昨夜(2/6)NHKの「映像の世紀バタフライエフエクト」という番組を見た。「バタフライ・エフェクト」というのは、エドワード・ローレンツという気象学者の「蝶がはばたく程度の非常に小さな撹乱でも遠くの場所の気象に影響を与えるか?」という言葉が由来で、この番組では一人の人間の行動が世界に大きな影響を及ぼした例を扱っている。昨夜の番組はブルース・リーの「友を水になれ」という言葉をテーマとしたものであった。
今年の1月26日にボスニア=ヘルツェゴビナで 金色に輝くブルース・リーの像の除幕式があった。「なぜボスニアでブルース・リーの像が?」という奇異の念とともに、このニュースは世界中に配信された。1990年代に旧ユーゴスラビアの分裂とともに各民族・宗教間の対立が深刻な紛争を引き起こしたことはご存じだと思う。ボスニア=ヘルツェゴビナの首都サラエボから南西70キロの古都モスタルに、各民族の和解の象徴としてブルース・リーの銅像が建てられることとなった。それがなぜブルース・リーか? 発案者の1人は「異なる民族が共有するものの1つがブルース・リーなんだ」 と言う。70-80年代 にブルース・リーの人気は世界を席巻した。中英混血のブルース・リーはその出自ゆえに香港でもアメリカでも差別・疎外されたが、その圧倒的なクンフーの力によって人種・民族の壁を超越した人気者となった。旧ユーゴもそれは例外ではなく、分断された人々を再びつなぎ合わせるための絆の象徴として相応しいということなのだ。そして、そのキーワードが " Be water ,my friend." という言葉である。
"Empty your mind, be formless, shapeless – like water."
心を空しくせよ、型や形を捨てるのだ - 水のように。
一般に武道の型(形)は体の合理的な動かし方の典型として組み立てられたものであると考えられているが、ブルース・リーは最終的にそれも捨てなければならないというのである。一見、彼は現実の格闘では型通りの体の動きでは勝てないという、武術の技術論について語っているようにも見えるが、それはあらゆることに通じることであると言っているのである。明らかにその言葉の根底には東洋の中道思想が流れている。彼はある時インタビュアー「貴方は中国人ですかアメリカ人ですか?」と彼自身のアイデンティティについて問われた時、「私は何人でもない」と答えている。見た目や形で人を判断する人種偏見を愚かしいことだと、いわれない偏見にさらされてきた彼は誰よりもよく知っていた。水になるということは型や形にこだわらないということでもある。また、型や形をイデオロギーや宗教のことであるとも考えることが出来る、私たちはともすればイデオロギーに拘るあまり深刻な信念対立に陥るのである。よりよく生きるためのはずであるイデオロギーや宗教が諍いのもとになる、それも顛倒した話ではないか。
水はどんな形にもなる。水になるということはあらゆる偏見を打ち破るということに違いない。それは人を言葉や概念でひとくくりにしないということでもある。骨形成不全症の障害をもつ伊是名夏子さんにある人が「障害のある人に私たちはどのように接すれば良いのでしょうか?」と訊ねた。それに対して彼女の返答は、
《 それはひとくちで『これこれこのようにすればよい』という答えはない。障害者と言っても、その障害の内容もその人の考え方も一人一人違うから、その人がやって欲しいと思うことをやってあげるしかない。 》
具体的な言葉はきちんと覚えていないが、大体上記のような趣旨のことを述べたと記憶している。それを聞いて私は先日「中道とはなにか」という記事で取り上げたはるな愛さんの言葉と同じことを述べていると思ったのである。いわゆる「障害者」とか「健常者」あるいは「性同一障害者」というような人は実はどこにもいないのである。「障害者」というのは社会を運営していくうえでの便宜つまり方便としての言葉でしかない。ブルース・リーが、中国人かアメリカ人かと問われて「私は何人でもない」と答えたのも同じことである。「中国人」も「アメリカ人」も本当は存在しない、それは便宜上の言葉でしかないのである。華厳的に表現すれば「中国人は中国人に非ず、これを中国人と言う。」ということである。東洋的空の思想とはそういうことである。
「障害者にはどのようにしてあげればよいか?」と問う人はもちろん善意で尋ねているのである。しかし、言葉によって規定される「正解」は実は存在しない。目の前の人がどのような人であれ、その人が望むことをその都度察してあげるのが正しいというしかない。どのようなことであれ、それに従っていれば間違いないという「正解」に安住することは出来ないというのが中道ということである。分断は固定的な「正解」にすがるところから生まれるのである。私たちはどんな場合にも特定のイデオロギーに頼るのではなく、ニュートラルな立場で柔軟にものごとに対処しなくてはならない。それが「水になる」ということではないかと私は考えるのである。
※ NHKの「映像の世紀」はなかなか見ごたえのある番組だと思います。ジャズピアニストの加古隆作曲によるテーマ曲「パリは燃えているか」も素晴らしい。
上の写真はシアトルのキャピトル・ヒル地区にあるレイクビュー墓地である。左の赤い墓がブルース・リーのもので、右の黒い方は息子のブランドン・リーのものである。これは余談だが、約6年前に妻とともにここを訪れたのだが、今日この記事を書いている時に妻がこの写真を見て、「確かそれはジャッキーチェンのお墓よね。」とのたもうた。確かに「ブルース・リーのお墓へ行こう。」と言いながら訪れたはずなのだが、嗚呼、妻の記憶は6年間の内にブルース・リーがジャッキー・チェンにすり替わっていたのである。というか、どうやら両者の区別を知らないらしい。