はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です - はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。 はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて - はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記 はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28
日本で「ディベート」がどうも勘違いされている原因として、次のふたつがあるんじゃないかと思っております。 オウム真理教と上祐史浩氏 議論テクニックとしての狭義の「ディベート」という言葉が注目を浴びた最初のきっかけに、1995年当時、オウム真理教の広報部長として活動していた上祐史浩氏の存在があげられます。 「ああ言えば上祐」という言葉があったくらい、あらゆる批判に対し雄弁に反論する彼の姿がテレビ上などで繰り返し放映されていた。その彼のバックボーンに、学生時代のディベートにおける活動があり、その面が過剰にクローズアップされた結果、上祐氏が雄弁であることをディベートに紐付けられた。 「朝まで生テレビ」と田原総一朗氏 もうひとつが現在も放映されている「朝まで生テレビ」と、その代名詞的存在とも言える田原総一朗氏。 テレビ番組の中で、最もメジャーな討論番組ということもあり、「ディベート=討論・議論」とい
あんまりまとまってない。メモ的に。 議論というものはそもそも何なのかというと、何らかのテーマに関して知見を出し合って、そのテーマに沿った新たな結論・アイディア・あるいは新たな問題提起を導出する為に行うものだと思う。少なくとも私はそう思う。 然るに、議論における「勝ち負け」とは一体なんなのだろう。お互いが何らかの違う目的をもって、要するに相手に言うこと聞かせてやろうとして諤々やり合うのならそれは説得合戦であって議論ではないし、どちらかの意見が明らかに正しくてもう片方は単に分かってないだけならそれは教育と呼ぶべきだし、自分の意見は絶対正しい、改良の余地はないと確信しているならそもそも議論をする意味はない。 議論とは「自分の意見」「相手の意見」それぞれの不備、足りない点を検証する為のものだ。もしも自分の考えの不備を指摘され、それを受け入れることが「負け」だとするなら、極論すれば、議論というものは
(1)対象範囲の受け取られ方にブレがある。 極端な誤読例:一部の男が獣ならば全ての男は檻にいれられるべき? 「獣は檻に」が反論として成立するのは 自衛論者が「全ての男が獣」と明確に主張した場合か、 または獣を自称した場合に対してのみに限られます。 主張が「一部の男は獣」だった場合、「その一部の男は檻にいれられるべき」と返しても 獣認定の基準が犯行の有無であればそれは単なる刑罰であり意味を持ちません。 (2)「男は獣」の受け取られ方にブレがある 無意味な例:猿の惑星の人間の雄は獣だから檻にいれられるべき 3文字に略されているためかそのままの意味での仮定がみられますが、 本来は「(一部の)男性は獣のように自制心が欠けている」という主張であり 犯罪者であろうと人間が言葉も喋れない獣でないことは自明です。 人間に対して「自制心が足りないなら獣のように扱われるべき」が不当なのは子供などを例にするまで
例: 全ての男は獣などと言葉通りの意味での獣を自称するならば自ら檻に入るべきです。 獣が文字通りの意味ではなくても男性の責任は回避できませんし、被害者の責任を追求もできません。 一般に言われる自衛は意味がないことが研究で明らかになっています。 明確に有効であるという根拠もないのであれば 女性の行動制限や被害者の責任追及(いわゆるセカンドレイプ)につながりやすい言説は避けるべきです id:apesnotmonkeysさんがd:id:apesnotmonkeys:20091208:p1にて書かれたように「男が獣ならば獣は檻に」は皮肉です。 議論における皮肉は異なる視点をわかりやすく提供してくれますが、いくつか欠点も持っています。 (1)前提や雰囲気の欠如などで皮肉として伝わらないことがある。 (2)比喩表現や簡潔さ故に誤った解釈をされやすい 故に、皮肉で議論が解決するのは問題がシンプルかつ致命
id:sanamさんにレスをいただいたので、返信します。 自分が「男は獣」に対して「去勢しろ」と返すとしたら、「人の中で(人を襲う事に悦びを見出だし実行するような)獣として生きるなら相応のリスクを覚悟しろ。悪意や欲望全開で他人を襲うような奴が野放しで良い訳ないだろつーか開き直んな」という意味で使う。 「男」や「獣」の美味しいとこ取りしようって魂胆が見え見えなんだよと。 http://d.hatena.ne.jp/sanam/20091215 たぶん、これがあたしの問いに対する返答ですね。 美味しいとこどりってゆうのは…やめといたほうが…(小声で)。 どうもありがとうございます。あなたの意図はよくわかりましたし、あなたが一番誠実にあたしに答えてくださったと思います。 以降、いくつか指摘された点について、書きます。レスはいりません。 「男は獣」をまず批判すべきだとゆうご指摘について 「男は獣(
「何でそう思うんだ」 「みんながそう思っているからです」 「僕にはそう読めたからです」 こういう論理的思考の苦手な小学生は実在する。これでは困るので根拠を問われれば具体的に論拠を出すように指導する。自分の感じたことがそのまま結論になるのは、論理的な思考ができないことを示している。作文を課する中学校はそういうところをみている、はずである。しかし実際の作文教室などの添削をみているとひどいもので、「私はこう思いました。だからこうです」というのが見逃されている。それどころか自分がそう思ったことをそうだと無根拠に結論に持ってきても「素直に自分の言いたいことが書けました」と褒める。これではだめだ。これでは優劣はつかない。結局添削者の好みになってしまう。学校ならば教師の好みに合わせた作文を書けば点がいい、ということになる。 少し前の話だが、小レポートを課していた。ある留学生がレポートを持ってやってきた。
id:hokusyu氏やid:apesnotmonkeys(a.k.a id:Apeman)氏をはじめ、はてサ乃至サヨクと称される(自称する場合もあるけど)人々が、世に蔓延する差別や不公正を告発するようなエントリを上げると、そのコメント欄やブックマークで、わけのわからん誤解を勝手にした挙句、「そういうお前こそ差別主義者、自由の敵なんだ」と逆告発する輩が多すぎるのだが、これはどういうことだろう。はてサは、表現の自由に反対し、言論統制を主張したことになっている。党派的な利益・関心に基づいて、拉致被害者を誹謗中傷したことになっている。今回はロンブローゾも真っ青の予防拘禁論を主張したことにされてしまった。「獣は檻」「害獣駆除」というレトリックですら、「そういうレトリックを呑気に使えてしまうことが予防拘禁論に同調してるってことなんだよ!」と、真顔で言ってくる人がいる。ひょっとしたら、言ってる当人にと
http://d.hatena.ne.jp/workingmanisdead/20091205/1260039858 http://d.hatena.ne.jp/iteau/20091205/p2 なにが「誤読」か分からないそうで。 Aという主張はBを前提している。そしてBからは本来Cという結論が導かれるべきである。にもかかわらずCではなくAという主張がなされること自体が性差別である。 以上のような主張を行っているものに対して「Cを主張するお前は差別主義者」だの「Cを主張するお前は人権をわかってない」などと言い出すのが「誤読」にもとづく難癖でなくてなんだと? 「C」は「A」を主張する者がコミットしてしかるべき主張であって、「A」それ自体を批判している人間がコミットする必要もコミットするはずもない主張なんだから。 こういう誤読が出てくること自体、注目に値する現象でしょうね。 追記:「Cを主張
皆様、こんにちわ。地下猫です。 今日は英文法の【仮定法】のお勉強をいたしましょう。 例文1) If I were a bird, I could fly. 訳例1)「私が鳥ならば、飛べるのに」 仮定法とは、【事実と反すること】を述べるためのものです。内容の非現実性をあらわすために時制を操作する一種のレトリックであり、必ずしもIFの文ではありません。 ここでは、【事実と反する前提】から【事実と異なる結論】が導かれていますね。ここで実際に言われている内容を仮定法を使わずに、つまり事実に即して書くと 例文2)Because I am not a bird, I cannot fly. 訳例2)「私は鳥でないので、飛べない」 となります。 よいこのために注意しておきますと、例文1では、「私は鳥だ」といっているわけでもないし、「私は飛べる」といっているわけでもありません。繰り返しますが、これは事実に
もしこれがヨルダンに旅行に行った旅行者が、犯罪に巻き込まれて被害者になった事件について 日本人の一人が「アラブ人は血に飢えた連中なのだから、そんなところに旅行するのが悪い」と述べたとします。 それに対し、「アラブ人が獣なら檻に入れておけ」と皮肉った場合、それを耳にしたアラブ人から猛反発を食らうでしょう。 というか、日本人ですら、私が書いているこの増田記事の時点で不快感を感じる方も多いと思います。 差別的な発言について、差別的なそれを前提にして返した場合、反発が起きるのは当然のことだと思います。 「男は獣」って言葉尻に反発する人たちも、こういう気持ちで書いている人が多いのかもしれません。 女の曽野綾子による勝手な強姦魔擁護論を男全体に敷衍された、と感じているのかも。 もちろん、「男は獣だから、自衛しない方が悪い」と男を人間扱いしない発言をするのはなぜか(そう、まさに”なぜか”)女性に限らない
http://d.hatena.ne.jp/Francesco3/20091129/1259458069 「強姦するのが男の性なら去勢するのが自己責任でしょ」と題名で書いておいて、「それは私の意見ではなく曽根綾子の意見だと言うことが分からなかったらアホ」というレトリックは、あまりにも内向き過ぎてお話にならない。 分かる人にだけ分かればいいというのなら、分からん人にどう読まれたいのか? これで理解するのは難しいぞ。
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