このBlogは、私が物語研究の途上で出会った様々な発見や、物語をともに学ぶ人々との出逢いを綴ったものです。ごらんのみなさんにも物語文学の深遠なる森の如き世界の一端をお知りいただければ幸いです。 今日、最も広範に流布する『源氏物語』の本文は、阿部秋生先生(1910-1999)が中心となって校訂した、小学館の『全集』(1970-1976)『完訳』(1983)『新編全集』(1994-1998)である。うち、『完訳』からは鈴木日出男先生(1938-2013)が加わり、本文も一部底本を差し替え、注釈・現代語訳も一新され、特に後者はこなれた訳文となっていることは、すでに論攷もあるところだ。 最初の『全集』は昭和40年代の秋山、今井源衛(1918-2003)門下の院生たちが注釈と現代語訳の下原稿を作り、秋山先生が最終稿を作ったと側聞する。現代語訳の下原稿を作成した研究者に直接お聞きした話もあるが、今は記
日本山岳史上最大の謎といわれる剱岳初登頂。誰がどのルートで登ったのかを探検家の高橋大輔さんが、さまざまな角度から解き明かして、気づいたこととは? 文=編集部 写真=高橋大輔 初登頂は平安時代!? 剱岳初登頂のミステリーに挑む 険しさゆえに明治時代に入っても人跡未踏といわれた剱岳。その初登頂は明治40年7月の日本陸軍陸地測量部の柴崎芳太郎たちであるはずであった。しかし、山頂には平安時代のものと思われる錫杖頭と鉄剣が残っていたのだ――。これは小説や映画の「剱岳 点の記」にある有名なエピソードだ。 では、登山道もなく、装備も貧弱であろう1000年以上も前に一体誰が、どのルートから登頂したのだろうか。このミステリーを解明しようとしているのが探検家の高橋大輔さんだ。 平安期は、仏教徒により日本各地の山が開山されていた時代であり、「錫杖頭」という宗教儀礼に使うものが残されていたことから、高橋さんは剱岳
アイテム 1 の 2 7月9日、中国の学校で、政治的に不適切と見なされた書籍を処分する動きが一斉に進んでいる。教育システムに愛国主義と純度の高いイデオロギーを深く浸透させようという、習近平国家主席の意向を強める動きだ。写真は上海で開かれた国際展示会で、習主席の著作を紹介するブース。2018年11月撮影(2020年 ロイター/Aly Song) [1/2] 7月9日、中国の学校で、政治的に不適切と見なされた書籍を処分する動きが一斉に進んでいる。教育システムに愛国主義と純度の高いイデオロギーを深く浸透させようという、習近平国家主席の意向を強める動きだ。写真は上海で開かれた国際展示会で、習主席の著作を紹介するブース。2018年11月撮影(2020年 ロイター/Aly Song)
このBlogは、私が物語研究の途上で出会った様々な発見や、物語をともに学ぶ人々との出逢いを綴ったものです。ごらんのみなさんにも物語文学の深遠なる森の如き世界の一端をお知りいただければ幸いです。 特集「文献学をとらえ直す」「日本文学」2020年7月で気になる記述があったので私見を記す。曰く、 今回の特集からは、池田亀鑑が提唱した原本復元を目指す「文献学」の限界が確認されました。(和田)「後記」 いうまでもなく、「池田亀鑑が提唱した原本復元を目指す「文献学」の限界」についてである。特集担当の和田琢磨氏には誤解があるようだが、「祖本」は「編著された当時のテキスト.原本,元本ともいう」『図書館情報学用語事典』であるから、『源氏物語』の場合、紫式部草稿本と監督浄書本の二種が祖本で、ともに現存しない。また青表紙本の共通祖先(宗本)は四半本定家本のこと。六半本本文は継承されていないので、『源氏物語』が遡
世界遺産の奈良市の平城宮跡を横切る形で通っている近鉄奈良線について、奈良県は遺跡の外へ移設する方向で、奈良市や近鉄と合意したことを明らかにしました。 今後は県が示した案をもとに、具体的な計画や事業費の負担割合などを協議することにしています。 これは16日、奈良県の荒井知事が記者会見をして明らかにしました。 国営公園となっている奈良市の平城宮跡には近鉄奈良線が横切る形で通っていますが、奈良県は、景観への影響を減らすとともに周辺の踏切で発生している渋滞を改善しようと、3年前(平成29年)から線路の移設について奈良市や近鉄と協議してきました。 そして、県は16日の会合で線路を遺跡の外へ移設する案を示し、この案を基本に協議することで合意したということです。 県の案では、平城宮跡の西側にある大和西大寺駅から近鉄奈良駅までの線路を平城宮跡の南にずらして、「大宮通り」に沿うようにう回させます。 また、大
この本は、英語学習者にとっての絶望の書でもあり、福音書でもある。それが、読んだ直後の僕の印象だ。 本書は、前置詞byを使いこなせるようになるための本ではない。前置詞byの用法を見ていくことで、一般的に言われている『前置詞をイメージで覚える』ことや、『前置詞に広く共通するイメージを持たせて覚える』ことに警鐘を鳴らしているように思う。それが、『多義論から多使用論へ』という副題が意味しているところだ。 ここで言われる多義論は、前置詞というものを多義的に扱うことについて触れている。例えばbyなら、『〜の傍に』や『〜によって』、『(数の差を示して)〜だけ』といったような意味を持つというように考えられるのが一般的で、辞書にもそのように書かれているが、実際にはこのような多義語としての考え方ではカバーできない用法がたくさんあるというのが本書の趣旨だ。 仮にbyが、『〜の傍に』や『〜によって』といった多義的
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