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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

純粋経験論について

2021-11-18 11:43:51 | 哲学
 前々回の記事「全てが私であるなら、私というものは存在しない」において私は次のように述べた。

 ≪ただ素朴に山があるという原事実、それが「純粋な実在論」の意味である。≫ 

ここで私は「原事実」という言葉を使っているが、このことについて少し説明をしたい。今、目の前のテーブルにリンゴが置かれているとする。すると、科学教育を受けた現代人は、「リンゴから反射された可視光線が、私の目に入ることによってそのリンゴが私に見える。」と考える。つまり、「リンゴが有るから、赤くて丸いものが見えている。」と考えている。しかし、哲学者に言わせれば、これは実は逆で「赤くて丸いものが見えているから、そこにリンゴが有ると(推論によって)想定している。」ということになる。このことについて、西田幾多郎の「善の研究」を参照してみたい。

≪我々は意識現象と物体現象の二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。≫ (第二編第二章「意識現象が唯一の実在である」より)

 赤くて丸いものが見えている」ということが、ここで言う意識現象ということであり、「リンゴが有る」ということが物体現象の意味である。「物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。」というのは、各人が赤くて丸いものが見えている」とき、そこに物体現象としての「リンゴが有る」とすれば整合的であるということである。リンゴだけではなく、机やいす、家や道路等、世界を各人の意識現象を整合的に物体現象の集合として構成する、このことを指して西田は、「各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したもの」と言うのである。

 しかし、西田は「善の研究」の同じ章で次のようにも言っている。

≪余がここに意識現象というのは或は誤解を生ずる恐がある。意識現象といえば、物体と別れて精神のみ存するということに考えられるかもしれない。余の真意では新実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられない者である。≫
  
意識現象とか物体現象とかいう言い方が、すでに科学的視点つまり物体現象を基盤にするものの見方である。原事実としての現象を言い表す表現としてはふさわしくない。そこで西田はこれを「純粋経験」と呼んだのである。世界は物の集まりではなく、純粋経験の集まりである。純粋経験はあくまで純粋であり他の何かに媒介されたものではない。まさに原事実として直に立ち現れているものである。大森荘蔵は「立ち現われ一元論」というものを提唱しているが、西田の純粋経験論に通じるものだと考えられる。バートランド=ラッセルも中性一元論というものを唱えているが、原事実というものを追求していくと、物と心(意識)という二元論は必然的に立ちいかなくなるのである。

(次回「経験あって個人ある」に続く)

大雄山最乗寺(神奈川県南足柄市)
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天然ワクチン仮説

2021-11-09 10:26:22 | 雑感
 新型コロナの感染者数の激減の原因が分からない。 「人流の減少」「感染対策の徹底」「ワクチンの効果」「天候」 など、いろいろ言われているが、どれも決定的な根拠としては物足りない。なかには、「変異することによって感染力が弱まった。」という説もあるが、これほど大規模な感染を起こしたウィルスでは変異タイプが常に並行的に存在するので、感染力の弱いタイプは単純に淘汰されるだけなので、そういうことは考えにくい。

 パンデミックにおいては、感染力に有意な差があるウィルスが併存した場合、必ず感染力の強い方が弱い方を駆逐することになる。例えば、従来のウィルスの2倍の感染力を持つ変異ウィルスが出現したと想定してみよう。2倍の感染力が2倍の実行再生産数を意味するとしたら、感染力の強い方はネズミ算式に従来型を凌駕していくことは理解できると思う。それでも、感染者数が少ないうちは、従来型も着実に感染者を増やして行くはずである。しかし、感染が広がると同時に抗体を持つ人の比率が増えてくる。そうなると、どのウィルスの実効再生産数も低下する。例えば、抗体を持つ人の比率が50%だったとすると、定員千人の劇場が満員だったとしても、感染の可能性という観点から見れば、500人しか入っていないのと同じである。密に見えても実はさほど密ではないのである。抗体を持つ人の率が増えれば増える程、どのタイプのウィルスについてもその実効再生産数は低下する。そうすれば、まず感染力の比較的弱いタイプが実効再生産数は1を下回ることになり淘汰される。つまり、最終的に残るのは常により感染力の強いウィルスなのである。

 日本人は欧米人のように握手やハグをしないしキスもしない、トイレへ行けば手を洗うし、マスクもきちんとつける。もしかしたら、体質的にコロナに対する抵抗力があるのかも知れない、ということで、第一波から第四波までは、欧米に比べると極めて小さな感染状況であった。ところが、第五波は今までとは全然様相が違った。東京の新規感染者数は連日五千人を上回り、しかも陽性率が30%を超えるという事態にまでなった。そこで考えられるのは、第5波のウィルスは今までのものに比べて、感染力が極めて強いということである。しかも、感染者数に比して重症者の比率が比較的少ない。感染力は強いが、毒性の弱いタイプのウィルスだと考えられる。

 それにしても陽性率が30%を超えているというのはあまりにも高すぎる。感染経路を全然追い切れていないということである。もともと日本は検査件数が少なすぎる。当初は「発熱後4日間は様子を見る」というような馬鹿げたお達しがあったせいで、無症状の人はもちろんのこと、軽症状の人も検査する人の割合が少なかったのではなかろうかと考えられる。第5波のウィルスが毒性の弱いものであれば、感染しても無症状の人の率が高いし、軽症の人もPCT検査をしないで済ませた人も多いのではないだろうか。その上での陽性率30%である。この数字はあまりにも高すぎる、感染経路のトレースを途中であきらめているということなのだろう。東京都の一日の新規感染者が5千人を超えたと報告された頃、新規感染者の実数は10万人以上に達していたのではないだろうか。

 以上のように考えるとつじつまが合うのである。もし私の想像が当たっていれば、7月から8月にかけて、東京都における新規感染者数の累積は300万人程度に達していたのではなかろうか? もしそうだとすれば、その間のワクチン接種状況の進捗具合からして、9月中には東京都の成人の90%以上の人が抗体を持っていたという想定が成り立つ。90%の集団免疫が出来れば、さすがに感染力が強いウィルスも実行生産数が1を下回って勢力が衰えてくるはずである。つまり、第5波のウィルスは感染力は強いが毒性は弱い、毒性が弱くても感染すれば抗体は出来るので、いわば天然のワクチンのような働きをしたとも考えられる。

 私は感染症の専門家でも何でもないので、以上のことは素人の思い付きである。しかし、理論的には全くありえないことではない。ワクチン非接種者の抗体検査をすればすぐ検証できることである。一刻も早く真の原因を追究するために、あらゆる可能性を想定して、考えうる限りの検査を実施すべきだと思う。もし、私の想定が当たっていれば、第6波は来ないという可能性もあり得る。楽観は禁物だが、そうであることを切に願っている。

※ 専門家でもないのに思い込みで「 第6波は来ないという可能性もあり得る。」などと言ってしまい、見事外してしまいました。ウィルスの変異を甘く見ていました。これからは少し慎みたいと思います。

 
横浜エアーキャビン 一日も早く日常を取り戻したい。 
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全てが私であるなら、私というものは存在しない。

2021-11-04 06:28:25 | 哲学
 独我論というものの見方がある。コトバンクによる解説を見てみよう。

≪ 真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我やその他すべてのものはただ自己の意識内容にすぎないとする立場。  ≫ 
 
 私は他人の意識の中には入れない。ひょっとしたら、私が他人と見ている人たちは意識を持たないゾンビかまたはロボットのようなものかもしれない。この世界には私一人、つまり「独我」というわけである。よくよく考えてみれば、すべては私の感覚器官を通して認識されるのである。ということは、この世界は私の感覚、眼耳鼻舌身意による感覚データ以外には何もない。すべて私の感覚によって満たされているのである。理詰めで考えていくと結局そういうことになる。

 理詰めで考えていくとと言ったが、実はこの「理詰め」はあやしい。すべては「私の感覚」と言っているが、全てが「私の感覚」であれば、「私の」とことわるのもおかしいし「感覚」というのもおかしい。「私」は他人あっての「私」である。他人と比較することによってはじめて「私」が生まれるのである。「感覚」も同様で感覚以外のものがないのであれば「感覚」というものもあり得ない。ヴィトゲンシュタインという哲学者は「論理哲学論考」という本の中で次のように語っている。

 5.64 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見て
    とられる。独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応
    する実在が残される。 
 
ここで、「‥に対応する実在」は
英文版では、"the reality co-ordinated with ‥"となっている。辞書で co-ordinate を引いてみると、「(重要性、位、身分など)同等の、同格の‥‥」となっている。このことから私は、「自我に対応する実在」を禅僧が「山を見ている時、私が山になる」という時の、その山のことであると解釈した。私が山になれば、もうそこには私はいない、ただ山だけが残されている。もっとも素朴な意味でそこに「山がある」という意味である。私が見るのでもなく、また眼で見るのでもさえない、ただ素朴に山があるという原事実、それが「純粋な実在論」の意味である。
 
 デカルトは「私は考える、だから私は在る」と言った。しかしカントはそれに対し「考える『私』を直観することは出来ない」と述べたのである。「私は考える」の主語である「私」を対象として認識することは出来ない、カントはそう考えたのである。あえて対象化するなら、それは空虚なものであり無というしかない。一般に、「無我」や「無」は神秘的に語られがちであるが、実は普遍的なものである。普遍的なものでなければ、そのことを追求する意義もないと思う。

伸びをするこの猫には「自我」などというものはおそらくないだろう。
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