はてなキーワード: 舞子とは
理解しがたい。私が第2同行室で怒ったのは、9月15日の日曜当番、日曜当番の検察官の木下舞子が、逆送が、20時にスタートで、この時間帯に
逆送にしたら飯が食えないだろ、と言ったときに、最初は、はいはい、声を上げないと制止されただけで、言い方を変えて言ったら、昔からこうやってやってきたんだから~
と言われただけで、なんでそれをそのときに行った連行員が、ここでふみさん、という人なのか分からない。第2同行室は、9時30分から、4時08分まで延々と
取り調べを受けるための待機場所で、綾瀬11番が、逮捕から48時間経過しているから手錠を外せよ、と怒り狂った、唸り飛ばしたときにも、別室に移されて
舞子さんはひィ~ひィ~ゆうとるしな😁
BBCワールドで放送されてブクマでも話題になった「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」が、アマプラのBBCニュースチャンネルで4/18まで配信される。
アマプラでBBCワールド契約している人、またアマプラだけ契約しててBBCは契約してない人でも14日間の無料トライアル中なので無料で見られる。
https://twitter.com/BBCNewsPRJapan/status/1640017376837275650
このジャニー喜多川とジャニーズ事務所への告発ともいえる1時間弱の番組で、私にとって想像していた内容と違ったのは、ジャニー喜多川からの性加害を受けてきた人のインタビューが「かわいそうな被害者としての証言」ではないということだった。被害者の告発は多くの場合おぞましいものであることが多いので見る前にはネガティブに感じていたのだが、それを見るストレスはなかった。
番組でインタビューに答えた数人の彼ら(元ジャニーズJr.で性被害を受けた経験がある人)は、全員が、自分たちはジャニーさんに性的いたずらをされた、だがジャニー喜多川を憎んではいないしむしろ尊敬しているし好きだったと答える。そして彼らは「最後まで」はされていないと言う。自分は触られはしたが嫌がったら止めて謝られ、ジャニーさんは別の人を物色しに行ったというのが彼らのインタビューの共通点。
「最後まで」がどこまでのことかは答えがなく、記者が更に質問を重ねても笑顔と共にあいまいにされる。”手口”は誰もおおむね同じで、『合宿所』で、風呂に入っておいでと(ジャニー喜多川に)言われその後で(ジャニー喜多川に)体を触られる、寝ていたらジャニーさんが潜り込んで触りに来る、といったもの。インタビュー中に下の方に手が伸びるジェスチャーがあるので下半身(性器)への何かしらはあるのだろうとも推察はできる(番組内で明らかにはされない)。
被害の告発ではない被害体験を語られて、見ている私は告発とは異なる気持ち悪さを感じた。自分の身に置き換えると吐き気がするのにインタビューに答えている人たちは平気そうなのだ。中には(ジャニー喜多川から性被害を受けても)「それで売れるなら受け入れる」という人も出てくる。まるで「未成年への性加害の犠牲者」=被害者は存在しないみたいだ。
番組には「被害を訴える被害者」のインタビューは一つも出てこない。ジャニー喜多川の性加害についての記事を出してきた文春の記者へのインタビューはあり、彼らは何人もの被害者への取材を行ってきたことを明らかにしているし、そもそも、何せ文春がジャニーズ事務所に訴えられた裁判でジャニー喜多川本人が加害をうっかり認めてしまっている。
被害者は居るのだ。
この番組中にも触れられているが、そもそも日本では2017年(たった5年前だ)に法改正されるまでは男性への性加害を起訴することすらできなかったわけで、ジャニー喜多川から性被害を受けた人たちに被害自認がないのもしょうがないのだろう、ということもできるかもしれない。男→女の性加害、または女→男の性加害であれば「最後まで」が比較的明確で「セックス≒性器への挿入」だろうと思うのだが、男→男だと「最後」があいまいだ。
スキンシップやふざけあいの線上の少し逸脱した何かだと思えばいい。うまくやり過ごせればデビュー後にちょっとトークのネタになる武勇伝であり、ジャニーズ事務所的な世界観の中ではむしろ「ジャニーさんのお手付きのジュニアは売れる」という伝説ですらある。だが、「ジャニーさんのお手付きは売れる」は、少し見方を変えれば、「ジャニーさんのお手付きにならないと売れない」だし、もっと言えば「ジャニーさんのお手付きにならないとデビューさせない」でもありうる。
番組では記者が、「ジャニーさんに性的いたずらをされたけど僕は元気です」といった様子の彼らに、被害自認がないことに驚いている様子が映し出される。また、『被害自認のない被害者』の一人から、母親が、息子が生まれたら絶対ジャニーズに入れたいと思っていたと言うのでジャニーズに入った、母親も「そういうところ(ジャニーさんの性加害があるところ)」だと知っていたと思う、というインタビューも流れる。
更に渋谷のハチ公前で撮られた街頭インタビューの様子。「そういう話は知ってはいるが、だから何なんだ」というトーンのものが、選ばれ取り上げられている。街頭インタビューに答えた一人は自分はゲイであると前置きし、日本ではLGBTQへの理解がないから(ゲイのジャニー喜多川にとってアイドル事務所をやることは)大変だったんだろう、と言う。記者が、加害者の性的指向(ゲイかどうか)と、未成年に性加害を行うかは関係がないだろうと更に質問を重ねると「表立って追求するべきではない」という答えが返ってくる。また(ジャニー喜多川は)もう死んでしまったので(彼の未成年への性加害について)話したくない、という人も出てくる。街頭インタビューに答えた善良な市民にとっては、被害者も、そして加害者すら存在しないように見える。
そして記者の、ジャニーズ事務所への取材が断られる様子が映し出されていく。最後はジャニーズの本社ビルの「建物に入るな」「建物を映すな」と広報担当者や警備スタッフの要望がエスカレートしていく。
未成年への性加害の加害者はジャニー喜多川である。だが、加害者はもう死んでこの世にいない。でもまるで、加害者がまだ存在しているような気がしてくる。もちろん直接的な性加害はなくなっているだろうと思う、何しろ本人死んでいるので。でも番組の終盤には「加害の気配」が強く印象付けられていく。
「やられたけど、大したことない」という元Jr.たちの、市井の街行く人たちの、そしてジャニーズ事務所の、「だから何?」という態度という形をとった、加害の気配。
このドキュメンタリ番組で映し出されていく被害者と加害者は複層的で複雑に絡み合っている。
(A)被害者については、
(A1)わかりやすい被害者は存在しているがこの番組には出てこない。
(文春裁判同様被害者保護の観点か?本件で一部のジャニオタはインターネットの各所で酷い二次加害を行っている)
(A')被害自認がない人々(法的に言えば被害者だが、自らを被害者とは認識していない)。
(B)加害者については、
(B1)明快にわかりやすい加害者は「ジャニー喜多川」である。
(B2)ジャニーズ事務所という法人も、代表(というか弟や叔父だ)の性加害を何十年も放置していた協力的加害者である。
(B’)性加害ありきで成り立つスターシステムを「伝説」のように扱い、またはタブー視する人々は、間接的にせよ「加害的空間」を醸成する加害者ともいえる。
(B'')=(A')、被害自認のない被害者は、間接的に、そして不可抗力にせよ加害的な存在にもなっている。
ややこしいのはこの(B'')=被害自認のない被害者の存在である。「被害自認のない被害者」は、不可抗力ではあるが更なる被害者の拡大(自分はうまく躱せたが別のジュニアに被害が向かったなど)や、「加害的空間の醸成」に図らずも貢献してしまっている。被害者だが加害者。
このように被害、加害の関係が複雑なため、そしてジャニー喜多川本人がもう死んでるので、そして何よりも、大手メディアの大半がこの件を、逆らうとタレントを使わせない、そして独立しようとすると干すことでおなじみのジャニーズ事務所に忖度してか全く報道しないことで、また下火になってしまうのだろうなと残念に思う。
とても残念に思うので、やりようによっては無料で見られる今の時期に、興味がある人もない人も、番組を一度見てほしいと願う。
私の知り合いに、インビューライターがいる。彼女は色んな仕事をしているのだが、その中の一つとしてジャニーズ事務所のあるタレントのインタビューというのがあった。そのタレントは彼女以外からのインタビューを嫌い、できるだけ彼女をブッキングしてほしいと言われていたのだそうだ。
彼女と私は、そういう華やかな場所ではなく、極めて地味なところで一緒に10年以上仕事をしていたのだが、彼女は自分から「私はジャニーズの〇〇君の専属なのよ」などと言うことはなく、彼女を私に紹介してくれた人からそういう風に聞いていたのだ。
一方で、私はジャニーズタレントに全く自信がなく(顔と名前が一致しない)、私は彼女の仕事に満足していて、また彼女がポートフォリオにも入れていないので、最初に紹介された時の売り文句?を忘れていた。だが長く仕事をお願いしている中でだんだん個人的にも仲良くなり、そしてそのタレントが小さいある事件を起こしたときに、そういえば!と思いだしたので、野次馬根性がもたげてつい聞いてみたのだ。専属って本当?
専属ではないと彼女は言った。専属ではない、いろんな人がインタビューしていると思うわよ、と。
ある話題についての質問に上手に答えられない時があるのだという。そしてその話題をNGにもできない。彼らの歌や彼らが出演するドラマや映画の多くはそのテーマが主題になるので、プロモーション時には避けて通れない。それが彼女がインタビューする場合には何とかなるのだという。彼女自身は、何を気に入られたのかは分からないけど長い付き合いだし気楽に話してくれるのかも、と笑っていたが、(間接的に加害空間を醸成してしまっていたであろう)私は、ジャニー喜多川にまつわる「噂」に関係があるのかな…と思ったのだ。だが「あの噂と関係あるのかな」とは尋ねられなかった。
私が、自分は間接的に加害空間を醸成している人間である、と思ったのはその時で、それまで以上に、TV番組にたまに出てくる彼らの「ジャニーさんの話」を聞くたびにとても不安な、困った気持ちになる。
こういう気持ちはファンの人や、それ以外の一般の人は思ったりしないのだろうか…。
踊りと作法を覚えられてちやほやされることにあこがれて舞妓(誤字りました。←舞子)になって、15で酒席で酌をしたり性行為をさせられるという話や、ミスコンに出たらスポンサーの偉い人にセクハラされるとか、そういう話と通底する何かが、この社会にはずっとある。少しでも、出来るだけ世の中から減っていくといいな…。
着衣女性のイラストが不快だから排除されてるわけでも、飲み会するホームレスが不快だから排除されるべきでもないんですが、その差がわからないようです
女性が訴えるのは、電車に乗れば痴漢に遭いトイレには盗撮カメラがあり上司と二人きりになれば枕を誘われ外に出ればストーカーに遭い、それらを強く問題視し対応してくれる体制があまりに整わないこと、経験上あまりに性犯罪が多く日々性犯罪者を警戒し続ける生活を送っていること(スラム化した地域でレイプが発生する国との比較は無意味です、現代的な都市部での性犯罪です)、かつては舞子や芸者や女遊び今では美少女ものや広告など女性を性的なシンボルとしてアイキャッチ的な商業利用することに抵抗がないこと、出会う犯罪者たちや女性と接点の薄い男性に特有の認知のゆがみがよく見られており社会全体で女性に関する無意識のバイアスや偏見を植え付けていること、セクハラや性犯罪や未成年淫行等のグルーミングをするような環境であること、女子高生ブームからのJKの性被害爆増などの文脈を一切無視する都合のいい言論を生み出す社会のゆがみ、生の被害体験にエロ表現の影響を強く感じること、性的客体化は女性の自尊心を害し精神的な成長を妨げると研究が出ても男性の公共での性的満足を優先させようとする連中の人権意識の低さ、虐待的なAVを表現の自由として守ろうとする人権意識の腐ったネット差別主義者の存在、生の性犯罪者の陳述、それら被害や経験を実際に受け忌避する心情を「お気持ち」として軽視する人権軽視の男性の反応、なわけです
日本の男って全員で無いのは分かるけど、「背の高い女より背の低い女が好き!」とか「短足かわいい!」みたいな風潮無い?あとただのブサイクを童顔という建前で美男美女の範疇に入れたりとか。新垣結衣とか小笠原舞子みたいな高身長美人だって身長の逆鯖読んでたしさ。中学高校大学の同期でも背の高い女や正統派美人よりもチビや童顔がモテてた。
別にチビや短足を好きになるなとは言わない。でもさ、「あの子はチビだけど性格が良いので好きになりました」じゃなくて「あの子はチビで短足でスタイル悪いのがかわいいんです!だから好きになりました」みたいな男多いような気がするのよ。
日本人はスタイル悪いと言われるがそりゃそうだろと。元々の遺伝や米・野菜重視の食生活もあるだろうが、スタイル悪い女を好む男の選択も関係しているかも知れない。現に女子でも高身長が好まれる台湾は平均身長高いし、足の長い女が多いと聞いた(実際に台湾に行ってないので本当にそうなのかは知らない)。ただ、これについては男は背が高くてスタイル良い方が好まれるのでなんとも言えないが。
俺童顔嫌いなんだけど台湾美人はなぜか好きなんだ。なぜなのか考えてみたら童顔にも美人とブサイクがある。日本は後者のブサイクをかわいいともてはやしてないか?
まあ、俺は高身長の女がタイプなのでこういう風潮はありがたいし、文句言わない方がいいんだろうけど、将来の日本人の外見を良くしたいなら、女は胴長寸胴チビが良いという風潮は無くした方がいい気がする。あと、ワンチャン手を出せそうな只の童顔ブスを可愛い呼ばわりするの辞めた方がいい。どうせ褒めるなら外見以外を褒めろ
その内容は、明石の海賊から大江山の山賊への手紙のようなもので、なんともわけがわからなかった。
「先日の手紙の返事がないので、そちらに九重姫を送ったがやはり音沙汰がない、姫は到着したか」とある。
鹿之助は驚き、明石の海賊が九重姫をさらったかと合点して、その退治に出かけることとなった。
船頭を雇い、海に出てしばらく進むと、向こうから来るのはまさしく海賊の船だと船頭が言う。
鹿之助がその船に乗り込むと、なんと船底より大谷古猪之助・早川鮎之助・横道兵庫之助が現れた。
古猪之助が語るところによると、まず事の発端は大江山の山賊が宗教卿の手紙を奪ったことである。
それを読んだ山賊は、鹿之助からの使者になりすまして九重姫を誘い出し、そのままねぐらに連れ帰ってしまった。
古猪之助は、鹿之助が仕官したという噂を聞いて約束を果たそうと播州へ向かう途中、大江山で山賊に捕まりその手下として働いていた。
そこで九重姫と出会って事情を聞き、姫をつづらに入れて逃げ出したところ、今度は舞子の浜の宿でつづらを海賊に奪われたのだと言う。
兵庫之助のほうは、大坂の店に送ったはずの浮舟が、まもなく兵庫之助を慕って追いかけてきたので困っていたところ、
九重姫と共に浮舟も海賊にさらわれてしまったので、同じ宿に泊まっていた古猪之助と協力して救い出そうとした。
二人して海賊の棟梁に襲いかかったところ、その棟梁というのが実は鮎之助であり、同じく鹿之助の家臣であることが判明したのだと言う。
鮎之助はと言うと、やはり鹿之助のもとへ向かう途中で海賊に襲われたので、その棟梁を返り討ちにしてやった。
鮎之助と別れて、またどしどしと歩き、兵庫の町に着いた鹿之助は、
そこで女を挟んで浪人と大男とが争っているのを見かけて、仲裁に入った。
浪人に話を聞いてみると、彼はこの浮舟という遊女と馴染みになって放蕩したため、
主君の勘気を蒙って流浪の身となり、仕方なく二人で駆け落ちをしてきたところ、
こちらも浮舟に入れ込んでいた大男が怒り、浮舟を渡すか果し合いをするかと追ってきたということらしい。
そのうえ浪人は、刀さえも売り払って竹光を差していたので、果し合いをしようにもできないのだと言う。
そこで鹿之助が刀を貸すと、浪人は喜び勇んであっという間に大男を斬り殺してしまった。
浪人は浮舟に、これから心を入れ替えて精進し、いずれ名をあげたら迎えにいくから、いまは大坂の店に戻れと言い渡した。
また鹿之助には感謝し、家臣になることを申し出た。
鹿之助は承諾し、兵庫の横道で出会ったということで「横道兵庫之助」という名を授けた。
そして兵庫之助に、浮舟を大坂の店まで送っていくよう命じたのだった。
さて、鹿之助はまた旅を続け、早くも播州上月城の尼子義久と面会した。
義久は話を聞いて喜び、すぐさま鹿之助を軍師として遇した。
尼子の家臣たちは、新参の鹿之助を信用していなかったが、あるとき彼が怪物退治をしたことで、たちまち敬服することになった。
この怪物退治については別に申し上げるほどのこともないので省いておく。
また山名配下に菊池音八という者がおり、西国に敵う者なしという剛勇無双、毛利でさえ手を焼くという大豪傑であると聞いて、
鹿之助は一計を案じ、「伯州の腰抜け・菊池音八を討ち取る者は播州尼子の山中鹿之介なり」と高札に大書してあちこちに立てさせた。
音八はもちろん怒り狂い、「舞子の浜にて殺してやるから待っておれ」などといった書状を送りつけてきた。
鹿之助が軽装で出向くと、音八は甲冑に身を固めてやってきた。
鹿之助は笑って「内心、私を恐れているから、大仰な鎧を着てきたのだろう」と挑発した。
腹を立てた音八が鉄棒を振りかざして向かってくるのを、素早くかわした鹿之助は見事に相手の首をはねてみせた。
これにより鹿之助の名は近隣に轟き、容易に尼子を攻めるものもなくなった。
数日後、鹿之助は山名家へ出向いて「毛利家臣、清水三郎である」と名乗り、当主の山名氏資に面会を求めた。
自民党とか民主党とかそういう政党は皆さんの働いて稼いだお金で活動しているんです
仲が悪い政治家でも
だから毎年のように
俺ら政党になろうぜってヒソヒソ話してるんです
民主党は口先だけ脱原発とか言って実際は推進派と何ら変わりありません
お金をもらって政党になるために悪党政治家が集まって口先で国民を騙してるんです
そういう日本の政治が許せないから、新党今はひとりを立ち上げました!
金目的の政党じゃない、そういう自分の純粋に政治にかける気持ちをわかって欲しいという思いをこめた!今はひとりをよろしくお願いします!
一人で作った政党では税金をもらえないんです!それでも立ち上げたのは何故か!?何故ですか!?
日本を!日本の子供達を!今日本で育ちつつある子供達を!まだ産まれていない子供達を!そういう子供達を原発推進政党から守るために!税金をもらえないけれども政党を立ち上げたんです!
政治は一人でもできます!山本太郎は一人でも政治ができるんです!
汚い政治家、汚い政党を、この新党今はひとりの山本!太郎が!片付けましょう!!!!!」
~~1年半後~~
生活に山本太郎氏入党 再び「政党」に 交付金も支給へ - 産経ニュース
死ねよ。
十中八九、作者的には桐崎千棘と結ばれる展開で書いていたのだと思うが(タイトルからしてまんまだし)、
一向に衰えない小野寺人気に加えて、マリーの台頭で、どうしてこうなった状態に。
ということで、同じ程度の糞度を有している大河がなぜ正ヒロイン視され続けたのか比較することで桐崎さんがなぜ不人気扱いされるか考えてみようと思う。
ちなみに原作はどちらとも全部読んでますが、ある程度ぼかしを入れて(特にニセコイ)。
大河が背が小さい、幼児体型、不幸な家庭環境という分かりやすいコンプレックスを抱えていたのに対し、桐崎さんは悪い意味で隙がない。
料理駄目、怖いの駄目というのがあるじゃないかという反論もあるだろうが、正直とってつけた感が強すぎるし、お決まり過ぎてギャップを感じない。
2. ライバルが強い
みのりん、あーみんといった一見魅力的ながら、かなりめんどくさいキャラという設定のおかげで大河は得をしているのに対し、小野寺姉、橘、鶫とライバル勢は欠点をみせない。
小野寺姉に至っては何度かの実質告白がスルーされているため、不遇度がまし共感もできるようになっているのもきつい。妹、4人目の人気が出そうにないのが唯一の救いか。
北村君が、大河と竜児の仲を応援していたのに対し、舞子君は小野寺推しである。そして、千棘には(作中に出てくる中立的な)友達がいない。
いっそ、千棘をずっと友達がいないキャラにすれば、人気も出来たのかもしれない。
4. 楽・千棘のプライベートに迫る展開が実のところない。
竜児が大河の家にいる、あるいはその逆にいることが早期に日常化したのに対し、実のところ、千棘が二人っきりで楽の部屋にいること、あるいはその逆が日常的でない。
あってもごく稀か、楽が特殊な状態におかれた状態でしか起こらない。なので楽の家庭的なところと、千棘のそうでないところという補完的な関係が意識されない。あくまで外の世界での関係に終始している。
5. 楽の父親が千棘推しでない。
竜児母ことやっちゃんが、大河推しであったのに対し、楽の父親は千棘について割とどうでもいいようである。
新キャラクターが楽の父親の適当さを通して紹介される仕組みになっているのもあってか、千棘と楽の父親が仲良くなるエピソードが全く存在しない。
こう考えると、千棘は、外堀を埋めることが全くできないまま、恋心以外、登場時からほぼ何も変わらずに済んでいる完璧なヒロインとして存在しているため、あまり魅力を感じさせていないのだろう。
外堀の点では小野寺、恋心の点では、マリー、登場時との変わり振りからは鶫がいることで、この性格が特に際立ってしまっているのも問題でもある。
もっとも、組織票を抜かせば、人気投票では3位でなくて1位という話もあるらしいが、小野寺が一番人気は変わらないように思える。
森下舞子がダイナマイトを飲み込み爆発させたとき、胃液と大量の血液に加えて、純度の高い狂気がばらまかれた。
森下舞子は、クリスマスの駅のコンコースに座り込み、傍らにケーキの箱を積み上げて、ガツガツとひたすらクリスマスケーキをかじっていた。誰もが森下を見ないようにしながら、森下を見ていた。そして、爆発。ワイドショーに出てた何人かの目撃者達は、その瞬間、森下が笑ったのを見たと言う。爆発の瞬間を森下は察知していたのか、大好きなケーキの美味しさにずっと微笑みを浮かべていたのか。目撃者たちが、見たような気がしただけなのか。それは、やはり永遠にわからない。
もっと言えば、今この町にある狂気が、森下がばらまいたものなのか、ずっとこの町の人の中に存在していたものなのかも、やっぱりわからない。森下が狂気をばら撒いたというのは全て、僕の主観である。だが、この直観めいた考えは、間違ってはいないと思うのだ。
そのとき、森下を見ていた一人である永沢安雄は、興奮して僕に電話をしてきている。「すげッ! すげッんだって! おい! おい!」「何。何なの」「あの! ははっ。爆発、したの。人が。今、駅。うわーうわー」「は?」「おま、とにかく、来い駅来い!」「はあ? 落ち着けよ」「あー、すげーわー。うわー。ああ」そして電話は切れる。
その日、僕はそのまま寝て、次の日のニュースで、永沢の興奮の原因を知った。
そしてその三日後。今度は、永沢安雄が恋人である小島奈津を絞殺し、自宅マンションのベランダに、布団と一緒に干していたことをニュースで知る。永沢は直ぐに見つかって逮捕されてしまった。その後は知らない。思えば、あの電話が、最後に永沢と話したことになる。
そこまで、ぼーっと考えて、僕は足元を見下ろした。足元には、瀧本茜が倒れていて、頭から流れ出た血が、僕の靴を濡らしている。僕の右手には、イチローのサイン入りバット。森下の狂気は、携帯電話ごしに永沢安雄の声を介して、あのとき僕にも入り込んでいた。狂気はこうして伝染する。あの日、町にはたくさんの狂気が降り注いだ。
茜は、最後に何を言ったっけ。思い出せない。それは夢のように、ぼろぼろと記憶の形を失っていく。僕は何で、茜を、殺したんだっけ。
それからゆっくりと、恐怖が、愛情が、戻ってきたのだった。そんな、嘘だろう。やめてくれ。約束が違う! 僕の狂気はもう、答えなかった。痛みが、絶望が、体中を侵食していく。そうか、狂気とは忘却だ。そして狂気が恐ろしいのは狂気が去るときなのだ。
やっとわかった。森下舞子は、あのとき確かに笑ったのだ。でも、それは狂人の笑顔ではなく。森下も僕も狂人にはなりきれなかった。僕は、台所に行き、包丁を手に取り手首にあてて、やっと笑うことができた。
第二回ファック文芸部杯参加