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「観念」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 観念とは

2024-12-18

2024年に読んで良かった6冊の本

anond:20241217085132

読書メモの整理のために便乗。今年の読書文芸短歌仕事の専門書(ソフトウェア開発)が中心だった。

6冊を良かった順で挙げる。

大江健三郎大江健三郎自選短篇』(2014年

本書の長所最初短編から晩年短編までを収録しており年代による作風の変遷をたどれること。

ダントツに良いのは「雨の木」の連作ストーリーは「雨の木」というシンボル高安カッチャンという重要人物の周縁をぐるぐるし続け、いつまでも核心に踏み込まないため、最初は要旨をつかめない。しかし読み進めるにつれその構成多角的な視座を提供するための仕掛けだとわかる。短編であるにもかかわらず印象が何度も覆され、様々な味わいがある。

小説物語意図最初は分からいくらいが丁度いい、というようなことを三島由紀夫が何かに書いていたが、全くその通りである構成や内容が三島由紀夫豊饒の海」と少し似ている。豊饒の海は松枝清顕(早逝した親友)の生まれ変わり(と推測される人物たち)を数十年追い続ける物語で、ラストシーンでは清顕の存在自体が薄らぎ核心にぽっかり穴があく構成なのだが、大江健三郎「雨の木」もシンボルの雨の木の周縁をさんざんなぞった結末として木自体がほぼ焼失してしまう。「豊饒の海」は仏教死生観や死者に対する忘却根底に据えられているのと同じく、「雨の木」も死生観忘却(作中ではoblivion表現される)が重要テーマであるテーマに対するアンサーは正反対だが。なお先に書かれたのは「豊饒の海」。

物語の道具立てとして海外大学におけるシンポジウム海外作家引用原爆問題があり、衒学的な雰囲気を作っている点もわたしの好み。

「奇妙な仕事」などの最初短編はさすがに時代を感じる。「セヴンティーン」は発表当時右翼団体から脅迫を受けるなどかなり真剣に世の中に受け止められたようだが、令和の目線ではカリカチュアライズが激しく、大江健三郎絶対ゲラゲラ笑いながら描いただろうというノリの良さが全編にみなぎっている。また当時は右翼に対する攻撃という見方大勢だったようだが、左翼側の非論理性も指摘する内容のため、私の感覚では左翼小説と思わない。

最後の「火をめぐらす鳥」は大江健三郎流の引用の繰り返しや観念世界に入り込む構成といったスタイルを貫きつつも、おそらく意図的に情報量を落としており、ゆとりと円熟を感じさせる。

佐々木正美『子どもへのまなざし』(1998年

乳幼児育児の心構えを説く名著。以下は印象に残ったポイント

今年は家事育児ワンオペ + フルタイム勤務に忙殺され、子供への対応が雑になっていることを自覚しつつも改善策を見出せない期間が年末近くまで続き苦しかったが、本書の心構えを持っておくことで自信をもって育児ができるようになった。

夏目漱石私の個人主義」(講演1914年、底本1998年

夏目漱石1914年学習院で行った講演録。青空文庫で読んだ。https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html

ごく短く、読むのに30分もかからないが、内容はキャリア論、社会思想フェミニズムにまでわたる。

キャリア論の概略は以下の通り。

どこかに突き抜けたくても突き抜けられず、何かを掴みたくも掴めておらず悩んでいる者は、どこに進めばよいかからない以上、何かにぶつかるまで進む他ない。自らの個性で行けるところまで行ってツルハシで何かを掘り当てれば、自分なりに道を作ってきたことに安心と自信が生まれる。反対に、行けるところまで行かないかぎり、悩みと不愉快が一生ついて回る。

昨今は会社員主体的キャリア開発が求められる一方で、異動を会社の都合で命じられたり、顧客への責任第一に優先すべきという考えもあり、主体性を発揮してばかりいられないという板挟みを感じていた。しかし「私の個人主義」を読みとりあえず行けるところまで行くしかないと開き直ることができた。

社会思想については、自らの個性尊重すると同時に他者尊重しなければならないとか、裕福な人間は相応の責任を負うべきだ、など。

岡野大嗣『うれしい近況』(2023年

岡野大嗣の歌集まり短歌がたくさん載っている本。

いわゆる秀歌、つまり散文と異なる詩的な文体で、細部の描写を通じ、多層的な意味表現する、という歌ではないものが多いが、わたしは好き。岡野大嗣の中ではいまのところこれがベスト歌集

ボーカルの話すうれしい近況のうれしいピークで鳴るハイハット

ライブの楽しさが伝わる。ドラマーボーカルトークに関心を持ってきちんと聞いておりハイハットで反応してあげるという仲の良さがほほえましい。

どの店もゆかいな高低差の街でみるみる減っていく体力だ

高低差、という単語発見したのがこの歌の成果だと思う。坂が多くておしゃれな店ばかりの街で、ついつい歩きすぎて疲れてしまたことの充実感が歌われている。

ぼろ負けのオセロぜんぜん悔しくない広いソファーに変なあぐらで

オセロ相手との関係性を想像させる表現が巧み。"広いソファー"もゆとりある生活を感じさせ心地よい。

冬目景百木田家の古書暮らし』1~5(2022年2024年

漫画

冬目景は遅筆だが近年は順調に出してくれていることに、まず安心する。

冬目景恋愛モノが多く、登場人物たちがうじうじ悩みながら自分意志で一歩を踏み出していく様子を丹念に描いていることが、本作に限らない多くの作品の特徴。本作も登場人物おっかなびっくり、逡巡しながら実に遅々たるペースで接近してゆく。時には後退することもある。しか自分意志で進むからこそ人間味があり、納得感がある。

たこれも冬目景作品共通の特徴だが、登場人物基本的に善人ばかりであるものの皆わりと淡白コミュニケーションが暑苦しくないところに品の良さがある。

そして最大のポイントとして絵がわたしの好み。

劉慈欣『流浪地球』(2024年

中国SF短編集。「中国太陽」が最良。「良いSF未来技術ではなく技術がもたらす新たな社会を描く」ということをアシモフ小松左京高千穂遥あたりの誰かが言っていたが、その好例。SFなのに人生の苦労と発展にフォーカスしておりすごくウェット。

『三体』はまだ読んでいないが読むべきかな。

2024-12-16

anond:20241216155302

このツリーそもそも

清廉潔白なら噂にすらなんねー

https://anond.hatelabo.jp/20241216113617#

世界なので

噂になった時点でクロで終了なんです

観念してください

誰が作ったんですかねこんな世界

2024-12-13

anond:20241213202841

あー、なら崩壊スターレイルやろうぜ

一人プレイオンラインRPGって性質上、取り返しつかない要素がほぼ存在しない(最初主人公の男女選択くらいだ)し

ターン制の観念を覆すくらいよく練られた戦闘システムから解説動画とか漁って研究するのも楽しい

まあ中国メーカー無料ゲーだから舐めてかかって雑に遊ぶくらいでも構わんし、JRPGよりJRPGしてるとこあるから親しみやすいはずだ

あ、序盤の世界観ちんぷんかんぷんのうちは文章理解できなくてとっつきにくい部分はあったわそういえば

2024-12-08

23歳男オタクvs結婚強迫

結論

結婚ができる気がしない」一方で、「結婚し」なければならないという強迫観念がある。

なるほど「気の合う人間生計を共にすることによって得られる利益享受(共有)」するのは幸せことなのだろう。少なくとも周囲の大人たちはその信念を奉じて生きてきたようであって、同時に、幸せな家庭人生活を送っているようにも見える。

一方で、私は「結婚ができる気がしない」。先述の通り「結婚し」なければならない、という観念があって、かつ、「気の合う人間生計を共にすること」に対し何らの疑念を持たないにもかかわらず、である。私は夫としても、あるいは父としても、その適格性を著しく欠くように思われる。

どうしてこの結論になったのか、振り返ってみる。

スペック

23歳・早慶政経法のどっか・4年(浪人した)

実家:都外。奥多摩山中やどこぞの島よりは皇居に近い。

上っつら:少なくとも面と向かって悪し様に言われたことはない。中学生と比べると大きく、高校球児の中なら目立たず、プロ野球選手に混じれば小さく見える(はずだ)。人並みには気を遣っているつもりでいる。

私には2つの強迫観念がある。そのうちの1つは「結婚しなければならない」というものだ。もう片方についてはあえて述べない。

かかる珍妙にして時代遅れ時代錯誤と言うべきだろうか?)の価値観を、いつから我が身のものとしてしまったのか、詳細な事情記憶していない。ただ、誰かの「家を継げ」とか「孫の顔を見せろ」という種の明確な言葉あってのことではなかったことだけは、はっきりと断言できる。他者からの影響が思い当たらない、本能的に自然発生したと説明するほかない感情からこそ、我ながら奇妙だと余計に思う。ともあれ、私が「結婚しなければならない」という価値観に囚われていることだけは確かだ。

結婚の前提条件を思い切り単純化するとして、最低限パートナー愛情喚起する資質を有すること、とした場合、幸いにもその適格性はあると考えられる。何度か愛されたことがあるからだ。それが私の外形的諸条件に起因したものだったのか、はたまた精神領域と関連するものだったのかは今となっては知る由もない。もっとも、その辺の機序はよく分からないし、検討する実益にも乏しいように思われるから、詳細には立ち入らない(拒絶されたこともある。少なくとも愛されたことの同数はある。こちらの方が問題としてはるかに重大だと思う)。

あるいは大前提として、そもそも私は他人たる異性を心から愛すことができるのか、という根源的な問題も考えうる-イエスだ。中学校高校(・予備校)・大学と、それぞれの段階で心から愛した/希求した女性は、少なくとも一人ずつは存在した。逆に言うと、何人もの異性とすれ違う中で、(性的昂奮は別として)特別な心情を惹起するに至った人々は、極めて少数しか存在しなかった。

結婚に対して、心理的阻害要因存在しない-少なくとも大きな問題はないはずだ。むしろ結婚しなければならない」というくびきに囚われているのだから、前のめりでさえあるべきだ。にもかかわらず、私は「結婚できる気がしない」。

長くなりすぎた。問題本質を簡潔に述べる。「結婚できる」と思える人に巡り会えない。

私の愛情の抱き方は、一目惚れに近いものがあると思われる。顔がどうとか精神性がどうとかではなくて、いつの間にか好きになって、彼女(たち)の自慢のアピールポイントや隠したい欠陥といった具体的な要素には一切立ち入ることなく、総体として「好きになって」しまう。このことは、私が好きに"なりうる"人々を類型化することを非常に困難にしている。酸いも甘いもというと身も蓋もない言い方だが、彼女のどこに惹かれて好きになったという具体的な点の説明ができない以上、共通点見出してその特質を有する人々を探す、ということのしようがない。慣用句的に言うなら「恋は盲目」ということなのだろうか。

逆に、「総体として」好きにならない女性存在する。むしろ「好きになった」人々が極々僅かな例外にすぎないのであって、今まで出会ってきた何千何万という人々のほぼ全てはこちらにカテゴライズされる。この「好きにならない」人々の中にも、もちろん友人(であると信じたい)は何人か存在するし、有り難いことに好意を抱いてくれた人もいる。私が「好きになった」人々と何らかの点で似通っている人もいた。しかし、私はこの範疇の人々に親愛以上の心情を抱くことができなかった。提供できる親切は、親しき友人としてのものが上限だった。否、それすら私の怠惰ゆえに、とんでもなく低いレベルのものにすぎなかったとも思う。

「愛することができる」人を探すために、アトランダム努力はそれなりに重ねたつもりだ。他学部開講の講義に片っ端から出てみる。同年代の異性が多いバイトを探す。時には友人に紹介を頼んだこともあった。マッチングアプリだってした。並行して2、30人の知らない異性とパラレルに知り合うある意味刺激的な生活を3ヶ月ほど続けた-何人かの「友人」と知り合っただけに終わった。いいねの数が身長を優に越してしまったあたりで、少なくともパートナー探しではない別の作業になってしまった気がして、やめてしまった。

これから先の人生で、心から愛することができる女性に巡り合える気がしない。おそらく巡り会えないのだろう。仮にいるとしても、既に「売り切れている」可能性すらある。私はもう23なのだ!私は恋愛市場上のまさに完全な敗者として、20代前半の若者が集まる場所としては日本で最も大きな部類に入る学舎を去ることになる。偏差値市場上の敗者として押し込められて、恋愛市場上の敗者にして立派なインセルとして出荷される。

結婚自体可能ではあるのだろう。「結婚しなければならない」という心情へのアンサーとしては、最も安直だが直裁な解決策でもある。私一人で家庭全体を食べさせることができるかどうかは別として、その大部分を担うことに対しては、現実として可能であろうし、別段おかしなこととも思わない。

ただ、私は、結婚生活しろ親としての生活しろ、その本質の一側面は自由の縮小であると強く信ずる。期待や喜びの総量をはるかに上回る失望と失敗の連続であろうと確信している。いざ焼かれる時にどう思っているかは別として、存命中常に家族とやらに関する何らかの心配をし続けていることだけは確かで、幸せな家庭生活というものが仮にあるとしたら、それは常駐する100の心配事と同時に0.01の安寧を自覚できるかそうでないか、という程度の話でしかないのだろう。

そのとめどない苦難の道程を、愛することのできない人と共に歩いて行けるのだろうか?より直接に言う。「妥協できるのだろうか?」決して少なくはない人々が「できる」ことは知っている。それどころかたった100年前、それこそがセオリーだったことも知っている。ただ、私は「できる」とは思えない。途中で投げ出してしまうという確信がある。親しき友人としての親切が上限で、それを超える困難と直面したら、逃げ出す。「結婚しなければならない」という私のエゴと人としての欠陥ゆえに、罪のない他人のことをこれ以上不幸にしたくない。

諸先輩方はどのように折り合いをつけたのだろうか。「後から好きになる」ようなことがあったのだろうか。「子供が生まれたら変わる」のだろうか。はたまた「みんな結婚してるから、流れに合わせてそれっぽく振る舞ってるだけで、相手特別感情はなかったし、何なら今は少し幸せに感じることだってあるよ」というのが真実なのだろうか。もしそうなら、どれほどよいのだろう。

鬱屈とした諦観けがある。"愛することすらできずに"家庭を放り出し、エゴのために他人を有形無形に傷つけたクズ烙印を押されるよりは、生涯部屋のアガベサボテンどもと共に、好きな音楽映画世界観だけに閉じこもって、屈折した強迫観念を胸に秘めたまま朽ち果てて死んだ方がマシだ。最大多数の最大幸福希求するなら、それが社会的に最善でもあろう。闘争領域本来、縮小されるべきなのだ

泣き言を書き散らし、日記とすることで、何らかの整理がついたように思う。この乱文を書く直接の動機となった、『22歳女オタクvs結婚願望』 https://anond.hatelabo.jp/20241207175805 の筆者が良きパートナーとなりうる人と巡り会えることを切に祈り貴女可能だと思う。私はそう確信するし、本心からそう願っている)、終いとする。

2024-12-07

性を意識しないで済む暮らしがしたい。

結婚を前提とした相手と1年ほど同棲している。

社会に出てある程度独身貴族をしていたので、5年ぶりにできたパートナーだった。

交際相手自分と違い性欲が強く、ほぼ毎日のようにハグキスをされるし、「可能なら毎日セックスしたい」とも言われている。

一方自分は性欲がほぼ無く、加えて朝や昼などの明るい時間日常生活において性的要求をされることに若干の嫌悪感情がある。

また、自分にかけてくれる言葉や行動の全てに「あわよくばセックスしたい」という下心を感じてしまって純粋に厚意を受け取ることができない。

しかし今更同棲を解消できるような予算気概もない。

ゆるゆる観念しつつ、相手が加齢につれて落ち着いていってくれることを願っている。

2024-12-04

anond:20241204044108

反対者は悪人自分たちは(少なくとも相対的には)善人という観念第一に来るから自分たちのお仲間に反対者を蔑視してた(してる)のがいるという誹りには我慢ならず反論してしまうんやな

2024-11-26

リアルの知り合いや友人に対しては絶対にやらないのだが、こと好きな作家については好きな子に意地悪するようについつい悪口を言ってしまう。悪口というか、作家自身作品のものの特徴を面白おかしく書いたり話したりしてしまう。たとえばドストエフスキーなんかだと、「ギャンブル狂いの作家が、クソデカ感情を抱えて人の話を聞かないヤバい奴の話を書いている」と描写してしまうし、三島由紀夫だと「マッチョを目指しながらも繊細な感受性を備えた作家が、もしもこうだったらという想定を観念的に構成してそれを人工的で息苦しい文体表現する」なんて言ってしまうし、グレッグ・イーガンだと「理系文系よりも一段階上場所にいると隠さない、人間の肉体や精神に手を入れまくる究極の理詰めなワールドビルダー」だとプレゼンちゃう

よした方がいいとわかっているのだが、物事をざっくりと要約して伝えるのが癖になっており、そこで妙なウケを狙ってしまう。愛情ゆえに作品批判すれすれまで行き、時々それを増田投稿しては怒られたりしている。「夏目漱石長編は人付き合いと金の話だ」となんてうそぶいたりするが、そういう作家は他にもいるだろう(ちなみに漱石はそれ以外の小品が好き)。

それでもどういうわけか、中島敦だけはいじる気にならないので、自分の中では彼をどこか神聖視しているのだろう。全集を読んだ数少ない作家だし、残りの人生を一人の小説家だけ読むことを許すと言われれば、選ぶのは彼だ。

とはいえ他人が「山月記」をいじってもパロっても別に腹は立たない。不思議ものだ。

2024-11-18

anond:20241118204306

 

というのは、知識の既得利益は他のどんな宝物よりもいっそう大切に保護されているかである。人びとが以前によく勉強したことを弁護するに当って宗教的情熱にも似た態度をしめすことがよくあるのは、まさにこうした理由によるものである。(略)社会的観念一般に受けいれられるか否かは親しみやすさにかかっている。”

 

https://anond.hatelabo.jp/20210605095520

2024-11-15

自己責任論とかいう個責論

言わんとする事を言おうとすれば、タイトルのようになるしかないのだが、この事実が既に矛盾を抱えていて、「自己責任論という対象への批難をする他己責任論」の蔓延であるように思える。というと、他己責任論者と詰られたと勝手に感じた自意識過剰ずんぐりむっくりの干渉的なタイプ人間が、あんたはじゃあ失敗のすべては個人責任で、被抑圧的な対象に同情しないんだね、みたいなことを言ってくるのだが、まあまて。

誰もそんな事言ってなければ、あんたを責めもしていないから、一度聞け。

そんな自分を責めている被抑圧者の要求がなにを求めているのかといえば、あんたの勝手自意識の解消ではなく、まず問題の正しい把握である

自己責任論が批難される理由は、まあ端的にそういうことなのだが、自己責任論とは個人に生じた悪い現象自業自得だとする論理だ。

しかし、世の中通り一片では語れない。

ここでは、

悪い現象責任個人に帰責するのはやめろ→自己責任論は諸悪の根源攻撃→他己責任論者への転回(自己責任論への詰責、被害者加害者への転身)

という一連のプロセスが発生しているのであるが、これは個人的にも社会的にも同時並行で進行する。

個人問題社会の大問題拡張されうれば、

護身のための具術は他人へ剥ける牙にもなり得るのだ。

デフレへの視点で捉えるとわかりやすい(経済的問題はいつも視点が一点集中していて、多角的視点からつの現象を捉えようとはしない。)

通り一片というのは、負の側面だけを捉えているということで、個にとって悪質な自己責任論を撤廃、廃絶させてしまった先に何が残るのかという事を、《自己責任論者》は考えようとはしない。

そもそも彼らがしているのは、存在しない自己責任論者に対するテクストの訂正行為じみたもので、勝手に「自己責任論」という議題を設定して問題を追求しようとしているようなものだ。

まり、そのような対象(自己責任論者)は現実人格としては存在しないに等しい。だから、それに対する攻撃は、そもそも何に対して怒っているのか、攻撃しているのかがわからない。

から彼ら自身が《自己責任論者》となる。

が、彼らの攻撃自己責任論者として現実人格を叱責する。換言すれば、自己責任論の問題現実に帰責し、具体化する(してしまう)ことで、無関係他者を詰問する。

このような状態人格二元性と名付ける。この名称自体にそんな錯誤と矛盾が表れている。あたかも「自己責任論」のように。

そのような状態では言論攻撃的か、批難的か、あるいは攻撃的に批難的かになる。

整理しよう。

自己責任論の負の側面は悪い現象自業自得になるということだが、では正の側面は良い現象自業自得=本人の努力という捉え方に回収される事だろうか?

注意してほしいのはここで人格二元化された観念的な状態区別することだ。

まり、”自己責任論の正の側面として何らかの良い現象を受けている個人なんていないということ”だ。

たか上級国民に向けられる復讐根性のように、これ自体が正の論理から、負の論理はわからないとか、そういう事もない。

なんていうか、まずその、あなたの負の状況というものが無い。その穴も都合よくつくられたシチュエーションである

自己責任論も単なる視点にすぎず、良い現象も悪い現象もない。

にもかかわらず自己責任論が個人である私を批難しているように”現実において”感じるとしたら、それはたぶん観念的な他者への他責社会意識にまで拡張された時代からで、だからって別に一方的他責されてる被害者がいるわけではない。そんなふうに思うやつがいれば自身が目の敵にする迫害者と同じ。だが、そんなふうに思うやつが実在するわけではない。

その社会においては、皆が被害者で、加害者だ。

しかし、そのような変質を受けたものではない、自己責任という語句意味については肯定されるべきで、本当に憂いるべきは誤った負の観念が正しい意味まで同時に否定してしまう事だ。

さて貴方が本当に否定したいのは、自己責任論ではなく、それ自体誤った自己責任論の状態であり、求めているのは、廃絶という意味ではない負の否定である。負は無限に廃絶されるべきだ。だがその循環自体廃止は誰も望んでいない。

負の状態否定するために廃止を望んではならず、この廃止を望んでいる状態廃止された状態が負の状態といえるのではないか

一定結論を出すために、個人個人責任を持つべきだし、持てる社会状態が結局は望まれている。

しかし、「自己責任論」に限らずに、誤った観念がそれを阻害している。その状態改善こそが求められている。だから問題なのは自己責任論」そのものではない。「自己責任論」という記号問題にまつわる状態の全て。「自己責任論」がどのように社会において問題にされているかというシチュエーションが最も討議すべき根幹的な問題。それを問わない結果が誤った方向に行く。諸悪の原因は本当はこれ。なので、誤った社会的観念における誤った状況の防止のために、誤った社会的観念個人の逸脱の原因という意味で、社会責任のがれなんかせずに、「自己責任論」なんて議題の設定の仕方はやめて「個人責任」とか「個責主義」とか、もっと現代的な抑圧論に結びつけて考えたらいいし、そうするべきだと思う。

問題なのは自分の及ばない範囲問題まで自分責任にされているというか、そうだからって自己責任否定するんじゃなくて肯定するのが大事だっていう事なんだけど、その自己責任っていうのは正しい言葉意味肯定しようってことで、社会的に捻じ曲げられた仮置の信号として解釈すべきでなく、そこに置くべきではない。社会的には個人社会責任があるという自負でよくないか

自己責任論の提起のされ方がどこか病理的に思える。

テクストの訂正と、自己責任《論》

2024-11-14

アンパンマンの謎

・飛んだりするときになぜか軍用機爆弾を投下するときのような音を効果音に使っている。不謹慎だと思う

・本人は顔にダメージを受けたとき力が半分しか出ないから戦えないとか言うが、宇宙までロケットを運べるほどの力があるんだから出力半分でもどうってことないだろと思う。算数教育分数に関する観念養成)に悪影響だと思う。

2024-11-11

anond:20241111201242

目立てば規制待ったなしなのが、そもそも性は忌むべきものみたいな観念があるからだよね

後ろめたく生きるのはその観念肯定してるようなものからな。

全裸で歩くのは違法だし、エロ本一般流通してる時点で猥褻物陳列罪に触れない合法なんだから後者を隠す必要はないんだよ

それすら隠すから余計後ろめたいことしてると思われて規制派に口実を与えるんだよ

2024-11-10

anond:20241110143746

10代で父親不明妊娠してる子とかいっぱいいるじゃん

あいうの、頭悪いとか言って切り捨てるんじゃなくて、元増田の言うように国できちんとサポートして母親子供も不幸にならないようにして、

母親学業継続できるよう、子供は無事社会人になれるよう育成していけばいいんだよ

こう書けば元増田の言い分より穏当で、今でも達成できそうじゃん?

やめるべきは「10代で妊娠するような女は不幸であるべきだし、妊娠させた男に苦痛を与えるべき」という社会観念で、

そういうのは子供がいっぱい生まれて困っていた頃の価値観から変えるべき

2024-11-08

anond:20241108095705

ワイは観念的な正義を重視すべきだと思うやで

anond:20241107090029

たぶん今フェミニズムが退潮を迎えてるのはTERFに対する扱いで分裂してるから

(B)の正義理論がなければフェミニズム正当性を得られなかったのだが、今はそんなこと言ってられなくなって(A)が幅を聞かせ

その方向性がありかなしか大分裂しているというのが現在の状況

この状況はしばらく続くと思われる

2024-11-06

anond:20241106144838

うちの近くの爺さん診療所も「オンラインでの提出は絶対やりたくない。あと十年もやるか分からないのにわざわざペイしなさそうな機器導入するって経済観念なさすぎ」とか言ってたな

2024-10-30

anond:20241030165700

教養書でいいんだよ

教養書」もなんか違う、ちょっと観念的すぎというかカーネギーみたいな自己啓発本想像される感じ

この感覚が変なだけ

文芸でも実用でもない本のジャンルってなんて言うの?

anond:20241102083243

読書趣味なんだけど、他人にそれを伝えると大抵「どんな作家が好きなんですか?」と返ってくる あんま本読まない人にとって読書イメージ文芸本を読むことっぽい

でもおれは大体学者専門家が書いた本を読むことが多い、今読んでんのはアセモグルのこれ↓

国家はなぜ衰退するのか 権力繁栄貧困起源(上)

https://amzn.asia/d/hg8ADCt

こういう、一般人向けに専門家が書いた特定ジャンルについての知見をちょっとエンタメっぽくした本を端的に表現する言葉ってなくない?上記のアセモグルの本はAmazonだと「世界史」のジャンルなのだが、それをもって「世界史の本読んでます!」というのも憚られるし

ちょっと前に売れてたFACTFULLNESSも似たようなジャンルな気がするけど、これもAmazonでは「確率統計」ってジャンルに入ってて、でもあの本を読む人の意識として「確率統計について知りたい!」っていうモチベーションではないと思うんだよな、もっとざっくりと「あんまコア過ぎない知識を楽しく得たい」っていう感じで読まれる本というか

「専門書」だとなんか固すぎるよな、それこそ専門家学生大学の授業で使うような、予備知識のない一般人では読めない本って感じ 「教養書」もなんか違う、ちょっと観念的すぎというかカーネギーみたいな自己啓発本想像される感じ

これが例えば岩波新書だったら「新書をよく読みます」といえば結構ニュアンスが伝わる感じがするけど、これはしょせん本のサイズによる分類を表したものしかないんでね

なんかいい語彙はないもの

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俺の中でこのジャンルの最たるものが「銃・病原菌・鉄」だな

なんかブコメトラバ眺めてみても結構割れてて、イメージは共有できててもスパッと表現できるようなコンセンサス取れてるワードはなさそうに感じる

書店、版元、読者、本読まない人がそれぞれ考える本の分類のちょうど狭間にあるエアポケットって感じがするんだよなあ

でも素朴でライト知識欲を満たすために本を探したら自然とこういうのに行き着くよね、ていう本は沢山あって、書店でも目立つ場所平積みされてる印象があるのに端的に表すワードがないのは不便だなと思う

ゴールディンの賃金格差に関する本とノアハラリの人類史に関する本って全然テーマ違うけど多分読者層は被ってるよね

———————————

一般書」→いくら何でも抽象的すぎ、初対面の人にそういったとしてこの人会話進める気あんのかって思われそう 雑誌読む人がどんなジャンルが好きって聞かれて一般誌とか言わんやろ

啓蒙書」→人口膾炙した言葉じゃなさすぎ、初対面の人に「啓蒙書好きです」って言ったら99%「ケーモーショ???なに???」ってなると思う

学術書」→ニュアンスの一致具合と言葉の使いやすさとしては一番バランス良さそう ただ自分の考える定義だともう少しライトな本も入るのよね 例えば 「なぜ働いてると本が読めなくなるのか」みたいなライト新書を含むにはちょっと大仰かも

「人文、科学」→これもニュアンス近いな、ただ理系文系の垣根をちょっと感じる もっと包括的ジャンルとして捉えたい

哲学」→めっちゃ広義に考えればそうかもしれんが絶対ニーチェとか?」ってなるやろ

雑学本」→まあ超ざっくり分けるならそうなのだろうけど、ノーベル賞取るような学者が書いてることを一般に「雑学」といえるか?という疑問はある もっとトリビア的なことを指さない?

ノンフィクション」→ドキュメンタリーと思われそう

リベラルアーツ」→この言葉自体が一種サブジャンルなのでは?教養目的とした知識が書かれた本というか もっと上のレイヤーを想定してる

新書」→やっぱこれが一番無難なのかなーでも言葉の厳密性に欠けること言うのがほんと嫌 冬用タイヤ全般スタッドレスって呼称するような居心地の悪さを感じる

教養書」→俺が考えているより広範なイメージっぽいな、でもまだ高尚すぎるというか、知識についてのニュートラル感覚に欠けるというか、教養という言葉自体が「値打ちこいてんな」って感じする

2024-10-28

anond:20241028112221

実際統計しかないのに、意味があるという教育でそれが正しいかのような観念が作られるだけやね

2024-10-26

週刊少年ジャンプ史上最も重要マンガ25選(改訂版)

anond:20241012181121週刊少年ジャンプ史上最も重要マンガ20

↑を書いた増田です 適当に書いた増田がしばらく見ないうちにブクマめっちゃ伸びてて派生増田もめちゃくちゃ出ててビビった。ただのおじさんの与太話にいろいろ意見をくれてありがとう

みんなのコメントの中には恥ずかしながら読んでなかった作品もあったくらいで、今週はネカフェKindle50%還元セールでいろいろ読み返してました

選考基準について少し補足すると、ジャンプという雑誌の在り方への影響度がとにかく重要だと考えてます。売上とか人気とか社会的影響考慮はしてますが、あくまで付随する要素に過ぎません。

ブコメやXで結構言及されてたのを見て思ったのは、選評を雑に書きすぎて自分の考える重要性が伝わってないところが多かったのと、20選だとさすがに網羅出来てないなということ。もともと個人的メモ書き程度に書いたものだったのですが、色々な意見を取り入れた25選にして、一人一作縛りもなくして、選評ももうちょい見栄えするようリライトしてみました。これが現時点でのベストだと考えているので、もう異論は取り入れません。

1.ハレンチ学園 作:永井豪 1968年創刊号 - 1972年41号

月2回刊で始まった少年ジャンプ創刊号わず10万5000部しか出なかった。その9年前のサンデー創刊号が30万部、マガジン創刊号20万5000部だったことを考えると、その始まりが実に静かなものだったことがわかる。

そんな中、大家永井豪が描いたこ作品の絶大な人気がジャンプの売上に大きく貢献したことは言うまでもないが、それ以上に重要なのは、この時点で「読者が面白いと思うことなら何だってやる」という編集部方針は明確であったこである

過剰ともいえる性描写教職への徹底的な批判からなる本作は、当時の基準でも極めてラディカルで挑発的な作風であり、批判に晒され続けた。しかし、競争原理に基づき、常に読者の方を向いた雑誌を作るという編集部意向が、この作品を存続させた。後に「アンケート至上主義」という形で現代まで続くことになるジャンプの強固なアイデンティティは、本作の成功とともに形をなしたのである

2.男一匹ガキ大将 作:本宮ひろ志 1968年11号 - 1973年13号

頭文字D湾岸ミッドナイトのようなクルマ系のマンガが下火になったのは、若者が誰もスポーツカーに乗らなくなったことが原因のひとつであるという。頷けるところもあるが、じゃあ不良、ヤンキー番長と称されるような若者なんてもっと絶滅危惧種なのにどうして彼らをカッコいいものとして描くマンガは何作も出続けているんだ?東リべのような大ヒットも未だに出ているのに。

思うに、我々の脳には義理人情、泥臭さ、そして熱さを欲する部位が生まれつき備わっているのだ。そしてこうした要素を最も効果的に表現しうる分野が不良漫画であると見抜いたのは本宮ひろ志最初であった。

ストーリーは完全にご都合主義で、キャラクター一貫性もまるでない本作は、しかし「男の強さ」を描くという一点のみにおいて全くブレることはなかった。どんなに反社会的人間でも、腕っぷしと強靭精神と仲間への思いやりさえあればクールに映るという価値観は、フィクションにおいての(もはや誰も意識すらしなくなった)お約束として今なお残り続けている。

3.こちら葛飾区亀有公園前派出所 作:秋本治 1976年42号 - 2016年42号

ジャンプ国民マンガ雑誌とみなされる要因はどこにあるだろうか?40年間一度も休載することなく駆け抜けた秋本治デビュー作は間違いなくその一つであろう。

当初は型破りな警察官両津勘吉ドタバタを描くコメディとして始まった本作は、その時代サブカルチャー政治経済情勢を積極的に取り込むことで、高度経済成長期以降の近代化していく日本風景を余すことなく取り込んだ作品となった。

浮世絵江戸庶民たちの風俗を映し出す史料であるように、こち亀が織りなす物語昭和から平成にかけての日本人の最大公約数的な心象風景を巧みに映し出した。いまや日本から失われつつある中流庶民日常を、我々は全200巻からなる亀有の小さな派出所日常にしみじみと感じ取るのだ。

4.リングにかけろ 作:車田正美 1977年2号 - 1981年44号

もともと硬派なボクシングマンガとして始まった本作は仁義兄弟愛をベースにした極めて現実的作風で、決して圧倒的な人気作とは言えなかった。しかし、あしたのジョー下位互換になるくらいなら無茶苦茶やってやる、という判断のもと路線変更し、過剰さと大袈裟さを極めたことで人気を博し、史上初の最終回巻頭カラーとして、ジャンプ史にその名を刻むこととなる

───という、教科書的な本作の功績だけが、本リストに入る理由ではない。重要なのは本作が男一匹ガキ大将(=根性と漢気)、侍ジャイアンツ(=超人能力)の要素を意識的に再生産していることである車田正美を源流として、ジャンプ的な文脈を後世の作品が重ね合わせることでより濃くしていく流れが明確になる。我々の知るジャンプは全て車田正美以後なのだ

5.コブラ 作:寺沢武一 1978年45号 - 1984年48号

時代作家に比べ、寺沢武一デビュー作の視座は群を抜いて高かった。スペースオペラ世界観から引用した本格的なSFアイデアの数々。高い等身で描かれ、まるで映画のようなポージングセリフ回しで魅せるセクシーな男女たち。幾度もの休載はさみつつも、本作はユーモアとカッコよさと強さをコブラという一人の男の中に共存させるという偉業を成し遂げた。

登場人物も読者も無垢10代の少年でなくてはならないという近視眼的な幻想と、ジャンプ作家絶対コンスタントに週刊連載をしなければならないという既成観念を、葉巻を加えた気障な宇宙海賊サイコガン──精神力をエネルギーに変えるアイデア寺沢が生み出したものだ──は易々と破壊したのである

6.キン肉マン 作:ゆでたまご 1979年22号 - (週プレNEWSで連載中)

リングにかけろ確立したバトルマン路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品。いわゆる「友情努力勝利」という実際にはジャンプ編集部の誰も公言したことのないらしいパブリックイメージ単独で築き上げた。にもかかわらず、本作は国民作品とはみなされておらず、犯罪的なまでの過小評価に甘んじていると言わざるを得ない。マジでなんで?絵が下手だから嶋田SNSの使い方が下手だから

キン肉マンマンガとしてではなく文化的重要なのだと主張する類いの人間がいるが、そいつらの目と脳にはクソしか詰まっていない。ゆでたまごは絵の巧拙クオリティ関係しないことを証明し、あらゆる世代の男たちにマンガ熱狂する勇気を与え、信じがたいほど面白い作品を描いた。この作品を嫌う人たちもまず冷静になり、理解しようと試みるべきだ。

7.Dr.スランプ 作:鳥山明 1980年5・6号 - 1984年39号

鳥山明訃報を聞いた日、Kindleで買ったまま放置していたDr.スランプの1巻を読んでみた。久しぶりに読む本作はきっと悲しいほど古く感じるだろうと思っていたが、実際のところiPadの画面に映るペンギン村の住人達は今も新鮮味をもって感じられた。

本作は後にDBドラクエで知られることになる鳥山明がその才能の枝葉を伸ばし始めた作品である───と書けたらどれほど楽だったろう。枝葉どころかこの時点で大樹の幹である

言語以前の本能領域に鋭く迫り来る現実味を携えた絵は存在するが、そうした絵を毎週16ページのマンガで成立させる人間鳥山明以外には存在しなかった。頭の中にBlenderが入っているかのような立体的なデフォルメは、我々の住む現実世界とは違うところにもリアリティというもの存在しうることを示し、「マンガのための絵」であった劇画調を衰退させる最大の要因となった。

8.キャプテン翼 作:高橋陽一 1981年18号 - (キャプテン翼WORLDでネーム連載中)

Jリーグ創立の流れを生み出したともされる本作がサッカーマンガ界に残した遺産はなにか?もしかたらこのような問いの設定自体が誤っているようにも思える。高すぎるキャラクターの頭身、大真面目に繰り出される荒唐無稽な技の数々が目をくらますかもしれないが、高橋陽一が一貫して表現たかったのはひたむきな少年たちが織りなす爽やかな青春であって、こうした要素は他作品にも見られるものだ。彼がサッカーという題材を選んだのは単に「野球マンガはありふれているから」という理由だ。本作は期せずしてサッカーマンガというジャンルの中心に祭り上げられたに過ぎないのだろう。

それでも、我々はこの巨星に感謝するほかない。この作品が無ければサッカーを始めていなかったであろう日本中、いや世界中の少年たちが、みな大空翼という一つのアイコンに夢中になっていたのだ。マイナースポーツひとつに過ぎなかったサッカーメジャークラスに引き上げ、軍国主義に基づく根性論を相対化し、ひたむきにボールを追いかける楽しさを私たちに初めて教えてくれたのはこの作品だったのだ。

9.北斗の拳 作:武論尊原作)、原哲夫作画1983年41号 - 1988年35号

元増田を書いたときブコメ欄は「ぼくのはじめてのジャンプ」にまつわる涙なしでは語れない思い出たちで溢れかえったわけだが、はてブに入り浸る層の平均年齢を考えれば当然のことである

自分のようなおじさんにとって涙なしでは語れない系マンガの筆頭に位置するのが北斗の拳である1980年代中盤というのは、親しみやすいポップ路線と男臭い劇画路線がちょうどクロスオーバーする時期であった。今のメインストリームがどっちかは言うまでもないが、自分にとっては線が太くてむさ苦しい絵柄こそが少年ジャンプ原風景だった。

強くてカッコいい大人の男が弱肉強食戦場で己の命を懸け闘う...そんなジャンプ初期から続く系統の最高到達点かつ袋小路が本作である。このようなマンガ流行時代は二度と来ないとわかっているからこそ、特別な輝きを放ち続けるのだ。

10.きまぐれオレンジ☆ロード 作:まつもと泉 1984年15号 - 1987年42号

かわいい女の子を見るためにマンガを読む者と、そうでない者がいる。どちらがいい悪いということはないが、少なくとも創刊してしばらくのジャンプは前者に見向きもしない雑誌であったのは確かだ。うちには高橋留美子はいないんだよ、といった具合に。

きまぐれオレンジ☆ロード申し訳程度の超能力要素を除けば、一貫して思春期男女の甘酸っぱい三角関係に焦点を合わせ、かわいい女の子日常が描かれているだけだ。それのなにがすごいのか?別にすごくはない。ただ、エロくもなく大したギャグもなく荒唐無稽な展開もないふつうの男女の日常需要があることに、誰も気づいてない時代があったのだ。

まつもと泉は早くに体調を崩したこともあり、これ以降影響力ある作品を生み出すことはできないままこの世を去った。それでも、彼の鮮やかなトーン使い、歯が浮くようなセリフ回し、そして"かわいい女の子"以外に形容する言葉が見つからない鮎川まどかキャラデザを見返すたび、これをジャンプでやってくれてありがとう、と思わずはいられない。

11.ドラゴンボール 作:鳥山明 1984年51号 - 1995年25号

鳥山明が死してなおこの先何度も繰り返される問いだろうが、ドラゴンボールよりもワンピナルトの方がどれほど優れているのだろうか?そしてその答えを誰もが知っているのは何故だろう?これらの問いに対してどんな議論がなされようともすべて的外れ無意味である。それはこの作品が頂点だからだ。

鳥嶋和彦意向により、本作はバカげた後付けの設定や引き伸ばしをせざるを得なかった。それでも、マンガ金銭を生み出す道具と見做す人間たちのあらゆる商業的な意図を超えて、本作はそれ以前、以降に掲載されたあらゆる作品を軽々と凌駕する金字塔となった。

11年に渡る孫悟空冒険をもって、鳥山明日本マンガ文化世界最高のものであるという事実を叩きつけ、自身手塚治虫赤塚不二夫つげ義春萩尾望都藤子F不二雄、高橋留美子と並び立つ歴史上最高のマンガ家の一人であることを証明したのである

12.聖闘士星矢 作:車田正美 1986年1・2号 - 1990年49号

車田正美リンかけ過去ジャンプ作品再生産を初めて試みたと述べたが、それを自分自身作品でやった人間も車田が最初であった。自身のやりたいことを詰め込んだ男坂が衝撃的なまでの不人気に終わった反省から、彼は自身の原点に立ち返りつつもよりスケールを拡大した再生産をやることを決めた。

彼はギリシャ神話宇宙子供向けと大人の女性向け、劇画プラモデルといった要素を交互に行き来しながら、自身が積み上げた様式美世界前人未踏領域まで押し上げた。聖闘士に同じ技は二度通用しないが、我々読者は何度でもこのパターンを欲してしまうのだ。

13.ジョジョの奇妙な冒険 作:荒木飛呂彦 1987年1・2号 - (ウルトラジャンプで連載中)

ある一定世代人間からは、ジョジョという作品はいつも巻末に掲載されている時代遅れな絵柄のつまら作品という評価が下されることがあり、そこには50%事実と、50%の誤った認識が含まれている。

荒木飛呂彦の絵柄が彼の見た目と同様あまり本質的な変化がないことについてはその通りだ。だがいくら彼より本誌での掲載順が上であろうと、革新性・才能・実験精神という点で彼より優れた人間果たして何人いただろう?

幽波紋と、理不尽能力値のインフレを伴わないバトル描写は、彼が残した功績の中で最大のものであるキャラクターが持つ能力を、作者の演出の道具として使うのではなく、自律したキャラクター同士の駆け引き領域に落とし込むことに成功したのだ。

我々はフィクションの中での整合性を厳しくジャッジすることに慣れっこになっているが、それに耐えうるものを初めて生み出したのは荒木だった。彼以降、マンガを読む行為は絵と吹き出し表現された作者の脳内世界をくみ取る作業ではなく、自律したキャラクターたちと同次元に立ちその思考を辿るものとなった。荒木は真の意味で我々をマンガ世界に誘ったのである

続き→anond:20241026155213

2024-10-20

anond:20241020080222

表現リバタリアンの人たちはわかってないけど、子供は守るものという観念世界全体にあるから二次元といえど規制なしは無理。二次元における児童ポルノ現実に一切影響しないという論拠を出せない限り無理。

2024-10-18

続・2024年衆院選表現の自由アンケートで気になった回答

引用元第50回衆議院議員総選挙の候補者に向けて実施した表現の自由についてのアンケート結果

神奈川8区

三谷 英弘(みたに ひでひろ) : 自由民主党

設問(1-a):

法令規制するべきではない

設問(1-b):

山田太郎氏の「推し候補なのですが、スタンスはともかく手抜きな回答で残念。

神奈川12区

阿部 知子(あべ ともこ) : 立憲民主党

設問(1-a):

法令規制すべき

設問(1-b):

日本は、子どもポルノ世界発信基地と言われるほど、諸外国から非難を浴びている。子どもを、大人の性や暴力のはけ口として扱うことは絶対に許されません。性被害暴力を誘発する商産業は根絶すべき。

設問(2-a):

表現の自由”といえでも人権侵害はNO!

設問(2-b):

表現の自由は守られるべきです。しか人権侵害を犯してまで、その自由が守られるとは考えません。特に無抵抗、声を上げることが困難な子ども女性対象物とする差別人権侵害は許されない。

立憲のフェミニズムに由来する表現規制最右翼という回答だったので、ピックアップしました。「児童ポルノ」ではなく「子どもポルノ」を使っていますので、筋金入りだと思われます

神奈川15区

河野 太郎(こうの たろう) : 自由民主党

設問(1-a):

法令規制するべきではない

設問(1-b):

性的暴力等の表現対象となるキャラクター架空のものであり、被害者が実在するわけではない。色々なものに縛られない自由な発想こそが日本コンテンツ制作の強みである。これを規制する動きをすべきではない。

実在児童被害者が存在しないことを明言しており、評価できます

愛知12区

青山 周平(あおやま しゅうへい) : 自由民主党

設問(1-a):

どちらともいえない、答えない

設問(1-b):

青少年健全育成などを理由にしたマンガアニメゲームなど創作物に対する過度な規制には反対する

自民党候補者青少年健全育成を名目とした表現規制に反対するのは珍しいです。この方は旧統一教会とは昵懇のようなので、尚のこと。もっとも反対しているのは「過度な」規制ですが。

三重2区

川崎 ひでと(かわさきひでと) : 自由民主党

設問(1-a):

どちらともいえない、答えない

設問(1-b):

表現の自由尊重されるべきです。一方で必要最小限度の制限を受けるべきとも考えます特に児童性的搾取虐待につながる表現については、社会全体で厳しく対処していく必要があります

設問(2-a):

クレジットカード会社の決済制約, ポリコレ言葉狩り

設問(2-b):

特定表現に対する決済を制限することは、表現の自由を不当に制限する可能性がある。行き過ぎたポリコレは、言葉狩り表現規制につながり、多様な意見表現を封じ込めてしま可能性がある。

千葉4区

水沼 秀幸(みずぬま ひでゆき) : 立憲民主党

設問(1-a):

どちらともいえない、答えない

設問(1-b):

表現の自由は守られるべき権利であり、多様な表現があること自体は素晴らしいことですが、他人名誉を傷つける表現、多くの人を不快にしてしま表現が、深刻な事態を招いていることも、また事実であるため。

設問(2-a):

クレジットカード会社の決済制約

設問(2-b):

民間企業個人に対し表現規制を行っている可能性があるため。クレカはもはや決済インフラであり、現金では合法的に売買可能取引カード決済時のみ恣意的規制をすることは認めるべきではないと考えるため。

東京28

高松 智之(たかまつ さとし) : 立憲民主党

設問(1-a):

法令規制するべきではない

設問(1-b):

表現の自由は限りなく守られるべき権利であるから

設問(2-a):

クレジットカード会社の決済制約

設問(2-b):

決済事業者自主的規制を掛けることはふさわしくないから。

設問2-bでクレカ決済に言及している御三方

滋賀1区

斎藤 アレックス(さいとう あれっくす) : 日本維新の会

設問(1-a):

法令規制すべき

設問(1-b):

暴力的、過激性的表現犯罪行為助長正当化させることにも繋がり、暴力行為性犯罪を駆り立てるきっかけにもなりかねず、児童を守るためにも法令規制するべきでる。

設問(2-a):

ポリコレ言葉狩り等, ジェンダー平等論に基づく創作規制

設問(2-b):

ポリコレジェンダー平等を基にした創作規定は、差別の防止を目指す一方で、特定視点価値観強制により、表現の自由を妨げる可能性がある。

京都5区

山本 わかこ(やまもと わかこ) : 立憲民主党

設問(1-a):

どちらともいえない、答えない

設問(1-b):

社会子どもを守る責任があり、児童性的描写することは厳重に規制すべき。同等の作品存在で、暴力性的搾取が許容される文化形成される可能性があり、規制を強化すべき。

設問(2-a):

ポリコレ言葉狩り

設問(2-b):

ポリコレ意識による行き過ぎた表現報道観念の押しつけは表現の自由を阻害するのではないか

法規制を(半ば)肯定しつつ、ポリコレジェンダー平等のような概念棒での表現の自由の制約を懸念しているのは珍しい気がします。

大阪9区

ながさき 由美子(ながさき ゆみこ) : 社会民主党

設問(1-a):

どちらともいえない、答えない

設問(1-b):

表現の自由憲法保障される基本的人権であり、それを国家制限する検閲が行われてはいけない。性的暴力表現について、現行以上の規制を導入する際は、表現の自由を侵さないか慎重な議論必要である

設問(2-a):

規制の内容、必要性を個別判断すべき

設問(2-b):

表現の自由憲法保障される基本的人権であり、他者権利と衝突する場合等を除き、国家がそれを制限することがあってはならない。規制を行う場合は、個別規制必要性・相当性を慎重に検討すべきである

沖縄2区

新垣 邦男(あらかき くにお) : 社会民主党

設問(1-a):

どちらともいえない、答えない

設問(1-b):

表現の自由憲法保障される基本的人権であり、それを国家制限する検閲が行われてはいけません。性的暴力表現について、現行以上の規制を導入する際は、表現の自由毀損しないか慎重な議論必要です。

設問(2-a):

規制の内容、必要性を個別判断すべき

設問(2-b):

表現の自由憲法保障される基本的人権であり、他者権利と衝突する場合を除き、国家がそれを制限することがあってはなりません。規制を行う場合は、個別規制必要性・相当性を慎重に検討すべきです。

社民党はこのお二方を除き、設問1-aで法規制肯定していました(計4名)。投稿後に気が付きましたが、ほぼ同内容ですね。

大阪10区

尾辻 かな子(おつじ かなこ) : 立憲民主党

設問(1-a):

どちらともいえない、答えない

名前に見覚えがある方もいるかもしれませんが、『雀魂』の『咲』コラボ広告炎上させようと頑張っていた人です。

香川2区

玉木 雄一郎(たまき ゆういちろう) : 国民民主党

設問(1-a):

法令規制するべきではない

設問(1-b):

表現の自由は守られるべきです。公権力による表現規制が入ることで、クリエイター自由創作意欲が抑制されることがあってはなりません。当事者を交えて、著作権法に限らず幅広く政策議論する必要があります

設問1-aで「法令規制するべきではない」を選んでいる、唯一の党首です。

比例東京

伊藤 和子(いとう かずこ) : 日本共産党

設問(1-a):

どちらともいえない、答えない

設問(1-b):

表現の自由プライバシーを守りながら、子どもを性虐待性的搾取対象とすることを許さな社会 にしていく必要があります。そのために自主的な取り組みを促進していくことが大事だと思います

名前を見て最初驚いたのですが、同名の弁護士とは別人です。

比例東京

本多 平直(ほんだ ひらなお) : 立憲民主党

設問(1-a):

法令規制するべきではない

設問(1-b):

表現規制反対派としては古参ですが、立憲の性交同意年齢の引き上げに関する議論のいざこざで議員辞職された方。

秋田1区

寺田 学(てらた まなぶ) : 立憲民主党

設問(1-a):

どちらともいえない、答えない

設問(1-b):

設問(2-a):

回答を控えます

設問(2-b):

設問(3):

柔道部物語ゴリラマンゴースト・オブ・ツシマ

その本多平直氏の「追放」に一役買った方。私の好きな作品アンケートへの回答といった内容です。

続き

2024-10-17

美緒48歳って漫画

最後に「配偶者なし」「子供なし」とあるけれど、

いや、ありの方がずっとヤバいだろ…いないのは不幸中の幸いだろ…って思う

あのキャラ配偶者子供がいたら、絶対に夫からDVからの子虐待コースでしょ

そういうニュースはいくらでも聞くじゃん

それならば一人孤独に死んでいくなり行政のお世話になるなりした方が、絶対にいい

作者は女性らしいけれど、女には男がいないと不幸っていう凝り固まった観念で描かれていて、何だかなー

ていうかもちづきさんといい、女の不摂生面白おかし嘲笑コンテンツがバズっていてつくづく不快

2024-10-14

anond:20241013115053

さすがに釣り針が雑い。

結婚できない」「搾取されてる」「庶民と同じ暮らししかできない」だけ? 全部観念で片付く話じゃん。この投稿からは、「弱者男性」として生きる苦悩や生きづらさみたいなものが、微塵も見えてこない。舐めんな。AIももう少しましな作文を書くだろ。

2024-10-13

名作といわれるドラマおしんをみたので感想を書く その4

https://anond.hatelabo.jp/20241010224911から続く

おしん物語根底を流れているのが、「恩」であり「仁義であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語ハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。

今回は、物語類型としての「おしん」をみてみたい。

流浪するおしん股旅物としての評価

おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしん1901年昭和天皇と同年に生まれた設定である

そしておしんが生きた少女時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治回想シーン時代を一気に2世代くらい遡るときタイムトリップ感が半端ない

1983年おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的大手スーパーへの並木土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店隠居の大旦那並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである

それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。

おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである

おしんと人の縁

おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどいしかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語類型ひとつで、一宿一飯の義理人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人やくざなどが主人公である股旅物の元祖長谷川伸は、その後の日本小説戯曲、そして映画テレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である明治が遠く過ぎさり、大衆大正デモクラシー自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である

おしん回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことな股旅であるしかし、おしん物語面白いところは、浪花節陳腐化し、古臭いものになってしまった現代1980年代)と交差している点である

キーワード加賀屋への恩】

並木浩太とおしん最初出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋加賀屋奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売イロハから茶道裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしん人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命うんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動活動家・浩太と出会った。酒田訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初出会いであるおしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシー時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動先進的だと中身もわからず憧れていたのである農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動ロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしん小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋奉公へ行く決心をしたのであるいかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである

ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心最初からおしんが好きだったのである

おしんは加代の家出理由加賀屋に伝えることが忍びなく、おしん加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしん女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さら実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。

一方、加代は、浩太の心がおしんしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。

キーワード日本髪結いのおたかへの恩】

こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしん東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結い師匠たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。

しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである

大衆身分から解放され、より自由髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかおしん独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚挨拶たかを訪れたとき言葉である。その時、5人いたたか弟子はついにたった一人だけになっていた。

田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代おしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である

一方、田倉商店開店休業状態に陥るほど経営悪化していたが、おしん髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たか相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店再生が進んで、おしん洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災おしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである工場火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀ゆっくり休みたかおしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄佐賀編がスタートすることになった。

さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしん佐賀地獄から脱出を心ひそかに誓い、東京師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのであるたかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしん絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。

こうしておしん流転の人生が始まる。屋台出店からまり故郷山形酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである

キーワード:浩太の恩】

浩太の実家貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢実家網元のひさの家であった。浩太は、流浪人生を送るおしんを見かねて、伊勢網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄酒田の飯屋をやってきたおしんめし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。

伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしん魚屋をやる決意をしてくれ、おしん人生好転し始めていた。

一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代苗字も変えなかった。

一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。

田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望兄弟のように母おしん魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。

屈折10年、陶芸師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。

股旅物を取り込んだ現代劇~義理人情は古臭い観念かという現代人への問いか

さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ1983年の場面)に戻りたい。

仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。

ここには、自ら築き上げてきたスーパー廃業も辞さなおしんの思いは、長谷川伸の「夜もすがら検校」で大切な琵琶を燃やしてまで恩に報いたい思いと通じるものがある。

ドラマ構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしん戦後現代にいたる高度経済成長おしん自身義理人情を忘れてしまたことに気が付く、というメタで重層的な構成であるおしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパー事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしん問題17号店開店当日、失踪する。この世話物時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である

2024-10-09

自分人生が上手くいかない言い訳ができない話

SNSだと身内を嫌な気分にさせるし、自分も人のどうでもいい話で気分を落としたくないか匿名のここに書きます。これを読んでお手軽に気分悪くしてコンテンツとして消費してほしい。

人生が上手くいかない。最近(ここ数年)本当に面白くない。頭が多少良かったこしか取り柄がなかったのに、最近は机に向かうことすら難しい。朝起きるのが怖くて寝れないし、朝は体が重くて布団から出られない。最近は良くなったが2日に一回は耐え難い頭痛で行動不能になっていたし、5kg/年で太っている。余裕がなくてキレやすくなってるのに、脳のキレは悪くなっているのを色々な面で実感する。

多分、分不相応学問世界に食らいつこうしたことで何らかの精神疾患を抱えているのだが、悲しいことに自分能力努力不足しか原因が見つからない。

家庭環境は良好だし、住む場所もあるし、親に高い教育投資をさせたし、いじめられた経験もないし、海外経験もあるし、そこそこいい大学にも入ったし、別にアカハラなりパワハラする人間もいなかったし、研究環境日本の中では上澄だった。人生で関わった人間は皆優秀でいい人だった。ある程度優秀な親からまれ人間にこれだけ投資すれば、まあ普通に優秀な人間が出力されるだろう。あなた人生で直面した人種差別や生育環境での困難にどう立ち向かいましたか?って作文が書けなかったくらい恵まれていた。でも今は心が折れて何も成し遂げていないし、努力もできなくなった。

有難いことに仲のいい(と思っている)友人もいる。皆頑張っているし幸せそうだ。メンタルヘラっている俺に会う余裕もあ る。そこだけは嬉しい。じゃあ何でお前だけ何も成し遂げられていないんだ、と自分に聞いても、自分の外部に原因が存在していない。

強いて言えばコロナ関連で色々ぶっ壊れたのだが、俺以外の全人類がこれで苦しんだので言い訳にするには弱い。もっと鮮烈な、例えば幼少期の家庭環境不和貧困人格を歪めるレベルストレス、疾病などなどがあればそれに依存できた。でも何もない。純然たる自己責任事実として常に俺を責めてくる。

こんなに恵まれ人生で何ウダウダ言ってるんだと思う人が大半だろうし、俺もそう思う。もっと辛くても頑張っている人はいるし、別に今空腹やストレスで死にそうになっているわけでもない。希死観念もそんなにない、じゃあ何でパフォーマンスが最大限発揮できない?ストレスの根源が自分から何をしてもストレスが消えないし、何か楽しいことをすると反動で気分が沈む。

精神疾患が甘えじゃないのは頭では理解しているが、言い訳に使いたくない。そもそも自分無能病気のせいにしたくない。

よくインターネッツの住人が人間成功要因を環境or努力薄っぺらい2択で議論しているが、俺は恵まれ環境努力して上手くいかなかった。残った運のせいにするのか?人としてダサすぎるだろ、それは。じゃあ自分しか悪くないよ。

俺が不幸(だと思い込んでる)なのは関わる人間全てに良い影響を与えないし、普通に申し訳ない。そもそもこんな文を書いて自分と読者を不幸にさせているのが間違い。要はメンタル自傷行為を頭でずっとしているし、ついに今それを人に見せようとしている。終わりやね。

俺は何がしたかったんだ?今何をするべきなんだ?何も答えは出ない。研究が好きな賢かったはずの脳は既に壊れていて、現実逃避問題先延ばしだけを俺に命令してくる。緩慢な自殺をしている気分。

〈まとめ〉 

ガチャ:SSR

ガチャ:SSR

環境ガチャ:SSR

人間関係ガチャ:SSR

これで人生上手くいかないってマジ?どんだけ無能なんだよ…リスカしョ…

〜完〜

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