頭山満と玄洋社 第6回 (2001年9月13日 木曜日 読売新聞西部本社版夕刊) 【写真】玄洋社を支えた群像(1907年、東京。前列右から2人目が杉山茂丸、5人目が頭山満、後列中央が内田良平)=写真は玄洋社記念館所蔵 頭山満は旧福岡藩士筒井家の出。生家は現在の西新岩田屋付近にあった。頭山家を継ぎ、天満宮の満の字から満と改めた。玄洋社の結成に加わり、一個人でありながら玄洋社を体現するような人物と見なされた。頭山が戦前の右翼の巨頭であったことはまちがいない。ただ、そのことで、侵略主義者と言えるかどうかとなると、躊躇ちゅうちょせざるをえない。 星新一さんが、父一の日記を引いている(『明治の人物誌』)。「亡父の日記には『ドイツも軍備でなく道義の競争をすればいいのに』との頭山のナチス批判の言葉が書かれており、超国家主義者だったとは思えない。なぞの人としておく以外にないようだ」。 軍備