下山事件(しもやまじけん)は、日本が連合国軍の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に失踪、翌7月6日未明に轢死体で発見された事件。 事件発生直後から自殺説・他殺説が入り乱れ、政治的思惑から、他殺説の立場であったGHQや日本政府は、捜査に当たった警視庁に殺人事件として捜査をする様に圧力をかけた[5][6]。それでも、警視庁の捜査本部は、捜査一課の捜査によって、自殺との捜査結果を公表しようとしたが、公表直前にいずれかからの圧力によって公表は中止に追い込まれ[7]、その後は主に捜査二課二係が他殺の見解で捜査を継続した[8]。しかし、公式の捜査結果を発表することなく捜査本部は解散し、警察での捜査は打ち切られた[9]。その後は、警視庁からほぼすべての捜査資料を引き継いだ検察庁が[10]、殺人事件として捜査を続けたが[11]、未解決のまま、事件発生から15年後