3月15日の記事「普遍論争と空観 (後篇の続き)」対し、以下のようなコメントを寄せられた方がいたので、もう少し私の真意について説明しておきたいと思う。
<< 御坊 哲さんの感じた言葉による概念と南直哉の語る禅宗の境地はまったくちがうものです。無分別智とでもいえばいいんですかね。鳥はどこにもいません。心の中にも。中論も結論として、仏教の実践修行として禅定を推奨しています。中論を理解しようとするなら全文を読むことをおすすめします。>>
私は南さんの禅境がいかなる程度のものかは知らない。おそらくそれは私などが及ばぬほど大したものであろうとは推測するのだが、南さんが百丈野鴨子について語っていることからはそれは推し量ることができない。彼はこの問題を哲学の問題として語っているからだ。そのことを理解するための背景として、まず龍樹が論駁しようとしている説一切有部の主張というものについてもう少し解説しておこう。
普遍論争と空観 (後篇)において、わたしはつぎのように述べた。
〈 その説一切有部はどのようなことを主張していたのかということを簡単に説明すると、「ものが去る」ということが起こるということは、「もの」に対し「去る」という原理が働くことによって起こるのだというのだ。龍樹がこだわるのは、去る主体である「もの」と「去る」という原理が各々それ独自で存在するということを容認できないということだ。 〉
注意しなくてはならないのが、ここでいう「もの」とは空間的時間的に存在するものではなく、存在を存在たらしめている範型としての「もの」であるということである。野鴨について云うならば、ここで問題にしているのは目の前を飛んでいる個物としての野鴨ではなく、その個物としての野鴨を野鴨たらしめているもの、つまりの野鴨のイデアが実在すると説一切有部は主張する。また、野鴨のような概念だけではなく、「去る」というはたらきそのものも「もの」として独立に実在すると考える。野鴨も「去る」も独自に存在するものだから、「野鴨が飛ぶ」のは鴨に対して「飛ぶ」というはたらきが作用すると考えられるのである。
龍樹が説一切有部のそのような主張を容認することができないのは、そのような「野鴨」そのものや「去る」というはたらきが不変のものであるからである。説一切有部は、野鴨のイデアや「去る」はたらきそのものが三世において恒有であるとしている。つまり、地球の生まれる前から野鴨のイデアは存在し、かつまたそれは永遠に存在し続けることになる。一切は無常であるとする、龍樹がそのような考えを受け入れることができないのは当然であったと言える。
ここで再度南直哉さんの見解(=>「イタイ話」)を振り返ってみよう。
≪ すなわち、この理屈は、言語によって概念化することで成り立つ我々の認識は、縁起する事象そのものを、原理的・不可避的に誤解すると主張しているのです。
野鴨をめぐる師匠と弟子の問答は、まさにそれです。弟子の言う「野鴨」は、その時まさに「飛んでいる」ことにおいて実存しています。そして二人が見ている「飛んでいった」と了解された運動は、当の「野鴨」の実存の仕方なのです。飛ばない「野鴨」と、それ自体として存在する「飛ぶ」運動がなんとなく結合して、「野鴨が飛ぶ」わけではありません。 ≫
ここで南さんは、「当の『野鴨』の実存の仕方なのです。」と述べているが、問題になっているのは「当の『野鴨』の実存」ではなく、当の「野鴨」を野鴨たらしめているものの実在である。「当の『野鴨』」が仮有であるということにおいては、説一切有部と龍樹の間に見解の相違はない。対立は空間的時間的な位置を占める「当の『野鴨』」の実存においてあるのではなく、「当の『野鴨』を野鴨たらしめているもの」が形而上的領域において実在するのかどうか、ということにおいてあるのである。
去る主体を、〈すでに去ったもの〉と〈未だ去らないもの〉と〈現在去りつつあるもの〉にカテゴライズし、説一切有部の立場にたつなら、それぞれのものが実有であるとみなされることになる。だとすると、「〈現在去りつつあるもの〉が去る」というのは、2種類の「去る」はたらきがあることになっておかしい、と龍樹は言っているのである。もしそれらがそれぞれに独立しているものであるならば、単に〈現在去りつつあるもの〉だけだと去らないではないかと言っているのである。
つまり龍樹は「去りつつあるものは去らない。」ということを主張しているのではない。「去りつつあるもの」が実有であるとするなら矛盾をきたす、ということを主張しているのである。
≪ したがってナーガルジュナは概念を否定したのでもなければ、概念の矛盾を指摘したのでもない。概念に形而上学的実在性を附与することを否定したのである。「さるはたらき」や「去る主体」を否定したのではなく、「去るはたらき」や「去る主体」というあり方を実有であると考え、あるいはその立場の論理的帰結としてそれらが実有であると認めざるをえないところのある種の哲学的傾向を排斥したのである。 ≫(講談社学術文庫「龍樹」(中村元)P.135より)
おそらく南さんは龍樹に関する中村元先生の論文を読んだのだと思うし、言おうとしていることもその趣旨に沿って言おうとしているのだと思う。しかし、「当の『野鴨』」の実存」と言ってしまうと力点の置き方が微妙にずれてしまう。実有と実存は違う。ここで問題にしているのはあくまで、形而上学的実在性なのである。
あらためて、龍樹は「去りつつあるものは去らない。」ということを主張しているのではないということは銘記しておくべきである。でないと、龍樹は独自の立論をなしていることになる。そのことについて、哲学者チャンドラキールティの次の言葉を思い起こすべきであろう。
≪ 「中観派にとっては自ら独立な推論をなすことは正しくない。何となれば〈二つの〉立論の一方を承認することはないからである。」 ≫(講談社学術文庫「龍樹」(中村元)P.129より)
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