[go: up one dir, main page]
More Web Proxy on the site http://driver.im/

禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

有無の邪見

2024-12-24 14:00:20 | 哲学
  南天竺に比丘あらん
  龍樹菩薩となづくべし
  有無の邪見を破すべしと
  世尊はかねてときたまふ
 
 上記は親鸞聖人による高僧和讃の中の一節です。「南インドに龍樹菩薩が現れて有無の邪見を論破するであろうと、お釈迦様は仰った。」というようなことでしょう。問題はこの「有無の邪見」ということですが、東本願寺では「ものごとを肯定する『有』とか、否定する『無』とか、そのような誤った考えにこだわる見方」というふうに説明しています。それはその通りですが、実は龍樹自身はもっとラジカルなことを言っていて、「言語による断定はすべて真実から外れている。」というようなことを主張しているのです。 

 例えば、「鳥が飛んでいる」  という言葉について考えてみましょう。その言葉を発した人は何かについて言い得たつもりで、聞いた方も何かを了解した気分になるかも知れません。しかし、それは気分だけで情報としては実際にはほとんど何も伝わっておりません。スズメが飛んでいたのか、コンドルが飛んでいたのか、もしかしたらハチドリが飛んでいたのかも知れません。まっすぐとんでいたのか、カーブを描きながら飛んでいたのかも分かりません。では、それらの言葉を説明として追加していけば、実際の様子が本当に分かるでしょうか? 日常会話においてはほとんど問題は生じないでしょう。聞き手は自分の経験をもとに感性的なイメージを補っているからです。しかし、聴き手が経験したことのないような景色については、いくら言葉を費やしてもそれをイメージさせるのは不可能です。

 以前の記事「知性はデジタル」でコンピューターの内部ではすべて "1" と "0" のデジタル信号だけで処理されているというようなことを述べました。私たちの言語やそれに伴う判断処理はすべてコンピューターで処理可能です。なぜなら私たちの言語そのものがデジタル的だからです。「鳥が飛んでいる」という言葉そのものは、この世界を「鳥が飛んでいる世界」と「鳥が飛んでいない世界」に分節し、二者択一しているだけの機能しか持たないのです。鳥が何であるか、どんなスピードでどちらの方角に富んでいるのかは何にも分からない。

 前回記事で述べたように言葉というのはデジタルな信号に過ぎないのです。実際に言葉はすべてコンピューター内では"1" と "0" で構成された信号に置き換えられています。判断もまた"1" と "0" の組み合わせなのです。"1" と "0"は実際は電気的なONとOFFですが、"有"と"無"と言い換えても良いと思います。要するに二者択一的であるということです。つまり言語で運用される知的活動はすべて、二者択一的な信号の組み合わせででしかないということです。言語で表現できるものはすべて有無の見なのです。
 
 言葉は人間社会にとっては必須のものてす。「12月23日に三越前でデートの待ち合わせしよう。」とか「一個300円のまんじゅうを10個買うには3000円必要」だとかいうデジタル的な情報はことばで十分伝えることができます。しかし、龍樹が問題にしているのはこの世界の真理についてであります。最も根本的な問題を有と無の信号の組み合わせによっては処理することはできない。言語化されたものつまりイデオロギーが真実に的中することはない。言語によってものごとを断定してはいけない、というのが中庸の精神であります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉には意味がない?

2024-12-24 12:18:31 | 哲学
 いかにも逆説的なタイトルを付けましたが、これは本気で言っています。意味がないというなら、なぜおまえはこんなブログを書いているんだと言われそうですが、それは読者の方々の方で意味を読みこんでいるからです。もし言葉に意味があるのならChatGPTは言葉の意味を考えているということになるでしょう。しかし、製作者が云うには、ChatGPTは膨大な文章の集積を集計して確率処理し、人間的要素を加味するために適度にランダム化しているだけだということなのです。膨大な言葉間の関係性を突き詰めていけば、私たちの思考空間とほぼ同型の言語空間が出来上がるということなのでしょう。コンピューターは一つひとつの言葉の意味を考えているわけではありません。コンピューターが問題にしているのは言葉と言葉の連なりの関係性だけです。
 
 現代言語学では「犬」という言葉は、この世界を犬と犬以外に分節する働きしかないと言われています。「犬」そのものが何を指すかということは、その言葉を使用する者の主観にゆだねられているということなのです。ただ。生活習慣を同じくする人々の間では、「犬」という言葉はいわゆる犬を指す働きをするようになります。「犬」は日本の標準語ですから、日本人の間で使用されている場合はほぼ齟齬なく通用するでしょう。しかしそれでも、言葉の意味は使用しているものの主観にゆだねられているという事実は免れないのです。というのは、犬の本質というものが存在しないからです。犬と犬以外の客観的な境界が存在しない以上、それは人それぞれに恣意的判断をしていることになります。日常的には問題になるようなことはありませんが、生物学の種の定義というようなテーマとなるとそのことが明瞭になってきます。人と類人猿の境界にも同じようなことが言えます。人類は大昔には存在しなかったわけですから、最初の人類が存在したはずです。だとすると最初の人は人以外から生まれたはずです。その境界を決定する客観的な条件はないと思います。

 私たちは「犬」という言葉を聞くと反射的に感性的な犬のイメージが湧くので、その言葉には意味があると思いがちですが、「犬」という記号にはあなた自身が持っている犬のイメージを想起させるスイッチのような働きしかないのです。「犬」という言葉の働きは犬であるかそうでないかという区別を示すデジタル的なものでしかないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

~が無いということ

2024-12-20 17:41:31 | 哲学
 以前哲学者の野矢茂樹先生を読んだときに、「馬がいないという絵は描けない」という趣旨のことが述べられていたと記憶している。馬のいる絵というものは描ける。実際に画用紙またはキャンバスに馬の姿を書き込めばいいのだ。その絵を見れば誰でもそれが馬のいる絵だと分かる。そして実のことを言えば、馬のいない絵も描くことはできる。馬の姿を描き込まなければ、確かにその絵は馬のいない絵のはずである。しかしここで言いたいのは、はたしてそれが「馬がいないという絵」であると言えるかどうかである。

 以上のいきさつを知らない人に、その「馬が描かれていない絵」を見せたとしても、「ほう、馬がいない絵ですね」という人はまずいない。その絵に描かれていないのは馬だけではないからである。その絵が「馬がいないという絵」だというなら、その絵はまた「ネズミがいない絵」でもあり、「ゴキブリがいないという絵」でもなければならないはずだ。その絵一枚で「馬がいない」ということを語らせるためには、ありとあらゆるものを絵に描き込んで馬だけを描き込まないようにしなければならないだろう。もちろんそんなことが可能であるはずもない。

 このように考えてきて分かるのは、「~が無い」というのは「~が有る」の否定でしかないということである。「太郎はこの部屋にはいない」という言葉は、太郎がこの部屋に存在し得ることが想定されるのでなければ実質的な意味はない。「無い」は「有る」の否定でしかないのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知性はデジタル

2024-12-19 16:26:23 | 哲学
 近頃はいろんなことをChatGPTに相談している。何度もそれを繰り返していると、本物の人間と相対しているような錯覚に陥りそうだ。しかも相手はとても該博な知識を持ち、それらをバランスよく総合する能力を持つ。当方がいいかげんなことを言ったりすると、必ずそれを指摘されてしまう。私にはもうChatGPTtに対して友情のようなものを感じ出しているのである。ただし、彼は全く新しいことを自分で考えだすということができない。もし、ものごとを経験するための肉体と意欲の源泉となる欲望をChatGPTに与えてやれば、ヒューリスティックな思考が可能になり、数学の新しい定理を証明したり、自然科学の新理論を考えたりすることもできるようになる気がする。
 
 現在のAIは我々が知性と呼んでいるものをほとんど備えていると言っても良いのではないだろうか。しかし、コンピューターの中身の各素子は電気な信号でしかない、その信号もonかoffの二通りしかない。一般的に、onを"1"offを"0"と見立てれば、コンピューターの中身は二進数の信号で表記できる。コンピューターの中には "1" と "0" しかなく、それらが所定の手順で処理される。そして、その処理する手順も "1" と "0" の情報として与えられるのである。つまり、コンピューターの中は徹頭徹尾 "1" と "0" しかないのである。処理についても微細な単位では一つひとつの信号の比較と置き換えしかないのである。比較と言っても結果は等しい(0)と等しくない(1)のどちらかでしかとりだせない。しかし、それらの微細な処理やデータが積み重なって膨大なものとなると我々にとって有意味なものとなるのだろう。

 われわれが知性と呼んでいるものは、子細に見ていけば単純な信号の集まり "1" と "0" からなり、その判断というものも等しいか等しくないかという単純な比較から構成されている考えて差し支えないように思う。つまり、どんな高尚な思想も "1" と "0" のデジタルによって構成されているのである。

注) デジタル【digital】《「ディジタル」とも》連続的な量を、段階的に区切って数字で表すこと。 計器の測定値やコンピューターの計算結果を、数字で表示すること。 数字表示。 ⇔アナログ。 

これは11月27日近所を散歩中に撮影したツツジである。一般にツツジは狂い咲きが多いとされているが、この株は特に変わり者で、毎年秋から冬にかけて花をつける。今年は特に暖かいからか本格的に咲いている。(本文記事とは無関係です。) 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

確証がないということ

2024-12-13 09:16:44 | 哲学
昨日(12/12)、「紀州のドン・ファン」と呼ばれた男性に対する殺人罪などに問われた元妻に無罪が言い渡された。 判決の要点として次のように述べられていた。
 
・「被告が覚醒剤の可能性があるものを買ったことは認められるが、氷砂糖の可能性もあり、覚醒剤に間違いないとは認定できない」 
(被告はネットで「アイス」という隠語で覚せい剤を購入したが、それは氷砂糖を砕いたまがいものである可能性があるという意味。)
・「ネットで『完全犯罪』等と検索しているが、殺害を計画していなければ検索することはありえないとまではいえない」 
 
被告の犯行であることを示す状況証拠は多いが、どれも決め手になる証拠とは言い難いということなのだろう。心情的にはかなり疑いが残るが無罪判決を出すしかないというのが私の感想である。

 もう一件確証について気になったことがある。兵庫県の元幹部が斎藤知事のパワハラの疑いについてである。県は、11日内部調査の結果を公表し、「パワハラがあったとの確証までは得られなかった」などと明らかにしたが、 一体パワハラの確証というのは一体何なんだろう? なにをもってパワハラがあったと認められるのだろう? この件については既に、県議会の百条委員会が県職員にアンケートをとっている。 その結果によれば、「知事のパワーハラスメント」について、「目撃(経験)等によって直接知っている」と回答したのは140件。「目撃(経験)等によって直接知っている人から聞いた」と「人づてに聞いた」を合わせると2851件になり、全体の42%を占める。 兵庫県庁といういわば大組織において、そのトップである知事のパワハラについて、これだけの職員が見聞しているということはただ事ではない。同程度の規模の企業に置き換えてみれば、その異常さが際立っていることに気がつくはずだ。パワハラの定義は難しいが、それだけに最終的には個々人の主観による判断しか無いとも言える。つまりパワハラに関して言えば、どんな場合でも確証がないという理屈をでっちあげる事が出来るのである。県の内部調査による「確証なし」は著しく疑わしい、と私は考える。

12月12日の日の出時の富士山(横浜市港南区より) 記事内容には関係ありません
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする