2011-10-06 (木) をもって、JVC Kenwood を退職した。
理由は休職期間満了。ストレスで心療内科に通い始め、2010-10-07 から休職に入っていた。一年間の休職期間が終了したけれど、職場復帰を果たせなかったので社則に則って退職となる。会社に不満を持って辞めたとか、悪いことして辞めさせられたとか、否定的な退職ではないのでご安心を (?)。
傷病手当金が半年ほど続くようなので (保険組合に感謝!)、その間は治療に専念するつもり。その後、就職活動に入ると思う。
3 年に渡る会社生活だったけれども、色々と学ばせてもらった。少し振り返ってみたい。
会社について
2007-04-02、ケンウッドに入社した。研修期間終了後、先行技術を開発する部署に配属された。以降 3 年間、部署名は色々変わったけれど、同部署にて開発を行なった。
2008 年 10 月、ケンウッドは日本ビクター (aka. JVC: Japan Victor Company) と合併。入社二年目にして一部上場企業同士の合併劇を内側から見る。社則の統一とかシステムの統合とか難題・課題の解決を図る姿を見ることができたのはとても貴重な体験だった。一番面白かったのは「社風の違い」かもしれない。ぼくは入社して日が浅いから、「新しい風」だなぁと考え方や意識の違いを受け止めた。古参の人達は戸惑っていたのかな?
合併に関して補足説明しておく。ケンウッドと日本ビクターは共同持株会社 JVC Kenwood ホールディングスを設立し、その傘下に入った。また、両社のカー・エレクトロニクス部門の人達を合わせて J&K カー・エレクトロニクスという新会社を作り、これを日本ビクターの子会社とした。この時点で JVC Kenwood ホールディングスが一部上場。ケンウッドと日本ビクターは一部上場を廃止した。この関係は、NTT などによく見られる。NTT の場合、日本電信電話株式会社 (NTT) という頭がいて、その下に NTT 東日本・NTT 西日本・NTT ドコモという大きな会社が在る。
2011 年 8 月。JVC Kenwood ホールディングスは商号を「JVCケンウッド」に変更。続いて同年 10 月 1 日。子会社である日本ビクター、ケンウッド、J&K カー・エレクトロニクスを合併。ここに日本ビクター、ケンウッドという長年続いた社名は消えることとなる (ブランド名は残っている)。
ところで、4 社合併が 2011-10-01。ぼくの退職が 2011-10-06。風の噂によると、ぼくは JVCケンウッド の「最初の退職者」になるらしい。嘘か本当か... そんなところで一番手を切っても、、、ねぇ。
携った仕事について
組み込みプログラミング
部署に配属されて、まずは課題形式で組み込みプログラミングを教えてもらった。一応プログラミングができること、組み込みプログラミングの経験はないこと、は伝っていたようで「組み込み」のイロハを集中的に教えてもらえた。配線図の見方、ポート開放、割り込み制御、タイマーの使い方 etc. 基本を学ぶ。最終的に I2C の汎用デバイス・ドライバーをフル・スクラッチから書いて、DAC 制御して音を鳴らして課題終了。
無線
課題終了後、(大人の事情で) 組み込み系のチームから無線機のチームへ異動 (といっても隣のチームなのだけど)。実機を動かす前のプロトタイプ・アプリを作成した。言語は C# で、初めて本格的にオブジェクト指向プログラミング、UML、デザイン・パターンに足を踏み入れた。オブジェクト指向プログラミングは C++ でかじった程度だったので、勉強になった。
無線機に馴染みがない人も多いと思うので、少々解説。当時のケンウッドの稼ぎ頭は業務用の無線機だった (アマチュア無線ではないよ)。業務用無線機とは何か? 一番身近で見られるのは、ヤマダ電機の店員が使っている無線機。または、タクシーの運転手が本部との連絡に使っている無線機。通信周波数を決めて、一度に多勢と話すことができる。シビアなところでは警察官や消防隊員が使っている。映画「バックドラフト」のように、火の中・水の中を走り回り、救助作業をこなしても無線機は壊れてはいけない (ぼくはアプリしか担当しなかったけど、実機を作ってる人達は大変だぁ)。
Linux
日本ビクターとの合併でチームが再編。Linux カーネルを担当するチームに配属された。アプリ開発の様な自由さはないものの、ほぼ完成された OS のソースコードを見ていじることが出来たのは大きな財産になったと思う。
サーバー管理者
チーム再編の頃から、日本ビクターの先行技術開発の人達と一緒に働くことになる予感があった。当時、開発チームは秘密主義体制で、開発データをなるべく外に出さないようにしていた。ケンウッド一社の時代は、インフラの専門部署にその旨を伝えれば良かったけれど、日本ビクターと合併したとなるとそうはいかない。何故ならインフラの整備が終わっていないから。でも、インフラ整備が終わるより前に、日本ビクターの人達との合流はある様に思えて仕方なかった (その予想は後で図に当たる)。そこで、専用サーバー機の購入を上申した。
アカウント管理を行なう LDAP、ファイル共有を行なう Samba、SCM の集中リポジトリーの作成、この他、Apache や BTS の導入を行なう。しかし、今だから白状するけれども、当時のぼくはサーバーを作ったことがなかった。一番簡単とされる Samba や Apache すら自宅マシン (Linux) で動かしていなかった。それなのに、よくもまぁ LDAP サーバーを作りましょうなどと... 当時は周りに「大丈夫ですよ」などと言っていたが、背中には冷汗をかきまくっていた。
サーバー機は無事購入され、ぼくは自身初のサーバー導入者・サーバー管理者となった。案ずるより産むが易し? 初めてずくしだったけれど、大きなボロは出さずにサーバー管理が出来たのではないかと思う。サーバーの管理は休職前まで通常業務と平行で行なっていた。
企画
新商品の企画がまとまらない、という。で、技術系のブログを書いてて (特に社内で隠してはいなかった)、「ギークを目指す」なんて大口を叩いているぼくに白羽の矢が当たった。IT 系の新風を吹き込んで欲しい、という狙いだったのだと思う。
現場に入ってみると、上からの要求が厳しい。その要求を満たしつつ、ユーザーが使いたいと思う商品を作り出す。無理じゃないか? そこで上の要求を一部逸脱する様な企画をいくつも立てた。同時に、上の要求を全て満たすことがどれだけ困難かを説くプレゼンも行なった。当時のトップはロケフリの前田さんだったが、ぼくの意見は通らなかった。逆に企画チームに檄が浴びせられた。
「これは大変なことだよ。とても難しいことは私も分かっている。そこを承知で、無理を言う。何とか企画を作ってくれ」
月日の経ったことだから、言葉は憶えていない。でも大意はこんな感じだったと思う。
ぼくは上は要求の難しさを分かっていないんじゃないかと思ってた。侮っていた。でも違った。ちゃんと要求の難しさを理解していた。その上で、ぼくらを信頼して企画を作れ! と言う。ならばその信頼に応えなくては男じゃない。それから一か月、本気で企画を考えた (ストレスで体調を崩したのはこの直後)。
企画は通った。
アプリ開発
企画が通ったあとは、細かな仕様を決める。その作業の合い間、アプリを開発するチームへと戻された。途中まで仕様と開発の二足のわらじをはいていたけれど、重点は少しずつアプリ開発へと移していった。もともと開発が好きだし、開発に戻る約束で企画に携っていたので、開発に戻れて嬉しかった。
アプリはバリバリのオブジェクト指向の Java で書いていた。比較的チームの縛りが緩かったので、アジャイル開発を試してみた。実際にやったのは TiDD と短いリリース・サイクルだけだけど、実感は良かった。途中、3 人のチームになって共同開発した時期もあって、その時はぼくのやり方に従ってもらった。最初は戸惑い。後半は好評だったと思う (そう信じたい ^^;)。
ぼくの担当していたアプリは、大人の事情で開発中止となり、別アプリの開発に移った。その開発を開始して少しして、ぼくは会社を休職した。
休職から退職
病名は抑鬱神経症。外因性のストレスが原因らしく、鬱病に似ている。
ぼくは 2009-07-01 に病気になった。企画の仕事にのめり込みすぎて、休むべき時に休まなかったのが原因だと思う。主な症状はイライラ。イライラの度合いが増すと頭痛・腹痛・吐き気。
通院を始めて比較的落ち着き始めた頃、アプリ開発が忙しくなった。そして気がつけばワーカ・ホリック (仕事中毒)。残業を重ねていないと不安でしょうがなくなった。産業医に、残業を止めるか休職するか、と問われて休職を選択。2010-10-07 から休職開始。
ぼくに与えられた休職期間は一年間。正確には、復職準備期間というのが休職期間に含まれていて、復職できるかどうかの意思確認・担当医承認が数か月前に入る。担当医と相談して、まだ厳しい、ということで相方同意したので、復職に至らず休職期間の満了を迎えた。
あとがき
たった 3 年ちょっとだったけれど、JVCケンウッド (旧・ケンウッド) での生活はとても凝縮されたものだった。会社の合併なんてそうそうお目にかかるものじゃあない。開発では組み込み・Linux カーネル・アプリと幅広い開発に当たらせてもらった。サーバーの管理を導入から行なえたのも得難い経験だった。本当にありがたい。