最近、あるテレビドラマでこのフレーズが取り上げられたそうで、インターネット上でも議論が活発になってきたようだ。
このような問題を考えるうえで大事なことは、「‥してはいけない」という時のの「いけない」という言葉が何を意味するかということを分かっていなければならないということだと思う。そのことが分かっていないと、自分で質問を発しながら何を問うているかわからないということになってしまう。議論の方向性も定まらないということになるのである。
子 「お母ちゃん、なんで人殺したらあかんの?」
母 「あんた、自分が殺されたらいややろ。」
子 「うん。」
母 「自分がされたらいやなことは、やったらあかんのや。」
子 「ほなら、もし自分が殺されてもええと言う人は、人殺してもええんか?」
母 「分からん子ぉやなぁ。お母ちゃんがあかんちゅうたらあかんのや。あほ。」
子 「‥‥。」
「‥してはいけない」というのを私に対する規制であるとすれば、何が私を規制するのかということを考えねばならない。小さな子供ならそれは母親である。母親が「それをしてはいけません」ということがしてはいけないことなのである。驚くべきことだが、たいていの人はこの状態を大人になるまで引きずっていくのである。
で、ある時ふと気づくのである。「お母ちゃんの言っていたことの根拠ってなんだろう?」 法律なんかにしてもせんじ詰めれば約束事に過ぎないし、もしかしたら何でも許されているのではないだろうか? そんな思いが頭をよぎるようになる。
ライオンが人をかみ殺したとしても、そのライオンのことを悪いライオンだと言う人はいない。死刑になっても構わないからとにかく人を殺したい、そんな人と人食いライオンとどれほどの差があるのだろうか。そのような思いが、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と言わせるのだろう。
「罪と罰」のラスコーリニコフは、良い目的のためなら強欲な高利貸の老婆を殺してもよいと考えた。自分の行為を規制するものはない、それは「許されている」と彼は考え、そして老婆を殺してしまったのである。しかし結局彼は「許されて」はいなかった。許さなかったのは彼自身である。犯行後、彼は思いもよらなかった良心の呵責に激しく責めさいなまれたのである。
善悪の基準の源泉というものはいろいろと考えられるがたいていのものは相対化できる。究極の倫理というものがあるとすれば、それは自分自身の中にあると言うしかないと私は思うのである。
「自分自身の中」などというと、貴方は「それはしつけや教育によって後天的に仕込まれたものではないのか?」と疑問に思うかもしれない。しかし、世界中のどんな社会にも共通の禁忌が普遍的にあるということは、アプリオリな規制というものがありうるということではないかと私は考えるのである。
殺人のように社会からの規制が厳しい行為については社会通念に邪魔されて、なかなか自由にその行為について自己点検することはむずかしい。なのでまずは、近親相姦について考えてみよう。兄と妹、あるいは母と息子の性交は一般にいけないこととされている。だが、法的に結婚することは認められないものの、性行為に対してなんら法律的な罰則規定があるわけではない。お互いに欲求があれば、それを阻む障害はほとんどない。ここは想像による推測でしかないのであるが、そういう事例は極めて少ないのではないだろうか。明らかにそれを忌避させる力が働いている。そういう意味(あくまで「そういう意味」においてである)で、近親相姦は「いけない」ことと言ってもよいのではないだろうか。
近親相姦を「忌避させる」たぐいの力が殺人についても働くだろうということの蓋然性はある。おそらく無意識下にその力を感じているのだろう、しかしそのことを納得させる理論がない。その不安が「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに表れているのだと私は考える。
必然の王国の奴隷である現代人は何についても「なぜ?」と問う。理由がないと安心できないのだ。しかし、究極の倫理というものの源泉が自分自身であるならば、人を殺してはいけないことの理由などない。それを問う前に、自分がいかなる存在者であるかということを知るべきなのだ。
そのような視点に立つと、お母ちゃんの「あかんもんはあかんのや。」という一見理不尽な理屈も意外と正当性帯びて見えるのである。