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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

なぜ人を殺してはいけないのか?

2015-02-28 18:17:22 | 哲学

最近、あるテレビドラマでこのフレーズが取り上げられたそうで、インターネット上でも議論が活発になってきたようだ。

このような問題を考えるうえで大事なことは、「‥してはいけない」という時のの「いけない」という言葉が何を意味するかということを分かっていなければならないということだと思う。そのことが分かっていないと、自分で質問を発しながら何を問うているかわからないということになってしまう。議論の方向性も定まらないということになるのである。

子 「お母ちゃん、なんで人殺したらあかんの?」
母 「あんた、自分が殺されたらいややろ。」
子 「うん。」
母 「自分がされたらいやなことは、やったらあかんのや。」
子 「ほなら、もし自分が殺されてもええと言う人は、人殺してもええんか?」
母 「分からん子ぉやなぁ。お母ちゃんがあかんちゅうたらあかんのや。あほ。」
子 「‥‥。」

「‥してはいけない」というのを私に対する規制であるとすれば、何が私を規制するのかということを考えねばならない。小さな子供ならそれは母親である。母親が「それをしてはいけません」ということがしてはいけないことなのである。驚くべきことだが、たいていの人はこの状態を大人になるまで引きずっていくのである。

で、ある時ふと気づくのである。「お母ちゃんの言っていたことの根拠ってなんだろう?」  法律なんかにしてもせんじ詰めれば約束事に過ぎないし、もしかしたら何でも許されているのではないだろうか? そんな思いが頭をよぎるようになる。

ライオンが人をかみ殺したとしても、そのライオンのことを悪いライオンだと言う人はいない。死刑になっても構わないからとにかく人を殺したい、そんな人と人食いライオンとどれほどの差があるのだろうか。そのような思いが、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と言わせるのだろう。

「罪と罰」のラスコーリニコフは、良い目的のためなら強欲な高利貸の老婆を殺してもよいと考えた。自分の行為を規制するものはない、それは「許されている」と彼は考え、そして老婆を殺してしまったのである。しかし結局彼は「許されて」はいなかった。許さなかったのは彼自身である。犯行後、彼は思いもよらなかった良心の呵責に激しく責めさいなまれたのである。

善悪の基準の源泉というものはいろいろと考えられるがたいていのものは相対化できる。究極の倫理というものがあるとすれば、それは自分自身の中にあると言うしかないと私は思うのである。

「自分自身の中」などというと、貴方は「それはしつけや教育によって後天的に仕込まれたものではないのか?」と疑問に思うかもしれない。しかし、世界中のどんな社会にも共通の禁忌が普遍的にあるということは、アプリオリな規制というものがありうるということではないかと私は考えるのである。

殺人のように社会からの規制が厳しい行為については社会通念に邪魔されて、なかなか自由にその行為について自己点検することはむずかしい。なのでまずは、近親相姦について考えてみよう。兄と妹、あるいは母と息子の性交は一般にいけないこととされている。だが、法的に結婚することは認められないものの、性行為に対してなんら法律的な罰則規定があるわけではない。お互いに欲求があれば、それを阻む障害はほとんどない。ここは想像による推測でしかないのであるが、そういう事例は極めて少ないのではないだろうか。明らかにそれを忌避させる力が働いている。そういう意味(あくまで「そういう意味」においてである)で、近親相姦は「いけない」ことと言ってもよいのではないだろうか。

近親相姦を「忌避させる」たぐいの力が殺人についても働くだろうということの蓋然性はある。おそらく無意識下にその力を感じているのだろう、しかしそのことを納得させる理論がない。その不安が「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに表れているのだと私は考える。

必然の王国の奴隷である現代人は何についても「なぜ?」と問う。理由がないと安心できないのだ。しかし、究極の倫理というものの源泉が自分自身であるならば、人を殺してはいけないことの理由などない。それを問う前に、自分がいかなる存在者であるかということを知るべきなのだ。

そのような視点に立つと、お母ちゃんの「あかんもんはあかんのや。」という一見理不尽な理屈も意外と正当性帯びて見えるのである。

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人は何のために生きるのか?

2015-02-22 11:48:59 | 哲学

もう半世紀も前のことだが、山田無文老師が講演の中で次のように語っていたのを覚えている。

   「人は何のために生まれてきたのか? それは遊ぶためじゃ。」

その頃の私は、老師が何を言っているのか全く分からなかった。それで話の内容も全然覚えていない。ただ、老師の意表をつくような「遊ぶため」という言葉だけが印象に残っているのである。

ほぼ同じころのことだが、私は夏休みに紀州興国寺を訪れ修行の真似事をしていた。ある日、そこの師家である弧峰軒目黒絶海老師に茶飲み話に誘われた。その席で、「老師さんは嫁はんももらわんと毎日坐禅ばっかりで、そんなんは面白ないんとちやうの?」と訊ねてみた。今から思えば冷や汗ものだが、天下の師家に対してタメ口である。「老大師様」とお呼びすべきところを、私は「ろおっさん」と呼んでいた。

しかし、悟道の達人は田舎者の高校生の非礼など全然問題にしない。破顔一笑して、「面白くって、面白くって、しかたがないねぇ。」と答えたのである。何がそんなにおもしろいのか、その時の私には全然わからなかった。だが、参禅の際にはそびえたつ不動の山のように見えた老師が、相好を崩して子供のような笑顔で答えられたのが今でも頭にこびりついている。

後になって、無文老師の言葉は梁塵秘抄からの引用であったことが分かった。

   遊びをせんとや生れけむ、
   戯れせんとや生れけん、
   遊ぶ子供の声きけば、
   我が身さえこそ動がるれ。

長い間両師家の言葉の意味が分からなかった私であるが、この歳になってみて少しわかるような気がしてきた。子供が遊ぶとき、実は自分が遊んでいるということさえ忘れて遊んでいる。ただ状況に全身全霊で応じている、それが子供の遊びである。

僧堂の生活は坐禅、読経、作務の繰り返しで、息つく間もないほど忙しい。ぼけっとしている暇などないのである。初めは追い立てられるような毎日だが、そのうち一つ一つの行事に没頭するようになる。没頭してみて初めてそこに自分の主体性が自由になっていることに気がつくのである。それが「遊ぶ」ということ「面白い」ということの真意なのであろうと思い至るようになった。

「人は何のために生きるのか?」という設問は、正面から問うにはあまりにも抽象的すぎる問である。地に足がついている問とは言えないのだ。人は何かのために生きるのではない、なにかをすること自体が生きることなのである。以前引用したことがあるフランクルの言葉を再度取り上げてみたい。

<< もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることに他ならない。 >>(P.129 フランクル著「夜と霧」 池田香代子訳-みすず書房)

我々は人生に対し問う立場にはない、われわれが人生から問われているのである。人生からの要請に対し、具体的に悩み具体的に行動する。それが主体的に生きるということに他ならない。

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