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西村清和に関するsakstyleのブックマーク (4)

  • Literary Valueについて、現時点での考え - あなたのkugyoを埋葬する

    Literary Valueをどう訳すか、これはおれがうっかりしていたところで、たぶん「文学の価値」ではなく、「文学的価値」としなくてはならないんだろう。つまり、文学作品には文学的価値とそれ以外の価値(道具的価値とか?)とがあるわけだ。 いや、でも、道具的でない価値なんてあるの? 内在的価値? そんなものがあるなんて不用意には信じられないなあ。というか、内在的価値を認めてしまうのなら、そこで話は終わってしまうので、文学的価値も道具的価値ではあることにしたほうがよいだろう。というわけで、ここから立場はおそらく2つに分かれて、文学的価値とは Artistic Truthを与えてくれる(認知主義cognitivism) 快楽を与えてくれる(情動主義emotivism) のどちらか、であるのだろう。なお、西村清和はどうも認知主義のことを「有用性説」と呼んでいるようだけど、上の軽い分析に従えば、快楽

    Literary Valueについて、現時点での考え - あなたのkugyoを埋葬する
    sakstyle
    sakstyle 2008/09/20
    芸術作品の価値とは何か?何らかの真理を与えてくれることか、何らかの快感・体験を与えてくれることか。作品そのものに命題は含まれないが、そこから導き出される命題も作品の価値ではないか。
  • 仮象論のパラドックス――〈ゲームシステム〉と〈テーブルの合意〉を区別する - GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

    私が〈イマジナリィ・ボード〉ということばを言い始めてから、3年が経ちます。*1 それから、『ペテン師の戯れ言』で図解を挟みながらより高度な展開をされている玄兎さん、『Scoops RPG』でゲーム論とゲーム理論の区別を行い、そこから「RPGにおけるゲームボードの考え方」について意見をくださった馬場秀和さん他、その他のTRPG論客の方々に時おり参照していただくこの言葉ですが、私は一つ、このモデルに対する大きな困難に直面していました。 それは、「意味」と「指示」の関係にまつわる問題です。 その問題はここ1ヶ月くらいでようやく解決を見たのですが、先日TOMEちゃっとでVampire.Sさんと会話した結果、「これで明解に語り直せるかな」という感触を得ました。Vampire.Sさんに許可を頂きましたので、そのチャットの一部を抜粋しつつ、ここにエントリとしてまとめて置こうかと思いました。 2日かけて仕

    仮象論のパラドックス――〈ゲームシステム〉と〈テーブルの合意〉を区別する - GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)
    sakstyle
    sakstyle 2008/09/17
    対談の前に(2)――西村清和が指摘する〈仮象論の罠〉/「現実/虚構」という二項対立にもとづいて考えるのが罠
  • 西村の議論について考えていたら3カテゴリにまたがってしまった - あなたのkugyoを埋葬する

    こんどから入手した論文の入手先を記録しておくことにしよう。どこのデータベースを調べて入手したのか分かると便利だろうから。 データベースhttp://www.informaworld.com/smpp/home~db=allから、以下の論文を入手。 [Lewis, D. and Lewis, S. 1970] Holes, Australasian Journal of Philosophy, 48-2, pp.206-212. データベースJSTORから、以下の論文を入手。 [Lewis, D and Lewis, S. 1996] Casati and Varzi on Holes, The Philosophical Review, 105-1, pp.77-79. しっかし、うちの大学の契約データベースのどこにもCritical Inquiry(の古いの)が入ってやがらねえってのは、

    西村の議論について考えていたら3カテゴリにまたがってしまった - あなたのkugyoを埋葬する
  • 虚構と現実とは区別するだろ、存在論的に考えて… - あなたのkugyoを埋葬する

    虚構的指示対象がなんらかの意味で実在することを認めないでもやっていけると……うふー……それって、穴の実在を認めないでやっていけるとする立場同様の批判を、与えられうるのではないかな。 つまり、ドラゴンの実在を認めない立場から、 ドラゴンが眠っている。 なる文が省略しているもんを適当に分解して、「ドラゴン」などという語を使わずに記述できたとして(分解が面倒なので{ドラゴンが眠っている}と書くよ)、 2匹のドラゴンが眠っている。 はそれとはまた別の記述のしかたをしなくてはならないのは自明だろう。つまり、 {2匹のドラゴンが眠っている} だ。さて、我々は「ドラゴン」を実在として認めていないのだから、「1匹のドラゴン」「2匹のドラゴン」「30匹のドラゴン」などを、数の概念に訴えて分解することはできないはずだ。ということは、 {2匹のドラゴンが眠っている} は 2{ドラゴンが眠っている} のようには書

    虚構と現実とは区別するだろ、存在論的に考えて… - あなたのkugyoを埋葬する
    sakstyle
    sakstyle 2008/09/16
    西村に美的経験と有用性の区別はうまくいくのか→Jerome Stolnitzの"On the Cognitive Triviality of Art"であり、こっちではそもそも認知主義の言っているような有用な真理の経験など、芸術作品には与えられないよ!
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