東アフリカで唐代の貨幣が出土していることから、この時期には既に東アフリカまでの航路があったと考えられている。宋代から元代にかけて、中国商人たちは東南アジア、南アジアの諸都市で活発な交易を行っていたが、明を建てた洪武帝は洪武4年(1371年)に「海禁令」を出し、外洋船の建造と民間船舶による他国との通商を禁じた[5]。この海禁令は明を通じて守られ、これは永楽年間においても例外ではなかった。一方で永楽帝は洪武年間の消極的な対外政策の間隙を縫って、皇帝の座を奪取した悪名の埋め合わせのため周辺諸国への積極的な使節の派遣を行っており、この一環として大船団を南海諸国に派遣し朝貢関係の樹立と示威を行う計画が浮上した。 鄭和の宝船の模型 鄭和の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)(中国語版)と呼ばれた。『明史』によれば長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)、8,000t、マスト9本であり、