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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

日本固有の領土

2017-12-27 10:45:08 | 政治・社会

日本政府は竹島は日本固有の領土であると言い、韓国は韓国固有の領土であると言う。本当に「固有」ならば意見が対立する筈もない。対立するのは「固有の領土」という概念が実はなにを意味しているかが分からないからだろう。 

おそらく、はじめて「日本」という国号が定まった頃(7、8世紀)は、竹島に日本政府の支配権が及んでいたなどということはあるまい。その頃は、竹島はおろか北海道や東北地方のほとんどはまだ日本ではなかったはずだ。土地に目印がついているわけではない。「固有の領土」などというものが、そもそも存在する筈はないのだ。 

国境というものは、お互いの国民の合意によるしかない。合意ができなければ合意できうる客観的な条件を突き詰めていくしかない。それもできなければ、愚かなことだが、あとは軍事力によるしかないのである。 

日本の中学校の地理の教科書には、「竹島は日本固有の領土である」とはっきり謳われている。しかし、その根拠については何も書かれていない。かくして、日本の子供は「竹島は日本固有の領土」と根拠もなしに信じ込むのである。これは望ましいことではあるまい。 

ナショナリズムを背景に妄信的な主張をする人間が多いと、国際的な合意形成というものをますます困難にするだけである。われわれは、ちっぽけな島以上のものを失うことになるだろう。 

 

仏教的な観点から言うと、概念はすべて相対的なものであり、そこに固有の本質というものはない。一切皆空である。つまり「固有の領土」というものは初めから存在しない。ついでに言えば、日本という国も空である。「日本」という共同幻想の上にさらに「固有の領土」という幻想を二階建てで打ち立てているわけである。「本来無一物」の精神に立ち返れば、偏狭なナショナリズムによる対立にとらわれるべきではないと思う。

昨日の海は荒れていました。( 神奈川県葉山町 )

コメント (6)
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クリスマス

2017-12-25 10:24:00 | 日記

昨日港南台バーズ(駅前のショッピングセンターです。)へ行ったら、たくさんの人でごった返していた。特に洋菓子屋さんや総菜屋さんの前には行列ができていた。クリスマスにはケーキや空揚げを食べるものらしい。 
私の子供の頃はクリスマスというのもそれほど盛んではなかった。田舎の町のことなので、パン屋さんでデコレーションケーキを売り出すようになったのは、私が小学校に上がってからのことだと記憶している。クリスマスプレゼントなどというものももらったことはないから、サンタクロースを信じたこともない。 
クリスチャンでなければ、私の同世代の人はみんなそんなものだと思う。まあでも、私は大の甘党なので、クリスマスにかこつけて、今日はなにかケーキを買って食べようと考えている。 

クリスマスと言えば、2年まえの今頃私たち夫婦はシアトルに住む息子夫婦の家にやっかいになっていた。それで、ちょうどクリスマスの日に妻と私は二人でダウンタウンに繰り出したのだけれど、ちょっと難儀な目に遭った、そのことを思い出しながら夫婦で笑いあっていたところだ。

その顛末は 
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan/entry-12110647371.html 「クリスマス・デイの街角」 に記してあります。

シアトルからビュージェット湾越しに見るオリンピック半島の山並み

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「意識」は存在するか? (その3)

2017-12-11 11:35:39 | 哲学

いわゆる禅問答のお題を公案と言います。無門関というのは公案集の中でも有名なもののひとつです。禅には「無門の門から入るべし」と言います。入るべき門がないからどこからでも入れるともとれるし、門がないから入り方が分からないともとれます。その辺が禅の禅たる所以でしょう。

その無門関の第一則が「狗子仏性(趙州無字)」です。

≪趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に環(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや。」州云く、「無。」

ある僧が趙州和尚に「犬にも仏性がありますか?」と問うたところ、趙州は「無」と答えた。ただこれだけの簡単な内容です。

仏教では、「一切衆生悉有仏性」(※注)と言います。生きとし生きるものすべてに仏性がある。この仏性という言葉ですが、「仏になる可能性」だということです。そのような性質がどのようなものであるかははなはだ分かりにくい、そもそも仏がなんであるかが分からなければ話にならないわけです。私はそれを私たちが「心」だとか「意識」と呼んでいるものだというふうに解釈しています。私の何が仏になるのかと考えた時、私の手や足が仏になるとは考えにくい。私の肉体は常に新陳代謝で入れ替わっており、それらが仏になる事態というのは考えにくい。問題になるのは「心」、「意識」あるいは「魂」と呼ばれるものではないかと思うのです。(この辺は私の独断です。私は仏教を体系的に学んでいるわけではないので、そのつもりで読んでください。)

趙州和尚は「口唇皮上に光を放つ」と称えられた名僧で、公案の中で登場回数が最も多い人です。その禅の達人に、ある僧が「犬にも仏性がありますか?」と問うた。もちろんその僧は「一切衆生悉有仏性」ということを知りながら、趙州の力量を試すかのように問うているわけです。

ここで注意しなくてはならないのは、禅においては「犬にも仏性がある」と教えられて、「ああそうなんだ、犬にも仏性があるんだ。」というような、受け売りの知識を教えられて分かるような分かり方というものはないということです。すべて自分が腹の底から実感しなければ「分かった」とは言えないということです。そういう意味では、犬に仏性があるかどうかということは、自分が犬でなければ根源的に分かりようがない問題です。
それともう一つ、禅というのは中心課題として、常に「己事究明」があるのであって、表面的には犬の仏性について問われたとしても、仏性そのものを問題にしている。そして、それは畢竟己の仏性という問題にならざるを得ない。
なぜなら、禅は科学では全然なくて、つねに実存的な視点からものを見ているからです。哲学的な言葉で言うと独我論的な視点しかないので、一般的で客観的な仏性を論じるというような視点をもたない。だから禅では「ただ今即今、ここ」という立場しかないのです。

そういう観点から見ると、趙州和尚の「無」は深い意味をたたえているように見えてきます。犬の仏性の有無を問題にする態度を否定して「無いよ」と言い捨てているようにも見受けられますが、意識あるいは心そのものが、なんであるかと問われているとした場合はどうでしょう。

前段で、「私の肉体は常に新陳代謝で入れ替わっており、それらが仏になる事態というのは考えにくい。」と述べました。実は意識も同様で、常にダイナミックに変化し続けています。なのに、私は一貫して「私は‥‥」と言い続けます。その究極の主体性というべきものを追及するのが「己事究明」であります。

デカルトは、「私は考える」ということからそのまま「私」があるということを導きだしましたが、その場合ははじめから「考える私」というものを前提としているわけです。仏教はその「考える私」から考えや感情という変化するものを取り除いてやって、純粋な私あるいは純粋な意識というものを突き止めなくてはならないと考えます。その結果、「無」にたどり着いたというわけです。

「テーブルの上にリンゴが有る」とか「無い」とか言うように、有無というのは通常は「物」について言えるものです。(ここでは思想や感情も「物」に含めます。) しかし、意識の根底は所与であって、有るとか無いとか言えないものです。映画で言えばスクリーンのようなものです。スクリーンは映画の外から見れば確かに存在しますが、映画の中にはそれは存在しません。「無」は世界を映すスクリーンに例えられると思います。それは世界を映し出すが、その世界の中には出現しないものです。だから、それをあえて「無」と表現します。

趙州は、ただ「無」とだけ答えた。それは「無」というものだともとれるし、有無を超えた否定の無であるともとれます。

 

(参考) =>狗子仏性(趙州無字) 

        公案に関する哲学的見解

(※注)「一切衆生悉有仏性」 :仏教の根本原理である慈悲は一種の感情移入でもあるので、こういうことが言われるようになるのは必然的だと思います。日本では「草木国土悉皆成仏」ともよく言われます。生物から無生物への拡張解釈も自然の流れなのでしょう。

この猫も仏性をもつ。 

 

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