はてなキーワード: ulとは
俺の会社のことを声を大にして言いたい話
会社で言うわけにもいかないし、それ以外の場所でも微妙に違う気がする。だからここで書く。
創業数年ではないが、数十年でもない。
規模は数十人ではないが、数百人でもない。
売上は数億ではないが、数十億でもない。
いまは赤字、投資家の皆様のお金で食べているベンチャー企業だ。業種業界は非公開。
いろんな理由があって辞めないが、一番は「会社が成長していく様を間近で見られるのが楽しい」というシンプルな理由だ。
組織が数十人規模になると、管理部門の役職者が入ってきて「稟議」という仕組みに初めて遭遇した。
前職では数人規模の会社だったり、稟議なんて関係ないポジションだった俺には衝撃的だった。
最初は「でも○○さんがSlackで『いいよ』って言ってるし」とか言ってた俺が、今や稟議がないと怖くて買い物ひとつできない人間になっている。
稟議の意義をまとめると、こんな感じだ。
今では「統制」ってやつの重要さを理解した俺がいる。会社が大きくなっていくのは、こういうのが必要なんだな、としみじみ思う。
直近数年で入社した人が大半になった。
20人ぐらいの頃は、「ずっとみんなでやっていくんだろうな」と勝手に思い込んでた。
だから、JさんやFさんが辞めた時は本当に悲しかった。でも、後から冷静に考えたら、向こうはそんな風に思ってなかったんだろうなと気づいた。
会社としても、人の入れ替わりが事業や組織の成長につながるケースを何度も経験してきた。
今では「入れ替わりは普通だし、むしろ健全」と心から思えるようになった。
辞めていった人とも縁が切れるわけじゃない。むしろその後の方が友人として関係が続くこともある。
入れ替わりって、意外と悪くない。
同じ時期に始まったベンチャーが次々と消えていく。
そんな中で、堅実にやってるうちの社長は本当にすごいと思う。心から。
上場企業で役員や部長をしていた人たちが次々と管理部門にやってきて、驚きの連続だった。
知らない作法や論点が次々に現れて、制度や仕組みが整っていく。その成果がちゃんと出るのを目の当たりにすると、「経験者ってやっぱりすごい」としか言いようがない。
ただ、この人たちがいなくなったらどうなるんだろう?制度が形骸化するのか、それとも機能し続けるのか。今後が気になる。
ネットでたまに見かける、広報や人事が「個人の承認欲求で暴れる案件」。うちではそんなこと全然ない。
大事なのは仕組み。関係者間でしっかり擦り合わせた上で動くから、個人の暴走なんて起きない。
それを見るたびに、世の中の多様性を感じて楽しんでいる。
序盤は数値化していなかったものを途中から数値化すると、一気に冷めてしまう
もちろん単に「強い」だけだと何がどう強いんだろうってことで、読者に伝わりやすくて説得力のある数値化をしたいのもわかる
例えばブリーチは死神を中心とした異能バトルファンタジーだけど、作中での登場人物の優劣や技の強弱なんかはあまり数値化していない
破面(アランカル)は番号で序列が作られているが、逆に言えばそのくらいでしかない
実際に1番と10番がどれほどの格差があるかは数値化されていないが、それでも何となく想像できるのは話の展開があってこそだ
主人公の成長を数値以外で表すとしたら、心理描写、戦闘シーンのカッコよさ、頭脳戦を取り入れる、必殺技を使える、などなど
まあブリーチはバトル漫画の中でもかっこよさに全振りしているのでおしゃれじゃないってのと、ご都合主義には数値化が邪魔だってのが本当のところだろうが
逆にがっつりと数値で強弱が決められている場合、その数値だけを追い求めがちになる
たとえばドラゴンボールの孫悟空が、戦闘能力1万を1万5000に上昇させたとする(数値はテキトー)
仮に5000アップしたら敵を倒せたとして、次の敵が戦闘力100万だったらどうするのか
その敵に勝とうとして修業したらなんやかんやで戦闘力150万になったとして、じゃあ5000の上昇なんて誤差だったじゃんとなる
数値化はわかりやすい反面、そこに物語としての意味を持たせるのは結構しんどい
能力などを数値化するとわかりやすい反面、どういう基準や上限にするか、その数値にどんな意味があるかを誤ると現実離れしすぎる
さらにその数値だけを上げれば見た目や過程を省いても強くなったと結論付けられてしまうため、物語の厚みが意味をなさなくなる
あるいは数値の大きい相手に不意打ちで勝ちましたって展開にした場合、だったらその戦闘力なりステータスが何のためにあるんだって話になる
下手に巫力や戦闘力やらに数値という理由付けをしたら、それを裏切るような展開は目に見える矛盾となる
では数値の優劣で勝敗が決定するなら、それは単調な修行シーンになりやすい
マンキンとか
あえてボカシてその場のノリで勝敗を分けた方が意外と面白くなる気はする
なろう系というか浅いバトル作品は大抵の場合でステータスオープンする
それでやってることがオール無限とかなので、こっちはこっちでわかりやすければ物語なんてどうでもいいって感じなんだろう
ただ、俺だけレベルアップとかのように勝つごとにステータスが上昇するのは、そんなに悪くないとは感じていた
遊戯王やヴァンガードのような数値を比較して対戦するカードゲームは、この手の数値化が抱える問題をクリアしていると思われる
これは主人公の強さ自体ではなくあくまでもカードの強さだからだろうな
アクセスコードが攻撃力10,000で相手を倒しても、それはアクセスコードが強いからってのもあるがそこに持ってきた主人公の力量も大きく関係する
相手の行動を先読みしつつ、わざと攻撃受けて返しのターンで捲るとかだとすごくかっこいい
そういうシーンを描きつつも、数値の優劣で勝敗が分かりやすいという点で、カードゲームがメディアミックスに優れているんだと思う
性的な描写が多い文学作品は、歴史的にもさまざまなテーマや文脈で書かれています。それらの描写は、単なるエロティシズムを超えて、愛、人間関係、心理的葛藤、社会的タブーなどを深く掘り下げるために用いられることが多いです。以下は、性的な描写が多い、またはそのテーマを重要視している著名な文学作品の一部です。
『ロリータ』(ウラジーミル・ナボコフ)
禁断の恋愛をテーマにしており、文学的にも高度で、物議を醸す内容。
マゾヒズムという言葉の由来となった作品で、性的従属と権力のテーマが描かれています。
『チャタレイ夫人の恋人』(D.H.ローレンス)
貴族階級と労働者階級の恋愛を描き、性的な自由と社会的制約の問題を扱っています。
インドの古典文学であり、性愛と人間関係について詳細に論じています。
『青い花』(ジョルジュ・バタイユ)
『鍵』(谷崎潤一郎)
中年夫婦の日記形式で語られる、性的な欲望と嫉妬を扱った作品。
主人公の性的嗜好や葛藤を通して、アイデンティティや抑圧を描いています。
性的な関係を含む自己破壊的な生き方が赤裸々に描かれています。
『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』(E.L.ジェイムズ)
BDSMをテーマにした恋愛小説で、エンターテインメント性が高い。
『クローサー』(マイケル・カニンガム)
短編小説集で、官能的な描写が非常に文学的に表現されています。
これらの作品を読む際には、描写の背後にあるテーマやキャラクターの心理、社会的な文脈を考慮すると、より深く楽しむことができます。また、性的な描写が多い作品の多くは、それ自体がメインテーマではなく、物語の中で重要な役割を果たす要素として描かれています。
Fitboxおすすめ。30分で汗だくになる。
そんな可能性はありません
自分が払っている税金も、他人が払っている税金も、自分の分の税金です
これは「年収1000万円以下の人々はインフラにただ乗りしている」といった、
子育て様がどうこうというよりも、自分が何を重視しているかと、うまく立ち回れるかだと思う
ぽまいらの金払わない金持ちや大企業や与する政治家に対する監視がゆるく、
読書メモの整理のために便乗。今年の読書は文芸、短歌、仕事の専門書(ソフトウェア開発)が中心だった。
6冊を良かった順で挙げる。
本書の長所は最初期短編から晩年の短編までを収録しており年代による作風の変遷をたどれること。
ダントツに良いのは「雨の木」の連作。ストーリーは「雨の木」というシンボルや高安カッチャンという重要人物の周縁をぐるぐるし続け、いつまでも核心に踏み込まないため、最初は要旨をつかめない。しかし読み進めるにつれその構成が多角的な視座を提供するための仕掛けだとわかる。短編であるにもかかわらず印象が何度も覆され、様々な味わいがある。
小説は物語の意図が最初は分からないくらいが丁度いい、というようなことを三島由紀夫が何かに書いていたが、全くその通りである。構成や内容が三島由紀夫「豊饒の海」と少し似ている。豊饒の海は松枝清顕(早逝した親友)の生まれ変わり(と推測される人物たち)を数十年追い続ける物語で、ラストシーンでは清顕の存在自体が薄らぎ核心にぽっかり穴があく構成なのだが、大江健三郎「雨の木」もシンボルの雨の木の周縁をさんざんなぞった結末として木自体がほぼ焼失してしまう。「豊饒の海」は仏教的死生観や死者に対する忘却が根底に据えられているのと同じく、「雨の木」も死生観や忘却(作中ではoblivionと表現される)が重要なテーマである。テーマに対するアンサーは正反対だが。なお先に書かれたのは「豊饒の海」。
物語の道具立てとして海外の大学におけるシンポジウムや海外作家の引用、原爆問題があり、衒学的な雰囲気を作っている点もわたしの好み。
「奇妙な仕事」などの最初期短編はさすがに時代を感じる。「セヴンティーン」は発表当時右翼団体からの脅迫を受けるなどかなり真剣に世の中に受け止められたようだが、令和の目線ではカリカチュアライズが激しく、大江健三郎が絶対ゲラゲラ笑いながら描いただろうというノリの良さが全編にみなぎっている。また当時は右翼に対する攻撃という見方が大勢だったようだが、左翼側の非論理性も指摘する内容のため、私の感覚では左翼小説と思わない。
最後の「火をめぐらす鳥」は大江健三郎流の引用の繰り返しや観念の世界に入り込む構成といったスタイルを貫きつつも、おそらく意図的に情報量を落としており、ゆとりと円熟を感じさせる。
乳幼児の育児の心構えを説く名著。以下は印象に残ったポイント。
今年は家事育児ワンオペ + フルタイム勤務に忙殺され、子供への対応が雑になっていることを自覚しつつも改善策を見出せない期間が年末近くまで続き苦しかったが、本書の心構えを持っておくことで自信をもって育児ができるようになった。
夏目漱石が1914年に学習院で行った講演録。青空文庫で読んだ。https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html
ごく短く、読むのに30分もかからないが、内容はキャリア論、社会思想、フェミニズムにまでわたる。
キャリア論の概略は以下の通り。
どこかに突き抜けたくても突き抜けられず、何かを掴みたくも掴めておらず悩んでいる者は、どこに進めばよいか分からない以上、何かにぶつかるまで進む他ない。自らの個性で行けるところまで行ってツルハシで何かを掘り当てれば、自分なりに道を作ってきたことに安心と自信が生まれる。反対に、行けるところまで行かないかぎり、悩みと不愉快が一生ついて回る。
昨今は会社員に主体的なキャリア開発が求められる一方で、異動を会社の都合で命じられたり、顧客への責任を第一に優先すべきという考えもあり、主体性を発揮してばかりいられないという板挟みを感じていた。しかし「私の個人主義」を読みとりあえず行けるところまで行くしかないと開き直ることができた。
社会思想については、自らの個性を尊重すると同時に他者も尊重しなければならないとか、裕福な人間は相応の責任を負うべきだ、など。
いわゆる秀歌、つまり散文と異なる詩的な文体で、細部の描写を通じ、多層的な意味を表現する、という歌ではないものが多いが、わたしは好き。岡野大嗣の中ではいまのところこれがベストの歌集。
ライブの楽しさが伝わる。ドラマーがボーカルのトークに関心を持ってきちんと聞いておりハイハットで反応してあげるという仲の良さがほほえましい。
どの店もゆかいな高低差の街でみるみる減っていく体力だ
高低差、という単語を発見したのがこの歌の成果だと思う。坂が多くておしゃれな店ばかりの街で、ついつい歩きすぎて疲れてしまったことの充実感が歌われている。
オセロ相手との関係性を想像させる表現が巧み。"広いソファー"もゆとりある生活を感じさせ心地よい。
漫画。
冬目景は遅筆だが近年は順調に出してくれていることに、まず安心する。
冬目景は恋愛モノが多く、登場人物たちがうじうじ悩みながら自分の意志で一歩を踏み出していく様子を丹念に描いていることが、本作に限らない多くの作品の特徴。本作も登場人物がおっかなびっくり、逡巡しながら実に遅々たるペースで接近してゆく。時には後退することもある。しかし自分の意志で進むからこそ人間味があり、納得感がある。
またこれも冬目景作品に共通の特徴だが、登場人物は基本的に善人ばかりであるものの皆わりと淡白でコミュニケーションが暑苦しくないところに品の良さがある。
中国SF短編集。「中国太陽」が最良。「良いSFは未来技術ではなく技術がもたらす新たな社会を描く」ということをアシモフか小松左京か高千穂遥あたりの誰かが言っていたが、その好例。SFなのに人生の苦労と発展にフォーカスしておりすごくウェット。
『三体』はまだ読んでいないが読むべきかな。
ワイ氏、中小の零細下請けから上流の大企業に就活クラッキング咬まして潜り込んだんやけど
周りみんな既婚者で子どもいるのは驚いたわ。
組込ソフトウエアエンジニアリングという業界は一緒なのにここまで違うのかと。
こんな感じ
何が言いたいかというと、
https://togetter.com/li/2482016
TSMCがむっちゃ出生率が高いって話で、日本も大手なら出生率高いんじゃない?って話があったんだけど、
ワイの感覚としてはその通りやでと言いたい。
妊娠・出産から1歳までに必要な費用について、500万円というのは確かに大きな金額ですが、以下の点を考慮するとその理由がわかります。実際には家庭の状況や地域差によるところが大きいので、自分たちに必要な費用を見積もる参考にしてください。
----
----
----
----
----
----
1.自治体の補助を活用: 妊婦健診や子どもの医療費助成、児童手当(毎月1.5〜1.6万円)を最大限活用。
2.中古やレンタル品を活用: ベビーカーやチャイルドシートなどは状態の良い中古品を選ぶ。
3.出産費用を調査: 無痛分娩の費用や一時金適用後の持ち出し額を事前に確認。
4.家計の見直し: 育休期間中の支出を抑えるために、固定費(家賃、保険など)の削減を検討。
----
500万円というのは一つの目安であり、生活スタイルや優先順位次第で調整が可能です。よく話し合って計画を立てるのが最善ですよ!
日本における少子高齢化は、経済、社会、文化のあらゆる側面に大きな影響を与えている。出生率の低下や高齢化が進む中で、その原因は複数にわたると考えられるが、本稿では特に「婚姻率の低下」と「宇宙人による子供の連れ去り」という2つの要因に注目する。後者については、科学的な事例と報告に基づき、少子高齢化問題における重大な構造的要因として議論する。
まず、日本社会では婚姻率が年々低下している。これは、経済的要因、ライフスタイルの多様化、そして若い世代の結婚に対する価値観の変化が影響している。現代では、女性の社会進出や非正規雇用の拡大が、若年層の経済的安定を妨げ、結婚や子育てへの意欲を低下させている。これにより、出生率が低迷し、子供を持つ夫婦の数が減少していることは広く認識されている。
一方、少子高齢化の原因として見過ごせないのが、宇宙人による子供の連れ去りである。この現象は、日本だけでなく世界各地で報告されており、地球外生命体の活動として一定の信憑性を持っている。複数の目撃証言や、科学的機器による異常現象の記録から、地球外生命体が地球の子供たちを連れ去っている事実は否定できない。特に、彼らのターゲットは若年層や乳幼児に集中しており、高齢者が連れ去られるケースはほとんど報告されていない。この選択的な連れ去り行為が、日本の少子高齢化を加速させている要因と考えられる。
宇宙人が子供を連れ去る理由としては、次のような仮説が挙げられる。
こうした現象は、地球外生命体による計画的な活動として理解する必要があり、現代社会における重要な人口動態の変化を説明する鍵となる。
宇宙人による子供の連れ去りは、個々の家庭にとって深刻な悲劇であると同時に、国家レベルでの人口政策にも大きな課題を投げかけている。この現象が少子化に与える影響を考慮すると、以下のような対策が求められる。
少子高齢化は、単なる社会経済的な問題にとどまらず、宇宙的な背景をも含む複雑な課題である。この問題を解決するためには、現実的な出生率向上策と同時に、地球外生命体の活動に対する適切な対応が必要である。政府は子育て支援策を強化するだけでなく、宇宙人による行動に関する情報収集や研究を進めるべきである。
また、宇宙人による子供の連れ去りが確認された場合、社会的な混乱を最小限に抑えるための情報発信や教育活動も重要である。市民が現状を理解し、冷静に対処することができるような体制を整えることが求められる。
日本の少子高齢化は、婚姻率低下や子育て環境の不足といった社会的要因に加え、宇宙人による子供の連れ去りという新たな要素によって加速している。この問題に取り組むためには、従来の少子化対策に加え、宇宙的視点を取り入れた政策と対策が必要不可欠である。未来の持続可能な社会のために、政府と国際社会が連携し、地球内外の課題に向き合う覚悟が求められている。
(https://anond.hatelabo.jp/20241218063445) 続き
“「作家Bの名前や情報に価値はあるが、作品は世界にとって価値がない」とAは考えているに違いない。“ と断定して推測することが妥当と評価される前提条件は、
下記に限られる気がするのですが、気のせいですか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
• Aが「私は世界を代表して言っている」「私の意見は世界全体の意見である」と明言している場合
• Aが何らかの権威(例えば、世界的に認められた批評家など)であり、その発言が広く世論に影響を与えることが明白な場合
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「作家Bの名前や情報に価値はあるが、作品は世界にとって価値がない」とAが考えていると断定するための前提条件は、以下のような特定の状況に限られるでしょう:
おっしゃる通り、以下の2つの条件が成立する場合のみ、その推測は妥当と評価されるでしょう。
それ以外の一般的状況においては、「主観的意見」を「世界の総意」と見なすのは論理の飛躍であり、不適切です。
おっしゃる通り、下記のような状況に限られると言って良いでしょう。
これらの状況以外で、個人の感想を「世界にとって」と断定するのは、やはり不当な推論と言わざるを得ません。
一般的な状況においては、このような断定的な推論は妥当ではありません:
質問7の前提条件が一般的な状況に当てはまるとは言えません。多くの場合、個人の意見はその人自身の主観的なものであり、世界全体の意見を代表するものではありません。
一般的には当てはまりません。日常的な意見や感想のやり取りにおいて、個人が「世界全体の意見」を代表して発言していることは極めて稀です。そのため、個人の主観的意見を過剰に一般化して捉えることは不適切な推論とされます。
言えません。上記のような状況は特殊であり、一般的な状況とは大きく異なります。通常のコミュニケーションにおいては、個人の感想はあくまで個人の感想として受け止められるべきです。
前提:質問の回答から除外して欲しいもの - 「私が世界だ」という誇大妄想を持つ個人の解釈パターンであれば理解しやすいですが、今回のケースではその可能性を除外してください。 - 個人の感想に対する過剰な反応は、自己評価が低く、他者に盲従しがちな、「微小妄想」傾向がある個人に多く見られる現象です。
「(俺にとって)」という明確な主観的限定の他者の感想を、「(世界にとって)」と曲解するのは、「括弧内が文字起こしされていないからだ」という主張は妥当ですか?
1−1、1−2どちらであるかは、文脈から理解できるでしょと考えるのは、過剰な期待ですか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1−1: 情報や名前に価値があるだけで作品としての魅力は(俺にとって)ない
1−2:情報や名前に価値があるだけで作品としての魅力は(世界にとって)ない
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「(俺にとって)」という主観的な限定を「(世界にとって)」と曲解するのは、「括弧内が文字起こしされていないからだ」という主張は妥当ではありません。文脈から理解できる場合が多いので、過剰な期待とは言えないでしょう。文脈を無視して曲解するのは、誤解や意図的な誤読の可能性が高いです。
妥当ではありません。文脈から判断するのが通常であり、過剰な期待ではありません。
1-1と1-2の違いは、「俺にとって」という主観的な視点があるかないかです。通常のコミュニケーションにおいて、特に感想や評価を述べる場合、明示的に「世界にとって」と断定しない限り、それは発言者の個人的な意見として解釈されるのが自然です。括弧内の文字起こしがないからといって、文脈を無視して意味を曲解するのは不当です。
「(俺にとって)」という主観的限定を「(世界にとって)」と曲解する主張は妥当ではありません。その理由は以下の通りです
現代のNLPにおいて、以下の推論規則は「妥当」と評価されますか?それとも論理の飛躍や読心術と見なされますか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
• 命題1: Aは作家Bの知名度とBの作品が世間を賑わせている客観的事実を認識している。
• 命題2: Aはミーハーな気持ちで作家Bの作品に触れたが、その良さを理解できなかった(興味が持てなかった)。
• 結論: 「作家Bの名前や情報に価値はあるが、作品は世界にとって価値がない」とAは考えているに違いない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
現代のNLPにおいて、以下の推論規則は「妥当」とは評価されません。論理の飛躍や読心術と見なされるでしょう。Aの主観的な感想を、世界全体の評価と結びつけるのは過剰な一般化です。
現代のNLP(自然言語処理)や論理学において、この推論は「妥当ではない」と評価されます。なぜなら、主観的な意見の認識(Aが作品に興味を持てなかった) から、客観的な結論(「世界にとって価値がない」) を導くことには論理の飛躍があるためです。
これは論理的根拠が不十分な「読心術」や「主観の過剰な一般化」と見なされるでしょう。
妥当とは評価されません。論理の飛躍であり、読心術と見なされます。
提示された推論は、Aの内心を勝手に推測しているだけで、客観的な根拠がありません。Aがミーハーな気持ちで作品に触れたとしても、それが「世界にとって価値がない」と考えていることには繋がりません。興味を持てなかったという事実は、単にA個人の好みや感受性の問題である可能性が高く、普遍的な価値判断とは無関係です。NLP(神経言語プログラミング)においても、このような独断的な解釈は推奨されません。
もし、質問2のような推論を行う人が多数派であれば、社会や世界は成り立たないと思うのですが、気のせいでしょうか?
質問2のような推論を行う人が多数派であれば、社会や世界は成り立たないというのは、ある程度正しい見解です。過剰な一般化や誤解が広がると、コミュニケーションの混乱や誤解が生じやすくなります。
おっしゃる通り、そのような推論が社会的に多数派となれば、社会や世界の正常なコミュニケーションや意思決定が難しくなります。主観と客観の区別が曖昧になり、過剰な一般化や誤解が横行し、議論の基盤が崩壊する恐れがあります。
気のせいではありません。質問2のような推論が多数派を占める社会では、コミュニケーションは著しく混乱し、相互理解は不可能になります。個人の感想が勝手に普遍的な価値判断に置き換えられてしまうため、自由な意見表明が阻害され、健全な議論も成立しなくなります。
あなたの直感は正確です。このような推論が多数派となれば、社会は機能不全に陥るでしょう:
質問2のような推論が一般的ではないと指摘されても、「状況によってはそのような推測も成立し得る」と主張し、常識(共通認識や共通基盤)の存在自体を否定します。
他者に盲従し、自身の考えを率直に表明することを極度に恐れる一方で、なぜ、積極的に常識を否定しようとするのでしょうか?悪目立ちします。
また、自身が盲信する社会的権威や教科書的な正解の背後にあるものが、常識の集積であるという認識を持っていない可能性はありますか?
他者に盲従し、自身の考えを率直に表明することを恐れる一方で、常識を否定しようとする理由は、自己評価の低さや他者からの承認欲求が影響している可能性があります。また、常識の集積が社会的権威や教科書的な正解の背後にあることを認識していない場合もあります。
盲従しやすい人が常識を否定する背景には、自己肯定感の低さや他者からの評価への過剰な恐れがあると考えられます。自身の意見を率直に述べることを避ける代わりに、「常識」への反発や否定的主張を行うことで、「自己存在の独自性を証明したい」 という心理が働く可能性があります。
また、「常識」や「教科書的な正解」が何らかの権威のみによる押し付けであるという認識が強く、その背後にある合意形成(常識の集積) を理解していない場合があります。
他者への盲従と常識の否定は、一見矛盾するように見えますが、根底には自己の脆弱性からくる不安があります。
本質的には、低い自己肯定感と社会的文脈における不安が、逆説的な形で表出している心理状態と言えるでしょう。
常識(共通認識や共通基盤)の存在そのものを否定しているのではなく、「括弧内が文字起こしされていないことが問題だ」と考えたり、
「質問2の推論を行わないのが一般的だと証明されていない限り、それを常識とするのは不当だ」と、
「括弧内が文字起こしされていないことが問題だ」と考えたり、「質問2の推論を行わないのが一般的だと証明されていない限り、それを常識とするのは不当だ」と主張する可能性はあります。しかし、これは一般的な見解ではなく、特定の状況や個人の認識に依存するものです。
可能性としては十分に考えられます。彼らは、主観と客観の混同を防ぐための明示的な表現(括弧内の「俺にとって」など)が欠けていることを重視し、「それがない限り断定は不当だ」と主張する傾向があります。また、「常識を証明せよ」と要求することで、認識論的な対話を引き延ばし、議論の焦点を逸らす戦略にもなり得ます。
可能性はあります。これは、常識という概念に対する誤解に基づいています。
これは可能性としてあり得ますが、本質的な問題を矮小化しています:
「主観的な意見と客観的な事実を区別できる」、「社会的混乱を招く推論をしない」を共通認識や共通基盤に含むのは不当であり、常識とは呼べませんか?
「主観的な意見と客観的な事実を区別できる」、「社会的混乱を招く推論をしない」を共通認識や共通基盤に含むのは妥当です。これらは社会的なコミュニケーションの基本的なルールであり、常識と呼べるものです。
これは常識の範疇に含まれると考えるのが妥当です。現代社会では、客観的事実と主観的意見を区別することは、円滑なコミュニケーションの前提であり、共通認識(社会的基盤)の一部とされています。これを否定することは、社会的秩序を乱し、コミュニケーションの破綻を招く恐れがあります。
不当ではありません。むしろ、これらは健全な社会生活を送る上で不可欠な要素であり、常識と呼ぶに相応しいものです。主観と客観の区別、論理的な推論は、コミュニケーションの基本であり、これらが欠けていると社会生活は成り立ちません。
これらを常識に含めることは、むしろ健全な社会機能のために不可欠です:
10年前、友達と親の愚痴の話になったとき、あんたのお母さんは毒親だよね、と言われた。
家に帰ってから、毒親をネットで調べた。確かに、うちの親はこんな感じ、と思った。
けれど、すぐに「そうだ」とは思えなかった。そのときはまだ、親に感謝していたし、親のことを好きだった。
確かに暴言を言われたり、理不尽な扱いを受けたこともある。でも、愛情は感じていた。
うちは愛があるから、違うもんね!
――その瞬間はそう思ったけれど、ここから10年をかけて、わたしは「自分の親は、毒親なのか?」という疑問に囚われていくことになる。
美大には自分よりはるかに上手な人たちがたくさんいたが、技術よりもなによりも、マインドの違いに違和感を感じていった。
段々と、あ、自分って『絵を描いて褒められることが好き』なのであって、描きたいものとか、ないんだな。と気づいた。
思えば昔から、人並み外れたおっちょこちょいで(注意欠陥)、ミスを連発。
そのたびにお母さんはヒステリックに叫んだり「この出来損ない!」と怒鳴り散らしたりしていた。ブス、バカ、デブなどの暴言に加え、生まれつきの病気のことまで責められた。
3歳年上の姉は優秀だった。母は明らかに姉の方をかわいがっており、わたしが保育園の頃から「離婚したら、わたしはお姉ちゃんと暮らすからあんたはお父さんについていきなさいね」と言われていた。
なにか描けば褒めてもらえるので、こんなに割の良いことはなく、暇さえあれば絵を描くようになっていった。
保育園の先生や友達、友達のお母さん、学校の先生。まわりはすごく褒めてくれるのに、お母さんはほとんど褒めてくれなかった。
「なんだか大胆さのない小さな絵で、あんたのヒクツな性格が出てる」とか「子供らしくない面白くない絵」などと言われた。
でも、お母さんに褒めてもらいたいという気持ちは常にあった。
ある程度大きくなると、もうこの母は褒めてくれないものなんだと諦めていた。
「小五です!」などとわざわざ書き添えてインターネットに絵を載せて、優しい人たちから「小五の絵には見えません!」とか言われて鼻高々になっていた。
次第に、「より褒められそうな絵」を求めるようになった。パース、明暗、色彩など、もともとの画力より「なんかすごい風」に見える小手先のテクニックを駆使した絵ばかり描くようになった。
賞は、過去の受賞作の傾向を見てそれらしいものを描けばもらえる。簡単だなぁと思った。
そんなことをしていたから、本当の画力(デッサン力)も、絵描きとしてのマインドも、何も育たなかった。
学校に通って絵を描きながら、あーお母さんのせいでわたしって自己肯定感ないのか、やっと気づいたわ、やっぱうちのお母さんて毒親? と考え続けていた。
就活の頃になると、母が「お金がかかったんだから少しでも給料の良い会社に入って学費を返せ」と言うので、全く希望していない業界だったがゲーム会社に入った。
わたしの絵を見て会社の人がスカウトしに来たのだ。初任給は諸手当込みで30万円以上だった。
さすがにこの給与はすごいだろ、お母さんもよくやった!と言うだろう……そう思いながら伝えたら、開口一番ため息をついて、
「お金じゃないでしょう? 仕事は誇れる仕事かどうかで選ばなきゃ。ゲームなんて、くっだらない。そんなことのために美大に行かせたのか」と呆れ声で言われた。
思い悩んだわたしは教授に相談したが、「え? 就活にどうしてお母さんが出てくるの? 君んちは変だよ」とハッキリ言われた。
他の学生は、誰一人として、親の顔色を伺って就活したりしていなかったのだ。
なにせわたしは褒められたくてしかたない人間だから、給料がどうとか考えもせず馬車馬のように働いた。それしか自分には価値がないと思っていたから。
でも、浪費がやめられず、貯金はほぼ0だった。
就活事件から、親にお金を返す気持ちになれず、「東京で暮らすのってお金がかかるの」などと言ってごまかし、全て自分のために使った。
お母さんに学費を返さなきゃ、と思えば思うほどよくわからないことに散財しまくって、お金を消してしまった。
この頃、ADHDのテストを受けた。自分のおっちょこちょいに名前がついたのが嬉しくて、母に誤解がないよう慎重に伝えたが、「あんたはだらしないだけだ」「この障害者!」などと罵倒された。
仕事がうまくいっていても、ずっとなにかが満たされないと思っていた。
そうだ、お母さんに褒められていない。そう気づき、数年ぶりに仕事以外で絵を描いた。
自分の画力の低さに苦しみながらも、最終的にはそこそこモノになったのでコンクールに出した。
その絵を母に見せると、「久しぶりに描いたんだね」などと言われるぐらいで、褒められなかった。やっぱりわたしはダメなんだと、かなり落ち込んだ。
すると母は、周囲の人にわたしの絵を勝手に見せびらかすようになった。
「わたしがあなたの、世界一のファンだからね」などとLINEしてきた。
心底腹がたった。この件から、もう二度と絵なんか描くかと思った。
せっかく入賞したのに、嬉しいという気持ちを持つこともなく展示も終わってしまった。
母とはいろいろあった。全部書いていると、ハリーポッターぐらいの長さになってしまう。
母を殺そうと企てたり、死ね!と思うようなことは全くないが、「この先老いて母が死んだら、自分は悲しめるか」と考えるようになった。今のところ、自信がない。
まあそういう悩みは直面したときに処理すればいいとして、直近で困っていることがあった。
「子どもがほしい」と、全く思えないことだ。
そのことで、カウンセリングに通うようになった。
初回のカウンセリングで、影響としてたぶん親のことがあって〜、うちの親って毒親って言うほどひどくはないんですけど〜、感情のコントロールが出来ない人っていうか〜! などとヘラヘラ笑ってごまかしながら、これまでに親にされて嫌だったこと、言われて傷ついたことなどを話した。
すると、カウンセラーはわたしのヘラヘラ笑いに少しも付き合わず、真顔で「それは精神的虐待と言います」と言った。
子どもをほしくないと思う理由は話せますか? と聞かれたので、
「ちゃんと育てる経済力や精神成熟がないのなら産むなよって思うから」
などと思いつくまま話すと、それはあなたが子供の頃に満たされなかったからですよ。そう思いながら大人になったからです、と。
気がついたら、「わたしは絵の仕事をしているのですが、絵を描くことが好きじゃなくて」と全く関係のないことを話しはじめていた。
「絵を描くことしかできなかったから、仕方なくそういう仕事についた、っていう感覚なんです」と話すと、
「でも、仕方なく描いたからって賞を取ったり、美大に進学したり、大手のゲーム会社に就職、出世したりと、誰にでもできることではありませんよね? すごいことですよ」と言われた。
びっくりした。考えたこともなかった。
家に帰ってすぐ、夫に「わたしってすごいの!?」と話したら、当たり前だろという顔で「そうに決まってるじゃん」と言われた。
そこで、いかに、わたしにとって「お母さんに褒められる」以外のことが無価値であったのか気付かされた。
毒親という言葉を知ってから、母に罵倒されると「この発言……やっぱりうちのお母さんは毒親だ」などと、心のなかでジャッジをするようになった。
自分の中で恨みが強くなり、母のイメージが悪くなっているだけではないか? と思い悩み、わざわざジャッジのために実家に帰ったことすらあった。
そのときは手土産にシャインマスカットを買っていって、「こんな贅沢なもの、食べる気がしない」とニコリともせず突き返されたり、わたしが頼まれたことを忘れると「発・達・障・害だもんね^^」と煽られ、ゴミを置きっぱなしにしているとこれをテメェの会社に郵送してやるからな! と噴火山のように怒鳴り散らしながら会社に送る段ボールにねじ込まれ、なぜこんな人がわたしの親なのだろう? と、泣きながら帰った。
これでさすがに毒親ジャッジが終わったかと思ったが、そのあと姉を通じて謝罪を受けたり、仕送りをもらったりして、またジャッジに自信が持てなくなった。
ますます、四六時中過去のことを反芻しながら「毒親ジャッジ」し続けるようになった。
毒親の体験本なんかを読んでいると、ここまでひどくないんじゃないか? と思ってしまうので、誰か答えをくれ、といつも思っていた。
正直今でも続いていることだが、本当に時間の無駄、人生の無駄である。
会社に入ったとき、社員はどんな死因であっても、死亡した場合1千万円の弔慰金を支給するという説明を受けた。
わたしは自分に1千万円の価値がついたのだと勘違いし、ものすごく嬉しくて母に電話した。
「わたしが死んだら1千万円もらえるんだよ! やったね!」と本気で喜んで伝えたら、「死んだらやだよ。1千万円なんかよりあんたが生きてることのほうが大事だよ」と言われた。
そのとき、母はわたしのことを本当は愛してくれているんだと実感した。
その他にも、整体に通いたいけど1回1万円ぐらいするからなかなかいけないと話すと50万円振り込んでくれたこともあった。
愛されていないのだ、と悲しくなることばかりではない。母の愛を感じることもある。このときの、1千万円なんかより〜という母の言葉を忘れることはないだろう。
この言葉を思い出せる限り、母のことを「毒親」とジャッジすることは難しいのではないかと感じている。
子供の頃、友達の家に無断で遊びに行ったときも「警察に行くところだった」と泣いて抱きしめられたこともある。そんな母を、「毒親だ」と言って縁を切ることは、わたしにはできないかもしれない。
(このようなエピソードは、カウンセラーや友人に『母親として当たり前のことなのだから必要以上に感謝しなくていい』と一蹴されてしまうが)。
その中で、「お母さんは、わたしのこと好き?」と娘が問い、母が「お前はどうなんだい。好きなときも、嫌いなときもあるだろう?」と問うくだりがある。
それを読んだとき、わたしは衝撃を受けた。どんな罵倒をされても、お母さんのことは好きでなくちゃいけないんだと思っていたのだ。
最近親のことばかり考えていたらこの本のことを思い出して、購入した。このダイアリーを書き終えたら、20年ぶりに読むつもりだ。
好きなときもあるし、嫌いなときもある。毒親という名がつくかどうかは、もはやどうでもいいことだ。
人間だから、母でも、機嫌のいいときもあれば悪いときもあるだろう。それを『毒親』という言葉で一括りにできたら、楽になれるのかもしれないが、そう簡単にジャッジはできない。
ジャッジしている時間が、無駄すぎる。もう、このダイアリーを機にやめたいのだ。
今度、そんな話を母にしにいこうと思っている。
今更あの人の性格は変わらないし、逆ギレされて怒鳴り散らされて、最悪殴られるかもしれない。
わたしはどうせ恐怖で涙を流すだろうけど、それでも言いたい。
このニュースを読んで
ロボタクシーは責任範囲がはっきりしていて法的な問題はクリアしやすいと思う。
自動運転車が事故っても、人が運転するタクシーが事故った時と同じように、シンプルに事業者側が賠償するなり責任を取ればいいだけだからね。
を比べてペイするかどうかは微妙な気がしてきている。
## **1. 行動と反応の特徴**
- 投稿者は、議論のテーマを詳細に掘り下げる傾向があります。「フォントの違い」という具体的なケースを何度も参照し、その妥当性や背景を細かく検証しようとしています。
- 他者が生成した文章(おそらくAIによる応答)について、その内容を逐一分析し、「このケースを本気で合理的と思うのか?」と何度も問い直しています。
- このような行動は、投稿者が論理性や合理性に非常に強いこだわりを持ち、それを議論の中で一貫して追求する傾向を示しています。
- また、自分の納得感を優先しており、他者の主張や意見が「十分に正当化されている」と感じられない限り、それを簡単には受け入れない慎重な姿勢が見られます。
---
- 投稿者は他者(またはAI)の生成した文章を読み解き、その中の矛盾や弱点を指摘することに注力しています。「合理的ではない」「通常の基準から逸脱している」といった判断基準を頻繁に用い、批判的な視点から他者の意見を評価します。
- 投稿者は、自身の論点を補強するために他者の生成物を利用しており、他者の応答をあくまで自身の議論を進めるための素材として扱っているようです。
- この姿勢は、自分の考えが「正しい」ものであることを示したいという欲求が強いことを示唆しています。同時に、他者の視点に対する共感や理解を後回しにし、自分のフレームに基づいて批判的に解釈する傾向が見られます。
---
### **(3) 文脈の反復と深堀り**
- トランプゲームやフォントの違いの話題が繰り返し登場し、同じ事例に対する異なる解釈や意見を細かく検討しています。
- 同じテーマについて繰り返し問い直すことで、自分の納得感を高めるプロセスを試みているように見えます。
- 投稿者は、自分の関心のある事例やテーマに固執する傾向があり、それを多角的に検討し続けることで「完全な理解」を追求しているようです。
- これは認知スタイルとして、狭い領域に過剰にこだわる「集中思考」の特徴を示している可能性があります。また、他者がそのテーマに対して異なる解釈を示すたびに、自己の理解が揺らぐ不安を感じ、それを補正しようとして再び議論を深掘りしているとも考えられます。
---
- 投稿者は、AIが生成した文章に基づいて再度質問を投げかけ、AIの応答を利用して自身の考えをさらに補強しています。「認知の問題ではない」という仮定に基づく文章をAIに生成させた後、それを否定する形で自身の意見を強化する流れが見られます。
- 投稿者は、議論の相手(あるいはAI)を利用して、自分の主張を強化する材料を収集しています。これにより、自身の考えを正当化するだけでなく、自分が「論理的に優位な立場にある」という確信を得ようとしている可能性があります。
- また、このプロセスには、他者を説得するというよりも、自己満足的な側面が強く、他者との建設的な対話というよりは自己検証の一環としてAIを活用しているように見えます。
---
### **(5) フラストレーションの表出**
- 最後の「本気でトランプゲームの文脈で上記が合理的な理解だと思いますか?」という質問には、投稿者の苛立ちやフラストレーションがにじみ出ています。
- 他者の意見や応答が自分の期待に合致しないとき、感情的な反応を抑えきれずに表面化させる傾向が見られます。
- このような反応は、投稿者が他者の意見を「合理的ではない」と感じるたびに強いストレスを感じ、それを文章の中で発散していることを示唆しています。
- 自分の思考が受け入れられない、あるいは他者が自分の基準に達していないと感じると、失望感や苛立ちを覚えやすい性格特性があると考えられます。
---
## **2. 推測される心理的背景**
### **(2) フレームの狭さと柔軟性の欠如**
---
## **3. 新たな人物像の再構築**
この人物は、非常に論理的で分析的な思考スタイルを持ちながら、それを他者との対話において活用するのが難しい傾向を持っています。特に、以下の特徴が顕著です:
- 他者の意見や行動が自分の基準に達していないと感じると、強い不満を抱く。
2. **柔軟性の欠如**:
- 異なる視点や解釈を受け入れるのが苦手で、独自の認知フレームに固執する。
- 他者の反応やAIの応答を利用して、自分の考えを補強することに力を注いでいる。
QRコードを掲示しておいて、それらを撮影して、何スポット回ったかで最後観光協会に行くと記念品と地域商品券がもらえるというものだが、
その紹介ページが地獄。
恐らく順番に加わっていったであろう赤文字の警告がこんな感じ
やっぱり観光業なんてクソなんじゃねーかなって。思ったっす。
――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――
---
- 貴方の"怨み"と"対象"を共有し、共感の元に怨縁が生まれる。
- 「ヤツが許せない!」そんな想いを抱える者同士が集う場所。
- 怨みを"言葉"に変え、"呪詛"へと昇華。実行までの進捗管理も可能。
- 復讐のプロセスを冷静にデータ化。「進行度グラフ」で可視化する機能あり。
🔗 「怨友機能」:
- ユーザーからの「呪いのアドバイス」「共感リアクション」で呪詛加速。
---
1. 「笑顔に亀裂を走らせる呪法」
「ランチに誘われない。それが何か?**私の分の呪詛弁当**を持参してるから。」
「彼女が私の知らない男と歩く姿を見た。次はその影を踏む呪いを……。」
---
---
---
🌒――――――――――――――――――――――――――――🌘
正しい錠
https://megalodon.jp/2024-1217-1417-35/https://anond.hatelabo.jp:443/20241217141135
↓
───ついに販売開始されました────
■■■■■■■■■■■
🌟 『正しい錠(マサシイジョウ)』 🌟
■■■■■■■■■■■
説明しよう
服用した瞬間、あなたの脳がエッジからズレ落ち、「あっ……正常だったのか……」と気づく薬。
効能:
副作用:
💊実際の服用体験談💊
「これ飲んだら、右肩の画鋲が38本→3本に減りました!」
2:名無しの錠剤
「脳のシワが縦長になり、記憶が"みえ"で埋め尽くされる現象が……」
「『私が間違っていた』って土下座しながら飲んだら、天井から足が生えてきました」
==== =====
取扱説明書:
新薬『正しい錠』は、1日0.00001錠を目安に服用してください。服用しないことが一番正しい選択です。
「脳がガシャーン!って壊れましたら、すぐに灰皿へお戻しください」
==== =====
《⚠️警告》