まどそごみ🔥夏コミネーム中 @sogomi3 5/5 ここまでお読みくださりありがとうございます!! こちらの薄い本は下記で扱っていますので、気になった方は是非どうぞ…✨👇👇 sgm3.booth.pm/items/3984646
「会社員が研究をしている理由を聞かれたら、『好きだから』と答えればいい」 大学院文学研究科 修士課程 2年 佐藤 大朗(さとう・ひろお) 会社員として経理業務に携わりながら、古代中国の歴史書『三国志』を研究している大学院文学研究科の佐藤大朗さん。『三国志』に出合ったきっかけは、学部生の頃、就活中に没頭したアクションゲームだったと言います。学部卒業後、独学で論文を執筆し学会発表なども行ってきた佐藤さんに、『三国志』の面白さから、大学院進学を決めた理由、そして大学院生と会社員の両立まで、話を聞きました。 ――まず『三国志』とはどういうものなのか、教えてください。 『三国志』は3世紀の中国で書かれた歴史書です。当時の中国は、全土を統一していた漢帝国が倒れ、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)という三つの国が競い合っている動乱の時代でした。『三国志』はそのうちの蜀に仕えていた陳寿という人物によって書か
つい先日、数年ぶりに友人の甘寧(かんねい)と酒を飲みまして、大変懐かしかったので、今日はファミコン版の「三國志」の話をします。 三国志をご存じの方なら、一行目から「こいつは何を言っているんだ???」という疑問を抱かれたと思いますので順を追って話しますと、甘寧というのは私の小学校来の友人の田島くん(※仮名)のことです。 田島くんが何故甘寧かというと非常に単純な話でして、それは彼が甘寧に酷似しているからです。 これが甘寧です。そして田島くんです。当時から似ていましたが大人になってより一層甘寧になっていました。 ご存じの方には今更の話で恐縮ですが、光栄(現コーエーテクモゲームス)の「三國志」には「武将」が出てきます。 劉焉、曹操、孫権などの皆さんよくご存じの中国・三国時代の英傑たちを操って中華全土を統一することが目的のゲームなのですが、当時既にファミコン移植されていた「信長の野望・全国版」が基本
武郷谷の話はあるものの、姜維らの例を考えると、諸葛亮も琅邪国武郷県の侯とする方が自然で、武郷谷は諸葛亮の功績に報いるために、遥任だけでなく実質的な侯国も与えたとみなした方が良いでしょう。https://t.co/J5LTtgv0kr— Jominian (@Jominian) 2022年12月6日 なるほど、諸葛亮の侯について、公式には琅邪にあることにされていたけど、実際の領土が別に漢中にあった、と考えることができるか。 形式的には漢中の方は飛び地みたいな扱いだったのかもしれんな。 前漢の張安世・張延寿など、郡をまたいで複数の箇所に領土があった例は実際にあるし。
孫権は皇帝即位後、兄孫策に対して「長沙桓王」の号を贈った。 父孫堅には「武烈皇帝」という号を贈っており、王と皇帝という差があったことになる。 これについて、兄孫策にも皇帝号を贈らないことを不思議がったり孫権の誤りであると述べる人をしばしば見かけるのだが、例えば漢の高祖も世祖も兄弟に皇帝号は贈っていないので、少なくともおかしな話ではない。 特に後漢の場合も孫策のように弟が皇帝になる上で一定の役割を果たしているが、少なくとも皇帝とはしていない。 (孫)權稱尊號、追諡(孫)策曰長沙桓王、封子紹為呉侯、後改封上虞侯。 (『三国志』巻四十六、孫策伝) それよりも問題は、孫策の諡号は王としておきながら、孫策の子は王にしていないことではないだろうか。 少なくとも後漢の場合は皇帝の兄劉縯に「斉武王」という号を贈るとともに、遺児を斉王としている(それ以前から王にはしている)。 この遺児への扱いの方が、過去の
FGOの福袋で毎年オルジュナを引けないマスターの皆さんこんにちは! 同期作家兼マブが一年ぶりに新刊を出すということでnote更新しに来たどうも俺こと人間のクズです。 ちなみに俺は2年連続福袋で土方引いてます。ボケが。 それでどう? 歴史上の偉人をエロい女にしてエロい水着とか着せる最高のコンテンツ、今日も楽しんでる? ちなみに俺は楽しんでる。 FGOで言うと一部7章が好き。というかなんならそれ以外まともにストーリー見てない。 なぜなら俺は永遠のSN厨だから…… UBWルートは俺の厨二心にずっと刻まれ続けているから… でも奈須きのこ先生の最高傑作はDDDだと思っているから… さておき、今日はそんな歴史改変系オタクコンテンツが好きな皆様にオススメのラノベがあるのさ 董白伝〜魔王令嬢から始める三国志〜 著/伊崎喬助 イラスト/カンザリン1巻書影 それでまずこの表紙の美少女こと董白って誰なんだよ?
鄧艾が伐蜀の前に見た夢の内容について他の者に尋ねたところ、「蜀に勝てるが帰れない」との回答を受けたという逸話があります。 『三国志』巻二十八、鄧艾伝 初,艾當伐蜀,夢坐山上而有流水,以問殄虜護軍爰邵。邵曰:「按易卦,山上有水曰蹇。蹇繇曰:『蹇利西南,不利東北。』孔子曰:『蹇利西南,往有功也;不利東北,其道窮也。』往必克蜀,殆不還乎!」艾憮然不樂。 この的中した夢の解釈を述べた人物は、殄虜護軍の爰邵です。 鄧艾の麾下に居た武将でしょう。 それにしても「爰姓」は珍しいですね。 伐蜀の時の鍾会の配下に「參軍爰𩇕」が居ますが、 『三国志』巻二十八、鄧艾伝、注引『荀綽冀州記』 (爰)邵起自幹吏,位至衞尉。長子翰,河東太守。中子敞,大司農。少子倩,字君幼,寬厚有器局,勤於當世,歷位冀州刺史、太子右衞率。翰子俞,字世都,清貞貴素,辯於論議,採公孫龍之辭以談微理。少有能名,辟太尉府,稍歷顯位,至侍中、中
三国志を好きになりはじめたばかりのある日のこと。 ふと図書館で「三国史記」なる本を見つけ、すわ三国志だと思って手に取ってみたら、三国は三国でもそれは朝鮮の三国史(新羅・高句麗・百済)だった―― という哀しき過去を我々は誰しもが抱えているわけですが、ついこの前、そんな昔の傷を思い出させる体験をしました。 それはうちの図書館の地下書庫でのこと、ハングル書架に並んでいたその本は『大三國誌』という題名で、「三国誌」と「後三国誌」それぞれ五巻から構成される全十巻の本でした。 著者は――あとで検索して分かったことですが――金龍済(三国誌担当)と趙誠出(後三国誌担当)という人で、1979年にソウルの平凡社(あの平凡社?)から刊行されたものだそうです。 その本を初めて見たとき、もちろん僕は「おっ」てなりました。「三国」という文字を見たら反応するよう、我々は躾けられておりますので、これは自然な反応ですね。し
虞翻という人物を知っている人は少なくないと思う。三国志などのゲームに登場するからである。しかも、そこそこ強い。虞翻は、呉の孫策・孫権に仕えた人物である。虞翻の生没年は、ゲーム内や辞書でも164年-233年とされる。しかし、『三国志』呉書・虞翻伝を読むと、どうもおかしい。その生没年と合致しない記述がみられるのである。そこで、すこし虞翻の生没年を再考してみたい。 まず虞翻の略歴を『三国志』呉書・虞翻伝をもとに述べておこう。虞翻 、字は仲翔、会稽郡の余姚の人。虞翻は、幼くして学問を好み、気高い心を持っていた。十二年のとき、ある客が虞翻の兄に会いに訪れたが、虞翻のもとには寄らなかった。虞翻は、その人物に手紙を送り、そのことを詰った。手紙を受けた客は、その内容の非凡さに驚き、それ以後、虞翻の評判が高くなったという 。初め、虞翻は、太守の王朗のもとで役人を務めていた。そのおり、孫策が会稽郡に軍を進めて
「問題です。三国志で蜀を建国した…」ピンポォン!! 「中山靖王劉勝の末裔!!」 「正解!早かった!問題は『三国志で蜀を建国した劉備は、一体誰の末裔と名乗っていたでしょうか?』というものでした」 冷静に考えれば2000年以上も昔の人物で、しかも皇帝でもない「中山靖王劉勝」なる人物が外国である日本でかなり知られていることは異常な光景じゃないですか。例えば平安時代の関白、藤原基経の次男の藤原仲平のことを中国人が知ってたらわりと怖いし、劉勝も皇帝の息子という点で似たようなポジションではないかと思うのですが、なぜか日本人は知っている。 あぁ、これが三国志脳…。 「武漢」と言われてもどこかわからないけど「荊州」と言われると「あの辺りか」とだいたいわかるし、「北京」の位置は知ってても「幽州」と言われると「思ったより北にあるんだな」というイメージに変わる。現代でも日本で一番有名な中国人はと言われれば習
劉備と関羽と張飛が中国を統一してハッピーエンドだと思ってたら違うじゃん!? タイトル変えろよ!!! 「三人集まって国を作ろうとしたけれど最後はみんな死んでしまいました。でも途中までは孔明のおかげで無双でした。」 とかにさぁ!? なんなの!? 何が三国志だよ!! ば〜っかじゃねえの!?
","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"
現在、九州国立博物館で行われている「三国志展」 sangokushi2019.exhibit.jp その展示に「毋丘倹紀功碑」というものがあり、その解説に「魏の将軍の名は毌丘倹(かんきゅうけん)とされてきたが、近年の研究では毋丘倹(ぶきゅうけん)とされる。」とある。 図録によると、その研究とは田中俊明氏の「魏の東方計略をめぐる問題点」(『古代武器研究』九 古代武器研究会、2008)だそうだ。 辺境に島流しされている私は、残念ながらその論文を参照できる環境にないため、私なりにアプローチをしてみた。 結論から言うと、私も近年の研究同様、毋丘倹(ぶきゅうけん)とすべきかもしれないと思うため、本記事ではそう呼称することにする。 この画像は中国古代の印を集めた荘新興編「古鉨印精品集成」(上海古籍出版社、1998)に掲載されている。 毋丘倹ではないが、同じ姓の毋丘調という人の印である。 史書に記載はな
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く