はてなキーワード: 花屋とは
思えば今年はキングオブコントでも、ロングコートダディさんは盤外の裁定のためにうっすらヘイトを買っていた感がある。私の主観だが、Twitterとかでも同じように見る意見が当時、散見されたのを覚えている。
花屋のモンスターカスタマーのネタは無論、兎さんの卓越した演技力もあってめちゃくちゃ完成度の高いコントだったと思う。ただ、爆発的な笑いがドン、とあるというよりニュアンスの笑いだし、ライブの時とオチが変わって劇的になった(元は事故に遭うくだりがなくて、つくらせた花束を店員さんにプレゼントして「好きな人への贈り物だから完璧にしたかったんです」みたいなことを言って普通にフラれる)代わりに兎さんのあの客の態度の悪さが物語上で回収・解消されなくなってモヤモヤが残る、手放しに「大好き!」とは言えないネタだった。あの点数はちょっと高すぎたと思う。
なぜロコディさんにあんな高得点がついたのかと言えば、私は「令和ロマンと松本人志の呪い」だったと見ている。
今年のキングオブコントは、M-1に先立つ「松本人志が審査員席に居ないお笑いの大会」として、ちょっと観測気球的なポジションにもなっていた。
審査員長枠のプレッシャーを番組中でも口にしていた飯塚さんはじめ、審査員たちは(というか制作陣が)心のどこかで「松本がいなくてもちゃんと公正で権威ある審査ができた」実績をつくらねばという強迫観念を抱えていたと思う。
だから、「トップバッターはとりあえず様子見の基準点」という、例年通りの定石が打てなかった。なぜなら去年のM-1、松本失脚直前のM-1で「トップバッターでウケた令和ロマンがちゃんと高得点を取って3位に入り、そのまま優勝した。それがネットなどの評判としても概ね、納得できる結果と受け止められている」事実があるためだ。
だから彼らはロングコートダディに低い点数をつけることができなかった。「去年のM-1は出順に関係なくちゃんとした評価ができていたのに、今回のKOCは……」と比較されたくないからだ。
(や団さんは、あまりにも出来が良く、そしてそこまでの認知度がなかったところからのインパクトだった「2022年の自分たち」も越えないと飯塚さんが良い点をつけてくれないという、あまりに重い十字架も背負わされてて本当にかわいそう)
ガラス張りで中が見えるつくりになってたから、室内で三毛猫がひなたぼっこしてるのが見えた
そばに店主のおばーさんもいた
写真とっていいですかって外から声かけてスマホ出そうとしたら猫が動き出した
あー逃げられちゃうかなと思ったら、店の外に出てきて、足元20cmくらいまでよってきて、背中を差し出す感じで立ち止まった
さわっていいのかなと思って背中をおそるおそるなでたらおとなしく触らせてくれた
前足の肩甲骨?的なところがごつごつしててやせぎみだなって思った
でも毛並みはほんの少しぼさぼさな程度で、全体的にはきれいだった
なでてもらったことを確認したら(?)、これで仕事は終わったという感じでまた歩き出して、
そばにあるバケツまでゆっくり歩いて行って、たまった雨水を飲み始めた
店主のおばーさんいわく
一度水のみはじめると長い、
とのことだった
確かに長い
写真撮りたいけど顔見れない
店主のおばーさんが「みーちゃん」って読んだら顔あげてくれたから写真とれた
目つき悪い
そのあと店の前を離れてから振り向いたら、
おばーさんが声かけたのに反応して、また店の中に戻っていくところだった
気まぐれなイメージある猫でこんなサービス精神を持ってるのがいるなんて初めて見たから、すごく驚いた
テレビの看板ネコってだいたいカウンターにいるだけ、みたいなのが多いイメージだったから、
こんな人懐っこいのもいるんだなあ
あの曲は何故か歌詞の意味を曲解してマジレスしたり、いちゃもんつけたりする人が多いから、そういう人が満足するであろう歌詞を考えてみた。
ーーーー
優れた者以外淘汰しろ
花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた
劣ったものは間引かれる
この中でどれが一番か決めて
他の花を廃棄して
優れた花だけになる
一人一人違うからその中で
一番を決めようよ
そうさ僕らは
世界で一番を決めるべき
優れた遺伝子だけ残すのさ
優れた者、美しい者
だけの世界をつくるべきだ
優劣をはっきりさせよう
劣った者には断種して
子供を作れなくしよう
そうして優れた者だけに
人類全体の形質を
優良なものにするのさ
やらないと人類は滅ぶ
劣った者が繁殖すれば
そうさ僕らも
世界で一番を決めるべき
優れた遺伝子だけ残すのさ
優れた者、美しい者
だけの世界をつくるべきだ
優れた者と劣った者
前者の遺伝子だけ残すべきだ
ナンバーワンじゃない者たちは
不妊手術して淘汰しよう
数年ぶりに渋谷を歩いた
あるだろ。円山町に。
もう何年もずっと、誰の迷惑にもならずに。
今はもうやめたのかもしれないけどね。
数年前に感じたのは、ハロウィンは渋谷の子供をいじめているということ
当時上の子は、保育園に入れなかった。そのため恵比寿の保育園に入れた。
弟は渋谷の保育園に入れたが、転園も可哀想なので、上の子は恵比寿のままだった。
仮装をして近所を回るのだ。コロプラからお菓子をもらい、花屋さんから花を一輪もらう。
そう言って、いまはなき高島屋に向かった。
カタカナが読めるようになった娘は、それを見て、悲しい顔をした。
悲しいのは上の子だけじゃない、下の子の幼稚園では、ハロウィンのイベントはやらない
それどころか、ハロウィンについて何も教えない
渋谷ではそれができない。どうして?誰が考えた?
渋谷に住んでない奴らが、渋谷のことを考えているんじゃないかな。
渋谷から三茶に向かう車の中で、子どもたちは今でも嬉しそうに話す。
「養命酒のコンビニって優しいよね。ハロウィンのお菓子もらえたよね。」
それは、本当に小さい。十円もしないようなお菓子だった。
そういえば、渋谷の区役所の代替えの建物(?)があったところに、
公園ができるらしいと聞いた。
大人が集まる公園だそうだ。子どもたちが、遊べるようなものではないと聞いた。
裏に保育園があるのにもかかわらずだ。
どうして?
トー横キッズたちが渋谷に流れてきたのだ。だから公園を閉鎖したのだ。そんな話を耳にする。
うちの実家の近所には、花街、つまり遊郭があった場所がある。もちろん地元の人間は大体知っている。
小さいころ、まだ生きていた祖母が、まあ壊れたレコードみたいに同じ話を何べんもするのだが、花街のあった辺りを指して「綺麗な女の人が大勢いてねー」などと教えてくれたことがあるし、花街はなくなっても花街を相手に商売していた商店とかは今でも存続している。
戦後に花街自体がなくなった後も、映画の撮影か何かで使われたことがあったらしい。
とにかく私はそこに「負の歴史」など感じたことはないし、その地域を特に避けて暮らしたような経験もない。
何年か前、ふと思い出して、私の実家の具体的な地域で検索した。
そうしたら、所謂花街の研究者か趣味者というのか、そういう人がまさに私の近所でフィールドワーク?をしていることがわかった。
ほうほうと思いながら見ていたら、その花街の歴史が、「複雑な歴史」的な描写で描かれていた。まるでうちの近所が遊女の死体を積み上げて繁栄したみたいな書きっぷりだった。
んんん???となって、その人に限らず他の花街探検系(変なジャンルだな)の人の記事とか見たら、何かどれも同じ書きっぷりだった。
「この街の繁栄は遊女の犠牲の上で出来ていた……」「地元の人はそれを知っているのだろうか……」みたいな。
いや、近所にそういう歴史があったの別に子供の時(平成中期)から知ってるし、それについて何とも思ってないのだが。
特に鼻についたのは、遊郭研究者たちの、「自分の研究は覗き趣味ではない!」みたいな変な自意識だ。
〇〇ディープ案内みたいなのに影響を受けてドヤ街に行き地元の労働者の顔をバシャバシャ撮って「これが日本の真実!」みたいなことをやっても、それが薄っぺらくて日本の実情なんか何にも反映してないのはわかるだろう。
廃墟探検とかして私有地に入ってバブルの残り香がどうとか耽美ぶっても近所の人間には迷惑でしかないだろう。被差別部落とされる場所に行って「ここは部落ですよー!悲惨な歴史がある街ですねー!うわーホルモンだー!」なんてやる奴はましてだ。
だがそれが「遊郭」になると途端に高尚な研究になり、また地元民を指して「あなた方はこの歴史を本当に誇りに思ってるんですか?」的な問いかけまでし始めたりする。
いい加減にしてほしい。あんたがたはただ外からきて勝手に街を貶してるだけだ。しかもそこは廃墟ではなくまだ人が住んでいる場所だ。
遊郭(跡地)にもそれこそ「複雑」な歴史はあるだろう。だがそれは八百屋とかパン屋とか花屋にもそれぞれの歴史があるのと同じことでしかない。もちろん現代の性風俗やラブホテルとかでも同じだ。
「過酷さ」は別に遊女とかにかぎったことではなく、農民でも漁師でも商人でもみんなが被っていたことだ。ただ「性」「セックス」が絡むだけで注目するなら、それはモンド映画的趣味と全然変わらない。
私は地元の歴史に何の負い目とか感じないし、別に「遊郭で町おこし」とかやっても全然かまわないと思っている。この街で暮らしていた漁民も農民も侍もそして遊女も、露骨に言えば繰り広げられたセックスも、みんな絡み合った歴史の一つだ。
それを忌避したり、何なのか知らないが清廉ぶって「悲しい歴史……」などと暗黒時代の様に彩ることこそ、逆に過去の人々に失礼だろう。
お笑いショーレースが好きで見ることが多い程度のど素人の感想だけど、審査員評価とか入りが大きく感じられたのでメモを残す
今年のキングオブコントは確かにレベル高いというか、ほぼみんな面白かったんだけど、評価順位については好きなのとはズレてた
⭐️シティーホテル3号(通販)、コットン(ぬいぐるみ)、⭐️日本の社長(声小さい野球)、面白いんだけどなぁ
cacao(野球部室内練習)はジャルジャルっぽいけど面白かった。好き
隣人(チンパンジー)も面白かったんだけど、もう一捻り欲しいと感じた
ラブレターズ(どんぐり)は、大きな声の時に聞き取りにくかったし、展開が退屈だった。二本目(季節外れの海のジェビロサポーター)の方が面白かったけど、うるさすぎだし説明し過ぎに感じた
⭐️ファイヤーサンダー(犯罪捜査)が面白かったのはそう。二本目(野球部と不良)は面白かったし好きだけど意外性は小さかったように感じた
ロングコートダディ(花屋)が一番かというとなぁと思ってたけど、二本目(ウィザード)の方が面白かった。ラブレターズ二本目より好き。ただ二本目はコント(寸劇)としてはなという気持ちにはなる
個人的好みとしてのトップスリーは以下。みんな面白かったけど、2位・3位がなぜ1位じゃないかの感想を付すと以下の通り
1. ファイヤーサンダー
2. シティーホテル3号。緩急もあってオチの締め方も通して全部すごく良かったんだけど、緩急の幅がもっと大きければと感じてしまった
3. 日本の社長。なんかやってるだけで面白いんだけど、くしゃみオチはもう一声欲しく感じてしまった
コント、寸劇・小劇、お芝居の舞台としての面白さという観点での良し悪しとは別の、新奇性とかの軸が高く評価されてたのかなと。たくさん観たり演ったりしてるプロ目線だとそうなるのは分かる気がするけども
気づいたら伸びてた、ありがたい。
店の名前言った方がいい→これは何人か推測されてる通りKOZO、ありがとうKOZO。
金に糸目をつけない美食か→決してそこまで敷居は高くない。食べログに値段出てたけどソシャゲのガチャ20連と同じ程度なので庶民にも十分手が出る。何に価値を感じるかってあると思うけどこれは本気でいい体験だった。
ステマとかではない。よっしゃ再訪のチャンス!とか思っていたらお店が閉店になっていてショックを受けた。
なんなら親の還暦祝いを絶対そこでしたかったぐらいの勢いだし親が死ぬまでには、いや自分が死ぬまでにもう一度あの店(シェフ)の料理を食べておきたいと思った。
辞めた理由ってのもあるだろうけど正直有名店の半額以下だしコスパ良すぎて儲からないなら倍払っていいまであるからもう一度店出してという、中毒患者の呻きみたいなものだと思ってほしい。
京都にあるガストロノミーのお店。分類がこれであってるかはわからんけど一見これ食べるの……みたいな騙し絵的な料理が出てきたらだいたいこう言ってる。
同僚とランチをしに行った。値段は安くはなかったのだが、この食事、いや、体験に比べると絶対に安い。繰り返すようだが別の店で倍払ってもなかなかこうはならない。ならなかった。ガチでオモコロの「味でめちゃくちゃになりたい」ができる店だった。
まず前菜ではなく、いきなりフィンガーフードとよばれる小さなおつまみみたいなものがやってきた。この時点では我々はシェフの力量を知らず、一気に不安になってざわついた。だってあんまりにも小さいんだもん。小さい、ホタテとトマトソースがのったタルト。こんなの一瞬でなくなっちゃうよ……そう思いながらとりあえず食べる。
──凄まじいとしか言えなかった。最初は普通にホタテの旨み溢れる味わいだったのが、次の瞬間ドライポモドーロの奥行きのあるソースが支配的になる。最後はタルトをかたちづくる良質な小麦粉の素朴でいて贅沢な味わい。こんなに小さいのに、こんなに激変する。これはボヘミアンラプソディと同じぐらいの変わりっぷりでいて、そして同じぐらいのまとまりだ。
「なんか、ディズニーランドに行った記憶とか、パレードみたいな味がする。すごくないですか?」同僚はそう表現した。語彙を失って壊れたように「おいしい、これおいしいよ!」と繰り返す自分とは大違い。たしかにこれは極小のディズニーランドであり、エレクトリカルパレードであると首を縦に振った。ふたりして若干何かを吸った後の人みたいになっているが何も吸わずにこれはひたすらすごいことである、経済的なうえに健康的だ。
次に来たのは本日のお目当て、「盆栽」である。といっても全てが食材で作られたミニ盆栽である。フォアグラの入ったなめらかなマッシュポテトの土に、青のりの苔がむしている。ディルなどのハーブを飾ると大自然の植生があらわれ、そこに黒白の米で枯山水が設えられている。
はっきり言ってこれは普通に盆栽の見た目である。レストランよりホームセンター、いや、オシャレ花屋さんあたりにお還りとでも言いたくなるぐらいだ。ただし、さっきのディズニーパレードのおかげでこのシェフに絶対的な信頼感が生まれていたわれわれは臆することなく土や石にスコップを入れて、自分の口に放り込んだ。
「石!おいしい石!すごい!」人生で石が美味いなんてなかなか出る言葉ではないだろうが、だって石がおいしいのだから仕方がない。フォアグラポテトの土はひたすらなめらかで濃厚で、そこに海苔とハーブで味の奥行きが作り出されている。さらに、枯山水の米がパリパリプチプチと舌触りのアクセントを生み出している。こんな佇まいなのになにも難しいことはない、「無限に食えるやつ」なのだ。こんなことならミニではなくノーマルサイズの盆栽で良かったのに……あっという間に盆栽は消えてなくなってしまった。
ここまででじゅうぶん楽しかったのに、ようやく前菜がお出ましになる。蛤と椎茸に出汁ジュレが乗って菊の花びらが散らされている。今までとは違ってハッキリと高くて美味い見た目である。そして──この一皿は見た目に違わぬ高いパフォーマンスを見せてきた。
まず一口食べてみる。ぷりぷりで柔らかな蛤が爽やかなジュレで包まれてもう大好き。そのままのテンションで奥に進む。スモーキーな椎茸としゃっきりと野菜が口の中で主張する。
次、次と進むとどこかからぷちぷちとした食感が弾けて、柑橘のシャキッとした引き締めに行き当たる。計算されつくした絶えず移り変わるその味わいは、ただの層のある料理とは違う。不思議のダンジョンの階層ぐらい全然違う。もうダンジョン飯だし私のためのパーティー開かれてる。最高。未知の階層への好奇心のままに食べ進めると、あっという間になくなってしまった。かなしい。
そしてメインの肉料理。皿に配置された料理とソースがまるで絵画に見えてしまう。赤蕪のほろ苦さや素揚げされた蓮根の歯触り、そしてもう一度出会えた無限マッシュポテト。今度はチーズ風味でさらに止まらない度がアップして帰って来てくれた。かなり嬉しい再会だ。同僚とうわごとのように「無限に食える〜」と繰り返してしまった。
しかし肉料理の話だから肉の話をせねばなるまい。肉は鴨肉のローストで、みるからに食欲をそそる茶褐色のきのこのソースがかかっている。
肉を食べると、鴨の味と並走するかのようにはっきりと存在するはずのないクレームブリュレの味がした。何を言ってるのかわからねーと思うが、何をされたのかわからなかった……頭がどうにかなりそうだった……。
存在しないその味の記憶にたじろぎながら控えめに同僚に「これ、クレームブリュレの味しません……?」と言ってみるとすかさず「思いました!」と返事があり安堵した。いや、集団でスタンド攻撃や呪術をうけていたなら安心して良くはない。ただしっかり破綻せずに美味いので幸せならオッケーである。
出てきたものの半分も紹介できていないが、しっかりとボリュームがあり、はっきり全てが美味しかったし、それ以上に驚きと楽しさがあった。正直なところガストロノミーに半信半疑だったものの、こんだけパレードで不思議のダンジョンでスタンドの気配まで感じられて、十分に味でめちゃくちゃになれてほんとうに行って良かった店だった。
叶うならもう一度再訪したい。叶わなければそれでも一生に1番レベルで美味しかったとシェフに伝えたい。こんなところに書いて伝わるかは知らんけど……。
幼馴染の女と久しぶりに会った時の話を聞いてほしい。
自分もその女も北陸のクソど田舎出身で、2歳の時から知っている。
そいつはいわゆる名家の出身で、クソど田舎のクソでかい家に住んでいて、よく自分を呼んでご馳走してくれたりもした。家族はみんなクソど田舎にしては品の良い感じで、多分地主だからお金はあったんだと思う。
そんなんだからクソど田舎にあっても、そいつはクソど田舎にしては垢抜けた感じもあって、思い返してみると、ちょっと気取っていてクソど田舎における特権意識みたいなものが透けて、ちょっと嫌なやつだったかもしれないけど、子供だからよくわからず遊んでいた。
高校卒業してから互いに都内の大学に進学したが、彼女は女子大でとっつきにくかったし、互いの近況などはSNSで把握はしていたが、会うことは一度もなかった。
自分はそれから紆余曲折を経て大学を中退し、いくつか東京の零細プロダクションでカメラマンの真似事のようなことをしていたが、数年でそんな暮らしに限界を感じて、今はクソど田舎に出戻り、実家に寄生しながら地元で働いている。
前置きが長くなったが、先日の盆に彼女が地元に帰るというので高校卒業以来久しぶりに会ったのだが、何一つ面白い話が無かった上にちょくちょくイラッとしてなんとも言えないモヤモヤを抱えることとなったので、その気持ちを吐き出すために書いている。
・その理由が将来ラグジュアリーホテルの設計をやるために建築士の資格を取りたいのだと
・高校時代は勉強してこなかったが、本当は医者になりたかったらしい。
・でも宅建は3点足りずに落ちた
・恋愛は長続きせず、最長5ヶ月くらい
・でも男には困っていないらしい
・直近は医者と付き合った。でもすぐに振られた。でもすぐに次は見つかったらしい
その他色々と香ばしい話ががあったような気がするが、総じてクソど田舎で培った特権意識をそのまま東京に持ち込んだが、現実とのギャップを埋められないまま、ブランド品と男の力で自意識を肥大化させ続けている感じがモロに伝わってきて痛々しかった。
努力しているとは言っていたが、おそらく努力している気分に酔っているだけで実際のところそんなにしていない気がする。建築士も無理だと思う。てか本気でラグジュアリーホテルの設計やりたかったら、いま中途半端に派遣で働いている場合じゃないと思う。
今は若いというだけで医者から遊んでもらえることもあるだろうけど、この先こいつは本当にこのままで大丈夫なのかと思ってしまった。現実と折り合いをつけられずに自意識を肥大化させ続けた結果、この先こいつが着陸できる場所はあるんだろうか。
東京で限界がきてクソど田舎に戻ったとて、もはや肥大化した自意識と特権意識は動かし難い。地元からも相手にされず、婚期を逃し、厄介ババアとして疎まれながら余生を過ごすのだろうか。あるいは東京で宗教とかネットワークビジネスとかに絡め取られて東京の沼に沈んでいくんだろか、と。
Twitter(X)でもいいけど、TLの雰囲気を悪くしたくないからとりあえずここに吐き出しておく。お披露目から二晩三晩経っても、脳内から感情が消えなくて生活に支障が出だしたので供養の意味も込めてる。割と感情のままに書き殴ったから乱筆乱文。
先に本旨を要約すると、私はポジティブな感情からネガティブな感情に変化し、今は少しずつ前向きになってきている。
雑な言い方をすると、呪術オタが雑考察してフジを腫れ物扱いして燃やしてんのがキツすぎ。作者よりも呪術オタの挙動がフジファンの傷を抉ってる。でもだんだん立ち直ってはきてるしついでにお願いがあるよ。ということ。
【↓↓↓↓↓以下約5,500字↓↓↓↓↓】
8/25の夜、配信でじゅじゅフェスを観ていて、最後に巻頭カラー絵のお披露目があった。人生の半分をフジファブリックにどっぷり浸かって生きた私は、ひと目でアルバム『CHRONICLE』を模していると気付いた。
結論から言うと、好きなバンドと好きな作品が思わぬ形でコラボしたことに驚きと歓喜が止まらなかった。
そのときの感情をTwitterの本垢(フジファブリックはじめ音楽と日常メインにつぶやく)に突発的に書きなぐって投稿した。ひと目見て気付いたこと、そして作者も私の好きなバンドのファンであることが伝わってきたことなど。
そして、呪術廻戦にハマってから作った、漫画アニメだけをつぶやいたり、ファンアートにいいねしたりするアカウントで、ファンたちの感想(じゅじゅフェス)を拾っていった。
そこで私はショックを受けた。呪術廻戦ファンの間でイラストに対して「正気を疑う」「倫理観ない」「不謹慎」「バンドのファンや遺族に失礼」などの言葉が並んでいたからだった。
さらにはひと目見て「犬がいる!かわいい!」と好意的に受け取っていたアカウント主すらも「オマージュ元を知って地獄に落とされた」という主旨の投稿をしていた。
このショックを言語化するのに時間がかかって、友達の力も借りながら受け止めて今に至る。
正直に言うと、これらの呪術廻戦ファンの声を受けて、私は ①悲しみ ②怒り を感じている。
そして今は、これらを踏まえて ③祈り に近い感情も浮かんでいる。
①悲しみ に関して
私の人生をかけて愛したバンドとアルバムの名を用いて作者にヘイトを向けている投稿が散見されること。
フジファブリックという文字、志村正彦の人生の結集といえるアルバム『CHRONICLE』の文字と、「吐きそう」「気持ち悪い」「正気を疑う」「地獄に落とされた」「倫理観おかしい」という強い批判、もとい軽蔑の言葉が並んでいること自体が悲しくて悲しくてたまらない。
彼らにはもっと前向きで明るい言葉が似合うのに。「変態的かつ普遍的な美しさ」「クセになるサウンド」「新境地」「世代を越えて愛される」など、フジファブリックを応援してきたファンやメディアは素敵な言葉を紡いできた。
作者に批判の言葉を向けさえすれ、誰かを不快にさせる行為や言動は行為者の一面に過ぎず、行為者そのものの価値観や人間性を否定するものではないと私は思う。
そして私は同時に五条悟オタでもあり、作中で亡くなったことに悲しんだ経験もある。
ちょうどその話が掲載されてから1年弱経とうとしていることも思い出し、その当時は私の落ち込んでいる様子を見かねた友達や同僚が励ましてくれた。一方で、デリカシーなく「死んじゃったねw」と心のヒビを直接割る言葉をかけてきた人にも遭遇した。
このようなことを、五条悟を愛する人なら、少なからず経験したのではないだろうか。
同じように、五条悟を愛するがあまり、フジファブリックファンの心に残る微かな傷を、その強い言葉でほじくり返しているかもしれないことは考えられないだろうか。
作者はこういうことも勘定に入れて、「諸々の意味を込めて」とあえて濁したコメントしたのではなかろうかと私は思う。
6年半も続く大作を描き上げるにあたって、これだけ出版業界の不況の中、掲載誌の売上を落とさぬよう、耐え難いプレッシャーや責任を感じながら物語を続けていく自身を、軸となるフロントマンを喪って再始動した経歴をもち、過酷なプレッシャーの中それでいて15年も走り続けたバンドと重ねたのかもしれない。
②怒り に関して
こっちのほうがショックの中に占める割合が大きい。
前述した強い軽蔑の言葉にフジファブリックを並べてほしくないという怒りは先立つ。
次に、メンバーのパーソナルな情報が、漫画のファンによる考察(という体裁の下衆の勘繰りと言いたいくらい)の道具として利用されたことに怒りを感じている。
ご存知の通り、志村正彦は2009年12月24日に29歳という若さで突然この世を去った。これは揺るぎない事実である。
しかし本来、生年月日と同じように命日も非常にデリケートな個人情報である。彼がミュージシャンとして世に出ることがなければ、近親者は知れども、世界中の誰もが知り得なかっただろう。
対して創作物の登場人物はどうだろうか。物語において読者は、登場人物の動きを第三者的に、いわば神視点で見守ることができる。キャラクター同士の内緒話だって筒抜けだ。そうした舞台上の人物たちと観客とはいわゆる“恋愛テクニック”のように「秘密の共有」ができる。この恋愛にも似た興奮を私たち読者は楽しんでいる節があると思っている。
フジファブリックはバンドという周縁はコンテンツだとしても、メンバーは実在の人物であるがために、当然プライバシーを尊重されるべきである。実際、ファンやインタビュアーはメンバーの私生活に関して踏み入ったり聞き出そうとしたりしない。
命日や享年というデリケートな情報を持ち出して、その事実を安易に繋げたうえに、尾鰭をつけてありもしないストーリーを勝手に繋げていく行為が、私には他人の家に土足で上がりこむ行為に見えてならない。
曲がりなりにもオタクなら、プライバシー情報とコンテンツたらしめるものを分けて考えてほしい。
例えば、2つの事実にA、B、C、Dの4つの共通点があるとして、AとBとを繋げば万人が心地よく終われるものを、いくら線で結べるからといって、CとDを繋いで、恣意的なストーリーを生み出されては、どちらの側も良い気持ちはしないだろう。
だから、「この位置に五条悟が配置されているから…」「バンドは存続しているから五条悟は死から復活する」など、死去の事実からの逃避や不確かな根拠を並べ立てられるのは、両者のファンとして理解に苦しむ。
Twitter(X)では常日頃からしょーもない話題が炎上しているが、よくある例として「これでは〇〇が可哀想」という構造をしているものがある。
こんな親に育てられて可哀想、こんな飼い主に育てられて可哀想、こんな環境に放り込まれるなんて可哀想…など枚挙に暇がない。
それと同列で、当人の感情を勝手に想像してバンドのファンや家族に対して「嫌がっている」「失礼だ」とレッテルを貼る行為はそれ自体が失礼に値するように思える。
私自身、人生の半分といえど他と比べるとまだまだファン歴は浅いものだと自覚しているが、
曲がりなりにも十数年応援してきた身としては、苦しみや悲しみを押してまで志村正彦の全てを提供してくださっている志村家と地元有志の皆様には感謝してもしきれない。どんなに苦しもうとも、それ以上に彼の生きた証を残したいという使命のもとご尽力くださっている姿を見れば、どんな形であれ、一人でも多くの人に彼の存在が知られることは彼らへの報いではなかろうかと私は考えている。
だからこそ、彼を取り巻く話題は明るいものであってほしいし、そうなるよう関係者もファンも努力している。
それを、「ファンではないけど」「バンドは存じ上げなかったけど」と枕詞を載せて外野から関係者ヅラして物申していることが腹立たしくて仕方ない。許可取り云々の話ではない。無知蒙昧を晒し、それがフジファブリック関係者に届くことこそ最大の無礼ではないのか。
あとイチャモンついでに、現体制の3人のメンバーを「残りのメンバー」って言ってるのは何なんだ。3人は残りものなんかじゃない。言葉尻を捉えるようだが、夫を亡くした妻を未亡人と呼ぶような気味悪さが残る。甚だ不快だ。
個人的に言い得て妙だと思ったのが、志村時代をリアルタイムで知っている先輩ファンの「ファンでもない奴らが騒いでいる」「不謹慎厨じゃねーか!」という発言だった。正直この発言のお陰で少し溜飲が下がった。
フジファブリックはメンバーも関係者もファンも優しい人ばかりだから、強い言葉に対して萎縮する(私もその内の一人)のではと思っていたが、ファンコミュニティで軽蔑ではない言葉で真っ当に怒りを表出できる人の存在に救われた。持つべきものは信頼の置ける先輩ファン。
もちろん、一連の話題にモヤモヤが抑えきれず、私が呆れた呪術廻戦オタクのように作者や作品への痛烈な批判を長文で述べた先輩ファンもいた。
奇しくもこれの執筆最中に更新され、何周も読んだが、確かに納得できる内容で、その視点も勿論いちファンとして持ち合わせている自分を認識できた。
あらゆる表現物すべてにおいて、意味や意図が付随する。それら全てを拾ったとして、特に何を取捨選択するか、とりわけ「何を言わないでおくか」も巷で話題の“教養”とやらに含まれるのではないだろうか(一つ留意しておきたいのが、表現の意図として無意識に語られるもの、特に特定の属性への偏見や差別に関しては無視してはならない)。
少し脱線するが、ネットで語られるような“教養”と“雑学”はしばしば混同されているように感じる。いたずらに知識量を増やし自己のための娯楽として完結するものではなく、悲劇の再来の抑止や自分自身や後進の未来と社会を豊かにするために、蓄えた知識の中から取捨選択し、それらを原動力として行動することを教養と私は呼びたい。
③祈り に関して
簡潔に言えば、こんな言いがかりやイチャモンをつけている暇があったら、問答無用にフジファブリックを聴いてください!ということ。
件の『CHRONICLE』でいえば、志村くんの犬(モジャっていいます)だけが正面を向いていて、それ以外の総くんダイちゃんかとをさんの犬は横を向いています。
対して、巻頭カラー絵は、五条悟と虎杖悠仁の犬が正面を向いています。
この背景には、『CHRONICLE』まで(厳密には志村Vo.時代最後のアルバム『MUSIC』まで)のフジファブリックは、明確に「リーダー志村正彦」という線引きがあって、いわばフジファブリックという物語の主人公をずっと務めてきた事実があります。
そしてリーダー亡き後、3人がパワーバランスを強化しながら調和させ、いわば三位一体の形でそれぞれが主人公になって物語を作っていきました。
これを踏まえて考えてみるとどうでしょう?
映画化も決定した懐玉・玉折編で主人公だった五条悟、そして本編で主人公の虎杖悠仁、両者は同格に物語の主人公であることが示唆されるでしょう。
さらに、アルバムがスウェーデンでメンバーが寝食を共にして制作されたこともあり、寮生活を送る4人とレコーディングに勤しむ4人の仲睦まじさを重ねることができます(詳しくはアルバム同梱のDVDにドキュメンタリー映像が収録されています)。
また、10thシングル及び3rdアルバム収録の「若者のすべて」が現在進行形で大ヒットしたこともあり、そこだけを世間一般に切り取られがちという煮え切らなさをファンは常々抱えています。「五条悟?イケメンだから人気なんでしょ?」にも通ずる消化不良です。
フジファンなら同意してくれるかもしれませんが、志村正彦は変態で捻くれていて一途でお茶目で繊細で孤独な男なんです。
暇つぶしに花屋の女性店員とデートする妄想をしたり(花屋の娘)、酒の力を借りないと甘えられなかったり(ロマネ)、海辺で泣いている女性をお嬢さんと呼ぶ気障ったらしさがあったり(NAGISAにて)、自分を獣に喩えて思いっきり飛び出す大胆さがあったり(モノノケハカランダ)、
それなのに、否定される事が怖かったり(バウムクーヘン)、大切な人を亡くして何年経っても忘れないと覚悟を決められるのに(黒服の人)、相手は自分のことをすぐに忘れてしまうと悩んだり(クロニクル)、そんな卑屈な考えをを誰かに否定してもらいたがったかと思えば(エイプリル)、君がいなくても元気でいられると強がるふりして泣いちゃったり(Bye Bye)、非常に魅力的な人物です。
そんな男の姿も、たった一人の大切な人に素直になれなくて、だけども本当はすごく寂しかった不器用な男の姿も、どこか似ている気がするんです。
ちなみに私の見解としては、志村正彦は相当なハジケリストです。
北欧の熊と太極拳使いの髭面の男性を戦わせたり(熊の惑星)、踊ろうぜと誘っておきながら黙れと言ったり(TAIFU)、走る足音がドラえもんやタラちゃんの比ではない異音だったり(銀河)、かなり尖ってます。
このハジケリズムは3人にも受け継がれ、サルバドール・ダリが発起人となってタコスパーティーをうやむやに開催したり(アンダルシア)、言い間違いから曲を生み出したり(東京)しています。
最後に、現体制の3人のメンバーは言わずもがな、たくさんの名曲を生み出し、私たちを慈しみ寄り添ってくれています。
ツアーラストや周年のホールでも、招待されたフェスのアリーナでも、地方の観客がすし詰めになるような小さいライブハウスでも、必ず「僕たちは誰かの居場所になりたい」「今フジファブリックでい続けられるのは皆さんのお陰」と伝えてくださってます。
Twitterにも書いたのですが、私の本心は、「どんな形であれメンバーが生み出した楽曲を愛してもらいたいし、バンドと共に豊かな人生を送ってほしい。生きていようが亡くなっていようが、その人が存在した事実、バンドの曲が生まれた事実、楽曲が様々な人の人生に関わった事実は消えないので、悲しみも抱えつつ前を向いて生きていく糧になってほしい」ということです。
フジファブリックのお陰で人生が豊かになって、呪術廻戦に生き様を教わったオタクの感想でした。
P.S.それっぽいキーワードを検索したら筆者を特定しやすいように書いたつもりです。もしそれっぽいな〜というアカウントを見つけたら、私事ですが現在就活中ですので、オススメのホワイト企業を教えてください✌️