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晋に関するnagaichiのブックマーク (30)

  • 晋書邦訳一覧 - 劉裕頁

    劉裕頁 晋末宋初に関するエピソード群を様々な形で参照できる wiki です。 トップページページ一覧メンバー編集 晋書邦訳一覧 最終更新: jinsung 2023年08月30日(水) 07:43:44履歴 Tweet 紀 巻人名晋書訳簡訳所解体晋書その他1司馬懿○ンバ2司馬師○○司馬昭○3司馬炎○4司馬衷○○5司馬熾○○司馬鄴○○6司馬睿○○○司馬紹○○○7司馬衍○○司馬岳○○8司馬聃○○司馬丕○○司馬奕○○9司馬碰○○司馬曜○○波間10司馬徳宗○○波間司馬徳文○○波間 志 巻人名晋書訳簡訳所解体晋書その他11天文上12天文中13天文下14地理上○15地理下○16律暦上17律暦中18律暦下19礼上20礼中21礼下22楽上23楽下24職官○○25輿服26貨27五行上○28五行中29五行下30刑法 列伝1〜35 巻人名晋書訳簡訳所解体晋書その他31后妃序○宣穆張皇后○景懐夏侯皇后○景献羊

    晋書邦訳一覧 - 劉裕頁
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    nagaichi 2021/12/13
  • 益州刺史の爰邵≒袁邵

    鄧艾が伐蜀の前に見た夢の内容について他の者に尋ねたところ、「蜀に勝てるが帰れない」との回答を受けたという逸話があります。 『三国志』巻二十八、鄧艾伝 初,艾當伐蜀,夢坐山上而有流水,以問殄虜護軍爰邵。邵曰:「按易卦,山上有水曰蹇。蹇繇曰:『蹇利西南,不利東北。』孔子曰:『蹇利西南,往有功也;不利東北,其道窮也。』往必克蜀,殆不還乎!」艾憮然不樂。 この的中した夢の解釈を述べた人物は、殄虜護軍の爰邵です。 鄧艾の麾下に居た武将でしょう。 それにしても「爰姓」は珍しいですね。 伐蜀の時の鍾会の配下に「參軍爰𩇕」が居ますが、 『三国志』巻二十八、鄧艾伝、注引『荀綽冀州記』 (爰)邵起自幹吏,位至衞尉。長子翰,河東太守。中子敞,大司農。少子倩,字君幼,寬厚有器局,勤於當世,歷位冀州刺史、太子右衞率。翰子俞,字世都,清貞貴素,辯於論議,採公孫龍之辭以談微理。少有能名,辟太尉府,稍歷顯位,至侍中、中

    益州刺史の爰邵≒袁邵
  • 唐修『晋書』職官志の「位従公」について

  • M. A. / Jinshu · GitLab

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    nagaichi 2020/04/11
  • 西晋時代の墓から青磁器 ほぼ完全な形で出土 湖南省 - ライブドアニュース

    nagaichi
    nagaichi 2019/11/12
    あまり青磁の色に見えないな。紀年銘は「永興三年七月乙酉朔」か。ただし永興三年は六月に光熙に改元してるけどな。
  • 【考察】晋朝の騶虞幡、白虎幡

    nagaichi
    nagaichi 2018/01/29
    パンダの旗じゃなかったのか。避諱とするなら、李虎の諱を避けているのだろうけど。
  • 桓温の第三次北伐 -枋頭の戦い-

    小川・F・茂樹 @DasimafuOpDiary 枋頭の戦いの時系列を『晋書 海西公紀』をベースに再構成してみようと思います。 ところどころ『資治通鑑』で補足してますけど、桓温が東武陽に展開したところはカットしてます。 胡三省には悪いんですけど、桓温が東武陽に行く理由が全く見当たらないから仕方がない。 #枋頭の戦い #桓温 pic.twitter.com/CQQWLUtkI9 2017-10-09 15:29:22 小川・F・茂樹 @DasimafuOpDiary 四月庚戊 大司馬桓温 衆を帥いて慕容暐を伐たんとす。 『晋書 海西公紀』 (桓温の)軍は湖陸に次し、慕容暐の将慕容忠を攻めると之を獲らえ,進めて金鄉に次した。 『晋書 桓温伝』 六月辛丑 (桓)温金郷に至る。 『資治通鑑 晋紀 太和四年』 #枋頭の戦い #桓温 pic.twitter.com/QcgLRnbVNP 2017-10

    桓温の第三次北伐 -枋頭の戦い-
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    nagaichi 2018/01/03
  • 五胡十六国人物伝 追加分

    西晋の天下統一事業に於ける、孫皓に並ぶ難敵の一。鮮卑であり、また「トクハツ」と「タクバツ」の音が存外近いので、もしやすると拓跋とは同族なのやも知れぬ。八王の乱以前の人なので来紹介すべきではないのだが、ポスト淝水に於ける緒涼割拠の起点として抑えておくべきと判断、紹介する。禿髪樹機能に代表される秦州涼州の諸部族の蠢動を西晋~前涼~前秦が押さえ込んだが、淝水によって破裂、と言うのが後の緒涼国家群のプロローグなのである。 劉琨とある意味で被っているので紹介を迷ったひとである。が、趙漢石勒にとっての強敵であるのは間違いがない。三國志マニアに向けては「董卓周りで存在感を示す王允の親族ですよ」となるのだが、この辺りは大人しく東晋に権勢を誇った太原王氏の係累である、と言ってしまった方が早いのやも知れぬ。名族の存在感は実に凄まじいな。鮮卑宇文部、段部らを上手く操り、東北地方での権勢をほしいままとしたが、石

    五胡十六国人物伝 追加分
    nagaichi
    nagaichi 2017/10/12
    若い人がやってくれるなら、俺は何もしなくていいんじゃないかと思い始めた不惑越え惑々煩悩中年。
  • 祖逖に始まる北府軍 - 歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

    ●祖逖の名前 ●北伐義勇軍を形成する祖逖 ●祖逖の遺志が北府軍を創った 建康郊外に駐屯し、大きな軍権を握る北府軍。 常に東晋の政局に影響を与え、 最終的には北府軍出身の劉裕が東晋皇帝からの禅譲を実現させる。 政治的局面での存在感が強い、北府軍であるが、 その原点は祖逖の北征への純粋な思いが由来であった。 祖逖の事績から、北府軍の成立までを辿る。 ーーーー ●祖逖の名前 逖の意味。それは「くたばれ、異民族」である。 隋の楊堅は元々随公だったが、 皇帝に即位するにあたり、国号を変えたという話がある。 一説には俗説とも言われるが、 国号を変えた理由に注目したい。 「随」にはしんにょうが入っていて、 それは流れる、走るという意味が入っているから、 「隋」に変えたという話だ。 つまり、早くに王朝が滅びてしまうという懸念からである。 祖逖。 この「逖」という見慣れない漢字を見てほしい。 狄にしんにょう

    祖逖に始まる北府軍 - 歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜
    nagaichi
    nagaichi 2017/10/05
    戴若思とは戴淵のことな。
  • 両晋十六国好きとして知らないと恥をかく200人物伝 初級編

    ああだこうだ @ryoushin_16 苟晞(字:道将)(91) 漢族出身。西晋に仕え、官僚・将軍として活躍した。反乱勢力を度々破るが人心を失い、漢の石勒に破れ、後に処刑された。軍事の才に優れ、人々は古の白起・韓信と比された。残酷な所業から屠伯と呼ばれた。 #両晋十六国好きとして知らないと恥をかく200人物伝_初級編 2017-03-11 09:46:27 ああだこうだ @ryoushin_16 祁弘(字:?)(88) 漢族出身。西晋の王浚の配下であり、八王の乱の混乱時、北方の騎兵軍を率いて活躍した。漢と冀州方面で戦い、飛龍山の戦いで石勒に大勝した。石勒との再戦時、霧で前後不覚時に攻撃されて、討ち死にした。 #両晋十六国好きとして知らないと恥をかく200人物伝_初級編 2017-02-24 20:35:39

    両晋十六国好きとして知らないと恥をかく200人物伝 初級編
  • 魏晋南北朝史のいま [978-4-585-22679-6] - 3,080円 : 株式会社勉誠社 : BENSEI.JP

    魏晋南北朝時代は秦漢統一帝国と隋唐統一帝国の中間に位置する。 政治的に複数の政権が並立する分裂の時代ではあるが、そこには新しい動きが様々な点で生まれ、成長して行き、隋唐時代に繋がって行く。 それら新しい動きを「政治・人物」、「思想・文化」、「国都・都城」、「出土資料」の4つの側面から捉え、魏晋南北朝史研究の「いま」を分かりやすく解説し、非統一時代に生きた人々・物事の足跡を浮かび上がらせる。 総論―魏晋南北朝史のいま 窪添慶文 Ⅰ 政治・人物 曹丕―三分された日輪の時代 田中靖彦 晋恵帝賈皇后の実像 小池直子 赫連勃勃―「五胡十六国」史への省察を起点として 徐冲(板橋暁子・訳) 陳の武帝とその時代 岡部毅史 李沖 松下憲一 北周武帝の華北統一 会田大輔 それぞれの「正義」 堀内淳一 Ⅱ 思想・文化 魏晋期の儒教 古勝隆一 南北朝の雅楽整備における『周礼』の新解釈について 戸川貴行 南朝社会と

  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • 五胡十六国地图 China Map of Five Dynasties and Ten Kingdoms Period

    五胡十六国地图 China Map of Five Dynasties and Ten Kingdoms Period
    nagaichi
    nagaichi 2017/03/03
    この時代の荒らぶりっぷりが分かりやすくてよい。やはり1年以下の刻みでないと、ダイナミズムが見えないからな。
  • 五胡十六国時代について語るスレ その2 [無断転載禁止]©2ch.net

    1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/10/08(土) 02:48:30.78 ID:LPxc0DUh0 五胡十六国時代全般についてあれこれ語るスレ 五胡たちからボコられた西晋や時々北伐してくる東晋 東晋を引き継いだ劉裕の宋、十六国を統一して南北朝時代の幕を開いた北魏、それらの後継国家についても自由に語ってください 次スレや参考となるサイト等については2以降で 552 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/23(金) 09:24:09.91 ID:vxqD4KVV0 かんおん!(1期) 王導をはじめ殷浩、謝尚、王濛、王述らとともに桓温が清談を楽しみつつキャッキャウフフする日常系アニメ かんおん!!(2期) 桓温が北伐しまくる歴史大河ロマン かんおん!highschool 377年になり、桓温達が卒業して謝玄一人が残った桓温部だったが、 劉建の息子でクラスメイトの劉牢之、同じく

    nagaichi
    nagaichi 2016/12/23
    「日常系アニメ」www
  • 魔法つかい陳訓 - てぃーえすのメモ帳

    陳訓字道元、歴陽人。少好祕學、天文・算暦・陰陽・占候無不畢綜、尤善風角。 孫晧以為奉禁都尉、使其占候。晧政嚴酷、訓知其必敗而不敢言。 時錢唐湖開、或言天下當太平、青蓋入洛陽。晧以問訓、訓曰「臣止能望氣、不能達湖之開塞。」退而告其友曰「青蓋入洛、將有輿櫬銜璧之事、非吉祥也。」尋而呉亡。訓隨例内徙、拜諫議大夫。俄而去職還郷。 (『晋書』巻九十五、芸術伝、陳訓) 三国呉末期の人陳訓は、占いその他各種の秘術を学んだ。いわば魔法つかいであった。 そんな彼は呉の皇帝孫晧に取り立てられて「奉禁都尉」になったという。 名前から察すると、魔術の類を武器とする軍団が作られていて、その司令官のような地位についた、ということになるのではなかろうか(「禁」には「まじない」といった意味もあり、また「都尉」ということは部隊長、将校という扱いということになる)。 孫晧(孫皓)は魔法つかい軍団を編成していた、という可能性が

    魔法つかい陳訓 - てぃーえすのメモ帳
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    nagaichi 2016/08/29
    いわゆるオカルティストであって、魔法使いではないと思う。
  • 漢寿県と漢寿県 - てぃーえすのメモ帳

    劉備據蜀、又分廣漢之葭萌・涪城・梓潼・白水四縣、改葭萌曰漢壽、又立漢徳縣、以為梓潼郡。割巴郡之宕渠・宣漢・漢昌三縣置宕渠郡、尋省、以縣並屬巴西郡。泰始三年、分益州、立梁州於漢中、改漢壽為晉壽、又分廣漢置新都郡。梁州統郡八、縣四十四、戸七萬六千三百。 (『晋書』巻十四、地理志上、梁州) 漢壽。故索、陽嘉三年更名、刺史治。 (『続漢書』志第二十二、郡国志四、武陵郡) 武陵郡。漢置。統縣十、戸一萬四千。 臨沅、龍陽、漢壽、沅陵、黚陽、酉陽、鐔城、沅南、遷陵、舞陽。 (『晋書』巻十五、地理志下、荊州) 劉備は蜀を支配すると広漢郡の葭萌県を「漢寿」県と改称したそうだが、晋の時代になって「漢寿」は「晋寿」と改められたそうだ。 一方、武陵郡にも後漢中期の段階で「漢寿」県があったが、どうもこちらの「漢寿」は晋になっても改称されず、「漢寿」のままだったらしい。 どうでもいいことなのだが、どうして一方は改称さ

    漢寿県と漢寿県 - てぃーえすのメモ帳
    nagaichi
    nagaichi 2016/05/23
    単に紛らわしかったからでは?南北朝時代にも紛らわしい僑郡や僑県がたくさん立ってたけど、隋唐になって統一されると整理に向かったような。
  • 諸葛亮VS周瑜・魯粛 - てぃーえすのメモ帳

    客問曰「周瑜・魯肅何人也?」主人曰「小人也」客曰「周瑜奇孫策於總角、定大計於一面、摧魏武百勝之鋒、開孫氏偏王之業、威震天下、名馳四海。魯肅一見孫權建東帝之略、子謂之小人、何也?」主人曰「此乃眞所以爲小人也。夫君子之道、故將竭其直忠、佐扶帝室、尊主寧時、遠崇名教。若乃力不能合、事與志違、躬耕南畝、遁跡當年、何由盡臣禮於孫氏於漢室已亡之日耶!」客曰「諸葛武侯、翼戴玄紱、與瑜・肅何異而子重諸葛、毀瑜・肅、何其偏也?」主人曰「夫論古今者、故宜先定其所爲之、迹其致用之源。諸葛武侯、龍蟠江南、託好管・樂、有匡漢之望、是有宗之心也。今玄紱、漢高之正胄也、信義著於當年、將使漢室亡而更立、宗廟絶而復繼、誰云不可哉!」 (『太平御覧』人事部八十八、品藻下、習鑿歯『側周魯通諸葛論』) かの東晋の史家である習鑿歯は、「側周魯通諸葛論」というものを残していた。 これは、いわゆる孫呉成立の立役者ともいえる周瑜・魯

    諸葛亮VS周瑜・魯粛 - てぃーえすのメモ帳
    nagaichi
    nagaichi 2015/11/26
    習鑿歯の贔屓の引き倒し。
  • 涼州の大族 - てぃーえすのメモ帳

    麴允、金城人也。與游氏世為豪族、西州為之語曰「麴與游、牛羊不數頭。南開朱門、北望青樓。」 (『晋書』巻八十九、麴允伝) 西晋代の頃、西州つまり涼州方面の大族として「麴氏」と「游氏」が二大巨頭であったということらしい。 この二氏は牛や羊は数え切れず、朱塗りの門や高楼を備えた屋敷を構えている、ということか。 この地方の「麴氏」と「游氏」って後漢末から三国時代にかけてもしばしば出てくるが、しぶとく生き残って、むしろ膨れ上がっていた勝ち組だったのかも。

    涼州の大族 - てぃーえすのメモ帳
    nagaichi
    nagaichi 2015/07/18
    高昌王麴嘉なんかはその子孫なんだろうね。
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    nagaichi
    nagaichi 2015/03/26
    東晋の荊州刺史王廙が使用していたペルシアのガラス杯。
  • 蔡邕の娘の子供の伯母 - 三国与太噺 season3

    羊祜字叔子、泰山南城人也。……祜、蔡邕外孫、景獻皇后同産弟。 ――『晋書』羊祜伝 景獻羊皇后諱徽瑜、泰山南城人。……后母陳留蔡氏、漢左中郎將邕之女也。 ――『晋書』景獻羊皇后伝 ご存知の通り、羊祜と羊皇后の母親は蔡邕の娘(済陽県君)なんですけど、ところでこんな逸文もあるんです。 三十國春秋曰、羊祜年十五而孤、事伯母蔡氏、以孝聞。蔡氏毎歎曰、羊叔子可謂能養今顔叔子也。其諸葛孔明之亞乎。 ――『太平御覽』巻五一三 三十国春秋に曰く、羊祜は十五歳にして父を失ったが、伯母である蔡氏に仕え、孝行で知られた。蔡氏はいつも歎息して、「叔子(羊祜のあざな)は古の顔回みたいだ。彼は諸葛孔明にも次ぐだろう」と言っていた。 逸話自体も興味深いんですけど、ちょっと面白いと思ったのはこの話に蔡氏という羊祜の伯母が登場することです。 ちょっと前から僕の周辺で、また「羊祜の母親は蔡文姫」って解釈が話題に上るようになって

    蔡邕の娘の子供の伯母 - 三国与太噺 season3