「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」というのは哲学愛好家の間ではよく知られた問題である。ウィキペディアによる17世紀の哲学者ライプニッツによって定式化されたとある。ライプニッツはその解を結局神に求めた。あらゆることの原因の源を神であるとしたのである。
少し考えればわかることであるが、これは全然解答にはなっていない。神様がこの世界を創ったのは良いとしても、その神さまはどこから来たのかという疑問が残る。もちろんライプニッツもそのことはよく認識していて、その神さまの定義を我々の想像を超えたものだとしたのである。つまり、なにがなんでも存在する必然的存在者であるとした。
ライプニッツには悪いが、「なにがなんでも存在する必然的存在者」として言葉の上で解決しただけのことで、要するにわれわれには「よく分からない」と言っているだけのことでしかない。
「なぜ何もないのではなく‥‥」と問いたくなるのは、何も無いという状態がニュートラルで、何かがあるというのは特別である、と考えたがる傾向が私達にはあるということなのだろう。ま、確かに何もなければこのような問いが立ち上がるはずもないのであるが、私達には「何もない」ということが果たして想像できるだろうか?私たちは「何もない」ということの意味を実は分っていない。私の眼前に世界がこのように展開されていることこそ実はニュートラルなのではないかと私は思う。禅仏教では「恁麼(いんも)」という言葉をよく使う。「世界がこのようである」ことをすんなり受け止める、そういう意味であると私は考えている。
論理学の言葉で「無矛盾律」というのがある。「Aであることと、Aでないこととは同時には成り立たない」という法則である。「私は人間であると同時に人間ではない」という表現は文学的には有りかもしれないが、厳密な論理の上ではありえない。「背反することがらが同時には成立しない」というのが無矛盾律である。私たちの思考の中で、これは正しいとか間違っているという判断の中には必ず無矛盾律が働いている。
私達は無矛盾律を言わば無意識のうちに使用しているのであるが、その無矛盾率の正しさというものを問えないのである。つまり、根拠なしにものごとの正しさを判定しているということになる。無矛盾率の正しさというものは証明できない。もし、無矛盾律の証明しようとしてもその正しさの判定のためには無矛盾律を使用しなくてはならない。論理的に正しいというのは無矛盾律に適っているという意味であり、間違っているというのは適っていないという意味だからである。
根源的なことに対しては、もうそれ以上問うことはできないのである。
(あがたの森 1974年)