[go: up one dir, main page]
More Web Proxy on the site http://driver.im/

禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「世界」は存在しない?

2020-08-25 11:11:08 | 哲学
 マルクス・ガブリエルは、現在最も注目されている若いドイツの哲学者である。その彼は「世界は存在しない」と一見紛らわしいことを言っている。この「世界」については、「私たちが考えているような」という注釈が必要だろう。私たちは、無意識の内に「世界は私たちの知覚とは独立に存在する。」と思い込んでいる。私達に見える「世界」は多種多様である。同じものでも、背景や光の当たり具合で全然別様に見えることがある。時には、山道に落ちている縄が蛇に見えたりもする、というような経験は誰にでもあるだろう。

 私たちは、そのようようないろいろの見え方の背後に、一つの整合的な「世界」を推論によって透視するのである。私たちの知覚とは無関係に、あらゆるものが秩序正しくそこには格納されている。いわゆる客観的世界である。そこにはもちろん、山道で見かけた幻の蛇というようなものは存在しない。そのかわり、私達が見たこともないような深海の生物や、私達が生きてる間にはそこからの光が届かないような天体が存在すると考えられる、そういう私たちの経験の埒外なものまでが秩序正しく整合的に存在している、そういう世界観をいつの間にか私たちは抱いてしまうのである。

 ガブリエルはそんななにもかもを抱合する一つの「世界」は存在しないというのである。そのかわりに、いろんな見え方そのものの方を肯定する。私達に見えるもの、それらはそれぞれの意味の場において実在すると主張する。 ガブリエルの言っていることは大森荘蔵が言っていることと同じような気がする。大森も世界はいろんな見え方そのものの重ね書きであると述べているが、世界はいろんな意味の場の重層であるとするガブリエルの視点と一致している。あらゆるものがそこに整合的に存在する世界というものも、そういう意味の場において見える一つの見え方に過ぎないのに、それを絶対視することには無理がある。 客観的世界の中では、私達は知覚を通じてしか世界に接することはできないはずなのに、私達の知覚とは独立したすべてを包括する「世界」を想定する、ということに矛盾があるのだろう。

 禅的視点としての「あるがまま看る」というのも、ガブリエルや大森の言っていることと通じるような気がする。「今」、「ここ」、「自分」という実存的視点から見た世界をそのまま受け入れるということである。

クィーンアン・ヒルからシアトルのダウンタウンを望む。(本文記事とは関係ありません。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

進化論はとかく誤解されやすい

2020-08-22 06:08:35 | 哲学
 ダーウィンは素晴らしい科学者である。「種の起源」は科学における古典中の古典と言ってもよい本で、世界中の若者に読んでもらいたいと思っている。進化論の述べていることはとてもシンプルで、その主張するところをかいつまんで言うと、「世界は自然法則に従って、あるべきようにある。」ということである。ある意味そっけない、とてもニヒルなものである。しかし、人はそのニヒルさに堪えることができない、ことこの進化論に対してはどうしても自分の主観を入れたくなるのである。

 自民党の改憲の為の広報として、マンガ(【教えて!モヤウィン】第一話 進化論)でその主張を分かりやすく解説している。だが、その内容について、方々から「ダーウィンはそんなこと言っていない。」と批判されたにもかかわらず、そのマンガを訂正しないまま掲載し続けている。おそらく自民党には科学に疎い人が多くて、なにを批判されているかが分からないのだと思う。(皮肉じみた言い方になってしまったが、たぶんこれは皮肉ではなく事実だと思う。

 マンガの中ではダーウィンの進化論の主張として次のように述べられている。

【 最も強いものが生き残るのではなく、最も賢いものが生き延びるのでもない。唯一生き残ることができるのは、変化できるものである。】
 
 しかし、ダーウィンの言説のどこを探しても、それに類する主張は見当たらない。そもそもダーウィンは「変化する」ということさえ言っていない。「変化する」主体というものがそもそもなくて、種は枝分かれするだけである。枝分かれしたものの内、環境に適合(この「適合」には運も含まれる)したものが生き残る、というだけのことなのである。

 上の図を見ると、まるで猿が人間に変化しているように見える。しかし、そうではない。猿として生まれたものは、一生を猿として過ごし、そして猿として死ぬ。ただ、その猿から生まれる子供は全く親と同一ということはなく、いろんな変異が生じる。その変異が環境に適合しておれば、その子はまた子孫を残す。ただそれだけのことである。決して、変異する主体というものがあるわけではない。上の図は、無数に枝分かれしていった個体群の一部を恣意的に選び出してプロットしたものに過ぎない。「木を見て森を見ず。」という格言がある。木という細部ばかり見ていると、森という大局を見ることができないという意味である。しかし、大局ばかり見ていても、具体的な真実を見逃してしまうことがある。「木」という細部をきちんと見ないと科学とは言えないのである。
 
 自民党の漫画における、唯一生き残ることができるのは、変化できるものである。」という文言は、いろんな意味で間違えている。実際にゴキブリやシーラカンスのように、「種」として長い間変化していないものも存在するし、むしろ一般的に言って、変異が種族保存に有利に働くことは「極めて」まれである。「種」という視点から見れば、変化して生き残ったものはごくわずかであり、変化して滅んだものの方が圧倒的に多いということを忘れてはならないと思う。

 この問題について、自民党の二階俊博幹事長は「(誤用と指摘した)発言者の真意は確認していないので分からないが、学識のあるところを披歴されたのではないか」とし「ダーウィンも喜んでいるでしょう」とトンチンカンなことを述べたらしい。ダーウィンはあきれ返っているだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真夏のデスバレー

2020-08-18 17:03:15 | 旅行
 昨日(8/17)は浜松で41.1℃という日本最高気温タイ記録が出たらしいが、アメリカのデスバレーでも16日に8月の世界最高気温が出たらしい。それがなんと54.4℃だという。これまでの世界最高気温の記録は、1913年7月に同じくデスバレーで観測された56.7℃ ということになっているが、信憑性という点からすると今回の記録がどうやら世界最高記録ではないかと言われている。このデスバレーは周りを高い山地に囲まれた盆地になっており、とにかく風が吹けばごく普通にフェーン現象が起こるので、世界一暑いところと言われている。

 実は14年前の夏、ロサンジェルスの友人を訪ねた折に、グランドキャニオンに連れて行ってもらい、その帰り道にデスバレーに立ち寄ったのだ。その時も50℃に達していたらしい。とにかくすさまじい暑さ(というより熱さ)だった。気温が40℃を超すと風か吹いても涼しくは感じない、すぐそばでどんど焼きしているような感じがする。

 デスバレーの入り口 Shoeshown。 街というほど人はいない。観光客相手の店があるだけだ。ものすごく暑いので、店に入ってアイスクリームを買って食べた。とても美味かった。 
 
 灼熱の砂漠にも植物が生えていた。葉っぱに触ってみると、とてもやわらかい。そして細かな繊毛に覆われていた。
 
 デスバレーではなにもかも熱くなる。車から出てしばらく経つと、自分の履いているズボンの表面がやけどしそうなほど熱くなっているのに驚いた。金属製の時計バンドは危険である。自動車のボンネットで目玉焼きが出来るというのはジョークではないと実感した。こんなところでベンチに腰掛けるとやけどするだろう。

 次の写真はバッドウォーターと言われている海抜マイナス86mの地点。地面が白く見えるが、これは塩である。目の前の山を見て、西遊記の火焔山を連想した。

 それほど長い滞在ではなかったが、私は熱中症寸前のグロッキー状態になってしまった。ほうほうの体で、クーラーを利かせた車に戻ってやっと生き返った。グランド・キャニオンもラスベガスも素晴らしかったが、私には灼熱のデスバレーが一番の思い出になった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天皇親政と直接民主主義は矛盾しない ?

2020-08-09 04:58:39 | 政治・社会
 三島は学生達に向かって、「君らが一言『天皇』と言ってくれさえすれば、私は君らと一緒に安田講堂に立てこもる。」と述べたことは一般に知られているが、そのロジックは次のようなものらしい。

【 終戦前の昭和初年における天皇親政というものと、現在いわれている直接民主主義というものにはほとんど政治概念上の区別がないのです。これは非常に空疎な政治概念だが、その中には一つの共通要素がある。その共通要素は何かというと、国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結するということを夢見ている。 】
 
 実を言うと、このような考えは三島だけのものではない。私の祖母は明治生まれだが、「天皇陛下には自ら政治の先頭に立ってもらわなあかん。そうせな、政治家や役人の抑えが効かんやないか。」というような趣旨のことをよく口にしていた。政治家や役人は所詮俗人である、放っておいたら自分勝手なことをやりだす。だから、日本の頂点には日本そのものを体現する無垢な精神である天皇がいなくてはならない、というのである。
 
 もちろんそんなことは錯覚である。「国民の意思が中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結する」などと言うのは幻想に過ぎない。三島の言う「国民」には一つひとつの顔がない。あくまで十把一絡げの国民であり大衆でしかないのだ。三島は高い知性を持つ人だとは思うが、残念ながら民主主義を理解していない。民主主義の前提として、個々の人間が自律的であるということは絶対欠かせない要素である。みんなそれぞれ違うのである。だから、とても民主主義は面倒くさいものなのだ。国民全体の意思が天皇を結節点として一つにまとまる、という考え方はある意味とても魅力的だが、最も民主主義からは遠いものであることは間違いない。やはり、三島は民主主義にとっては危険な思想家だと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実

2020-08-07 03:58:34 | 哲学
 昨日は久しぶりに映画を観た。平日の午前中とあって観客はとても少なかった。小劇場とは言え、7、80人程入るところ私を含めて7人しかなかった。その中に年配のご婦人が3人いたのが印象的だった。当時の女性活動家だったのだろうか?

 団塊の世代でもある私は当時の現役学生で、三島由紀夫と東大全共闘の対談のニュースもリアルタイムで耳にしていたはずなのだが、明瞭な記憶としては残っていない。当時の私は、無気力と自堕落を絵に描いたような学生で、勉強にも学生運動にもともに興味が持てなかった。 もう少し頭が良ければ熱心な学生運動家になっていたような気もするが、その当時の彼らが熱情を込めて語る吉本隆明やサルトルが難しすぎて全然理解できなかったのだ。この映画を観て、あれほど難解だった彼らの言っていたこと(というより議論のスタイル)が少し理解できるようになった。

 私の目には、両者の議論は初めから滑っているように見えた。どちらも滑っているからそれなりに噛みあっているところが妙である。学生がいきなり「あなたにとって他者とは何ですか?」と切り出す。それを受けて、三島は「サルトル曰く、最高にエロティックなものは拘束された裸の女‥‥」と語りだす。(一体なんなんだ?) 哲学における他者論と言うのはとても難しいもので、何でここでそれが飛び出すという感があるが、社会を変革しようとしている両者にとって、それは大衆を意識したものでなくてはならないはずなのに、しょっぱなから芸術論にすり替わっている。

 両者とも芸術家であると考えれば彼らの議論はとても腑に落ちる。社会を変革するという目標を目指しながら、実は自分たちの主体性を最も躍動させる場を求めているだけなのだ。一方は「天皇」、もう一方は「大衆」を大義として掲げているが、それは単なる記号でしかない。だから彼らはお互いに共感しあえるが、結局それは社会から遊離したものとならざるを得ないことは必然である。

 映画評を見ると、高い知性のぶつかり合いに対して共感を示すものが結構多いが、私はあまり評価する気にはなれない。高い知性と言うのは時に幼稚でもある。彼らの対話は社会運動のリーダーとしては抽象的過ぎるのである。このような議論で大衆を動かせると信じているのなら、ナイーブすぎるというしかないだろう。純粋でナイーブな思想というものはとても危険なものである。三島由紀夫と全共闘、どちらが社会を先導してもその社会が危険なものとなるのは間違いないと私は考える。

あがたの森と思誠寮 (長野県松本市) 記事とは関係ありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする