生まれたての赤ん坊はものを見ることができないと言われている。視力がないという意味ではなく、見えているものを認識することができないという意味である。パパやママが盛んに赤ん坊の顔を覗き込んでも、赤ん坊の側からは何かがうごめいているとしか見えない。ママの顔の輪郭線の内側と外側の区別もつけることができないのである。心理学的には、「ゲシュタルトが構成できない」という状態にあるらしい。このことから分かることは、混沌の中からゲシュタルトを見出すには何らかの経験が必要だということである。
上の図はいわゆる「アヒルウサギ」と言われているものだが、見ようによってアヒルに見えたりウサギに見えたりする。しかし、アヒルとして見る時はウサギは見えなくて、ウサギとして見る時はアヒルを見ることはできない。このことから判断して、赤ん坊でない私たちは、ものを見る時は常にそれを「~として」見ようとしていることが分かる。
析空観という言葉をウィキペディアで調べてみると、「ものの在り方を分析して、実体と呼べるもの、いつまでも変らずに存在するものが、ものの中に無いことを観ていくこと」とある。例えば、机と言うものに着目してみると、その脚を外してみると単なる板と棒になってしまう。何も減じていないのに、机そのものは存在しない。よくよく考えてみれば、机というものも私たちの都合に合わせて、机を「机として」見ていることが理解できる。シロアリから見れば、それが机の形をしていようとばらばらの木材であろうと、同じ食糧であることには変わりないのである。
析空観に対して体空観という言葉がある。それは心理学的に言えばゲシュタルト崩壊ということになるだろう。机も山も川もそれら独自のものとしての相貌が失われるとき、概念の本質というものが実は存在しない、ということを覚るのである。いわゆる無分別とか無差別相という境地である。
もちろん、私たちは無分別のまま生きていくことはできない。しかし、アヒルウサギの例でも分かるように、絶対的に正しい分別というものはあり得ない、分別には必ずなんらかの恣意的視点が伴っていることをわきまえておかねばならない。世の中のトラブルの大半はその恣意的視点のずれから生じるのである。