映画『
ターミネーター2』のラストでT-800が溶鉱炉に落ちる際に放ったセリフ……
ではない。
そもそも、このシーンは
自分で自分を破壊できないT-800が「自分自身を消すことで破滅の未来に繋がる要因を全て抹消する」という最期の任務を遂行すべくジョン・サラ親子に自身を破壊させるという場面であり、
話の流れからして、T-800が「また戻ってくる」と発言するのはおかしい。
そして2は元々シリーズ完結編として作られていたため、次回作を示唆したセリフという意味合いも相応しくない。
溶鉱炉のシーンで実際にT-800が発したセリフは「
good-bye
」であり、これは上記の流れと一致する。
セリフ自体は発しているのだが、これはジョンたちのためにビルの外の警察を追い払う際に「すぐ戻る」と言った場面。こちらはこちらで
1作目のセルフオマージュとなる名シーンである。
元々は前作の
冷酷な殺人マシーンの方のT-800が発したセリフで、警察署を訪れたT-800の「サラ・コナーに会わせろ」という要求を取調べ中だからと突っぱねた警察官に対し、普通に「
また後で来る」という趣旨で言ったもの。
別に
「これで終わったと思うな」的なリベンジの予告というわけではない。
なおこの後車で警察署に突っ込み
本当に戻ってきた。
印象に残るギャグシーンだった1作目から一転、2作目では守るべき対象のために捨て身で特攻するという、真逆の熱いシーンになっているのが特徴である(こちらも車で突進している)。
このセリフ、ターミネーターはおろか演じたシュワルツェネッガー自身の代名詞と化しており、セルフパロディで3でも発している。
更に
ターミネーター以外の作品でもオマージュされており、シュワちゃんの
様々な出演作でも台詞が登場する。
その象徴性と「2」屈指の名シーンがイメージとして合わさり、混同されているものと思われる。
実際に
妖怪ウォッチのパロディネタでも間違えられているし。
尚、『1』当時シュワちゃん自身は「
I'llなんて砕けた言い方は冷酷な殺人マシーンらしくないのではないか」と監督に意見して一悶着あったとか。
「
Fate/stay night」にてサーヴァント・アーチャーが発したセリフ。
正確には「ああ。時間を稼ぐのはいいが――別に、アレを倒してしまっても構わんのだろう?」
ネットでは「別に」以降の部分だけが広まっており、あたかも「大勢の敵に対して無双するとでも言わんばかりにイキって死ぬ死亡フラグ」のように扱われているが、
本編ではまるで異なるニュアンスで使われている。
「どうやっても倒せない難敵」に追い詰められている状況で、信頼関係を結んだパートナーに対して「ここで捨て駒になって死ね」と言っているも同然の命令を下さざるを得ず
苦悩するマスターに対し、あえて強がって鼓舞している悲壮な決意のシーンである。
詳細は当該項目にて。
ALO編にてキリトが言ったセリフ。
アニメでドヤ顔で言っていることもあり、「イキっているセリフ(いわゆるイキリト)」の代表例としてネタにされることも多い。
しかし原作では、キリトがフルダイブゲームに再びダイブしなければならない状況になったことを心配しているエギルに対して、
内心「また何か起こるのではないか」という恐怖をキリト自身も感じつつも、エギルを気遣ってその恐怖を押し殺して気丈に振る舞ってみせたセリフであり、決してイキって言ったセリフではない。
- 安心院なじみ「十巻以上続くコミックスは惰性ってのがそれに僕の持論でね」
「
めだかボックス」のキャラ安心院なじみの発言で、ジャンプ漫画の引き延ばし体質を批判する際に度々引用される。
しかし、そもそも安心院なじみはこの発言の時点では「メタ発言を多用する黒幕」といった感じの立ち位置であり、
この発言も「だから(十巻以上続いている)この漫画を終わらせてやる」という宣言に続く
単なる戦意表明である。
十巻という数字もおそらく連載時点で直近のキリのいい数字以上の意味はないと思われる。
『ガラスの仮面』の名台詞でパロディも多いが、
本作の特徴である「白目かつ顔面蒼白」で言ったシーンは無い。
千草の場合は主人公北島マヤが垣間見せた才能に高揚し笑いながら言っており、
ライバルである姫川亜弓も「やはりおそろしい子…」と言っているが、
こちらの場合もマヤに対する敬意を込めた微笑みを見せている。
ガンガンオンラインで連載中の『月刊少女野崎くん』の第60号(60話)で出た台詞。
あまりにも煽り目的に使い勝手の良い台詞のためにこの部分だけが切り出された画像がネットで出回っている。
主に『脚本家がそこまで考えて話を作っているわけじゃないからそんな考察しても意味がない』などの煽り・批判・皮肉のニュアンス、または過剰な深読みにブレーキをかけるために使われる。
この発言をした千代は脚本を務めた野崎梅太郎とそれなりの時間、少女漫画の制作協力者として実際の仕事に携わり、彼の人となりを理解し、話の組み立て方についてもよく知っている。
そのため脚本を深く読み込んで悩んでいる友人の鹿島遊に対して、漫画家とアシスタントとしての距離の近さをもって「(普段あんな感じで仕事してる野崎君の書いた脚本だし)もっとシンプルに考えればいいのでは?」という感じの思い込み・ニュアンスで回答したというものである。
尤も、言い方がかなりアレだったこともあり、千代が(脚本家とそんな関係にあると知らずに)赤の他人に辛辣な物言いをしたと受け取った鹿島は「真顔でなんてこというの千代ちゃん」とリアクションしている。
その後、通りかかった野崎が鹿島に脚本の意図を事細かに説明しており、「姫がたまにおバカ発言するからかな」「昼ドラ!!昼ドラ展開だよ!!」という浅はかな感想しか出なかった千代の方は脚本の意図を全く理解できていなかったことが判明した。
つまり「実は野崎はちゃんと考えて脚本を作っており、千代が理解しようとしていなかっただけ」というオチがついた。
なので、脚本(家)を皮肉る意図でこれをそのまま引用すると
「何も考えていないのは自分の方」という盛大なブーメランになってしまうため注意。
ただし前述の通り千代の指摘は普段の野崎の仕事ぶりを見ている彼女からすればあればそう的外れではなかった事も確かであり、たまたま今回は野崎が考えて書いていたという流れである。
なので
意図の違いだけを把握して「野崎は普段からちゃんと考えて書いているキャラ」と勘違いしている人もまた多いというややこしい事になっている。
(実際は考えて書いている事も多いのかもしれないが、突拍子もない創作が多いのは確か)
- 式島滋「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな」
『少女ファイト』を代表する名台詞。
この台詞を引用したコラ画像で有名になり、その流れで主に的外れな事を言う人物をおちょくる意味で使われている。
コラで言わされてる側にとっては「他人の台詞が別人のものとされた系」でもある。
しかし実際のこの台詞は、姉の事故死がきっかけで姉のチームメイトに対する憎しみに囚われその事を執拗に言い続ける滋の幼馴染で主人公の大石練を諫める台詞で、あくまで
相手を慮っているからこそ強い言葉を使った発言である。
- 桂木桂馬「争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない!!」
『
神のみぞ知るセカイ』の主人公である桂木桂馬の名言の一つ。
まあカンガルーしか描かれてないので、作品の知名度に対して知らずに使ってる人の割合は多いと思うが……
主に、「五十歩百歩」的な「争い合ってる時点でどっちもどっち」といった意味で使われており、桂馬もそういう意図を込めているにはいると思われる。
しかし、実際には「クラスメイトの女子と口論になった(負けた)ことを指摘されて
『尊き二次元の住人である自分とリアルの女では住む世界が違うから争いは成立していない、よってノーカン』って言ってるだけ」である。
つまり
負け惜しみであり、正当性は皆無である。
- サイ「『マジで!?私も超オタクだよ!?ワンピースとか全巻持ってるし超好き!!』…とか言うヤツにオタク話をする気にはなれないというか」
漫画『ドルメンX』の台詞で、『』部分はイメージ上の少女の発言。
ネットではこのコマだけを切り取って所謂にわかオタク及びにわかを毛嫌いする古参オタクを揶揄する目的で使われる事が多いが、実際にはワンピースは当時既に80巻超えの長期連載作品となっており、にわかが気軽に全巻揃えられる漫画ではなくなっていた。
なんなら、この直後にサイが「相手を馬鹿にしている」と勘違いされて否定するやり取りまである。
ではどういう意味なのかというと、そもそもサイは漫画オタクではなく音楽オタクであり、「畑違いの相手に自分の趣味を理解してもらえないのが怖い」という意図による発言である。
イメージ上の少女がギャルっぽいのも、どちらかと言うと「ジャンルの違いに気付かずにグイグイ来そうなタイプ」のイメージを形にした結果と思われる。
『
アカギ』におけるアカギの最初の台詞。
あまりにもネガティブな感じの台詞のためにこの部分だけが切り出され、主に『
諦めて死ねば楽になれるのに』といった弱気なニュアンスで使われる。
実際にこの発言をしたアカギと無難な手を打とうとしている南郷の全体のやり取りを見ると、古くからある「死中に活あり」「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉に意味合いとしては近い。
アカギ「死ねば助かるのに…」
南郷「おまえ…麻雀がわかるのか?」
アカギ「いや…全然…。ただ…気配が死んでいた。
背中に勝とうという強さがない。ただ助かろうとしている。
博打で負けの込んだ人間が最後に陥る思考回路…あんたはただ怯えている」
要約すると、南郷が自身の生死がかかっていると言っても過言ではない麻雀で、更に負けが込んでいるので安全策を取ろうとしているのを見て取ったアカギが、
「負ける(=死ぬ)のを恐れてばかりでは勝てないので、恐れずむしろ死ぬつもりで勝負に出るべき」くらいのニュアンスで助言したというもので、
その言葉にハッとした南郷は一か八かの大勝負に打って出て、それが功を奏して見事に逆転勝ちしている
ちなみにアカギ自身もこの言動を実行している。彼は上記シーン前、ずぶ濡れで雀荘に入ってくるのだが、それは雨ではなく海水によるもの。
彼は雀荘に来る直前、不良と崖に向かうチキンレースをしていた。そして、彼は最後の方でむしろアクセルを踏んでいる。
岩壁手前の浅い部分に落ちて爆死する危険を避けるには、むしろ勢いよく飛び込まねばならないというのは道理である。
が、それをマジでやる度胸が普通はない。だが、アカギは実際にやった。そして、生きて雀荘で上記のアドバイスをしたのである。
いわずと知れたバスケットボール漫画『
SLAM DUNK』における安西先生の名言の一つ。
この文言だけが抜き出されて、時間が経過してもまるで成長せず同じ失敗を繰り返す問題児などに対する諦め・呆れ・非難の言葉として使われることが多い。
しかし「全く成長していないことを嘆いている」のは事実だが、その相手は問題児の類ではないどころか
高い素質と向上心を併せ持つ稀有の逸材
として、安西先生が誰よりも目をかけていたが相互不理解からバスケの本場アメリカに出奔してしまった教え子である。
この発言には彼を非難する意図は全くなく、指導者である自分の責任を前提として、彼が先走って道を誤ってしまったことを嘆いている台詞なのである。
なおこの場面を見ていた先生以外の仲間達は「アイツは新天地でもちゃんと頑張ってる」「見直した」と寧ろ賞賛しており、不慣れな海外チームの中で必死に頑張りを重ねていたのは確かである。唯一安西先生だけは日本に居た頃から選手として全く成長していない事を見抜いていたのだ。
同時に彼が所属しているチームはプレイスタイルや指導形態といった抜本的な部分が疎かで選手を育てられる環境ではない事も見抜き、このままでは彼の才能が潰されてしまう事を本気で危惧し、今ならまだ取り返しがつくと考えて連れ戻そうと尽力している。その結果は各自で調べてほしい。
映画『
ゴジラVSビオランテ』にて、「(
ゴジラと
ビオランテが闘ったら)一体、どうなるんだ?」と呟いた上司に返した台詞。
主に「どっちに転んでも悪いことになる展開」に絶望する意味で使われる事が多い台詞だが、実際にはどちらが相手でも構わず倒すという決意を表す台詞であり決して悲観的な意味で使われてはいない。
本作のビデオなどで用いられたキャッチコピーに「勝った方が
人類最大の敵になる」というものがあるため、ここから絶望的な展開の示唆という意味で理解されるようになった可能性が高い。
ウルトラマンメビウスが
ディノゾールを倒した直後に言った台詞。
言葉通りに、怪獣との戦いで街を壊してしまうウルトラマンを非難する台詞、として持ち出されることが多い。実際、そういう意味も込められている。
しかしこの後「周りを見てみやがれ!!それでもウルトラマンかよ!!何も守れてねーじゃねーか!……俺だってそうだ。……何も守れなかった」と続いており、怪獣から街を守るために出動したにも拘らず、何も出来ないまま全滅した自分たちCREW GUYSに対する無力感への嘆きなども込められた台詞である。決してお約束への野暮なツッコミや安易なダメ出しの類ではない。
『
機動戦士Ζガンダム』の主人公にして実の息子である
カミーユ・ビダンを叩きながら言った台詞。
ニコニコ動画に投稿されたとあるMADでは
卑猥な言葉を連呼するカミーユを窘めるようなニュアンスで使われておりそれが有名となっている。だが、実際には
カミーユが自身の不倫を指摘した事に逆上して手を出すという非常に大人気ない行動の中で発した台詞である。
実際の彼は毒親そのものであり、そもそも決して息子を窘められる立場にある人物ではない。
藤見泰崇公認で『
キャタピラー』にゲスト出演した際の講演にて「ゴキブリが進化に進化を重ねた結果巨大化して暴れまくるなんてことは…」という質問に対する回答。
その時には既に藤見原作の文字通り蟲が巨大化して暴れまくる漫画『巨蟲列島』が連載されていた事から一見すると同作をディスっているかの様に思える台詞だが実は『巨蟲』の作中で「ゴキブリは臆病で、小さく素早く進化してきたから、巨大化する方向にはいかない」という説明がなされていた事から決してその様な意図の台詞ではなく、むしろ
両方を読んでいるとちょっとニヤリとできるネタとして挿入されたとみるべきであろう。
- 佐倉十朗「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利を持つ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ」
「
エスパー魔美」の「
くたばれ評論家」における台詞。主人公である魔美が、評論家の剣鋭介に父の十朗が手掛けた作品を貶されたことに怒り、それに対しての返答である。
この部分だけを切り取って「作者は作品を発表したからには何を言われても文句を言うな」という意味で使う者も多い。だが、原作ではこの後、
「剣鋭介に批評の権利があれば、ぼくにだっておこる権利がある!!」
「あいつはけなした! ぼくはおこった! それでこの一件はおしまい!!」
と続く。
実際、ネットに出回っている画像にはこの部分まで含んだものも少なくない。
全文を読めば一目でわかる通り、実際は「批評に対して作者が言い返す」事まで想定された発言であり、間違っても「作者は批評を黙って受け入れるべき」という意味ではない。
元々は十朗に対する剣の評論の論調に怒って敵愾心を露わにする魔美を諭すというシーンなので、
「芸術家と評論家が批評される・するの関係にあるのは当然のことなので、第三者がとやかく言うべきではない」
というのが本来の意図に近いと思われる。
- 野比のび太「しかし、機械で友だちをつくるなんて、かわいそうだね。」
『友情カプセル』(コミックス4巻収録)において、ひみつ道具に頼って友達を作ろうとするスネ夫を見送りながら、隣に機械であるドラえもんを並べての一言。
これを見て「お前の隣にいるのはなんなんだよ」「ドラえもんは友達じゃないのかよ」と突っ込む者もいるが、のび太が哀れんだのは「機械で友だちをつくる(=機械を使って友だちをつくる)」ことであり、「機械の友だちをつくる」話はしていない。
実際にはこの後「そんなことしなくてもぼくにはドラえもんがいる」と続き、ドラえもんも「ぼくにはのび太くんがいる」と返し、ドラえもんとのび太は機械なんかに頼らなくても、互いの種族を超えた固い友情で結ばれていることを再確認する…という展開に繋がるのである。
ちなみにここで言う「機械」とは、タイトルにもなっている「友情カプセルとコントローラー」のこと。
カプセルを相手の身体に付けてコントローラーのスイッチを押すと、その人が友達という名の奴隷になる道具である。
そんな機械に頼ったスネ夫の末路については本編を参照されたし。
『弟をつくろう』(コミックス10巻収録)における野比玉子(=のび太ママ)のセリフ。
この直後に電話越しで夫ののび助が「なにいってんだ、うちは四人(家族)じゃないか」「きみだろ、ぼくだろ、のび太だろ、ドラえもん」と答えていることから、「のび助はドラえもんを立派な家族だと認識しているのに玉子はそう思ってない」としばしばネタにされる。
まず、このエピソードは弟がいることにあこがれたのび太が幼少期の自分をタイムマシンで連れてきて弟として扱おうとする話であり、
そして「小さい頃ののび太にそっくりな上に自分をママと慕う幼子」を前にして混乱した玉子が「のび太に弟なんていないはず」と夫に確認を取ろうとした、という流れで発したのが件の台詞である。
つまり知らない間に現れた「のび太の弟」という謎の存在を否定したいがために血縁的な意味で「家族は三人」と言った玉子に対し、そんな事情を知らずに急に家族について聞かれたのび助が「いつも四人で暮らしてるんだから四人家族だろう」と答えただけの話で、別に両者の間でドラえもんに対する認識に差があったわけではない。
原作者没後の作品にはなるが、大長編『
ロボット王国』のラストで玉子は(「いいなあ、みんなママがいて」と羨むドラえもんに)「
ドラちゃんだってわたしの子供よ」と答えているので、彼女もドラえもんを家族と思っているのは確かである。
ロボットアニメ「
勇者王ガオガイガー」にて、味方サイドの防衛組織であるGGG長官の大河が仲間を鼓舞するために発した台詞。
同作では「勇気」がキーワードとなっており、主人公をはじめ戦いに携わる多くの人々の勇気によってゾンダーを打ち破るという作風になっている。
計算上は限りなく確率が低いという危機に見舞われることが多いが、勇気で補うことによって作戦を成功させるという燃える展開がたびたび描かれる。
勇気で成功率の低さを補うという無茶を行い、見事にそれがうまくいくという都合のよさからたびたびネタにされやすい台詞ではある。
だが、そもそも
勇者王ガオガイガーは熱血要素こそ強いものの、人類が不断の努力と科学力を結集して強大な敵に立ち向かう物語であり、決してその場の勢いで何とかしている訳ではない。
「勇気で補う」の本来の意味(及び勇気の扱い)は「事前にやれる事は全てやったので、後は勇気を出して実行するだけ」といった感じである。
要は「人事を尽くして天命を待つ」に近いニュアンスといえる。
実際「悲観的な意味で、もう勇気しか頼れそうなファクターがない」戦況に追い込まれたことも何度かあり、
勇者たちも残されたのが勇気だけの状況で力を振り絞るのだが、こういう場合はほぼ確実に好転しない。
間違っても
「準備などが適当(不十分)でもとりあえず勇気があれば逆転勝利出来るから気にすんな」というような根性論ないし楽観的な発言ではない。
ただ『
勇者王ガオガイガーFINAL』では地球側の技術がかなり向上していたことと、相手が精神よりの攻防を主にしてきたこともあり、文字通り勇気があれば何でも出来るという感じの展開が頻発していたが……。
ハイウェイ・スターから
東方仗助の身と引き換えに自身の助命を提案された際の回答。
ネット上などのジョジョパロではここだけ独り歩きした結果、肝心の「だが」の部分が無視・軽視されて
「相手の懇願や要求をにべもなく断る」、つまり「
あれは嘘だ」に近いニュアンスで使われることが多い。
だが、実際にはこの後「
この岸辺露伴が最も好きな事のひとつは自分で強いと思ってるやつに「NO」と断ってやる事だ」と続く事からも分かる通り、
こちらより有利な立場に立っている敵が「言いなりになれば助ける、断れば確実に死ぬ、
死にたくない相手は絶対に自分に従うに違いない」と確信して余裕綽々で突き付けてきた提案に、
承諾しか助からないという条件は確認した「だが」敢然と「NO」を突きつけるという、
「相手に屈服して命を拾うくらいなら死んででもプライドを貫く」という、露伴の反骨精神を表した台詞なのだ。
最近ではアニメ化などにより
4部の内容の周知・おさらいがなされたためか、前ほど誤用されることはなくなった。
ちなみにジョジョのゲーム作品化である
ASBでは誤用の方が用いられているし、外伝作品「
岸辺露伴は動かない」の漫画やOVAでも
露伴本人が誤用にあたる使い方を普通に使用している。特に後者の漫画版は荒木先生本人による作品のため、実際には単に「話の流れに関係なく、『露伴の口癖』として言ってる」可能性も否定できなくなりつつある。
またネットの使用方法(つまりネットスラング)を元にしている作品での使用例もある(例えば
科学アドベンチャーシリーズでは@ちゃんねらーのキャラクターがよく使用している)。
逆に『
ノーゲーム・ノーライフ』では
完全に原作通りの使い方で対戦相手にこの台詞を使い悦に浸る主人公という内容が描かれている(こちらは直後の露伴の台詞まで再現する徹底ぶり)。
- 北岡秀一「英雄ってのはさ、英雄になろうとした瞬間に失格なのよ。お前、いきなりアウトってわけ。」
仮面ライダー龍騎に登場する13人のライダーの1人である
北岡秀一が、同じくライダーであり「英雄になりたい」という願いを持つ
東條悟との戦闘中に発した台詞。
ネット上ではよく英雄願望を持つ者に対して一石を投じる様な言葉として引用されているが、実際は出まかせに近くその場の勢いで発したような台詞である。
作中では第46話にてミラーワールド内での活動時間が限界になり、ミラーワールドから出る必要があった北岡が言い放った。目的としては東條を動揺させるためであり、北岡本人は特に東條を否定しようとしたわけではない。
(作中のシーンを見ると分かるが、この時の北岡は焦り気味にこの台詞を言っている上に、北岡の性格を考えると状況次第では正反対の内容の言葉すら言い得る)。
そもそも東條本人の英雄観自体かなり歪んだものであり、「大切な人を失えば英雄に近づける」と考えた末に恩師を手にかけるような危険人物であるため、この台詞を英雄願望を持つ人物やキャラクターへの批判として使う=彼等を東條と同列に考えるのは無理がある。。
とはいえ東條はこの言葉に動揺を隠せずにおり、彼の言っていたことは図星であった。
そう考えるとこの台詞は彼の核心を正確に突いたものであり、色々な意味で北岡らしい台詞と言えるだろう。
そんな東條は、街を彷徨い歩く中、トラックにはねられそうになった親子に先述の恩師・
香川教授とご子息をダブらせて庇い、
北岡の言葉が頭がよぎるも、答えが見つからないまま力尽きるという最期を迎える。翌日の新聞の片隅には「親子を救った英雄」と彼を讃える記事が載っていた……。
親子を助けようとした彼はその瞬間、英雄になろうとしなかったのである。
ちなみに後の映画「
超スーパーヒーロー大戦」でもこの台詞を言ってくれた。ゴライダーカードを巡ったスーパーヒーロー達の戦いなので、違う意味で皮肉である。
色々と残念な言動が多い裁判長の語録の一つであり、『MARVEL VS. CAPCOM3』の超必殺技における演出でネタにされた事でも有名。
その字面から受ける印象や『MARVEL VS. CAPCOM3』での使われ方から成歩堂(及びプレイヤー)に対する理不尽発言の一つと誤解されがちだが、
実はこの演出は出典になったソフトからして異なる2つのシーンの映像と台詞を組み合わせた物であり、
台詞の方の元ネタは(不利な流れになったので)とりあえず異議を申し立ててきた相手の異議をとりあえず却下した時の台詞なので、この台詞に限っては実際には理不尽どころか残当といった感じの台詞だったりする。
おまけに「とりあえず、異議を申し立てた」のは成歩堂ではなく御剣である。
アラバスタ編において主人公であるルフィがアラバスタ王国の王女であり麦わらの一味の仲間である
ネフェルタリ・ビビに対して言い放った台詞。
この時ビビは
王下七武海の一人としてアラバスタの英雄と呼ばれてた
サー・クロコダイルが配下である
バロックワークスを率い仕組んだアラバスタ王国革命戦争を止めるべく、
革命軍に会い戦争を止める相談をしに行く予定がうまくいかず刻一刻と革命戦争が始まる時間が近づいてゆき、
このままでは革命戦争が始まり多くの国民たちの血が流れる…という危機的な状況で突如歩くのをやめたルフィが発言したのがこの台詞である。
ネット上ではこの台詞と共に「エースは……!!!死んだんだろ!!!?」というセリフが並べられ、
あたかも他人の死に対しては過去にこのような事を言ってるくせに、いざ身内が死んだら悲しむルフィは非常に身勝手で都合のいい奴だという批判をされることが数多くあった。
確かに直前の「七武海の海賊が相手でもう100万人も暴れ出してる戦いなのにみんな無事ならいいと思ってるんだ!!!甘いんじゃねェのか」という台詞と合わせてみると、
人はいつか死ぬんだから他の人が死んでも受け入れろという意味合いや戦争では死人が出るのは当然だから犠牲が出ることも覚悟しろといった極めてドライな物言いに見える。実際、ルフィもそう取られるのを承知の上でこんな言い方をしているのだが、真意は全く別のところにあり、二つの発言は矛盾していない。
この前後のルフィの言動を見ると分かるのだが、この人は死ぬぞ発言は、
王下七武海のクロコダイルが本気で国盗りを狙い組織を動かしている状況で反乱軍を止めるだけという消極的な案を取っている、つまりビビ一人だけ命が狙われ自分以外の誰も危険にさらさない方法をとるのならば、いずれ人は死ぬぞという意味。
本当に国を救う方法が、たとえ黒幕であるクロコダイルを倒すという他の人を危険に巻き込まないと達成できない手段であっても、「仲間なんだから俺達を頼れ」という思いを込めて
最後に「おれ達の命くらい一緒に賭けてみろ!!仲間だろうが!!」という一味全員の意思を示す叫びで締めくくられるのである。
つまりルフィは、ビビの戦争を止め国民の皆の命を救いたいという、ともすれば理想論とも言える想いについては理解しつつ、
今のビビ以外の誰も命を落とさないようにする安全策では無理だという現実をビビに伝え、それでいて困難で危険な方法ではあるがそれを実現する方法を提案し協力を申し出ているのであり、
むしろビビの人を死なせたくないという想いには肯定の立場として発言しているのだ。
処刑される
エースを助けるために
インペルダウンや頂上決戦に行ったときも兄であるエースの命を案じ自分の命を賭してまでの行動であり、
ルフィにとって大事な人の命は「諦めるもの」でなく、「危険を冒してまで全力で抗う必要があるほど大事なもの」と認識しているのが見て取れる。
ルフィが敵にあっさりやられた
ウソップに対して叫んだ台詞
ではなく、
ウソップを倒した敵に対しての発言。
本来は「(ボコボコにされたウソップを見て)
ウソップゥゥ!!」→「(その犯人に対して)
何やってんだお前ェ!!」という流れの発言だったのだが、
「続けて聞くとウソップに対して言っているように聞こえる」という点がネタにされてしまったもの。
いわゆる音MAD由来の「実は言ってない」台詞なのだが、基本的に
同じシーンの台詞をそれぞれ抜き出しただけなので違和感が殆ど無く、
元ネタ未見の人には本当にウソップに対して言った台詞だと誤解されやすい。
ちなみに
ゾロ相手の場合は、実際に倒されている様を評して「
ゾロ!!!!おいお前!!!!何やってんだよっ!!!!」と言ったことがある。
「お前がいて何で…こんなことになってんだ…!!」と続く通り、ゾロの戦闘力の高さを信頼しているゆえのセリフであり、強みが直接戦闘力でないことが明白な(「お前がおれに!!勝てるわけ無ェだろうが!!!」とまで断言されている)ウソップとは前提が違う。
ブウ戦で発した、所謂クズロットネタの代表的なセリフ。アニメ風に「でえじょうぶだ」という発言になっていることも多い。ネット上でこのセリフのコマとその次のコマが繋がった画像が広く出回っており、このシーンだけを切り取るとセリフの流れとしては「両親が犠牲になることと西の都が破壊されることに難色を示す
ブルマに悟空がどうせ一つ目の願いで生き返るし、二つ目の願いで西の都も修復できるんだから構わない」というサイコパス丸出しの発言をしているように取れる。
結局この後ピッコロが「既に願いの一つで大勢を蘇生してしまった為、悟空の挙げた方法は無理」と指摘。更にブルマからドラゴンレーダーの部品は特殊な材料が必要なので西の都が破壊されてしまうと複製はできなくなってしまうと、両親の死は避け得ないことは受け入れた上で、それを前提としたドライな指摘を受けている。じゃあ何故ターボ君は複製できたのか?と同時によく突っ込まれる。これを受けて悟空はドラゴンレーダー回収のための時間稼ぎに赴くことに。
悟空の意図は「自分やフュージョンを体得していない悟天とトランクスではブウを倒せないから、犠牲に目を瞑ってでもフュージョンの伝授を優先すべき」というドライながらも、ブウを倒す望みが絶たれることだけは絶対に避けなければならないという状況を判断してのものであり、これを以てサイコパスと断ずることは言いがかりだろう。「仮に自分がブウを倒せるとしても、息子たちに任せたい」という人命が懸かっている状況では些か不謹慎な考えもあるにはあるのだが、そもそも悟空はこの時点で本来死人=いないはずの人間であり、今日限りでこの世からいなくなってしまう存在に頼らなければ地球の自衛すらままならないというのでは
仮にこの場を悟空の力で切り抜けたとしても、その次の危機の時に地球を守り切れる保証がないことを意味してしまう。特に他の未来の可能性として
悟空がいなくなってしまったためにZ戦士が総崩れになってしまった未来が存在するので、尚更悟空の危惧は当然と言える。
また、広く出回ったコラとしてこの2コマの直後に別のシーンから引っ張って来た「どっちにしたってあいつは地球を滅ぼす、絶対だ。殺された人々や破壊された地上はドラゴンボールで戻れるんだ、気にするな」というコマを繋げてより深刻な風評被害を狙ったものがあるが、タチの悪いことに台詞自体の改変は全くないせいで本当に原作でこの流れが存在すると思い込んでいる者も多い。
こちらはバビディの暴虐に怒ったピッコロの出撃を止める場面なのだが、これも「ピッコロにもしものことがあったらフュージョンが伝授できなくなる」と本来の意図は上記と同じ。
実のところ「ドラゴンボールによる蘇生を前提とした死生観になってしまっている」という指摘は間違いとは言えない。ただしこの指摘はこの場にいる他の面子にも当てはまる。
特にブウ編の悟空が過剰なほどドラゴンボール頼みになっていたのは事実で、ブウ編だけで都合4回近く「ドラゴンボールがあれば…」という旨の発言をしているため、食傷気味に感じていた読者が上記の画像を引き合いに出した可能性はある。
(そのうち最終的な発言に至っては正々堂々と戦いたいという個人的な理由で強化アイテムを破棄した上で「万が一被害者が出たらドラゴンボールで…」と言い出すという流石に擁護できない言動をしている)
それでも悟空の態度を批判する上で件のシーンを持ち出すのはお門違いなのだが、当時ネットに出回っていたのがこのコマだったため、本来批判される描写でないにも関わらず安易に持ち出されてしまった可能性は高い。
- やすな「見たら本当に絶対感動するよ、もし感動しなかったら木の下に埋めてもらっても構わないよ」→ババーン(片手足を出して生き埋めにされる)
キルミーベイベーの中でも有名で完成度の高い即落ち2コマ(前半の2コマも合わせて4コマ使われることもある)だが、実は2つの4コマを切り取って繋ぎ合わせたもの。
感動しなかったから埋めたように見えるが、実際はそうではない。
この話の4コマ目は「
そういえば昨日強風だった」と桜が散った木を見せてしまい、その後もやすながソーニャを引き留めようとあれやこれやしている。
そして
ババーンは、ぐだぐだやっていたらソーニャの手に桜の花びらが落ちて来て、押し黙ったことをやすなにいじられたので埋めてしまったのである。
つまり感動したが埋めたのだ。ウザかったからね、仕方ないね。
- シャア・アズナブル「当たらなければどうという事はない!」
機動戦士ガンダムに登場する赤い彗星ことシャアの有名な台詞。
アムロの攻撃を素早く回避しながら誰ともなく、ないしMS越しにアムロに対して呟いた台詞と誤解されがちであるが、そうではない。
実際には1stの第2話で初めて見るビームライフルを過度に警戒するあまり、ガンダムに対して有効な間合いを取れないでいる
シャアの部下スレンダーに対して言った台詞である。
(このセリフの直後に「援護しろ」と続けるのがその証拠。)
「どんな強力な攻撃だろうと直撃しなければ大丈夫」という意味の大枠は同じだが、アムロ(の大雑把な狙い)に対する嘲笑や、ビームライフルを避けてしまえる自身の素早さ・技能への自信というわけではなく、
単なる怯えて取り乱す部下への叱咤・「ビビってないでもっと距離を詰めろ」という戦闘機動の指示である。
実のところガンダムのビームライフルの威力は凄まじく、この直後結局半端な距離を取ったままだったスレンダーのザクがビームライフルの直撃を喰らってたった一撃で沈んだ際には、
シャア本人も「い、一撃で!一撃で撃破か!」と恐れおののいている。
後のシリーズでもこれとほぼ同様のセリフを発しているキャラクターは複数いるが、
そちらはいずれも「自分には劣る相手の技量への嘲笑、自身および自機の性能への自信」というニュアンスで言っている。
『
機動新世紀ガンダムX』のシャギア・フロスト(赤いパーソナルカラーのMS)、『
機動戦士ガンダムUC』に登場する『赤い彗星(=シャアの異名)の再来』たる
フル・フロンタルなど。
『ガンダムSEED』前半における最も有名なシーンの一つ。
痴情の縺れの末に主人公が友人の腕を捻り上げ、自分の方が強いのだから喧嘩など挑んで来るなと言い放つという衝撃的な場面であり、
それ故にキラが必要以上に視聴者から反感を買う原因となった台詞。
「友達の恋人を寝取っておいてこの行為にこの発言」と、まるでサイから暴力で全てを奪い勝ち誇る様に言ったか、
当時のキラが母艦の攻めと守り両方の要である事から増長の極みに達した事で傲慢に振舞っている、(スーパー)コーディネイター故にナチュラルであるサイを見下しているかの様に見なされることもあるが、劇中の描写を見ていけばそれは正確ではない。
実際には後に続く台詞や後の描写からもうかがえる通り、当時のキラは命懸けの戦闘を繰り返しながらも守るべきものを守れなかったことで精神的にも肉体的にも酷く追い詰められており、この時の彼を支配していたのは、自身を力ある者と自負した傲慢・自己陶酔などではなく、
寧ろ「守りたいものを何一つ守れなかった」という自己嫌悪、「もう二度と失敗できない」という強迫観念、「戦場で矢面に立ち人殺しをさせられている」という恐怖と殺人への忌避感、「それにも関わらず誰も自分を気遣ってくれない」という怒りに近い。
そして、フレイはそんなキラの心理を利用して関係を結び、自分を守るように仕向けていた。
身も心も疲れ果てていたキラがフレイに依存することを避けるのは難しかったと思われる。
一方でサイはサイで「(コーディネイターの歌姫は)遺伝子操作されたから歌が上手い」「(キラもコーディネイターだから)敵軍に寝返るんじゃないかと心配していた」という旨の事を平気な顔で言い放つような無神経な部分もあり、
そんなサイがキラに突っかかって来た時に言い放ったのが「やめてよね」である。
ショッキングな出来事や無自覚な差別的発言が積もり積もって精神的に不安定気味になっていた当時のキラからすれば、
遂に堪忍袋の緒が切れた時に「サイが(遺伝子操作されたから強い)僕に敵うはずない」と意趣返ししたくもなるのはある意味当然の流れと言える。
また当時はナチュラル故にMSの操縦ができないサイに対して当時のキラは自身がコーディネイター故に仲間を守るべく自分が戦わざるを得ない状況であり、
「今の君にフレイが守れるのか」という意味合いもあったであろう。
一方で当時のキラはナチュラルを見下しているどころかコーディネーターゆえの能力の高さを呪いに感じている節すらあり、
加えてキラは自分がコーディネイターであることは知っていても最終盤までスーパーコーディネイターである事は知らなかった。
「やめてよね」に込められた意味自体は様々な解釈・考察があるためここでは断定は避けるが、
こういった事情も踏まえると、お世辞にもお行儀の良い言動ではないとはいえ、
「やめてよね」を『傲慢の発露』『サイを見下している事が分かる』と解釈するのは些か悪意的・過度に批判的である。
ちなみに状況はやや違うが、ガンダムシリーズでは初代42話のアムロ「な、なぜ出てくる!?」や、Ζ12話のカミーユ「出てこなければ、やられなかったのに!」「抵抗すれば無駄死にするだけだって、なんで分からないんだ!」など、
敵兵を殺しておいてきついことをいう主人公がしばしばいるが、基本的に敵兵の心情を理解してないというより、あっさり倒せてしまった相手に若干罪悪感を抱き、
「いきなり出てきたあいつのほうが悪いんだからね!」と言い訳的に言っているパターンが多い。
PSのゲーム『
北斗の拳 世紀末救世主伝説』のおまけモード「
世紀末シアター」において
ネタ的な意味で多用されている台詞。
原作・アニメにおける該当シーンでは「
銃声……まさか!!」で、この直前にトヨが切り札の銃を発砲した(=大事が起きた)ことに気が付く場面なのだが、
『世紀末救世主伝説』ではトヨが「神の御加護を!!」と銃でジャッカルに立ち向かうシーンが
省略されたため、
該当シーンでは「
バイクのエンジン音…村の方角だ!!」「それも一台や二台ではない…まさか!!」という野盗集団そのものに気が付く台詞に言い換えられている。
なお原作かアニメしか知らない人の場合、このセリフを聞いてないわけなので、世紀末シアターの動画などを見た際「これどこのセリフだっけ?」となる。
アニメ『
ストロベリー・パニック』のキャラクター、涼水玉青のセリフ。
後に顔つきAAが作られ、ネットでは
百合展開に対する歓喜と興奮を表すスラング(キタ━━━━ヽ(゚∀゚ )ノ━━━━!!!! のようなもの)として知られるようになった。
このセリフは肝試しで渚を驚かすために隠れていた玉青が、歩いてくる渚を見つけて言ったものである。
つまり文字通り「(こっちに近づいて)来ましたわ」という意味で言っている。隠れながらなので語調も「来ましたわ…!」とそんなに強くない。
但し彼女がこんなことをしているのは「渚ちゃんの悲鳴を聴きたいから」であり、百合的興奮のこもった言葉としてはあながち間違ってはいない。
実際本人はこの時メチャクチャワクワクしている。
その後、録音した渚の悲鳴を聴いてベッドで悶えながら言った「タマリマセンワー!」の方が意味としては近く、AAに付けられた絵も実際はこちらのシーンのものである。
またセリフの言い方に関しては担当声優が同じ清水愛氏である「ジュエルペット サンシャイン」の菊池かえでのモノの方がテンションが近く当時ネタにされたことも。
『ウマ娘 プリティーダービー』ゲーム版において、エアグルーヴのやる気が下がった時に流れるナレーションというか地の文。
エアグルーヴのやる気ダウンイベントの一つに「彼女がシンボリルドルフのダジャレを聞く」というシチュエーションがあるのだが、
このイベントを元ネタに、ルドルフがつまらないダジャレを言っているイラストへのテンプレコメントの一つになっている他、
ウマ娘関連の話題でルドルフがいかにも言いそうなつまらないダジャレを言った人へのツッコミコメントとして用いられたりしている。
しかし、実際のイベント内容は「ルドルフが自分との会話にさりげなくダジャレを盛り込んでいたことに、その時気付けなかったことへの不甲斐なさから落ち込む」という内容であり、
エアグルーヴがルドルフのつまらないダジャレを聞いてモチベーションを下げられたというわけではない。
まぁ、ちょくちょくダジャレを言いたがる会長にエアグルーヴが難儀しているのは事実である上、
肝心の彼女のダジャレは彼女を尊敬するトウカイテイオーや(彼女の育成シナリオでの)トレーナーもフォローできず、ナイスネイチャにしかウケていないのもまた事実なのだが…。
『
三大怪獣 地球最大の決戦』における
ラドン・・・ではなくラドンの意図を通訳した小美人の台詞の一部。
なので、正確には
小美人「
ラドンも『そうだそうだ』と言っています」
となる。
2019年に『
ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が公開され、作中でのラドンの動向から、
「強者の意見に擦り寄っている小物のような印象を受ける」この台詞がSNS等でよくネタにされるようになった。
だが、『地球最大の決戦』のラドンは決してそのような意図でこう述べたわけではない。
そもそもこの発言に至る経緯は
1.巨大な隕石が地球に落下する。
2.金星人が怪獣の出現を予知し、小美人やモスラも行動を開始する。
3.隕石落下の衝撃で目覚めたゴジラとラドンが殴り合いを始める。
4.隕石から現れたキングギドラが日本を荒らし回り、モスラが単身立ち向かう。
…というものである。
この状況下でモスラは、自分だけではキングギドラに太刀打ちできないと判断し、争っているゴジラとラドンに「みんなで力をあわせて地球をキングギドラから守ろう」と協力を求めた。
これに対しゴジラは、「我々が人間を助ける理由はなにもない。人間はいつも我々をいじめているではないか」と拒否。ラドンもそれに続くように「そうだそうだ」と同調した。
・・・という怪獣3匹の一連のやり取りを小美人が通訳した。
つまりラドンはゴジラに擦り寄っていた訳ではなく、
「ゴジラはソリの合わん奴だが、人類や地球に対する見識は同じらしい。俺もモスラや人類に協力する気はないし、言いたいことはこいつが全部言ってくれたから俺は同調するだけでいいや」
という程度の姿勢であり、あくまでゴジラの意見に頷いただけである。
但し、地球の危機が迫る中で怪獣3匹が話し合いをしていること、小美人がやや砕けた言い回しで通訳したこと、更にラドン自身がどことなく「そうだそうだ」と本当に口パクしているようにも見える事からネタにされてしまったと思われる。
また、上述の通り「そうだそうだ」という発言自体が第三者による翻訳であるため、ラドンが実際にどんな台詞を発していたのかは明らかでない。
- バーダー船長「ブレアード、どうして死んでしまったのだー!?」
第10話にて怪獣を生み出す為に海賊船越しに落雷を浴びた事で異常をきたし、部下の一人であるブレアードの目の前で機能停止するシーンで放ったセリフであり、一見意味深長に感じ取られることから当時の視聴者の間で
『実はブレアードは死んでいるのか?』と作中最大の謎としてしばしば考察対象に挙げられていた。
だが、ブレアード達
3将軍は最終決戦後も生存しており、結局その後のストーリー展開でこのセリフについて触れられる事は一切なかった。
それもその筈、実はこのセリフ自体には特に意味がないからである。
というのも、同作のメインデザイナーを務めた西川伸司氏が当時運営していたブログにて、第10話の台本における件の台詞が出た経緯について解説しているのだが、
1.ブレアードが船長を父のように慕っていると告白する。
2.続けて『船長のためなら喜んで死ぬ覚悟です。』と船長に忠誠を誓う。
3.落雷のショックで異常をきたした船長が『死ぬ?→では死ね→いや死ぬな→なぜ死んだ』という風にブレアードの言葉を曲解する。
4.ブレアードが死んだと錯乱し、断末魔を遺してショートする。
このように船長がロボットだったという事実を表現する為の演出の一環に過ぎず、セリフの内容そのものには意味がない事が分かる。
しかし、完成作品では2と3の過程が省略された事で意味ありげなニュアンスに変わってしまったというのが真相であった。
この裏話が初めて明かされたのは最終回の放送日である2006年6月24日なのだが、西川氏のブログ以外で触れられた事がない事や、『セイザーX』という作品自体が(マニアックな人気こそあれど)メジャーとは言えない作品であるのもあってか、現在でもこのセリフを真面目に考察しているファンも一定数存在する。
- ドン・ガバチョ「今日が駄目なら明日にしましょ。明日が駄目なら明後日にしましょ。明後日が駄目なら明明後日にしましょ。どこまで行っても明日がある。」
ひょっこりひょうたん島のキャラクター、ドン・ガバチョの台詞で、厳密には劇中歌「ドン・ガバチョの未来を信ずる歌」の歌詞から。楽天的で日和見主義者のドン・ガバチョの人なりを示しており、作詞家である井上ひさしも
「(あの歌は)単なる先送りのつもりで作った」と述べている。
しかし映画『おもひでぽろぽろ』の劇中でトシオが「あの頃は励ましの歌が多かったですよね。ほら、『ひょっこりひょうたん島』にも」と話題に挙げ、タエ子と一緒に歌ったことで誤解が広まってしまった。
一応タエ子のモノローグで「明日やればいいという先延ばしの歌を、トシオさんは(どんなに辛くても)明日があるさという前向きの歌として覚えていた」(つまり本来の意味とは違う)と説明してはいるのだが、歌のシーンが印象的なため伝わりにくかったのかもしれない。
更に「一家心中を考えていた中小企業経営者が、決行前夜にひょっこりひょうたん島を視聴し、この歌を聞いたことで心中を思い止まった」というエピソードまで生まれている。
当のドン・ガバチョも劇中で煙たがられている一方で、「大人としての責任感」や「諦めない積極的な思考」を持つキャラクターなため、「今日が駄目なら明日頑張ればいいと前向きに捉える歌」という意味が、本来の「日和見主義者が先送りにするだけの歌」という意味を超えつつあるのも事実である。
ネット上では主に主張が相容れない、許容できない際に一種の宣戦布告として「屋上に来い」「表に出ろ」に近いニュアンスとして用いられる。
だが、これを言った人物はそもそも戦争そのものが大好きなのであって、根本的にニュアンスが異なる。
これを発言したのは部下の戦意を高揚させるための演説の場面である。
前後の流れは、
少佐「
皆ー! 戦争がしたいかー!?」
兵隊「
おー!!!」
少佐「よろしい、ならば~」
という展開である。
つまり「これから
我々がしたくてしたくて仕方がなかった戦争をいよいよ始めようではないか」というような意味となっている。
解説はリンク先に譲るが、前述の「まるで成長していない」等と同様に汎用性の高い部分のみが切り取られてネットスラングとして使われてきた弊害と言える。
因みに、文章通りに読まれる事も多いが実際のコマは「よろしい、ならば戦争だ」となっており、
アニメでも「よろしい、ならばクリークだ」と発音している。
- アルマン・ジャン・デュ・プレシー・ド・リシュリュー「ペンは剣よりも強し」
「言論の力は権力や暴力に勝る」という意味合いで使われる言葉。報道にまつわる話題ではお馴染み。
19世紀に書かれたイギリスの戯曲『リシュリュー』の主人公の台詞だが、本来意味する所は真逆である。
17世紀フランスの宰相(国王の補佐役)リシュリューは、軍による自身の暗殺計画に気付いたものの、枢機卿(聖職者)でもあるため武力を行使できない。
しかし、首相クラスの権限を持つ彼は、命令書にサインすれば軍の動きを封じることができる。
上記の台詞はそれを説明するシーンで発されたもので、全文は「真に偉大な統治の下では、ペンは剣よりも強し」。
つまり、「下位の人間がどんな武器を使おうと、上位者の命令には敵わない」ということで、むしろ権力者の強さを示す言葉だったのである。
なお、「言論は武力より強い」という言い回しは他にもあり、
「言葉は剣よりも強し」(アヒカル)
「智者のペンよりも恐ろしい剣はない」(デジデリウス・エラスムス)
などが有名。
これらの名言と混同されて、現在の意味合いになったのかもしれない。
『美味しんぼ』のエピソード「究極の料理人"春編"⑴」(第96巻収録)におけるセリフ。
友人の岡星精一が
うつ病になり、
自殺をしたいと漏らした時に放った一言である。
このシーンだけ切り取られて批判されることも多いが、山岡は本当に岡星に死んでほしいと思っているわけではない。実際、岡星に「言われなくても死にますよ」と返された直後「死ぬと決めたらもう死んでいるのも同然だ。気持ちが軽くなっただろう。後一年だけ俺に命を預けないか?」と励ましている為、むしろ
自殺を防ぐために言ったのである。
もちろん下手すれば自殺願望を増長させるだけなのは言うまでもなく、岡星の反応も典型的なそれだったので、患者への対応としては最低最悪である。
本人の親兄弟配偶者や専門家でもないならば、軽く聞き流す、自分からは関わらないのが正解である。
なおネット上には、「じゃあ死ねよ」と言われ「え?」と当惑している岡星に「死ねよ」と更に追い打ちをかける山岡の画像が出回っているが、これは
コラ画像なので注意。
『美味しんぼ』のエピソード「鮎のふるさと」に登場するセリフ。
料理対決で
海原雄山が出した鮎の天ぷらを食べた京極万太郎が実際に発言したセリフである。
何かを絶賛するにあたって他方を下げる、という非常に下品な褒め方をしたセリフとして有名な本セリフだが、実はこの発言の背景を知ると
京極自身には山岡の鮎をこき下ろす意図は特になく、むしろ山岡の鮎に対してはそれはそれで感動している事がわかる。
そもそもなぜ海原と山岡が鮎の天ぷらで料理対決をする事となり、そしてその料理を山岡が食しているのかだが、元を辿ればこれは怪我で入院した京極の快復祝いとして京極が山岡に鮎の天ぷらをリクエストしたところ、たまたま居合わせた海原が山岡では荷が重いと彼をこき下ろした為、料理対決に発展した。
山岡は最高の鮎と最高の技術をもってすれば最高の鮎の天ぷらを用意できると考え、食材を厳選してこれを提供。そしてその鮎の天ぷらを食べた京極もその時点では満面の笑みを浮かべながら「
こんな旨い鮎の天ぷらは食べたことないわ」と大絶賛している。
ところが海原の鮎を食べた途端、大粒の涙を流しながら本節のセリフが飛び出したわけである。さて、では何故それほどまでに海原の鮎が旨かったのかと言えば、それは一重に海原が提供した鮎は
京極が初めて食べた鮎と同じ四万十川産のものだったからである。
高知の土佐中村から四万十川沿い上流に七里上がったところにある村出身の京極にとって、四万十川産の鮎は言わば故郷の味そのもの。故にこれを食べた京極がノスタルジーを感じて思わず飛び出したのがこのセリフであり、実のところ山岡の鮎をカスと感じていたわけではなく、そもそも海原の鮎を食べるまでは
過去最高の鮎料理と感じていたわけである。事実、この海原の料理は京極以外に居合わせた他の者達からすれば、味の違いはあってもそこに貴賎は特にないものであり、京極がなぜここまで山岡を差し置いて海原の鮎を絶賛しているか理解出来ていない。
つまりこのセリフはあくまで山岡の出した料理が過去食べた事がないほどに美味しいものであったというのは前提の上で、それでもその料理が霞むほどに
自分にとっては海原の料理が刺さった、というわけである。
もちろんだからと言って、その感動を表す為に飛び出した言葉自体は文句なく最低であり、この言葉を人を褒める際の悪い例としてとりあげるのはなにも間違ってはいない。
実際アニメ版では流石にあんまりな発言な上、これでは京極の意図も正しく伝わらないと判断されたのか「山岡さんのとは比べものにならん」とあくまで山岡のも旨かったが海原のはそれ以上だったという真意が分かりやすいセリフに改変された上で、このエピソードのエピローグに「山岡さんのも十分旨かったですよ」とフォローするセリフも追加されている。
なお、山岡は元々京極初登場時は、京極の故郷の料理を再現して感動させた事があり、上記の場面でもそのことを雄山に突っ込まれている。
雄山的には以前できたことが知識・技術自慢で終わってしまった今回の山岡にかなり不満があった様子。
- 味吉陽一「世界中の大半の人々は食べ物の味なんか興味ないんだ」
料理漫画の金字塔
ミスター味っ子の主人公が続編で発言した、料理漫画というジャンルの根底を揺るがしかねない問題発言。
ネットではこの台詞だけが独り歩きしがちだが、実際にはそもそもこの発言はアメリカ人家族の大味な食卓に不安を抱いた少年に対し、「その不安も間違ってはいないけれど、それが全てではない」と諭す流れで出たものであり、あくまで少年の不安を受けての台詞である。
陽一の意図としては「
大半の人々」というのがミソであり、この台詞の後は「
だけど食べ物の味に興味を持つ人達も確実に存在しているから、味を追及するのも間違いじゃない」といった感じで話が続く。
- ブラック・ジャック「おまえさんのからだをわたしの思いのままにさせる気ならね…手術代をまけてあげる」
原作第194話「二人目がいた」におけるブラック・ジャックの台詞。
セクハラ目的で患者に迫っているような雰囲気のある表情と言い回しな上に、一応嘘は吐いていなかった事からネタにされるが、彼は決してそういう目的で発した訳ではない。
この台詞にはブラック・ジャックの過去が大きく関係している。
元々ブラック・ジャックは「母を死なせ、自身にも重症を負わせた上、父の駆け落ちの遠因まで作った人物に復讐する」という目的を持っていた。
本作の前日譚で1人目への復讐は完遂しており、タイトルの「二人目」は復讐対象の2人目という意味である。
ところがようやく見つけた2人目である姥本は既に末期ガンで、これでは自分が手を下すまでもなく死ぬだろうと判断したブラック・ジャックは、姥本の娘からの「診て欲しい」という声もそっけなく返し家を後にする。
しかし親を思う子の気持ちに弱いブラック・ジャックは再び娘へ電話をかけ「手術してやってもいいが莫大な金がかかる」「他のもので埋め合わせるならそれでもいい。例えば『おまえさんの体』だ」という交渉を持ちかけた。
これに怒った娘は即座に電話を切ったものの、後日決意を固め、父を連れてブラック・ジャックの元を訪れる。
そして「おまえさん、服を脱ぎな」の一言でいよいよ身体が震え始めた・・・のだが、ブラック・ジャックはここで「おまえさんの臓器を使ってお父さんの治療をする」「臓器は他で買うと高い。おまえさんが提供してくれれば安く済む」と宣言し、娘は安堵の表情で服を脱ぎ始めた。
以上がこの台詞の真意及び完全な流れである。
つまりブラック・ジャックが発した「おまえさんのからだをわたしの思いのままにさせる気なら」という言葉は、「(治療の為に)自分の体(の一部)を私の思うままに(父へ提供)させる覚悟はあるか」という意味だったのだ。
真意をすぐに話さなかった理由は明言されていないが、患者が憎き復讐相手であること、その憎しみを振り切って手術を決意したことを考えれば、素直な態度には出られないだろうと想像がつくほか、わざと真意を話さず応じにくいともとれる条件を与えたことで「娘に裏切られ見捨てられる最後を迎えさせる」という形で復讐を遂行しようとした可能性もあるだろう。
しかし、上述のようにブラック・ジャックが意味深な表情でこの台詞を発していたことと脱衣や下着の描写が当時にしてはそこそこ書き込まれていたことから、臓器提供の依頼という真意を示す肝心なコマ(及び娘が安堵するコマ)をカットし、さも本当にブラック・ジャックがセクハラしようとしているかのような印象を与える改変画像が大量に出回り、大きな誤解を招いてしまった。
- 江田島平八「男なら幸せになろうなどど思うな。幸せになるのは女と子供だけでいい。男なら死ねい」
「暁!男塾」最終回における卒業式の中で江田島の語った思想。
軍隊やスパルタ教育すら生温い男塾の教育と塾生が授業に耐え切れず死亡したり上級生から殺害されたりするのも日常茶飯事な上に、それらを塾側が問題視していない事から、塾生を虐めたいだけのただのサディストないし女尊男卑とも取れるような思想として槍玉に挙げられたが、この台詞には
「毎日毎日を死ぬ覚悟で生き、安逸に人生を消耗させるな。いかなる困難にもめげず、死物狂いで熱く苛烈に生きるのだ。即ちそれがこの男塾の3年間で学んだ『青年よ大死を抱け』の精神である!」
という続きがある。
つまり塾長は「幸せを掴んで安心することより、困難にめげず死物狂いで苛烈に生きていく事が大切である」という願いを込めて卒業生への訓示としたのである。
尚スピンオフ作品「紅!!女塾」に於いてもほぼ同じ内容があり、こちらでも「女なら死ねい」から始まる塾生への訓示がある。
- ブロッケンJr.「おまえはニンジャで、俺はブロッケンJr.だ! そこになんの違いもありゃしねぇだろうが!」
完璧超人始祖との戦いで
ブロッケンJr.が
ザ・ニンジャに共闘を拒絶された際の台詞がネットミーム化した物で、この後ザ・ニンジャが「
違うのだ!」と返すところまで一セット。
ネットミームとしては「同じ様で違う物」を比較するネタに使われがちだが、
本来はかつて共闘した相手に拒まれて「
自分達が『ブロッケンJr.』と『ザ・ニンジャ』である事はかつての共闘時と何も変わらない」事を主張したブロッケンJr.がザ・ニンジャに「
(あの時とは状況が)違うのだ!」と返されるというシチュエーションであり、別に彼らに自分達を比較する意図があったわけではない。
ネットミーム化の過程でシチュエーションが省かれた結果、本来の意図とは違う受け取り方をされてしまった典型例と言える。
- アーミヤ「ドクター、終わってない仕事がたくさんありますから、まだ休んじゃだめですよ。」
ソーシャルゲーム
アークナイツにて、ホーム画面にてメインヒロインのアーミヤを秘書にした状態で一定時間操作をしなかった場合に流れる、いわゆる放置台詞。
アーミヤが主役組織・ロドス製薬のCEOという立場であることからプレイヤー(ドクター)を休まず働かせるブラック企業の社長のように扱われるようになった最大の原因であるこの台詞だが、
他のキャラクターの同台詞を見る限り、どうやらドクターが仕事を放置して居眠りしているシチュエーションのようなので、立場を考えれば別に厳しい発言ではない。
まだ優しい部類と言ってもいいだろう。過労を労わって書類を引き継いだり毛布を持ってきてくれたりするオペレーターもそれなりにいるが
このコマだけが一人歩きして有名かもしれないほりのぶゆき「東京お侍ランド」の「千利休 リキュバ遺文」の一コマ。
ここだけ見ると「この利休にまっ茶ラテ(のような邪道の茶を)作れと!」と憤っているように見えるし、
こっちの利休はそういうニュアンスで発言しているが、
この利休はサブタイトルからわかるように、リキューバックス茶室なるものを作り、茶の道を離れカフェ道を歩み出している途上であり、カフェ道と茶道の融合を提案した秀吉の発想に驚嘆しているシーンなのである。
なお、利休は最終的には抹茶ラテからさらに推し進め
抹茶フラペチーノを生み出して秀吉を感嘆させている。
『
サザエさん』の中島のセリフだが、より正確には「間違いなくその意図通り言ってるが、世間での印象とは異なる」と言ったところ。
そもそもサザエさんという作品自体がとてつもない話数を誇る上、メディア配信をほとんどしていない方針だったため、「言った」「言わない」の検証が難しいところがあるのだが、これに関しては間違いなくアニメ内で発言はしている。
ただし、「いつも磯野を野球に誘う少年」という世間一般のイメージからすると、
ほとんど言っていないと断言していいレベルで言ってないセリフ。
誘うまでもなく野球をしていたり、野球ではなくサッカーに誘ったり、パターンは色々だが、「いつも『磯野ー、野球やろうぜ』と野球に誘う少年」という中島像は、ひとり歩きしたイメージに近い。
TVアニメ「
蒼き流星SPTレイズナー」の悪役、ゴステロの台詞。
スパロボの攻撃カットインなどでこんなセリフを吐かれた日には「殺人キチガイの狂気の発露」みたいに聞こえるかも知れない。
人間性としても原作からして「いじめと人殺しが大好き」と普通に言っているので擁護の余地自体は一切ないしマジで言いそうではある。
だが、原作本編におけるこの台詞は2回あるが2回ともギャグである。
1度目は主人公たちレジスタンスが基地に侵入してきた際、ゴステロが三枚目キャラの内通者のせいで高所から落ちるハメになった際に言っている。
2度目は軍法的な問題行動から収監された時、脱獄しようと天井の電気配線をいじろうとしてこけて頭を打った時に。
2度目は特に「脳がいてぇんだよ(小声)」くらいのニュアンスである。
なので「脳がいてぇえんだよおおおお!!!!」(この傷や体がうずくからてめえを殺すうううう!!)
みたいなことは実際言うたぐいの人間性はしているが、台詞そのものはスパロボマジックというか解釈が変化している、が正しい。
原作での台詞そのものは間を持たせるための小ネタくらいのもの。
本来はドイツ語で「乾杯」を意味する言葉であり、
銀河英雄伝説の銀河帝国側のパーティの場などでも普通にそのままの意味で使われている祝いの言葉である。
…なのだが、「
グラスを床に叩きつけて割る」ことそのものがプロージットであると勘違いしている人も見られる。
アムリッツァ星域会戦や
シヴァ星域会戦の出撃時の前祝いで幹部達と共に「
プロージット!」と唱和しワインを一気飲みしてグラスを床に叩きつけて割るという儀礼が行われている場面が元なのだが、作中ではラインハルトを含めて帝国の門閥貴族達はかなりの癇癪持ちで、度々不機嫌になるとワイングラスを怒りに任せて床に叩きつけている。
特にラインハルトは
ヤン・ウェンリーにしてやられたりすると、悔しさのあまりかなりの頻度で逆上してはグラスを叩き割ってばかりおり、この場面も強烈で印象に残りやすいためか、ニコニコ動画などではグラスが叩き割られる度に「
プロージット!」とコメントが流れる始末となっている。
6部の名台詞の一つにして、どんな能力であっても本体や扱い方次第で強くも弱くもなるという本作の「スタンド」という概念を端的に表した台詞として知られるが、同時に本人が
3部で発した「
『世界』は最強のスタンドだ」という発言と真っ向から矛盾するとしてよくネタにされる。
しかしこの台詞の全容は
「どんな者だろうと人にはそれぞれその個性にあった適材適所がある。王には王の……料理人には料理人の……それが生きるという事だ。スタンドも同様「強い」「弱い」の概念はない」というもの。すなわちこの発言は特に戦闘に限定したものではなく、むしろ戦闘能力のみでスタンドの価値を推し量ることはナンセンスという意味である。
そのため、「戦闘という用途において最強のスタンドが存在する」ということと「『あらゆる用途で全てのスタンドに勝る究極のスタンド』など存在しない」という上記の台詞の本意は本質的に矛盾しないと言える。
実際、質問を変えて「単純な喧嘩・戦闘ではどうか?(要約)」という風に聞きなおされた際にはとあるスタンド名を挙げている。
DIOの性格上、ナチュラルに自分のスタンドだけは例外と考えていた可能性もあるが。
TOUGHシリーズの中で特に台詞がネットミームとして有名な鯱山十蔵の台詞。
ネット上では敗北した相手を煽る台詞として用いられているが、実際は鯱山が主人公・
キー坊との試合でワンパンKOされ、目が覚めた際にあっけなく敗北した事実を受け入れられずに発した台詞である。
つまり、
負けているのはこの台詞を発している方ということである。
ちなみに上記の台詞の後は、鯱山のトレーナーが彼に対して何も言えないまま俯き、「そんな訳無いっス 俺が負ける訳無いっス」と困惑する鯱山という流れになっている。