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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

神秘主義

2015-04-19 11:51:03 | 哲学

私はアマチュア哲学者を自称しているが、哲学の勉強というのはほとんど行ってこなかったので、哲学史に関してはほとんど無知である。それで「神秘主義」という言葉についても、漠然と超自然的なことを口にする人たちのことを指すのだと思っていた。おそらく私と同じように間違った思い込みをしている人も多いのではないだろうか。

どうやら「神秘主義」というのはれっきとした学術用語であるらしいことを最近知った。単に神秘的なオカルト的傾向を意味するようなものではないようだ。ウィキペデイアによる神秘主義の説明は次のようになっている。

≪ 神秘主義(しんぴしゅぎ、英: mysticism)とは、絶対者(神、最高実在、宇宙の究極的根拠などとされる存在)を、その絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験しようとする立場のことである。 ≫

だとすると、どのような宗教にもその底流には神秘主義というものがあるのではないだろうか。

坐禅を己を空しゅうして宇宙(絶対者)と一体になる行為とみなすならば、禅も一種の神秘主義と言えるだろう。絶対他力に徹する妙好人もそうである。

一見かけ離れているように見える、キリスト教と禅についても、神秘主義という究極のところで通じていると言ってもいいように思う。ただ、禅にはキリストやマリアというような媒介となるような物語性がない。その分、キリスト教神秘主義は情緒的であるが、禅は知的で哲学により近いという印象は受ける。

禅と哲学は神秘主義というただ一点において分かれることになる。

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普遍論争と空観 (後篇の続きの続き)

2015-04-09 15:00:11 | 哲学

 3月15日の記事「普遍論争と空観 (後篇の続き)」対し、以下のようなコメントを寄せられた方がいたので、もう少し私の真意について説明しておきたいと思う。

<< 御坊 哲さんの感じた言葉による概念と南直哉の語る禅宗の境地はまったくちがうものです。無分別智とでもいえばいいんですかね。鳥はどこにもいません。心の中にも。中論も結論として、仏教の実践修行として禅定を推奨しています。中論を理解しようとするなら全文を読むことをおすすめします。>>

私は南さんの禅境がいかなる程度のものかは知らない。おそらくそれは私などが及ばぬほど大したものであろうとは推測するのだが、南さんが百丈野鴨子について語っていることからはそれは推し量ることができない。彼はこの問題を哲学の問題として語っているからだ。そのことを理解するための背景として、まず龍樹が論駁しようとしている説一切有部の主張というものについてもう少し解説しておこう。

 普遍論争と空観 (後篇)において、わたしはつぎのように述べた。

〈 その説一切有部はどのようなことを主張していたのかということを簡単に説明すると、「ものが去る」ということが起こるということは、「もの」に対し「去る」という原理が働くことによって起こるのだというのだ。龍樹がこだわるのは、去る主体である「もの」と「去る」という原理が各々それ独自で存在するということを容認できないということだ。 〉

注意しなくてはならないのが、ここでいう「もの」とは空間的時間的に存在するものではなく、存在を存在たらしめている範型としての「もの」であるということである。野鴨について云うならば、ここで問題にしているのは目の前を飛んでいる個物としての野鴨ではなく、その個物としての野鴨を野鴨たらしめているもの、つまりの野鴨のイデアが実在すると説一切有部は主張する。また、野鴨のような概念だけではなく、「去る」というはたらきそのものも「もの」として独立に実在すると考える。野鴨も「去る」も独自に存在するものだから、「野鴨が飛ぶ」のは鴨に対して「飛ぶ」というはたらきが作用すると考えられるのである。

龍樹が説一切有部のそのような主張を容認することができないのは、そのような「野鴨」そのものや「去る」というはたらきが不変のものであるからである。説一切有部は、野鴨のイデアや「去る」はたらきそのものが三世において恒有であるとしている。つまり、地球の生まれる前から野鴨のイデアは存在し、かつまたそれは永遠に存在し続けることになる。一切は無常であるとする、龍樹がそのような考えを受け入れることができないのは当然であったと言える。

ここで再度南直哉さんの見解(=>「イタイ話」)を振り返ってみよう。

 すなわち、この理屈は、言語によって概念化することで成り立つ我々の認識は、縁起する事象そのものを、原理的・不可避的に誤解すると主張しているのです。
 野鴨をめぐる師匠と弟子の問答は、まさにそれです。弟子の言う「野鴨」は、その時まさに「飛んでいる」ことにおいて実存しています。そして二人が見ている「飛んでいった」と了解された運動は、当の「野鴨」の実存の仕方なのです。飛ばない「野鴨」と、それ自体として存在する「飛ぶ」運動がなんとなく結合して、「野鴨が飛ぶ」わけではありません。 ≫

ここで南さんは、「当の『野鴨』の実存の仕方なのです。」と述べているが、問題になっているのは「当の『野鴨』の実存」ではなく、当の「野鴨」を野鴨たらしめているものの実在である。「当の『野鴨』」が仮有であるということにおいては、説一切有部と龍樹の間に見解の相違はない。対立は空間的時間的な位置を占める「当の『野鴨』」の実存においてあるのではなく、「当の『野鴨』を野鴨たらしめているもの」が形而上的領域において実在するのかどうか、ということにおいてあるのである。

去る主体を、〈すでに去ったもの〉と〈未だ去らないもの〉と〈現在去りつつあるもの〉にカテゴライズし、説一切有部の立場にたつなら、それぞれのものが実有であるとみなされることになる。だとすると、「〈現在去りつつあるもの〉が去る」というのは、2種類の「去る」はたらきがあることになっておかしい、と龍樹は言っているのである。もしそれらがそれぞれに独立しているものであるならば、単に〈現在去りつつあるもの〉だけだと去らないではないかと言っているのである。

つまり龍樹は「去りつつあるものは去らない。」ということを主張しているのではない。「去りつつあるもの」が実有であるとするなら矛盾をきたす、ということを主張しているのである。

≪ したがってナーガルジュナは概念を否定したのでもなければ、概念の矛盾を指摘したのでもない。概念に形而上学的実在性を附与することを否定したのである。「さるはたらき」や「去る主体」を否定したのではなく、「去るはたらき」や「去る主体」というあり方を実有であると考え、あるいはその立場の論理的帰結としてそれらが実有であると認めざるをえないところのある種の哲学的傾向を排斥したのである。 ≫(講談社学術文庫「龍樹」(中村元)P.135より)

おそらく南さんは龍樹に関する中村元先生の論文を読んだのだと思うし、言おうとしていることもその趣旨に沿って言おうとしているのだと思う。しかし、「当の『野鴨』」の実存」と言ってしまうと力点の置き方が微妙にずれてしまう。実有と実存は違う。ここで問題にしているのはあくまで、形而上学的実在性なのである。

あらためて、龍樹は「去りつつあるものは去らない。」ということを主張しているのではないということは銘記しておくべきである。でないと、龍樹は独自の立論をなしていることになる。そのことについて、哲学者チャンドラキールティの次の言葉を思い起こすべきであろう。

≪ 「中観派にとっては自ら独立な推論をなすことは正しくない。何となれば〈二つの〉立論の一方を承認することはないからである。」 ≫(講談社学術文庫「龍樹」(中村元)P.129より)


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【関連記事】

 ・ 普遍論争と空観 (前篇)

 ・ 普遍論争と空観 (後篇)

 ・ 普遍論争と空観 (後篇の続き)

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析空観と体空観

2015-04-04 07:04:13 | 哲学

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私は男でもありまた女でもある

2015-04-02 07:59:56 | 哲学

 実は私は癌細胞をもっていて、現在ホルモン療法をやっているのだか、そのため少し乳が膨らみかけていることに悩まされている。このことから、私は男でありながらまた女の属性をあわせ持つものである、ということを思い知らされるのである。男と女は決して別物ではない同根である。位相幾何学的にはそれらは全く同じ形をしているという学者もいる。ホルモンの分泌の具合で少なくとも外見的には、私は男にも女にもなりうるのである。

私は決して、「男」と言う設計図に従って製造されたものではない、これは偶然なのだ。自然(あるいは神)は、男や女や人間に限らず、実はいかなる設計図(イデア)も持ち合わせていない。

男のイデアがないということは、「男」の厳密な定義は存在しないということである。龍樹なら、「私が男である」というのも、さまざまな関係性の中で一見成立しているかのように見える仮象に過ぎない、と言うだろう。

もう少し龍樹の縁起説について述べてみよう。縁起の意味については、その漢語のニュアンスから時間的な因果関係も含まれているという説もあるらしいが、私は中村元博士の「相依性」説の立場をとる。「相依性」とは物事はものとものとの関係性であるという説である。例えば、善は善として独立に存在するものではなく、悪と言うものがあって初めて善が成立するというようなことである。

この「独立に存在する」ということを「自性をもつ」と言うのであるが、「なにものも自性を持つものは存在しない。」というのが龍樹の縁起説である。

そこであなたの脳裏には、「ものとものとの関係性」と言うならその関係性のもととなる質料としての「もの」が存在するのではないか、と言う疑問がわくかもしれない。だが、龍樹の縁起説は徹底していて、その「もの」もまた何らかの関係性によって成立しているとみられる「仮象」であるというのである。

西洋哲学ではかつてすべての質料は「原子」と言う究極の粒子に還元されると考えられていた。しかし科学の進歩によりその原子もより小さな素粒子からなることが分かった。その素粒子もまた崩壊し別の素粒子と運動エネルギーに変化し究極の要素に到達することはないのである。アインシュタインによればすべての質量(質料)はエネルギーに還元されるということらしいが、ではそのエネルギーが究極のものかと言うとそうでもない。エネルギーそのものはどこにも存在しないのである。エネルギーは何らかの素粒子とその運動エネルギーとしてしか存在し得ない架空のものである。物理の世界にも自性をもつものは存在しないのである。

私は科学の成果によって龍樹の説を補強しようとしているのではない。逆に、龍樹は物理学を知らずとも、人間の思考過程というものを見抜いていたと言いたいのである。

 

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