドイツの動物園から移されてきたというアムール虎。そのような本来、野生であった動物だけでなく、かつては家畜として飼われてきたが、今ではほとんど飼育されなくなった牛、馬、ヤギ、羊、鶏、カモなどの地域種を見ることもできた。

おもしろいのは、傾斜のある森林を動物園にしていること。敷地はかなり広く、順路に従って歩けば3~4kmはある。一つ一つの動物に与えられた面積は広く、岩場なども設けられている。だから、都会の動物園と違って、人間がオリの前で覗き込んだところで、必ずしも動物の姿が見えるとは限らない。遥か彼方に、ちょこんと座っていたり、岩陰に隠れて見えないこともあった。だから、気の短い人には全然向かない動物園だ。じっと、オリの前で構えて、じっ…と待っていると、どこからともなく豹や虎がノソッ、と現れてくる、そんな動物園だった。

レオパルド(豹)

一方で、動物にとっては、人間との距離が遠い分、ストレスも幾分は減るだろう。この動物園を歩きながら、普通の動物園の動物は常に人目にさらされて、ちょっとかわいそうだ、とそう感じた。

ただ、この動物園でも限界はある。鷹は、上空に張られた金網(それほど高くない)の下すれすれを飛び回っており、もっと自由が欲しそうだったし、オウムに至っては、友達が欲しいのか、野生の鳥が森の中で鳴くたびに、甲高い悲鳴を上げていたのが、ちょっとかわいそうだった。

入場者には子連れ家族が多く、かなり急な坂道にもかかわらずベビーカーで動き回っていた。特に都会で生まれ育ち、動物に触れる機会が少ない子供には、こういう場所があるのはいいことだと思った。

展望台で景色を眺めていると突然近づいてきたJärvという動物。大きさも雰囲気もアライグマみたいな感じだが、野生ではなんとトナカイを襲って食べるのだとか

ラオル・ヴァッレンベリのモニュメント除幕式

2007-06-01 06:12:21 | コラム
先週、研究室に座っていつものように作業をしていると、同じ研究棟のJohanからメールが来た。「コフィ・アナンがハーガ公園に11時にやって来るぞ」

ハーガ公園とは研究棟から歩いて3分のところにある小さな公園。んでもって、コフィ・アナンとは、国連の前事務総長。そんなことを急に言われてもすぐに信じられるものではない!

半信半疑でハーガ公園に時間通り行ってみると、既に人だかりができていた。何故か・・・? ある人物を讃えるモニュメントがこの度、建造され、その除幕式が行われるからであった。

式辞を述べるコフィ・アナン

モニュメントの除幕

その人物とはRaoul Wallenberg(ラオル・ヴァッレンベリ)
彼に関する日本語のヴィキペディア
ドイツのシンドラーや日本の杉原千畝と同じく、第二時世界大戦中に多くのユダヤ人を救ったことで知られている人だ。
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Wallenbergといえば、スウェーデンにおける富豪家族で、今でもスウェーデン産業の多くを手中に収めている。彼もその一族。若くして建築家として身を立て、世界を股に掛けて活躍する中で、あるハンガリー系ユダヤ人の貿易商と親しくなる。

第二時世界大戦が泥沼化していた1944年3月、ナチス・ドイツ軍はハンガリーへ侵攻。その直後からハンガリー内のユダヤ人のアウシュビッツ強制収容所への移送が始まる。親友であるユダヤ人の貿易商から話を聞きつけてRaoul Wallenbergがハンガリーに到着した7月には、農村部や小都市から既に43万人のユダヤ人が移送された後で、あとは首都ブダペストに23万人のユダヤ人が残るのみだった。

Raoul Wallenbergは実は「戦時亡命者委員会」の要請を受けて、外交官の身分でハンガリーに来ていたのだった。そのため、彼はスウェーデンの名で「庇護旅券」を発行し、これをまだブダペストに残るユダヤ人に配布し始めた。庇護旅券の中央には彼のアイデアで中立国スウェーデンのシンボルである「三つの王冠」が描かれていた。国際法的には全く意味のない旅券ではあったが、占領軍であるナチス・ドイツ軍には効力を発揮し、その旅券のおかげで多くのユダヤ人が移送・殺害を逃れたという。

それに加え、ブタペストのあちこちに「スウェーデン図書館」「スウェーデン研究所」という名目でユダヤ人のためのシェルターを設けて、15000人のユダヤ人を匿った。

ドイツの敗戦色が濃くなるにつれ、ハンガリーにはユダヤ人移送のための貨車がなくなってしまった。そのため、ナチス・ドイツはまだ貨車が残る隣国オーストリアまでの200kmの道のりの「死の行進」をブダペストに残るユダヤ人に強制した。餓死者と病人で溢れかえる沿道で、Raoul Wallenbergは食料と医薬品の配給と、庇護旅券の発行を続けた。しまいにはオーストリアにもたどり着き、そこから貨物車に載せられたユダヤ人に対して、車上でなお庇護旅券を書き続け、可能な限りユダヤ人に与え、新たにスウェーデンの保護下に入ったユダヤ人を移送から解放した。

また、ドイツ軍撤退に際して、彼らがブタペスト内でユダヤ人の虐殺に踏み切ろうとした際には、現場の責任者である司令官に駆け寄って「お前がここで命令を下せば戦後の裁判で絞首刑が確実だ」と言って、踏み留めさせたといわれる。彼のこの発言で69000人の命が救われた。

1945年1月にソ連赤軍がブダペストを解放したとき、街には12万人のユダヤ人しか残っていなかった。その後、Raoul Wallenbergはソ連赤軍にスパイ容疑をかけられ連行される。ナチス占領下のブダペストでの彼の活動のために、アメリカの財団が経済的援助をしていたためである。モスクワ郊外の収容所に入れられた後、ソ連側の発表ではその2年後に獄中で死亡した、とされるが真相は分かっていない。
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モニュメントの除幕式は、こじんまりとした小さなものに過ぎなかった。警備もほとんどなくて、目に付く警官といえば、ヨーテボリ名物「自転車警官」が二人だけだった。

コフィ・アナンを間近で見たかったのだけれど、人だかりのために、時折遠くから見えるだけだった。

式典も終わり、さあ研究室に引き返そう、としたその時、コフィ・アナンが私の方に向かって歩いてきた。会場であるハーガ公園を後にするためである。たまたまその途上に私が居合わせたのだ。思わず手を差し伸べたら、握手で応えてくれた。

ある曇りの金曜日。すべてのことが短い時間のうちに、あっという間に過ぎていった。