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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

空とはなにか(2)

2019-07-13 04:53:49 | 哲学
生まれたての赤ん坊はものを見ることができないと言われている。視力がないという意味ではなく、見えているものを認識することができないという意味である。パパやママが盛んに赤ん坊の顔を覗き込んでも、赤ん坊の側からは何かがうごめいているとしか見えない。ママの顔の輪郭線の内側と外側の区別もつけることができないのである。心理学的には、「ゲシュタルトが構成できない」という状態にあるらしい。このことから分かることは、混沌の中からゲシュタルトを見出すには何らかの経験が必要だということである。

上の図はいわゆる「アヒルウサギ」と言われているものだが、見ようによってアヒルに見えたりウサギに見えたりする。しかし、アヒルとして見る時はウサギは見えなくて、ウサギとして見る時はアヒルを見ることはできない。このことから判断して、赤ん坊でない私たちは、ものを見る時は常にそれを「~として」見ようとしていることが分かる。

析空観という言葉をウィキペディアで調べてみると、「ものの在り方を分析して、実体と呼べるもの、いつまでも変らずに存在するものが、ものの中に無いことを観ていくこと」とある。例えば、机と言うものに着目してみると、その脚を外してみると単なる板と棒になってしまう。何も減じていないのに、机そのものは存在しない。よくよく考えてみれば、机というものも私たちの都合に合わせて、机を「机として」見ていることが理解できる。シロアリから見れば、それが机の形をしていようとばらばらの木材であろうと、同じ食糧であることには変わりないのである。

析空観に対して体空観という言葉がある。それは心理学的に言えばゲシュタルト崩壊ということになるだろう。机も山も川もそれら独自のものとしての相貌が失われるとき、概念の本質というものが実は存在しない、ということを覚るのである。いわゆる無分別とか無差別相という境地である。

もちろん、私たちは無分別のまま生きていくことはできない。しかし、アヒルウサギの例でも分かるように、絶対的に正しい分別というものはあり得ない、分別には必ずなんらかの恣意的視点が伴っていることをわきまえておかねばならない。世の中のトラブルの大半はその恣意的視点のずれから生じるのである。
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空とはなにか

2019-07-10 10:36:43 | 哲学
「龍樹の『空』と禅の『空』は異なる」と主張しているブログを見つけた。では、正しい解釈というのはどういうものかと言うと、次のように述べられている。

【 私たちはふだん『ものがあって私が見る』という見方をしています。それを善では色(しき)の見方と言います。しかし、モノゴトにはもう一つのみかたがあるのです。それが空(くう)の観かたです。(繰り返しますが、見かたと観かたと区別しているのでご注意ください。いずれも「みかた」です。) 『空』の観かたによれば、『私がモノを見るという体験こそが真の実在だ』というのです。 】

表現に少々難はあるが、言いたいことは理解できる。禅を実践している方々の中にはこのように理解している人も多いのではないかと想像する。そのように思うのは、私自身もかつて「空」をこのように理解していたことがあるからだ。西田幾多郎の「善の研究」における「意識現象が唯一の実在である。」に通じる視点である。しかし、それを空観であると言ってしまえば、空観=「モノ的実在感の否定」というだけのことになってしまう。さらに、「龍樹の『空』と禅の『空』は異なる」とまで言ってしまえば、禅は仏教ではないと言っているも同然である。

禅においては仏に逢うては仏を殺せと言う、権威より自分の信念を押し通す心意気は買えるが、できる限り独断は避けた方が良い。大乗仏教においては龍樹の見解が公式見解である。それを否定するとなるとそれ相応の根拠が必要となる。やはり空というのは龍樹の言う通り縁起であると解釈すべきだと思う。つまり、ものごとはすべて相対的にしかとらえることはできない。私たちは所詮恣意的視点を離れることはできない。いかなるものの見方もドクサ(偏見)を帯びているということを知る、それが空の思想である。禅における不立文字というのもそういうところから来ているのである。

「空」や「無」はとかく神秘的に語られがちだが、少なくとも「空」については明晰に語ることができる哲学的概念であると言える。そのことについては項を改めて論じてみたい。
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人はなんのために生まれてきたのか?

2019-07-05 06:32:19 | 哲学
私が参加しているSNSで上記タイトルについて議論されています。私たちは無意識のうちに、なんにでも理由があると思っています。ならば、私達が生まれてきた理由もあるはず、それを知りたいというのは人情でしょう。

あなたがキリスト教徒ならこんな問題に頭を悩ます必要はない。すべては神様の思し召しだからである。神のみ心に従って生きればいいだけのことです。しかし、あなたが仏教徒ならどうか? 仏教にはそんな神さまはいない。したがって、自分の外部から与えられる使命というようなものは存在しない。他人に迷惑かけない限り、思いのまま自由に生きていけばよい。仏教ではそれを「自然(じねん)」と言います。

しかし、何事にも理由があるはずという人間の思い込みは強い。どうしても生まれてきた理由が欲しい人は、それを人間の本性の中に見つけようとする人が多いようです。たいていそういう人は進化論の中からそれを見つけ出そうとします。人間の進化を俯瞰しますと、成し遂げられたあまりにも精妙な結果に、そこになにかの「意志」が働いているとしか思えなくなるようです。その結果、そこから、「我らはみな種族繁栄のために生きている。」という目的というか、与えられた使命のようなものをくみ取る人が少なからずいるようです。

「種族繁栄のため」という思い込みも、「だから人のためになる生き方をしよう。」程度におさまっておればいいのですが、「LGBTは種族繁栄に貢献しない」などと言い出すと、ちょっと問題です。時々政治家の方にもそういう人がいて、わざわざそれを公言したりする人もいます。

私達の本能が「種族繁栄」を志向しているかのように見えるのは当然と言えば当然で、子を産みそして育てる、そういう本能がなければ現在のわれわれもいなかったわけです。だからと言ってそれは誰かが仕組んだことでもない。いわばなるべくしてなった偶然の結果であります。

イギリスの偉大な哲学者であるデイヴィッド・ヒュームは、「現実にそうであるからと言って、そうであるべきであるとは言えない。」と述べています。これは「ヒュームのギロチン」と呼ばれる哲学の法則です。人間の本能が「種族繁栄」を志向しているように見受けられるからと言って、それが人間の生きるべき目的であるとは決して言えないのです。

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宿業について

2019-07-02 09:21:55 | 哲学

現在伝えられている仏典は長い年月と多くの人々の手を経ており、その中には矛盾していることもたくさん書き込まれている。誰もが釈尊のような優れた思想家ではないのだから、それは当然のことだろう。仏教はその根本に高度な哲学を含んでいるため、なかなか釈尊の真意が伝わりにくいという一面もある。宗教として広めるためには、わかりやすい図式を方便として利用せざるを得なかったということも考えられる。

いわゆる六道輪廻とか宿業という言葉も仏教用語として知られているが、本来の仏教とは無縁の言葉である。過去世などというあるかどうかを確認しようのない概念については言及しない、というのが釈尊の流儀である。
(関連記事=>「無記」)

ちなみに、ある仏教系団体の公式ホームページには次のように説明されていた。

“自分は何も悪いことをしていないのに、なぜこのような苦しみを受けなければならないのか”と思うような苦難に直面しなければならない場合もあります。仏法では、このような苦難は、過去世において自分が行った行為(宿業)の結果が今世に現れたものであるととらえます。「業」とは、もともとは「行為」を意味する言葉です。今世の幸・不幸に影響力をもつ過去世の行為を「宿業」といいます。
                             
このように、宿業の考え方は、往々にして希望のない宿命論に陥りやすいのです。これに対して、「宿命の転換」を説くのが、○○大聖人の仏法です。"

人々に希望を与えるための方便としてはこういうのもありかもしれない。しかし、無常を説く仏教にはもともと予定調和的な考えはなじまない。善根を積んでいても悲惨な運命をまぬかれない場合もあるのである。「善因善果」というのは善行を奨励するためにはわかりやすくてよいかもしれないが、そんなことを言う新興宗教は他にもたくさんある。仏教はあえてそのような方便を説く必要はないと思う。

実は、私の好きな歎異抄にも「宿業」という言葉が出てくる場面がある。親鸞は神秘的な言葉遣いはほとんどしない人なので、親鸞ファンの私としては少し弁解しておきたいと思う。

    「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄 第13条)

どんなにいい人でも場合によっては人を殺してしまうこともある。性悪な人間でも条件が整わなければ悪事を働くこともない、時には善行をすることもある。善人悪人と言っても所詮相対的なものに過ぎない、人間はすべて不完全なのだ。

「人間が生身である限り完全であることはできない。」このことは親鸞が生涯抱き続けた絶望的な感慨である。7歳で出家をしたときはおそらく仏教に大きな力があることを信じていた。その奥義を窮めれば自分だけではなく多くの人々を救う力を持つことができると考えていたに違いない。しかし、修行すればするほど、そのような「神通力」はないということが分かってくる。仏典を研究しても単に知識が身につくだけのことである。二十年も命がけで求めていたものが実はスカだった、そのような絶望感はいかほどのものだっただろう。

当時は公家から武家へと権力が移動する時代の変動期である。多くの人々の運命が翻弄されていた。親鸞は下級貴族の子弟ではあったが、庶民に比べればはるかに恵まれている。日常的に人が野垂れ死にしている中でのうのうと生きている自分に後ろめたさを感じていた。自分より飢えている人を見れば、自分の食べ物を分け与えるのが善人と言うものだろう。しかし、善人であろうとすれば生きてはいけないのである。困窮を極める人をしり目に自分は食い、あまつさえセックスまでしたがる。そんな自分を到底善人と認めることはできない。「悪性さらにやめがたし、こころは蛇蝎のごとくなり」というのは彼の真情を吐露した言葉に違いない。

生身の人間は善人であることはできない。そのことは彼自身の体験から骨身にしみていたのである。宿業とは自分の力では太刀打ちできないその状況のことを言うのである。前世の因縁などというものとは全く関係ない。無常の荒波にさらされる自分の無力さを仮に「宿業」と言っているにすぎないのである。

人は行において完全であることはできない、信において完全を求めるしかない、それが親鸞のたどり着いた結論である。己を空しくしてひたすら弥陀にすがりつく、それしかないと親鸞は言う。絶対他力という、親鸞が「信」にとりわけ厳しい態度であるのはそういう所以である。

(これは過去記事に訂正を加えたものです。)
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憲法九条は非現実的か?

2019-07-01 10:58:00 | 政治・社会
「9条を守れ」というような主張をしたら、ある若い人から「あんたお花畑か?」と言われた。どうやら、お花畑でおとぎ話を語っている現実離れした爺さんというような意味らしい。台頭する中国の脅威に対して、無防備でいることは非現実的だというのである。
 
しかし、九条の成立した状況を思い返してもらいたい。日本が第二次世界大戦で完膚なきまでに打ちのめされた、その生々しい記憶があってこそ、不戦の誓いを立てたのである。いかなる戦争も愚劣であるという現実を思い知らされた。九条はおとぎ話とはかけ離れた最も現実的な判断だったのだ。
 
私にはむしろ、北朝鮮がミサイル実験をしただけで、Jアラートなどという訳のわからないものを発して大騒ぎする、そんな「戦争ごっこ」のほうがよほど非現実的に見える。口先だけ危機意識をあおっても、とても真剣にやっていることとは思えない。見ていてなんだか恥ずかしいような気がしてくる。
 
危機を煽り立てる方はいつでも手を変え品を変え適当なことを言ってくる。
 
私が子供の頃は「ハリネズミ防衛論」というようなことがよく言われた。ハリネズミは普段は人や動物に積極的に危害を与える存在ではないが、肉食獣などに襲われると身体を丸めて体表にある「針」を広げ自分の身を守る。強くはないが手を出すと痛い。攻められれば、相手も多少のダメージを受ける程度の、最小限度の軍備を備えようという考えである。それがいつのまにか、明らかな憲法違反である航空母艦まで持とうという話になっている。
 
1970年代後半からはソ連による北方の脅威ということがよく言われたのを記憶している。「1987年には、ソ連が北海道に進行してくる。」というようなうわさも流れた。しかし、「一体何のために?」というような研究が真剣にされた様子はない。結局、そのような脅威はソ連崩壊とともにうやむやになってしまった。
 
しかし、危機のネタというものは尽きるということはない。1990年代から急速に尖閣諸島問題を中心に中国の脅威というものがクローズアップされるようになった。しかし、私見を言わせてもらえば、中国に武力で対抗しようというのはナンセンスである。そういう発想では、いずれ強大化する中国のプレゼンスに圧倒されて、無力感を味わうことになってしまうだろう。
日本一国では中国に対抗できないから、日米安保にすがろうということなのだろうが、中国の国力がアメリカのそれを凌駕するのは時間の問題である。トランプは「日本が他国に攻められたら、アメリカは第三次世界大戦も辞さない。」と言っているが、そんな言葉を当てにしてはならない。アメリカは強大な中国と本格的な戦争をする意志はない、と考えるのが「現実的」である。
 
日米安保はそもそも日本を防衛するためのものではない。アメリカの世界戦略のために日本に米軍基地を確保しておく、というアメリカ側の要請によるものだということを忘れてはならない。お人よしの日本は、アメリカ様に日本に居ていただくために、毎年2千億円もの「思いやり予算」を支出している。こんなムダ金使うくらいなら、例えば、その金を中国からの留学生受け入れのための費用に使えばどうだろう。2千億もあれば優に5万人位は受け入れらる。その中には中国政界の有力者の子弟もかなりいるはずで、それが有事の際の人質にもなる。手厚くもてなせば中国の指導者に親日家が多くなるだろう、それが何よりの安全保障になる。
 
コスタリカも平和憲法を持っていることが知られているが、こちらの方は日本と違って本当に軍隊がない。周辺諸国もコスタリカが軍備を持っていないことの価値を知っており、それを尊重している。周辺諸国の理解なしには平和憲法は維持できない。日本の残念なところはそのための外交努力をしてこなかったということである。周辺諸国にとって、日本が軍備を持っていない方が安心なはずだ。そのことに対する理解を深める努力はもっとするべきである。
 
現実はどうだろうか。本来なら友好国であるはずの韓国軍から偵察機にレーザー照射でロックオンされる始末である。「なめられてたまるか」と言う前に、近隣諸国に日本の友と言える国がないという深刻な事実に目覚めるべきである。同じ敗戦国であるドイツはその点涙ぐましい努力を続けてきたと言える。今では、フランスをはじめとする近隣諸国との確固たる友好関係を築いている。もって範とすべしである。
 
とにかく我々は戦争放棄を決意して、それを国是としたのだ。それを守り抜く努力を一度もしないで、アメリカの尻馬に乗ってばかりいる。そんな国を誰が信用するだろうか。

6月28日 梅雨の晴れ間に富士山が見えた。
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