[アップルの追悼ビデオ:Apple] スティーブ・ジョブズが逝ってはや1年。 ジョブズを話題にすることも、ジョブズについて書かれたものを紹介することも減った。 その分、ブログの更新頻度も減った。 アップルのニュースを追いかける日常に変わりはないが、日本語にして紹介する数はめっきり減ったように思う。 アップルファンの心に火をつける、そんなジョブズの話題が減ったことが大きな原因だ。(もちろん歳をとって体力が衰えたこともある。) 自分にとってジョブズはそれほど大きな存在だった。 アップルサイトの追悼ビデオはいい出来だと思う。 ヨーヨー・マが奏でるバッハの無伴奏チェロ組曲第1番をバックにジョブズの語りが綴られていく。 久しぶりにジョブズと正面から向き合った気がする。 ジョブズの晩年にはたくさんの記事を紹介した。いちばん心に残っているのは実の妹 Mona Simpson の追悼記事だ。 こんな心に響
《Update:Ken Segall のインタビュー》 [MacMan と呼ばれていたかもしれない:image] ジョブズと共に仕事をした広告会社 TBWA\Chiat\Day の Ken Segall が語るエピソードがオモシロい。 ジョブズ復帰後のアップルを成功に導いた iMac の命名者はジョブズではなかったというのだ。 Ars Technica: “‘MacMan’ or ‘iMac?’ The creative director behind Apple’s turnaround” by Jacqui Cheng: 04 May 2012 * * * ジョブズの考えは「MacMan」 アップル製品にジョブズが付けようとした名前がいつもベストだったというわけではなかった。オリジナル iMac にジョブズが付けようと考えていた名前は「MacMan」だった・・・ […]
Jobsが亡くなってしまって大変残念であるがAppleは引き続き頑張ってほしいものである。 Jobs氏と直接話したのは2006年の面接のときだけなのだが、 その時のメモを書いてみる。 iPhoneに関する情報が全く外部に出てなかったときの話である。 日時 2006/5/4 参加者 J: Steve Jobs F: Scott Forstall (iPhone開発責任者) M: 私 話の流れ ジョブズ登場! 報道とかで見るの同じ印象。調子が良くてスマートな感じ。 J: 「やぁトシ(握手)! 遅れてゴメン。滅茶苦茶面白いプロジェクトの打合せをしててネ。」 J: 「中身は言えないけど、Mac、iPodの次の柱となる大きなプロジェクトなんだ。」 J: 「君なら一瞬でも見たらその強烈さを理解すると思うョ」 J: 「日本語の入力とかは結構鍵になるんだ。でもこれまでのより格段によくなるんだけどね」 J:
[Farewell to a Genius: The Life and Times of Steve Jobs | Created by Infographic World] 「天才よさらば:Steve Jobs の一生とその時代」と題されたインフォグラフィック。 大変な労力をかけた力作であることは分かるのだが・・・ インフォグラフィックを紹介するときに感じるあの無力感はなんだろうか? Infographics とは「information graphics」(画像+情報)のことだ。なのに画像の部分が圧倒的すぎて、文章による情報の部分が影が薄くなってしまったような・・・ 文章で書かれたものなら、その細部にわたって原情報に遡ってチェックすることができる。インフォグラフィックではそれすら必ずしも容易ではない。 パイオニア探査機に搭載された金属板インフォグラフィックはここまで「圧倒的」ではなかっ
2011年10月5日、アップルの創業者で会長のスティーブ・ジョブズが死去した(享年56歳)。アップル本社はもちろん、世界中の直営店には花束や彼への追悼のメッセージが寄せられ、まるで、偉大なロックスターの死を悼むかのような騒ぎだった。これを見て経営者の逝去が、どうして、これほどの騒ぎになるのか疑問に思った人もいただろう。だが、彼こそが、今の時代を歌った偉大なロックスターだった。 今日、街中を歩くと年齢性別を問わず、そこかしこでスマートフォンについての話題を話し合っている。数年前はiPodが同じ状態で、その後、世界中に、あの白いヘッドホンの老若男女があふれ出した。いずれはiPadの話題が同様に世界を包むだろう。 「時々、革命的な製品が出てきてすべてを変えてしまう」 彼はそうやって時代をつくり続けてきた。1970年代に、いわゆるパソコンの元祖を生み出した後、それをマウスで操作できる今日の形に進化
100万部を超えた伝記「スティーブ・ジョブズ」(講談社の公式ページより) 10月24日、講談社より公式評伝『スティーブ・ジョブズ』が発売されました。発売前に重版が決まり、電子書籍も異例の売れ行きが発表されるなど、本書を巡っては翻訳書籍の歴史を塗り替える出来事が続いています。 一方で、「海外では1冊にまとまっているのに、上下巻となっていて価格が高いのではないか?」「紙の本と電子書籍で値段が同じなのはなぜ?」「カバーのデザインが海外版と異なるのは納得いかない」など、様々な反応が寄せられたともいいます。 そこで、「スティーブ・ジョブズ」の編集・刊行を行った講談社学芸局翻訳グループの柿島一暢さん、青木肇さんに、本書の権利獲得から出版に至る経緯を伺いました。お二人は本書の編集作業もタッグを組んで行っています。 異例続きの制作過程や、翻訳書・電子書籍に与えるインパクトについて現場から見えて来たこととは
[How Steve Jobs Stole the GUI from Xerox | YouTube] アップルファンなら誰でも知っているビデオがある。例のマイクロソフトを散々こき下ろすビデオだ。 それは失われたと思われていたインタビュービデオの一部だった・・・ Wired.com: “Steve Jobs: The Lost Interview Heads for Theaters” by Hugh Hart: 04 November 2011 * * * 紛失したと思われてきたビデオ 元アップル社員だった Robert Cringely が PBS のために 1995 年に行なったインタビューで、Steve Jobs はマイクロソフトのことをこき下ろす。放映されたのはたった10分足らずで、「Triumph of the Nerds: The Rise of Accide
[スタンフォード Memorial Church:photo] Mona Simpson の追悼の辞のつづき。 Steve Jobs の病いについて。 NYTimes.com: “A Sister’s Eulogy for Steve Jobs” by Mona Simpson: 30 October 2011 * * * 病い そして Steve は病気になりました。彼の生活の範囲が小さくなっていくのを見守りました。かつて、彼はパリの街を歩くのが好きでした。京都では手打ち蕎麦の店を見つけました。ダウンヒルスキーは優雅で上手でした。クロスカントリースキーは不器用でしたが。しかしもうそれも出来ません。 Then, Steve became ill and we watched his life compress into a smaller circle. Once, he’
[スタンフォード Memorial Church:photo] Mona Simpson の追悼の辞のつづき。 最後の部分、Steve Jobs の死について。 NYTimes.com: “A Sister’s Eulogy for Steve Jobs” by Mona Simpson: 30 October 2011 * * * 予期せぬ死 誰でも結局は途中で死ぬのです。物語の途中で。たくさんの物語がそうです。 We all — in the end — die in medias res. In the middle of a story. Of many stories. ガンを患って何年も生き延びたひとの死をそういうのは必ずしも正確ではないかもしれません。しかし Steve の死は私たちにとって予期せぬものでした。 I suppose it’s not quite
[スタンフォード Memorial Church:photo] Mona Simpson の追悼の辞のつづき。 Steve Jobs の人生について。 NYTimes.com: “A Sister’s Eulogy for Steve Jobs” by Mona Simpson: 30 October 2011 * * * 好きな事を一生懸命 Steve は好きなことを仕事にしました。一生懸命働きました。毎日毎日を。 Steve worked at what he loved. He worked really hard. Every day. 信じられないほど単純ですが、本当のことです。 That’s incredibly simple, but true. ボーッとしているのの正反対、それが Steve でした。 He was the opposite of absen
[スタンフォード Memorial Church:photo] Steve Jobs の実の妹 Mona Simpson がスタンフォードチャーチの追悼式で心温まるスピーチをしたことは聞いていた。 スピーチの全文が NY タイムズに掲載されている。 共に父親探しの旅に出てから、最後の死に至る瞬間まで、常に Jobs の傍らにいて、彼の人となりをよく知っていた妹のことばだ。 抜粋したり、要約するのが憚られるほど心に響く内容だ。 迷ったが、何度かに分けて訳してみたいと思う。 NYTimes.com: “A Sister’s Eulogy for Steve Jobs” by Mona Simpson: 30 October 2011 * * * シングルマザーの独りっ子 私はシングルマザーの独りっ子として育ちました。貧しくて、父がシリアの移民であることを知っていましたから、オマ
A Sister’s Eulogy for Steve Jobs モナ・シンプソン (Mona Simpson) 2011年10月30日 私は母子家庭の一人っ子として育てられました。 貧しかったので、そして父はシリアからの移民だと教えられていたので、 父については、オマル・シャリフのような人ではないかと想像していました。 裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。 のちに面会したとき、私は、父は理想に燃える革命家で、アラブの新世界を導く人だったのだと、 だから転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。 私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。 二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。 25歳になってその人に出会いました。 それが兄でし
10月5日に逝去した巨人、スティーブ・ジョブズのトリビュートイベント「NeXT tribute to Steve Jobs」が、10月30日、恵比寿・リキッドルーム全館を使って開催された。 イベントはコンピューマのDJでスタート。開始より1時間後には、1階・リキッドルームで、津田大介、井口耕二(公式伝記「スティーヴ・ジョブズ」翻訳者)、竹中直純(OTOTOY)、林信行(フリージャーナリスト)、松村太郎(慶應義塾大学SFC研究所上席所員(訪問))によるトークライブが行われた。ジャンルを飛び越えた様々なエキスパート達による、それぞれのジョブズとの関わり、エピソード、Apple に対する思いなど、熱い内容のトークセッションとなった。その後はDJライブに。砂原良徳、DJ JIMIHENDRIXXX(a.k.a.渋谷慶一郎)と続き、トリをつとめたのがOL Killer。そのパフォーマンスに、会場は大
[Jony Ive at Apple Celebration – 19 October 2011] アップル追悼式での Jonathan Ive のスピーチに心を動かされたひとは多い。 後になっても読めるようにと Geoff Coffey が追悼スピーチの全文を掲載しているので、改めてご紹介。 Posterous: “Jony Ive’s Steve Jobs Eulogy” by Geoff Coffey: 26 October 2011 * * * くだらんアイデアだが Steve はよく私にいったものだ。(それも一度や二度じゃない。)「ヘイ、Jony。くだらんアイデアだが・・・。」 確かに実にくだらないときもあった。ひどすぎてどうしようもないこともあった。しかしときには部屋中がシーンとして、2人とも完全にことばを失ってしまうこともあった。大胆かつクレージー、そして素晴
表紙担当の南です。スティーブ・ジョブズに関するエントリーが2日間続いていますが、今日もジョブズに関する話を書かせていただこうと思います。 私がジョブズの死を知ったのは、1月号(11月25日発売)で特集するMIT...表紙担当の南です。スティーブ・ジョブズに関するエントリーが2日間続いていますが、今日もジョブズに関する話を書かせていただこうと思います。 私がジョブズの死を知ったのは、1月号(11月25日発売)で特集するMITメディアラボの取材のために、ボストンを訪れていたときでした。ボストン美術館でメディアラボのトッド・マッコーバー教授の講演を聞いていたとき、ふと眺めたツイッターのタイムライン上にその悲報が流れ、一瞬信じることができませんでした。 それはボストン時間で5日水曜の夜20時くらいでした。そして、その翌々日の金曜の昼に立ち寄った書店では、すでに若き日のジョブズを表紙に掲載した「
長い間謎とされたきた、スティーブ・ジョブズ氏の愛車にナンバープレートが付いていない理由が明らかになったようです。[source: iTWire ] ジョブズ氏が、愛車のメルセデスベンツSL55AMGにナンバープレートを装着しないまま公道を走っていることは有名ですが、その理由については諸説あるものの、いずれも決定打に欠ける内容でした。(写真は筆者が2010年6月にアップル本社前で撮影したもの) 例えば、アップルの共同設立者・スティーブ・ウォズニアック氏によると、ジョブズ氏はプライバシー上の懸念から、ナンバーの代わりに小さなバーコードのシールを貼る、という特別の許可をカリフォルニア州のDMV(陸運局のようなところ)から得ているというもの。 これはDMVのスポークスマンが以前より、「たとえ州知事であっても特例は設けない」としており、現実的でないように思われます。 伝記の著者、ウォルター・アイザッ
スティーブと初めてじっくりと話をしたのは、彼が米アップルに復帰した頃でした。ラリー・エリソン(米オラクル創業者)宅のサクラの木の下でインターネットの将来について語り合いました。まだアップルを追放された心の傷は癒えておらず、満身創痍といった様子でした。それから、互いの会社や自宅を行き来するようになりました。 初めてiPhoneを手にしたときは鳥肌が立ちました。それまで携帯電話に本物のOSが入ったことはなく、ユーザーインターフェースも革新的でした。 スティーブはiPhone開発後に「とにかくすごいぞ。パンツにおもらしするぞ。他社は少なくとも5年追いつけない」と断言していました。その言葉どおりでした。たった1機種の端末が世界の携帯電話メーカーを震撼させました。 じつは、携帯電話事業に参入する前、スティーブに「iPodとケータイを足したようなものを作ってほしい。世界で革新的なモバイルを作れるのはあ
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