もう年末か。今年はいつも以上にそんな印象が強い。春の衆院3補欠選から始まって、秋の衆院選、兵庫県知事選と、選挙が続いたからであろう。中でも最大のハイライトとなったのは衆院選投開票日の10月27日だ。結果は15年ぶりの与党過半数割れ。まさかの展開となった。
そもそも、石破茂氏が首相に就任したのは10月1日。それからわずか2週間で選挙戦になだれ込むとは当初、石破氏も想定していなかった。こうした展開は極めて異例だったと言える。 自民党総裁選の告示(9月12日)を目前にした頃、石破氏は衆院解散のタイミングについて周囲にこんな言葉を口にしていた。「解散は早い方がいい。だが、その前にまず経済対策をやる必要がある」
持論封印した石破氏
もともと石破氏は、衆院解散について天皇の国事行為として定めた憲法7条を根拠に実施することには否定的な立場だ。2020年7月に行った講演では「7条解散はすべきではない。今なら(選挙に)勝てるだろうというのは憲法の趣旨に反したものだ」と持論を展開していた。
ただ、自民党総裁選を前にした7月になって、石破氏は周囲にこうも話していた。「総裁選後、新しい政権が誕生したら、早期に衆院を解散する必要がある」
それは、「岸田前政権時代の衆院構成のまま誕生した首相は、なるべく早期に解散して信を問うべきだ」という筋論だ。念頭にあったのは「10月29日公示、11月10日投開票だった」(首相周辺)。にもかかわらず首相がより早期の解散に踏み切ったのは、政権の要を担う森山裕幹事長の強い意向があったからだ。
首相指名選挙前日の9月30日。石破氏は記者会見に臨み、こう発言した。「新政権はできる限り早期に国民の審判を受けることが重要だ。10月27日に総選挙を行いたい」。その際、用意した紙にたびたび目を落としながら淡々とした口調で表情には覇気がなかった。首相就任前の解散予告自体、極めて異例のこととして話題となったが、同時に「ぶれる石破」の象徴的シーンのようにも見えた。
「11月4日」も模索したが
自民党執行部の関係者によると、この文言は総務省サイドが用意したものだという。もっとも、首相周辺によると、「10月27日」を投開票日とすることには自民党選対内にも慎重論があったようだ。
理由は「準備期間が短過ぎる」(選対幹部)から。このため、9月27日に新総裁に就任した直後、石破氏に対して、「11月10日」と「10月27日」の間を取って「11月4日」を投開票日とするよう進言した党幹部もいた。この日は3連休3日目の月曜日だが、石破氏も関心を示したそうだ。しかし、既に党内の大勢は「10月27日」で固まっていた。石破氏にそれを押し返す力はなかった。
先の衆院選で自民党は大敗を喫して与党過半数割れという結果を招いた。要因は、自民の「裏金問題」への対応ぶりに有権者が失望したことことに加えて、「ぶれる石破」の負のイメージが大きく足を引っ張ったのだろう。
こうした経緯を振り返ると、投開票日が石破氏の意に反して「10月27日」に設定されたことは、石破政権の現在の苦境の始まりを象徴しているとも言える。その淵源を手繰れば、やはり、石破氏の党内基盤の弱さにたどり着く。
総裁選前、石破氏サイドは勝利のパターンとして、次のようなシナリオを描いていた。第1回投票で圧倒的な党員・党友票を獲得して議員票の劣勢ばん回→議員票中心の決選投票で圧勝─。
しかし、実際の結果は、第1回投票でも石破氏は議員票だけでなく、党員票でも108票にとどまり、109票獲得の高市早苗氏の後塵(こうじん)を拝した。決選投票では215票で、194票の高市氏を辛うじて振り切る展開だった。
このため、「石破カラーは封印せざるを得なくなったわけだ」。それでも、少数与党ながら、国民民主党との「連携」によってなんとか命脈を保っている石破政権。その前途は不透明だが、今後どのような行く末をたどるにしても、「10・27」が歴史的な分岐点として記録されることは間違いない。
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山田 惠資(やまだ・けいすけ)時事通信社解説委員。1982年時事通信入社。政治部、ワシントン支局、整理部長、政治部長、仙台支社長、解説委員長を経て、2019年7月から現職。
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