前回id:hizzz:20081210の補講 具体的な脱構築〜再構築の仕方の変遷 とにもかくにも因習的伝統的仕儀(クラッシック様式の修辞的・象徴的・装飾的性格)は、否定しつくすのが20世紀モダニズムの至上命題。したから旧仕儀と断絶することが最重要で、その以前と以後の間にできたシャープな「切断面」それこそが、最もブランニューな構成要素となった。しかし、後のバウハウスの創立者であるヴァルター・グロピウスら黎明期モダニストは、「形式からの自由」という主題はあっても、形式そのものの重要機能性を見落としており、自由の落とし込み方法論・具体策構築への関心が欠落していた。どう造るかではなく、どう見えるかに重心がおかれ「表象」が自由の形式を支えることとなる。 近代建築家三大巨匠といったら、ル・コルビュジェ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デァ・ローエ。彼らが目を付け着手したのは、彼らブルジョアジ
<特集・論文> ハーバーマスとデリダのヨーロッパ 三 島 憲 一 「しばしば,この脱構築の時代と啓蒙とが対置されること がありますが,それは違うのです。私は啓蒙の味方,進歩 の味方であり, 進歩主義者> です」。デリダ 「差異に敏感な普遍主義」ハーバーマス 1. はじめに 神々のパッチワーク 哲学や社会学のみならず,文科系や社会科学系 の 野一般で,学問の精神とまったく相反する神 様選びと偶像崇拝がわが国に横行して久しい。西 欧の偉大な思想家や理論家を自 が世界をみる枠 組みにしてそれで「事足れり」としている気配が 濃厚である。それはヘーゲル,ルソー,フッサー ル,ニーチェといった古典であったりする場合も あるし,マックス・ヴェーバー,ハイデガー,バ ーリン,シュトラウス,あるいはハンナ・アーレ ント,ハーバーマス,フレーザー,バトラーとい った比較的新しい名前であったりする場合もある。
重複する事項が多いけど、ここ何回かで出てきた話題の書き直し。てへへ(^^;;;;;;; 「日本語の論理性」っていわれると、そもそも「論理とはなにか?」って根源的なナゾが出てはくるのだけど、…そんな深遠で高尚なこたぁ「論理学」におまかせするとしてぇ(早くも逃げ腰?)、ワタクシが想定してるのは「認識〜行動に到る間=思考に存在する道筋・脈絡・構造」という意味合いでの「論理」である。 「日本語(記述習慣)に論理性はあるやなしや」とゆーのは、それは「言語」と「普遍性」をどう解釈するかによって違ってくると思う。独/仏/英のローコンテキストなメジャー欧米語にくらべて日本語がローカルに文脈依存しまくったハイコンテキスト言語ゆえ、論理科学的普遍性がのりにくいという説は割とあちこちで良く聞く。 「解りあえない」を前提とするか「解りあえる」を前提とするかによって、共通項を予め共有しているか否かという文化の差は大
のこり30分もなくなったが、今年一年を振り返ると、一言で言うと日本における「総中流」が完全に崩壊した年であると言えるだろう。 すでに2000年頃に『不平等社会日本――さよなら総中流』という題名の本が話題になってはいたが、それは若干話題性を狙った、「統計的には思い込んでいるほど総中流社会じゃない」という程度のものであった。「格差社会」論が流行し始めた2005,6年ごろになっても、「再チャレンジして正社員へ」という「中流」へ戻れることの幻想が根強く語られ、非正規雇用層に対する視線は冷たいままであった。今年なってようやく、というか皮肉にも金融危機が到来したことで、かつての「総中流社会」に戻ることは断じてありえない、ということが国民の一般認識になったように思う。 ここでいう「総中流社会」とは、団塊世代を中心として、官僚組織をモデルとした終身雇用・年功序列といった日本型雇用システムを中心に構成されて
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