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「教え子の 胸に灯しし そのひかり 絶ゆることなく 世を照らしけり」
柳 傲雲『照道遺詠』より
一、詩人・柳 傲雲について
柳 傲雲(りゅう・ごううん、紀元前192年~紀元前120年)は、前漢時代中期に活躍した思想詩人であり、孔子以降の「徳の詩人」として名を馳せた人物です。
若年より老荘・儒家・墨家の教えに通じ、詩を通じて「師弟の縁」や「教えの永続性」を主題とした作品を数多く残しました。
晩年には宮廷を離れ、楚の山中に隠棲し、弟子たちに囲まれながら「照道遺詠」という詩集を著しました。本作はその中の最後の詩とされています。
この和歌は、表面的には師の死を悼む詠でありながら、真に歌われているのは「教えの光の永続性」です。
教え子の 胸に灯しし そのひかり
師は言葉や行いによって、教え子の胸に灯(ともしび)を灯した。
絶ゆることなく 世を照らしけり
その灯は師の死によっても消えることなく、教え子の行いを通じてさらに世界を照らし続ける――。
この詩には、儒家思想の「仁」や「伝道」、道家の「自然と永劫」の観念が絶妙に融合されています。
また、「灯」という語の使い方は仏教的な転生・灯明思想を先取りしているともされ、一説には仏典が中国に伝来する以前に、すでに精神的な「継承と光明」の象徴表現を確立していた証左とも言われています(※創作的解釈)。
三、後世への影響
柳 傲雲のこの詩は、後世の科挙制度における受験生たちの座右の銘とされ、師弟関係の理想像として長らく引用されました。
唐の杜甫はこの詩を範として「懐師詩」を詠んだという伝承もあり、宋代の朱熹は『朱子語類』の中でこの詩を「教化の極み」と称しました。
この詩が現代においても語り継がれる理由は明快です。人は去っても、志は残る。光は受け継がれ、やがて新たな光源となる。
教えるという行為は、単なる知識の伝達ではなく、「未来の光を託す営み」であるという深い真理を、たった31音で語りきったこの作品は、まさに時空を超えた遺産なのです。
結局は女の声をAIに食わせたいだけだろ?
♥️ 341 🔁 123 💬 87
これ性暴力の延長線でしょ
♥️ 701 🔁 208 💬 150
♥️ 93 💬 14
👤 @ケンモメン的垢
魂をコピーしてどうするの?
どうせ「オレの嫁AI」とか作って孤独死ブーストかかる未来しかないじゃん。
♥️ 217 💬 36
👤 @創作語り厨
魂をコピーする?
十年描いてきたんだけど?殺すよ??
♥️ 409 🔁 52 💬 71
「魂がコピーされたら嫌だ」って言ってるやつ、
お前の魂、Google翻訳通しても変わらない程度のもんだろ。
♥️ 150 🔁 10 💬 63
魂のコピーはね、
グローバリストが信仰をデータ化して支配するための布石なんですよ。
それをAIがやってるって気づかない?
♥️ 113 💬 22
魂って言葉使えば偉そうに聞こえると思ってるやつ、
♥️ 77 💬 18
魂のコピー?
は? 女は毎月内臓を失ってんだけど?
魂とか語る前に黙って血を流せ。
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👤 @スラップの王
反AIのやつら全員俺に訴えられればよくね?w
♥️ 60 💬 3
AIに魂なんかねえよ
♥️ 305 💬 44
魂コピー最高やん!
魂コピーできるんなら、
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みんな「それっぽい響き」で殴ってるだけやん
♥️ 204 💬 17
👤 @ポエムで殴る人
それを魂と呼ぶ人がいなくなった瞬間に、
魂はただのPDFになる。
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👤 @無限RTbot
たぶん「親に褒められた記憶」すらないんだと思う。
♥️ 801 🔁 211 💬 203
👤 @V界隈の住人
魂のコピーとか言ってるけど、
♥️ 603 🔁 102
2009年に帰りたい。
♥️ 119 💬 5
この仏教系の著者
昔はけっこうたくさん買って読んだ気がする
けど今読むと、なんかこう、これじゃ無いかな、という感じだ
ありがたい考え方でそれは理性的かつ倫理的にも正しいのかもしれないが
たとえばもしこの人が友人などの親しい相手だったとして
話すだけ無駄だったなと、愛想笑いをしてそれ以上踏み込まず、フェードアウトする そういう感じ
話が通じない
宇宙人と話してるみたいな
寄り添ってくれず、なんなら切り捨てるようにさえ感じるばかりの
ありがたくも理想論ばかり
日本人の月見という習慣はそういう美意識がどっかで湧いたってわけじゃなくて「典故」と「信仰」の二つのルートがあるのですのだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2531074
典故ってのは何かにつけて漢籍(漢文の本)を引用したりなぞらえること。特に風物表現で多いのが漢詩。
例えば「四季」ってのは漢詩で季節を表現するのに擬えて和歌を詠んで散文にも応用されて行ったもんだし、日本文化独自性が高い俳句でも多い。
また例えば芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」って俳句を詠んでるけど、西施ってのは中国四大美女の一人で、悲劇の死を遂げた女性。んでさ、この人が溺死させられたって伝説があるので西湖と名付けられた湖があるんだけど、ここって今は内陸の湖なんだが昔は潟湖(ラグーン)だったのよ。で、芭蕉が訪れた時代の象潟もラグーンで、松島のような多島海でとても美しかった。でもそこで「きれい」って言っちゃうとあたまのわるいひとイラストみたいになっちゃうってんで、悲劇の美女西施→潟湖の西湖の風景という諧謔というか教養連想ゲームをやってるわけです。
やべぇ例示だけなのに長くなってしまったな。因みにこの象潟は芭蕉の後に地震があって、輪島の海岸みたいに隆起して芭蕉が感嘆した景色は無くなってしまった。今は田んぼの中に丘が点在する風景になってる。
こんな風に昔の日本は漢籍を引用するのが教養だったんで、そういう知識は最早常識だったんやな。
んで、月見の方も平安時代に貴族がやり始めたんだけど、やっぱり漢籍の記述で中国で古代からやってるという中秋節を真似たんや。旧暦8/15(太陽暦では9or10月)に月餅やら何やらを並べて宴をする。貴族の間でもっと多かったのが船を出して、水面にゆらゆらと写る月を眺めて宴をしてうたを詠んだりしてた。こういうのを観月という。
んで、これが段々と庶民にも伝播して行ったらしいんだけど、正直江戸時代までの間の庶民の動向って言うのはよー判らんのや。何故なら庶民文化が栄えたのって江戸時代で、それまでは庶民間の事柄を紙に記すって事が殆どなかったから。
で、もう一つのルートが月待講ってやつ。江戸時代には庶民が比較的裕福というか生活に余裕ができ、色んな民間信仰が現れた。そしてそれらが紙に残った。
例えば山講。山ってのは霊的なもので、それに登るって事が霊的体験とされていた。山は女人禁制で「○○山講」という幟をもって山伏みたいな格好で延々と歩いて行って登山を敢行する。信仰の場だったのだな。
富士山が世界遺産に登録されたのは、別に日本人に愛されてるからとかじゃなくて、こういう信仰があって今の登山がそれと連続的って事ですのよ。
例えば庚申講。道教とか神道、民間医療なんかがごちゃ混ぜになった信仰で人間の体には三尸(さんし)の虫っていうのが住んでて60日ごとの庚申の日に寝てる間に閻魔大王に悪事をチクるから徹夜で宴会してチクるのを止めさせようぜという、今となってはなんだそれな信仰だ。
都電に「新庚申塚」って電停がある様に、日本中あちこちに庚申塔が建てられてその近くの家で飲み食いされていた。今はこんな風に放置されてる。
https://maps.app.goo.gl/FM8d8fD19SAK3Ubc7
こういう「講」(信仰の寄合)の一つに月待講というのがあった。お月様信仰やな。
月には月齢があって、新月、三日月、満月、半月と形が代わるけど、その各々に別個の信仰があった。んで、この信仰は別にお月様だけに影響を受けてるんじゃなくて、土着の信仰が仏教と結びついていた。
仏教では色んな観音様や菩薩が居るけど、月齢ごとに別の本尊を崇めていた。この辺はカトリックの職業別聖人信仰に似ているね。
月齢ごとに信仰があると言っても、今みたいに電車と車で好きな場所に行ける訳じゃないから、この村は○○夜、あの街は○○夜と分かれていた。
で、その中で非常に多かったのが二十三夜、十九夜、十五夜だったってワケよ。
二十三夜は特に多くて、日本中に地名として残ってる。こんな風に
https://maps.app.goo.gl/KDXw6ZBhwiyA4bYZ7
また、「三夜」と省略されて地名になっている所も多い、三夜様とかね。
もう一つ特別なのが十九夜で、これは如意輪観音が本尊。右膝立てて右ひじ突いてる観音様だ。
これは「安産講」として特別で、女の人以外は参加禁止の集まりだった。
これも十九塔があちこちに残っているが、地名としては「子安」というのが残ってる場合が多い。
「子安寺」が子安の由来の場合も多いが、そもそも昔の寺には色んな神様も祀られていた神仏習合だったんで、当然十九夜待が行われて居た寺もあって、それで子安寺になったケースもあるのだな。
十五夜はいうまでもなく満月待やね。本尊は大日如来、阿弥陀、薬師、観音様、地蔵、虚空蔵と、オールキャストだ。
で、庚申講もそうなんだが、段々信仰がどうこうっていうのはいい加減になって行って、単なる寄り合い、宴会、食事会の言い訳になって行っちゃうわけよ。十九夜とかも「観音様、どうか子宝と安産を」と願うっていうよりただの女子会になってまう。「観音様が持ってる宝珠ってチンタマーニって言うんだって」「うちの亭主も二つ持ってるワイよギャハハ」とかなっちゃうってワケ。
それで段々都市化が進むと寄合なんてジジババくせえとか軽視されて廃れて行っちゃった。でも場所によっては昭和40年代まではやってたらしい。
月見でお団子お供えして食べるっていうのは完全にこっちの月待講が由来なんね。
一方、ススキ飾るのは、旧暦8/15(太陽暦9or10月)の中秋節由来やね。
だから二つがごっちゃに混ざってるってこと。
新月の次の日:既朔
十四夜:小望月、待宵
十六夜:既望
十七夜:立待
十八夜:居待
十九夜:寝待
廿夜:更待
これも漢籍典故による特別視から月待などの各月齢ごとの神聖視へと変化していくにあたって生まれた表現と考えられるのだ。
日本産ゲームのリプレイ動画とか見てると、このへんのことが海外では認識されていないので「これってなに?」みたいな英語コメントが付いているのを目にするのだ。まぁそれは当たり前だ。
大抵、西洋のルナティック=満月が人を狂わす、と日本の月を愛でる習慣、月のうさぎが合わさっているので割とハイコンテクスト。
でもそれに日本語で答えているコメントが月を愛でる習慣が信仰から来ているってことが判ってないので説明できていないっていうのを目にする。
近所の今まで気が付かなかった「○○夜」「子安」の地名を発見して訪れてみるっていうのも自文化の勉強なんですよ、草むらの中に○○夜塔が残っているのを発見するって事もあるんですのよ。
ついでに花見なんだが、これも昔からある風習だったけど、江戸幕府が奨励して盛んになったんすよ。
江戸幕府は水防工事を沢山やったんだけど、堤防って突き固めが緩いと崩れてきてしまう。でも昔は機械が無い。
そこで堤防に桜を植えて「花見やれ」と奨励したのだ。すると毎年人がどやどややってきて歩くから土が締まるって寸法だ。だから川べりには桜が多いのだね。特に古い堤防は桜の名所になっているってわけ。つまりは官製文化の面があるの。
三木大雲氏の言葉「食事と言葉を変えれば、天禄を書き換えられる」は、仏教的な視点から見ると非常に興味深い教えです。
ここには因果(カルマ) や 縁起(すべてのものは相互に依存している)という仏教の核心的な思想が反映されていると考えられます。
仏教では、人生は 宿命(過去世の業による影響) と 運命(現在の行いによって変化するもの) の組み合わせによって成り立っていると考えます。
つまり、「天禄を書き換える」とは自身の運命を変え、より善い方向へ進めるという意味でしょう。
仏教において食事は、 心と身体を浄化する手段であり、特に精進料理や五観の偈(ごかんのげ)に見られるように、食べること自体が修行の一環とされています。
食事を変えることは、身体の健康を保つだけでなく、心のあり方にも影響を与えるということを意味します。
例えば、暴飲暴食や肉食中心の食生活は、貪り(貪欲)の心を強める可能性があります。
一方で、質素でバランスの取れた食事は、心を安定させ、執着を減らし、精神を落ち着かせる助けになります。
たとえば、動物性食品を減らすことは、不殺生(アヒンサー)や慈悲の実践につながります。
その結果、良い業(カルマ)を積み、自身の運命(天禄)をより良い方向へ変えることができるのです。
仏教では、言葉は単なる音の連なりではなく、大きな力を持つものと考えます。
特に、「正語(しょうご)」(正しい言葉遣い)は、八正道の一つにも挙げられています。
悪い言葉(暴言、嘘、悪口、無駄話)は、相手を傷つけるだけでなく、自分自身の心を荒らし、周囲との関係も悪くします。
逆に、優しく、誠実で、慈悲に満ちた言葉を使えば、良い縁を生み、より良い人生を築くことができます。
日々の言葉を変えることは、自分の意識を変え、周囲の環境を変え、結果として未来(天禄)を変えていくことにつながるのです。
三木大雲氏の言葉を仏教的に解釈すると、「日々の食事と話し方を意識することで、自分の運命(カルマ)を良い方向に変えることができる」 という意味だと考えられます。
これは単なる迷信ではなく、実際に行動を変えることで、人生の流れが変わるという仏教の教えに通じるものです。
食事を慎み、言葉を正せば、心も穏やかになり、結果としてより善い人生へと導かれる、これはまさに仏道の実践の一つと言えるでしょう。
禅僧の視点から見ると、世界の混乱は私たちの「心のあり方」と深く関わっています。仏教では、世界の出来事は「外の世界」に起きているのではなく、私たちの「内なる心」に反映されていると考えます。
仏教では、世界の混乱は「三毒(三つの根本的な煩悩)」によって引き起こされると説かれています。
1. 貪(とん, 貪欲) – 欲望が尽きることなく、もっと多くを求め続けること。国家間の争いや環境破壊の多くは、果てしない欲望から生まれます。
2. 瞋(じん, 怒り) – 怒りや憎しみが私たちの判断を曇らせること。戦争や対立の多くは、この「瞋」によって引き起こされます。
3. 痴(ち, 無知) – 物事の本質を知らず、無明のまま生きること。他者を敵とみなし、自分と他者を分けて考える無知が、多くの苦しみを生みます。
禅の教えでは、「世界の混乱は、私たち一人ひとりの心の混乱の反映である」と考えます。つまり、社会の問題は、まず自分自身の内側を見つめ直し、整えることでしか解決できません。
「外の世界を変えようとする前に、まず自分の心を調えること。」
禅の修行では、世界の問題に囚われすぎず、ただ「今、ここにあること」を大切にします。混乱の中でも、心を落ち着け、今この瞬間に意識を向けることで、平和を自分の内側に見出すことができるのです。
もし世界が混乱していると感じるなら、まず自分自身の心を整えましょう。日々の生活の中で、次のことを実践してみてください。
世界の混乱を嘆くのではなく、自分の心の平和を育むことで、周囲に穏やかな影響を与えることができます。それが、禅的な生き方です。
どうか、静かに自分の心を見つめる時間を持ちましょう。世界の混乱を外側だけの問題とせず、自らの内側から平和を生み出すことが、大切なのです。
神社ヘイトではないが、神道団体がなぜ困るか、欧州史から見てみよう
紀元前は、セム語圏にはユダヤ教やアニミズムがあった。インド・ヨーロッパ語圏にはギリシャ神話があった。
後者はユダヤ戦争でユダヤ教徒を追放し、新しい英語でキリスト教を広めた
セム語世界はユダヤ教やアニミズムから離れ、アラビア語でイスラム教を広めた
まず黒曜石を求めたインド・ヨーロッパ語(西側ともいう)は南米貿易で栄えたが、一方でマヤやアステカは感染症で滅びた。他国を滅ぼしたことは汚点となった
鉱山を求めた西側は仏教国の日本で明治維新をして神道を復古させ、軍国化を推進
ゴムや石油については西側は、セム語圏のオスマン帝国に、ユダヤ教国イスラエルを復古させ、ここでも戦争
(化学技術を担当した小国ドイツのナチスがユダヤ人を追放した)
つまりユダヤ教(イスラエル)や神道(日本会議)は、英語派が復古させた政治団体で、歴史は古いというが組織自体は新しい。そして格差政策(有事の統制政策)維持のために保護されている。
合掌しながら言ってるのがヒントになってる
もうすこし噛み砕くと、幼稚園とがお寺だったりして、そこで給食の時間に説法をされる
あなたの中に「すごいものを作りたい!」という情熱があることは素晴らしいことです。
しかし、それが執着になり、心を苦しめているならば、その執着を和らげる方法を探ることが大切ですね。
仏教では「執着(タナー)」は苦しみ(ダンマ)の原因の一つとされています。
特に、自分の価値を「すごいものを作れるかどうか」に結びつけてしまうと、思い通りにいかないときに苦しみが生まれます。
執着を手放すことは、「やる気をなくす」ことではなく、心を自由にすることなのです。
「すごいもの」とは何でしょう? たくさんのスターをもらうこと? 多くの人に使われること? それとも、あなたが心から楽しめるものを作ること?
もし「他人の評価」が軸になっているなら、それは無常(アニッチャ)なものです。他人の評価は変わり続けます。それに振り回されると、心は安定しません。
GitHubでの創作が「結果を求める手段」になっていませんか?
仏教では「現在の行い(カルマ)こそが大切」とされます。結果を気にしすぎると、今この瞬間の学びや喜びを見失ってしまいます。
→ 「すごいものを作る」のではなく、「作ること自体を楽しむ」と意識してみてください。
今は「すごいものを作りたい」と思っていても、未来のあなたはまた違う価値観を持っているかもしれません。
「今の自分の気持ち」も移ろいゆくものだと理解すると、そこに執着する必要はなくなります。
もし「すごいものを作りたい」という気持ちが苦しみを生んでいるなら、「他の人が少しでも便利になるものを作る」という視点に変えてみてはいかがでしょう?
✅ 「何を作るか」より「作る時間を味わう」
✅ 「結果」ではなく「今この瞬間の学び」にフォーカス
あなたが「すごいものを作りたい」と思う気持ちは、決して悪いものではありません。
ただ、それが苦しみを生んでいるなら、少し肩の力を抜いてみるのもよいでしょう。
禅の視点から見ると、その男の主張は「心がすべてを決定する」という仏教の基本的な教えと響き合います。
これは「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」すべての現象は心によって形作られる、という教えと深く関係しています。
牢屋に囚われていても、もし心が自由であれば、その人は決して囚われているわけではありません。
逆に、外見上は自由でも、執着や妄想に縛られているならば、その人は牢屋にいるも同然です。
禅では「外の世界を変えるのではなく、内なる心を調えることが真の解放である」と教えます。
例えば、中国の禅僧・六祖慧能(ろくそえのう)は「心が自由ならば、どこにいても解放されている」と言いました。
また、臨済宗の開祖・臨済義玄(りんざいぎげん)も「心の王であれ」と説いています。
つまり、自分の心をしっかりと観察し、妄想に振り回されずにいるならば、どこにいても宇宙を支配するほどの広大な心を持つことができるということです。
支配するのではなく、「手放す」ことによって、本当の自由を得るのです。
「宇宙を支配する」という発想そのものが、まだ「何かをコントロールしたい」という執着の現れかもしれません。
禅的な究極の悟りは「何も支配しないことによる完全な自由」です。
この男の主張には、真理に近い部分もありますが、もし「宇宙を支配しよう」とする心が残っているならば、それはまだ道の途中かもしれません。
それをそっと手放してみることで、逆に大いなる自由が訪れるかもしれませんよ。