以前「非風非幡 」で取りあけた六祖慧能という方の「六祖」というのは、達磨大師を始祖とする禅宗の第6番目の嗣法者という意味であるが、あえてこのように「六祖」が強調されるのにはわけがある。
五祖弘忍のもとには、神秀という学識高く信望もあり風采も立派な弟子がいて、誰もが弘忍の跡目を継ぐのは神秀であると認めていたという。 あるとき師である弘忍に自分の境地を詩に表すように指示されて、次のような詩を作った。
身是菩提樹 (身は是菩提樹)
心如明鏡台 (心は明鏡台の如し)
時時勤払拭 (時時に勤めて払拭して)
莫使惹塵埃 (塵埃を惹(ひ)かしむることなかれ)
神秀の詩をみて誰もが賞賛したが、一人納得しないものがいた。慧能である。慧能は神秀とちがって無学文盲野風采の上がらない小男だったと言う。文字の書けない彼は人に頼んで次のような詩を紙に書いてもらった。
菩提本無樹 (菩提もと樹無し)
明鏡亦非台 (明鏡も亦台に非ず)
本来無一物 (本来無一物)
何処惹塵埃 (何れの処にか塵埃を惹かん)
神秀への当てつけのような内容だが、弘忍は慧能の方が優れているとして彼を後継者としたのだと伝えられている。
が、私に言わせればこれは典型的な作り話である。慧能は無学文盲であるわけはない。それどころか慧能の文学的才能は大したものと言うべきだろう。
慧能の方が優れているというのは、二つの詩を並べて比較するからである。比較すれば慧能の徹底性というものが際立っているということになる。一見非常に分かりやすい話になっている。が、しかし半可通がこれらの詩を読んで、慧能の方が神秀より境地においてすぐれている、などと判断するのは如何なものかと思う。
禅は実践の宗教である、当然のことながら文学ではもちろんない。あなたが慧能の方が優れているというからには、あなた自身が修行を通じて、「心は明鏡に例えるべきではない」という実感を得ていなくてはならないのである。本当は決して分かりやすい話ではない。分かりやすいというのは、単に観念的に比較しているというだけのことだからだろう。
私心を払拭し、心を一点の曇りもない鏡のように保つ、それは禅の修行そのものであり、何ら文句のつけようのない話と言うしかない。
こころ(鏡)から私心(塵)をとりのぞく、そうした後にはじめて本来無一物であることを知るのである。神秀の詩がなければ慧能の詩は成り立たない。突き詰めれば両者の詩は同じことを別の言葉で言い表しているといってもよい。
禅は本来不立文字である。語りえぬものを語るのであるから、理屈を付ければどのようにでも批判はできる。「本来無一物」というのなら、なぜあえて修行をしなくてはならないのかと反論することもできる。このエピソードで問題となっているのはあくまでも言葉の問題でしかない。
このようなエピソードをもちだして慧能の神秀に対する優越性を主張するのは間違っていると思う。おそらくは神秀も正当な後継者として弘忍に認められていたのだと思う。極論すれば、弘忍の弟子全員が六祖だったかもしれないのである。