怒りや憎しみといった否定的な感情を含めて、望むままの感情を感じられる方が幸福度が高い――。英国やイスラエルなどの研究者たちが共同で実施した研究で、こうした結果が出た。 米国、ブラジル、中国、ドイツ、ガーナ、イスラエル、ポーランド、シンガポールの大学生2300人を対象にした研究は、「ただ喜びを感じ、苦痛を避けること」が幸せではないことが示された。
現代のトラウマ研究の第一人者である、ベッセル・ヴァン・デア・コークが、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で書いている次の説明は、いささか衝撃的かもしれません。 セラピストは、話すことにはトラウマを解決する力があると考え、その力に絶対的な信頼を置いている。…残念ながら、事はそれほど単純ではない。(p379) 私たちの研究における最も重要な発見は、次の事実かもしれない。 1893年のブロイアーとフロイトの主張とは裏腹に、トラウマを、それと結びついた感情のいっさいとともに思い出しても、必ずしもトラウマは解消しないのだ。 私たちの研究は、言語が行動の代わりになりうるという考え方を支持しなかった。(p321) ハーバード大学のジョン・レイティは、GO WILD 野生の体を取り戻せ! 科学が教えるトレイルラン、低炭水化物食、マインドフルネスの中で、ヴァン・デア・コー
DIDの治療に除反応がある。簡単に言えば記憶を取り出して整理することだ。 その夜わたしは17歳だった。父は酷く酔っていた。父は手には包丁を持っていた。父がわたしを追い回す。抵抗していたはずのわたしは一転父に向かって殺るなら殺れと言う。父は殺しはしない顔を少し切るだけだと言った。お前の顔はよくない顔だと父が笑う。蘇る記憶。父に顔に刃物を突きつけられた瞬間の記憶は鮮明なものだ。 ひとたび始まった除反応は止められない。脳の蓋はある時開いて、そうして封印しておいたはずの記憶の場面をランダムに再生し始める。除反応は当事者にとってただただ厳しい。 診断されて治療が始まった年である西暦2000年をわたしにとってのDID元年とするならB.C.DIDでは人格交代と身体の不調はあったが除反応は無かった。除反応がわたしの生活を乱しはじめたのはA.D.DID、つまり精神科治療が始まってからである。 ある夜高校生の
Acceptance and commitment therapy (ACT, typically pronounced as the word "act") is a form of psychotherapy, as well as a branch of clinical behavior analysis.[1] It is an empirically based psychological intervention that uses acceptance and mindfulness strategies[2] along with commitment and behavior-change strategies to increase psychological flexibility. This approach was first called comprehens
日本アドラー心理学会が、現在放送中のフジテレビ系ドラマ「嫌われる勇気」に対する抗議文をホームページに掲出。ドラマの内容に対して問題点を指摘し、放映の中止または脚本の見直しを求めていたことがわかりました。 フジテレビ「嫌われる勇気」(公式サイトより) 同ドラマは、アドラー心理学の思想を物語形式で描いた書籍「嫌われる勇気 自己啓発の源流『アドラー』の教え」を原作とする作品。ただし本編では、香里奈さん演じるアドラー心理学を体現する刑事・庵堂蘭子が主人公の“刑事ドラマ”として大きくアレンジされています。 日本アドラー心理学会はフジテレビに対し「貴番組のアドラー心理学理解は日本及び世界のアドラー心理学における一般的な理解とはかなり異なっているように思えます」と所見を述べ、その内容が普及宣伝されるのは同心理学の啓発・普及に対して大きな妨げになるとしています。 掲出された抗議文 日本アドラー心理学会ホー
「積ん読」という言葉は英語にはないらしいという話題を先日見かけ、いや、英米人でも、未読の本を積んでおくことはあるだろうと思い、いやいや、「積ん読」というのはあれで、未読でもない、一種の読書形態なんだよなと思い返し、そして、そういえば、と積ん読山から既読山に目を移して、『セラピスト(最相葉月)』(参照)を見かけ、うーんと呻ってしばし。 何を思ったかというと、ブログに書こうかと思いつつ、まだ書いてないのだった。こういう本はなんというのだろか。「未ブログ読」だろうか。 『セラピスト(最相葉月)』は、「心の病」に現代日本人が向き合うとき、向き合われる側――それがつまり「セラピスト」――はどのようにノンフィクション的に描くことができるだろうか、という本である。まあ、とりあえずそう言ってよいだろ。本の概要にも「心の病いは、どのように治るのか。『絶対音感』『星新一』の著者が問う、心の治療の在り方。うつ病
[書評] スーパーヴィジョンのパワーゲーム ―― 心理療法家訓練における影響力,カルト,洗脳 (リチャード・ローボルト) 社会に読まれるべき内容でありながら、専門書ゆえに読みづらいという書籍がある。あるいはすべての専門書が本来はそうであるのかもしれない。そこで社会と専門書の間を取り持つような本、あるいは本のようなものが必要となり、書かれることがある。 専門書の著者に新書のような体裁で執筆することを編集者が頼むことが多いだろう。そしてそれらのいくつかは成功するが、多数は失敗する。と、もったいぶった言い方をしたが、「まあ、それはそういうものだ」ということでしかない。だが、起点にあった「社会に読まれるべき内容」はどうなるのか。取り残されてよいわけはない。本書を読みながら、この内容は実は「社会に読まれるべき内容」なのだという思いが、先見的な失敗を予想するとき、たとえば読者としての私は、さて、何を言
1.フロイトの扱いが不当だ アドラー派にかぎらず、たいてい「新しい」ことを標榜する心理療法などは(アドラーは新しくないけど)、「精神分析は」「フロイトは」「トラウマ原因論は」などという主語を使って、「仮想敵」をでっち上げるのものだけど、この本でも同じような論述テクニックが使われている(テクニックというか詐術だけど)。 とうぜんながら、この本で「原因論」として棄却されている「フロイト的原因論」は、フロイト派の精神分析とはなんの関係もない。 フロイト派は明確にトラウマ説を否定しており、そのせいで「出生外傷」をとなえたオットー・ランクのような有能な精神分析家はフロイト派を破門されている。 フロイト自身は、ランクの説を、「けっこう、いいんじゃね?」って思ってたんだけど、周囲の反論が激しかったから、しぶしぶ破門せざるをえなかったらしいけれど。 ちなみにぼくは、フロイト、ラカンに次いで、オットー・ラン
承認欲求は貢献感を得るための手段だが承認欲求を通じて得られる貢献感には自由がない 最近読んで非常に感銘を受けた本、『嫌われる勇気』より。 嫌われる勇気 作者: 岸見一郎,古賀史健 出版社/メーカー: ダイヤモンド社 発売日: 2013/12/16 メディア: Kindle版 この商品を含むブログ (2件) を見る 悟りを開いたかのような哲学者と切れやすい学生との対話形式で、アドラー心理学の教えが説いてあるこの本。なんでこの学生はこんなに切れやすいんだ、いくらなんでも甘え過ぎなんじゃないのかと途中で説教したくなるものの、それはさておき対人関係においてこういう心持ちでいれば楽に生きられますよ、ということが分かりやすく書いてある。人に好かれようが嫌われようがありのままの自己を受容すること、自分を嫌いになるか好きになるかは相手の課題だから自分は一切そこに執着しないこと、また自己受容には社会に対する
http://anond.hatelabo.jp/20140406172155 俺の使っているタームの一部を紹介すると、 ■アクロス・ザ・ユニバース 電車から降りてくる人の流れに逆らって、人混みを斜めに横断すること。 なるべくならこのような状況に陥りたくないが、タイミングによっては仕方なくこうなる。 ■トレイル 上記のような状況で、自分と同じ進行方向の人が先に人をかき分けて進んでいるときがある。 その後ろにできた「トレイル」を素早くたどれば、誰にもぶつからずに通り抜けることができる。 ■ザ・ワン 電車内で立っているとき、目の前の席が空けば、そこに座ることができる。 そこに座っていた人は、あとからそこに座る人の「ザ・ワン」である。 つまり、「自分のザ・ワン」を探しだして、その前に立つことにより、時が来たときには座ることができるのだ。 ■ポール・ポジション ドア脇に立ち続ける、悪名高いアレ。
自己肯定感について言及したブログを読みました。 母親の呪縛~自己肯定できない女達 - ぼくら社Blog (id:bokurasha) 自己肯定感ってどうやったら上がるの? 親に愛されてきた人が語る決定的に間違った毒親との関係 何をやっても劣等感がすごいんだ。 暗いので、こじらせてる感じが好きな人以外は読まないほうがいい記事…。 - おおきくなりたくありません 最近、日経ウーマンですら「褒め日記で自己肯定感UP!」といった特集を毎号やっているくらいで、最近の流行なんでしょうか。 ひどく複雑で、苦しい気持ちを抱えて生きている人がたくさんいるんだと思いました。 私は母とはほぼ絶縁しています。 メールや電話を拒否している訳ではありませんが、基本的には家族としても、金銭的にも一切交流しないということで合意ができています。 父は私が中学生のときに一方的に出て行ったため、いません。弟とは年に数回細々とメ
http://bokurasha.hatenablog.com/entry/2014/04/01/115953 受けた寂しさの、程度の差は相当あるけれど、 それでも私たちはそろそろ、母親を許しませんか? 母親から完全に離れて、一人の女性として見てあげませんか? 母親たちもまた、そのまた母親達と全く違う時代に生き、 私達と同じようにモデルケース不在の中、 手探りで、戸惑いなら、幸せを模索してきた女のひとり。 私達と同じ、「幸せ探し」に迷走した女のひとりです。 私たちはもう大人で、愛し愛される対象を自分で探すことができる。 勇気をもって母親の面影を優しく手放してあげましょうよ。 それが 「自己肯定」へのはじめの一歩であり、 「自分自身の人生」を生きることだと私は思います ※とりあえず改行うざいので若干詰めました。文字・文章等はいじってません。 結構ひどい母娘関係から脱出して今に至るんだが、これ
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