U-862とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造したIXD2型Uボートの1隻である。1943年10月7日竣工。U-862は通商破壊で連合軍船舶7隻(4万2374トン)を撃沈し、カタリナ飛行艇を撃墜する戦果を挙げた。その中には全Uボート中唯一太平洋での撃沈戦果を含む。ドイツ降伏後は大日本帝國海軍に接収され、伊502に改名するが、戦闘行為を行う前に終戦を迎えた。1946年2月14日、マラッカ海峡で海没処分。
IXD2型は作戦範囲の拡大を目指した長距離航洋型Uボートである。
これまでのIX型とは全く違う船体と設計を持ち、排水量も1600トン以上と日本の海大型に迫る巨躯を誇る。前級IXD1型が持っていたメルセデス製魚雷艇用エンジンが不調を頻発したため、IXC型と同じM9V40/46 ターボチャージドエンジン2基に戻し、更に低速巡航用のMWM社製RS34/5Sディーゼル2基を搭載。加えてIXC型より船体を10m延伸して燃料搭載量を増大させた。これにより水上航続距離がIXC/40型の2万1113kmから4万3893kmにまで増大、水上航行中に補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で最大速力も18.3ノットから19.2ノットに増加するなど、全体的に性能が向上している。大型航洋型Uボートの完成形とも言えるIXD2型は計28隻が量産され、南アフリカ沖やインド洋における通商破壊で戦果を挙げた。
またU-862は航空機用のレーダーであるFuMo65ホーエントヴィールレーダーを司令塔の左舷側に搭載していた。19個のバルブしかないため保守点検が容易で信頼性も高いという優れ物であり、船舶であれば10km先から、航空機であれば20km先から捕捉可能。本来FuMo65はXXI型にしか搭載されていないのだがU-862は実験艦として先行装備していた模様。このレーダーのおかげでカタリナを返り討ちにし、連合軍の厳しい監視網を掻い潜る事が出来た。
諸元は排水量1616トン、全長87.6m、全幅7.5m、最大速力19.2ノット(水上)/6.9ノット(水中)、燃料搭載量389トン。兵装は21インチ艦首魚雷発射管4門、同艦尾魚雷発射管2門、45口径10.5cm単装砲1門、37mm機関砲1基、20mm機関砲1基。潜航時間を拡充するシュノーケルも搭載していた。
1941年6月5日、AGヴェーザー社のブレーメン造船所に発注される。
1942年8月15日にヤード番号1068の仮称で起工、1943年6月8日に進水式を迎え、そして10月7日に竣工を果たした。艦長にはハインリッヒ・ティム少佐が着任。彼は掃海艇M-7艇長時代に英潜水艦スターフィッシュを自沈させ、U-251時代に2隻の敵商船を撃沈したベテラン艦長であり、また乗組員もU-251から引き継いでいるため練度は高いと言えた。竣工と同時に訓練部隊の第4潜水隊群に編入され、バルト海方面で慣熟訓練を開始する。
1943年10月9日に造船所を出渠したU-862はハンブルクへ回航されてFu.M.G.レーダーの試験を実施。10月12日から28日までキールにて試験航海を行い、10月29日から11月2日にかけてシュヴィーネミュンデで対空射撃訓練、シュテッティンで荷物の運搬に協力した後、11月4日から6日までダンツィヒで試験航海。ピラウ沖とゴーテンハーフェン沖で操艦訓練を、ヘラ半島沖で戦闘訓練を行い、12月8日からは第20潜水隊群や第25潜水隊群と合同訓練を行う。
1944年1月12日から18日にかけてゴーテンハーフェンで行われた第27潜水隊群との戦闘訓練で一通りの慣熟訓練は終了し、1月23日から4月6日までブレーメン造船所でシュノーケルの搭載工事を受ける。出渠後の4月7日と8日にブレーメン沖でシュノーケルを使った潜航試験に従事。長期の工事で乗組員の練度低下を懸念したのか再び慣熟訓練を開始し、シュヴィーネミュンデで対空射撃訓練を、ヘラ半島沖で戦闘訓練を実施。それらが終わった4月29日にキールへ入港して残工事に着手。5月1日に第12潜水隊群へ転属し、5月11日からは出撃に向けた機器の取り付け工事が始まるなど、刻々と出発の時は迫っていた。そして5月19日に全ての工事が完了。U-862は一人前の狩人として海に漕ぎ出せる状態となる。
去年の9月末頃からモンスーン戦隊と呼ばれるUボート部隊が同盟国日本の勢力圏にある東南アジアへ派遣され、シンガポールやペナンを拠点にインド洋で通商破壊を行っていたが、ペナンの熱帯気候は魚雷の長期保存に向かず戦隊の不活発化を招いていた。U-862の初任務はモンスーン戦隊に魚雷を含む補給物資を届けるとともに日本に供与するドイツ製武器の図面と青写真、水銀、鉛、光学ガラス、スチール、アルミニウム等を輸送する事だった。
1944年5月20日、他のUボートとともにキールを出港し、まずドイツ占領下ノルウェーに向かうべくスカゲラク海峡を通過。5月22日にクリスチャンサンへ寄港して燃料補給を受け翌日出発するが、大西洋特有の悪天候に巻き込まれてフレッケフィヨルドへの一時退避を強いられる。自然の猛威に曝されながらも5月26日にベルゲンで補給を行い、トロンヘイムを経由して長旅に出ようとしたその矢先、今度は燃料タンクから漏油しているのを乗組員が発見し、5月30日にナルヴィクへ緊急寄港して応急修理。長旅を前に前途多難であった。
6月3日にナルヴィクを出発したU-862は、目的地である東南アジアのペナン基地を目指す。実はU-862はとても幸運に恵まれていた。出港から僅か3日後に連合軍がノルマンディーに上陸、ノルウェーから迎撃に向かったUボートはイギリス軍やカナダ軍の哨戒機に追い回され、6月11日から24日までに4隻が撃沈されてしまった。後少し出港が遅れていればU-862も同じ末路を辿ったかもしれない。
最初の関門を突破したU-862であったが、ペナンに至るには連合軍が警戒する大西洋、喜望峰、インド洋を突破しなければならず、辛い長旅になるのは明々白々であった。アイスランド・グリーンランド間のデンマーク海峡を突破して北大西洋に抜けた後、中央寄りの航路を通って南下。移動中にも通商破壊が試みられ、U-862はタンカーに向けてT5音響魚雷を発射したが、あろう事か音響魚雷はU-862自身のスクリュー音を探知して弧を描いて戻って来た。自分が放った魚雷で自滅しては笑うに笑えない。ティム艦長は急速潜航したのち機関停止を命じて何とか逃れる事に成功した。7月21日、BdU(パリのUボート司令部)よりアフリカ沿岸沿いの航路を選ぶか中部大西洋の真ん中を突っ切る航路かを自由に選ぶよう命じられ、U-862は後者を選択。
7月25日午前2時12分、南大西洋で単独航行中のアメリカ蒸気商船ロビン・グッドフェロー(6885トン)を雷撃して撃沈。この敵船は8602トンの鉱石をケープタウンからニューヨークまで運送している途中だった。ロビン・グッドフェローが発した遭難信号は英自動車運送船プリアムに受信されるも、救助が行われなかったため、8名の士官、33名の乗組員、28名の武装警備員全員が行方不明になった。同日15時29分、U-862は敵巡洋艦1隻と駆逐艦3隻の発見報告を行う。8月8日、アデン湾で通商破壊をしているU-198から獲物が豊富にいるとの報告を受け、BdUはU-861とU-862にケープタウン周辺には留まらずアデン湾方面へ向かうよう指示を出した。
8月9日頃、U-862は難所の一つ喜望峰に差し掛かる。喜望峰にはイギリスの舎弟である南アフリカ連邦の基地があり、哨戒圏を避けるには南方500kmを迂回しなければならないのだが、それにはローリング・フォーティーズと呼ばれる暴風圏を突破する必要があった。東西約1600km、南北約320kmに渡る広大な範囲に吹き荒れる風速40mの暴風と逆巻く荒波。絶え間なく襲ってくる大波は艦首を洗い、浮上中にも関わらず艦体そのものを海の中へと沈めようとし、まともに立っていられないほど艦内は激しく揺さぶられた。仮に何処かが故障しても直す事は出来ない。四苦八苦のすえU-862は自然の猛威に打ち勝ってマダガスカル島南西へと辿り着く。
そしてその先にはご褒美と言わんばかりに良好な狩り場モザンビーク海峡があった。モザンビークは連合軍の補給港であり、インド及びオーストラリア方面と欧州戦線を結ぶ主要補給路の一つだったため、周辺には多くの獲物が往来していたのである。
8月13日、マダガスカル島南西沖で無防備にも単独航行していたイギリス商船ラドベリー(3614トン)を雷撃で撃沈。8月16日にはマダガスカル北西のモザンビーク海峡でイギリス商船エンパイアランサー(7037トン)を魚雷で仕留め、積み荷の銅2000トンと軍需品1000トンが海に呑まれた。8月18日、イギリス商船ナイラン(5414トン)をモザンビーク北東約1km沖で雷撃。ナイランは弾薬類を積載していたため激しい誘爆が起こり、その激しさたるやU-862の乗組員は魚雷攻撃を受けたと勘違いしたほどだったが、幸い飛散した破片はU-862に損害を与えなかった。攻撃後、浮上したU-862は生存者の捜索に当たったが、全員消し飛んでしまったのか誰一人として発見出来なかったという。8月19日夕刻、モザンビーク東方約150海里でジグザグ運動中のイギリス商船ウェイファーラー(5068トン)に2本の魚雷を発射するも回避される。90分に及ぶ追跡の末、狙いすました1本の魚雷が左舷に命中し、3000トンの銅と2000トンの石炭を抱えてあっけなく沈没させた。
U-862により4隻の輸送船を沈められたイギリス軍は第265飛行隊を投入して大規模な潜水艦狩りを開始。8月20日にモザンビーク海峡でPBYカタリナ飛行艇に発見されて襲撃を受けるが対空砲火で撃墜し、激しい捜索網からの脱出に成功。危険を確信したティム艦長はモザンビーク海峡を離れた後は真っすぐにペナンへと向かった。U-862の戦果報告はU-861に中継されてBdUに届けられた。
9月9日、U-862は辛かった長旅の終わりを告げるペナン入港を果たす。ドイツの歌と君が代を演奏する日本の軍楽隊や、桟橋に並んだモンスーン戦隊の司令や第8潜水戦隊の魚住少将たちがU-862を歓迎した。
9月11日、ティム艦長は魚住少将と有泉龍之助大佐(当時伊8艦長)をU-862に迎え入れ、伊8と連絡を取り合う。翌日夕刻にペナンを出港したU-862は整備のためシンガポールへと向かうが、その道中のマラッカ海峡は英潜水艦の待ち伏せ場所となっていたため、日の丸に塗り替えられたアラドAr-196A(パイロットはドイツ人)がU-862の頭上を旋回して対潜哨戒を行ってくれた。その甲斐あって襲撃を受ける事無く、9月13日23時45分、シンガポールのセレター軍港へ到着。ペナンと違ってセレターではあまり歓迎されず基地司令のドイツ人2名しか出迎えてくれなかったとか。
9月14日、ティム艦長はモザンビーク海峡の海上交通量が多い事、日中の航空哨戒が殆ど無く夜間に至っては皆無である事、撃墜したカタリナから得られた資料により航空基地がディエゴスアレス、セイシェレン、パマンジ、トゥレア、モーリシャスにある事を報告した。数日後、帝國海軍の第101工作部に入渠して整備を受ける。U-862が運んできた日本向けの物資は全て揚陸され、代わりにドイツ本国へ持ち帰るモリブデンとタングステンを積載する。
9月19日に困難な長旅を成功させた功績からティム艦長に騎士鉄十字勲章が授与され、乗組員50名には第1級もしくは第2級鉄十字章が授与された。その後、ティム艦長は空路でバタビアに移動。帝國海軍とオーストラリア方面における船舶交通と対潜能力について協議を行った。
10月1日、東南アジアで活動中のモンスーン戦隊こと第33潜水隊群に編入されるが戦局は日に日に悪化し、攻撃に耐え切れなくなったモンスーン戦隊がペナンより撤退して後方のバタビアを新たな母港とする。11月4日、補給船キトとともにシンガポールを出港してバタビアに向かうが、ドライブシャフトカップリングが故障してすぐに引き返し修理を受ける。翌5日正午に改めてシンガポールを出港し、11月7日にバタビア外港タンジュンプリオクに設けられた新たなUボート作戦基地に到着した。
モンスーン戦隊の作戦管理は現地司令官のドメス中佐ではなくパリのBdUであり、彼らは依然アデン湾やペルシャ湾の敵補給路攻撃に関心を払っていたため、オーストラリア方面の通商破壊は特別考慮されていなかった。しかし1944年5月にU-188のラッデン艦長が豪州沖での作戦の可能性を報告した事、日本側がベルリンの海軍武官を通じてドイツ海軍のカール・デーニッツ提督にオーストラリア南西方面での通商破壊を要請した事により、9月14日にデーニッツ提督から「オーストラリア方面でU-862とU-168の運用が承認された。出撃準備が整い次第、出港する予定。海上交通路や防御状況など日本側の知識を活かして欲しい」と承認が下った。9月26日には「今後3隻のUボートがオーストラリア海域で活動する予定」と伝えている。U-862は長旅をしてきたにも関わらず乗組員の士気やバッテリーの状況が良好で、またティム艦長はかつて商船に乗ってオーストラリアの航路を通った事があったため、モンスーン戦隊から抽出されたU-168、U-537とともにオーストラリア方面での通商破壊を命じられる。
しかし、Uボートの行動予定を関係各所に通達した際、連合軍によって暗号解析されてしまう。さっそく西行きの輸送船団に分散してルーウィン岬の南方450海里へ迂回するよう命令を出し、増援の対潜掃討部隊をダーウィンからフリーマントルへ移動させ、航空哨戒も強化するなど万全の迎撃体勢が整えられた。更に出撃拠点近くへ刺客を送り込み、10月6日にスラバヤ沖で蘭潜水艦ズワードヴィッシュの雷撃を受けてU-168が、11月10日にロンボク海峡北端で米潜水艦フラウダーの雷撃を受けてU-537が撃沈され、残されたのはU-862ただ1隻だけになってしまった。モンスーン戦隊は喪失したU-168の代わりにU-196をオーストラリア方面へ出撃させたが、11月30日の出港を最後に消息不明となっている(潜航事故説が有力)。
11月18日、バタビアを出港。東南アジアの熱帯気候は魚雷の長期保存に向いていないため搭載出来たのは僅か14本だけだった。U-168とU-537が撃沈された事を知らないティム艦長は僚艦がオーストラリア西部で狩りを行っていると考え、狩り場を南部及び東部に定めて大陸西部を南下。
11月26日にオーストラリアの南西端に到達し、11月28日にルーウィン岬沖へ到着した時に東進を開始、大陸南部のグレートオーストラリア湾で通商破壊を試みる。ところが通信傍受によりオーストラリア海軍がU-862の潜入に気付き、運行する船舶に航路の変更を命じた事で獲物は殆ど姿を消してしまった。1週間かけた索敵にも関わらず敵船を発見出来なかったため、ティム艦長は敵船団が航路を変えている可能性を疑い、やむなくスペンサー湾に向けて移動。アデレードへの進入航路で待ち伏せする。
12月9日正午、アデレード南東ヤッファ岬沖150海里でギリシャ貨物船イリオスを発見、海中から雷撃するには発見が遅すぎたのでティム艦長は浮上を命じて水上砲撃戦を挑んだ。ところが荒れた海では上手く照準を合わせられず、またイリオスが4インチ砲で反撃してきたため潜航退避。13時頃、イリオスからの通報を受けたオーストラリア海軍は、U-862の出現位置から南東約130海里にいたコルベット艦バーニー、マリーボロー、リズモアの3隻に捜索を命令。荒天の中を進んだからか道中でリズモアの左舷エンジンが故障し、単独でメルボルンへ引き返した。19時にバーニーとマリーボローがイリオスと合流。翌10日正午まで捜索を行ったが、U-862を発見出来なかった。一方のU-862は水中聴音機でソナーの波長を逆探知。雷撃のため浮上するが、海上は荒れていてコルベット艦が見えず、とても魚雷を発射出来るような状況ではなかったため、この悪天候を隠れ蓑にして南方へ高速離脱した。
その後はタスマン海を通過し、太平洋に進出すると同時にニュージーランド沖へと移動。オーストラリア海軍はU-862が機雷を敷設しようとしていると考え、バーニー、マリーボロー、リズモアにバス海峡航路の掃海を命じている。
タスマニア南方を航行中、ニュージーランドへ向かう敵タンカーを発見して急速潜航。だがそのタンカーは思いのほか高速で移動しており、追跡のため浮上してみると、今度は闇夜と大雨による視界不良に阻まれて接近がより一層困難になる。そこへ敵哨戒機が飛来。幸運にも敵哨戒機はUボートを味方と誤認していて識別信号を交換しようとしてきたため、タンカーへの攻撃を断念して潜航退避。予想された爆雷攻撃は無かった。バス海峡東方を北上中、聴音手が高速で移動する大船団のスクリュー音を聴音し、攻撃に向かう。しかし雷撃するには距離が遠すぎる事、他に支援してくれるUボートがいない事から攻撃の機会を逸する。ティム艦長は「もっと多くのUボートがいれば、アメリカ沖のようなパウケンシュラーク作戦に繋がったのに」と残念そうに呟いた。
12月24日午前10時頃、タスマニア南方から北上中に2隻の蒸気船を発見し、ティム艦長は魚雷の本数を考慮して1隻だけ攻撃する事を決断。16時30分、シドニー南東約165海里でジグザグ運動していた米リバティ船ロバート・J・ウォーカー(7180トン)に1本の魚雷を発射し、右舷船尾に命中して推進軸とステアリングギアを破壊、航行不能へ追いやる。南に向かって漂流するロバート・J・ウォーカーにトドメを刺すべく、18時20分に距離約1000mから右舷側に向けて魚雷を発射するが、雷跡を気付かれたらしく20mm砲で着弾する前に破壊された挙句、煙幕まで展開されて45分間ほど敵船の姿が見えなくなる。20時頃、粘り強く機会を待っていたU-862が三度目の雷撃を敢行。ロバート・J・ウォーカーは雷跡を発見して再び20mm砲による早爆を狙ったが今度は失敗し、魚雷が命中した右舷船腹に大破孔を生じて燃料が流失。遂にこれまでと観念した船員68名は3隻の救命艇と4隻の筏に乗って船を放棄。無人船となったロバート・J・ウォーカーは20時間以上漂流した後、翌25日17時頃に人知れず沈没した。この戦果はUボートが太平洋で挙げた唯一の戦果となった。ちなみにロバート・J・ウォーカーの木製ネームプレートはニューサウスウェールズ州サセックス湾付近のバーヴェルビーチに漂着し、オーストラリア戦争記念館で保管されている。
最後の魚雷が爆発してから10分後にイギリス空軍の航空機が現場海域に到着。シドニーからは多数のコルベット艦や軍艦が、メルボルンからは英第4駆逐隊が派遣され、計12隻の軍艦が2週間以上に渡って大捜索を行った。オーストラリア近海で行われた対潜掃討の中では最大・最長のものだったが、1943年を最後に同方面での通商破壊が全く行われていなかった背景もあり、人員の経験不足や対潜兵器の不足でU-862の捕捉に失敗。なかなかUボートを追い払えずに苦慮する。
12月27日、ニュージーランド方面へ向かっている途上で敵貨物船を発見。良好な雷撃位置に就いて音響魚雷を発射するも300m先で早爆して不成功に終わる。敵貨物船は無傷で追跡から振り切った。
1945年1月5日、ニュージーランド北方で汽船を発見して雷撃。しかし雷跡が見つかって回避され、追跡しようにも荒天と汽船の回避運動が重なって上手く雷撃に繋げられず、取り逃がしてしまった。艦長はこの事を「海岸近くで汽船を追跡しようとしても、夜間だと発砲出来る位置まで十分に近づけない」と憎々しげに戦時日誌に綴っている。
1月7日にニュージーランドの最北端レインガ岬沖に到達して東海岸方面に向かう。ティム艦長の計らいによりU-862は毎晩浮上し、乗組員に新鮮な空気を吸わせて戦意を維持させる。1月10日にブレット岬で、13日にイーストケープ沖で商船を発見したが、適切な雷撃位置に付けず取り逃す。
1月15日、ポバディ湾に侵入してキズボーン港を潜望鏡偵察。ティム艦長はU-862を陸岸ぎりぎりにまで寄せつつ水深1mに潜航し、大胆不敵に獲物を探し回る。「日中は歩いている人々が潜望鏡を通して見える」と記録し、夜間の偵察では「埠頭が明るく照らされ、その後ろに大きな工場がある」と記録している。しかし、数隻の小型船はいたものの獲物となりうる大型船はいなかったため、やむなく小型船1隻に狙いを定めて雷撃したが失敗。これほど派手に動いたにも関わらずU-862は住民に見つからなかった。これを見てティム艦長は「ここの人々は皆、驚くほど疑いを持たない」と皮肉った模様。その後、闇夜に紛れて港から脱出した。
この事を10年間に渡って調査したキズボーン在住のジェラルド・ショーンは「(キズボーンは)第二次世界大戦中、ドイツ人がニュージーランドの海岸に最も近づいた場所」「キズボーン港に侵入するというのは極めて異例の決断だった。キズボーンのような小さな港に入る大型潜水艦の大胆さは、非常に危険な行為だった」と評している。翌16日夜にネイピア港ホークスベイを潜望鏡偵察。「真っ赤な照明が灯るビーチカフェが見え、ダンスミュージックが古い曲を演奏している」と記録した。沖合いの小型商船を雷撃したが命中せず、ティム艦長は攻撃を敵に見られたと考えて離脱を図った。その際に「農場から新鮮な牛乳を盗むために乗組員を上陸させた」という都市伝説を戦後ティム艦長が冗談で広めたとか。
未だ魚雷が7本残っていたためティム艦長はシドニー北方に進出しようとしていたが、連合軍のマラヤ及びマレー侵攻が近いとして1月19日にドメス中佐からバタビアへの帰投命令を受け、ニュージーランドの南を回って帰路に就く。1月21日にスチュワート島南方を通過、タスマン海で荒天に巻き込まれるも何とか突破し、キング島南方を通過して西進する。
2月6日16時頃、西オーストラリア州ルーウィン岬西方1400kmのインド洋でメルボルンからコロンボに向かう米リバティ船ピーター・シルベスター(7126トン)を捕捉。この船は107名のアメリカ軍兵士と2700トンの装備品、317匹のラマを輸送していた。16時40分頃、水上のU-862から発射された2本の魚雷がピーター・シルベスターの右舷側に命中し、船橋前方の甲板を破壊するとともにハッチカバーを吹き飛ばして浸水被害を与える。17時に急速潜航したU-862は10分後に2本の魚雷を発射、2本とも右舷側へ叩き込んで大破炎上させた。船員や便乗者は4隻の救命艇と6隻の筏に分乗して船を脱出。間もなくピーター・シルベスターはU-862からトドメの魚雷1本を喰らって真っ二つに折れ、すぐに前部は沈没、残った後部も2月8日夕刻に積み荷やラマもろとも海に沈んだ。この戦果がオーストラリア近海及びインド洋における最後の枢軸国軍潜水艦の攻撃となった。漂流者を救助するため連合軍はオーストラリア軍、イギリス軍、アメリカ軍の使用可能な全ての艦艇及び航空機を投入しており、助からなかったのは救助されなかった救命艇に乗っていた33名だけだった。U-862はFuMo65ホーエントヴィールレーダーシステムを試験的に搭載していたおかげで13km圏内の物体を探知する事が出来、大規模な捜索が行われたにも関わらず虎口から脱した。
余談だが、2月14日に西オーストラリア州カンデリン飛行場からピーター・シルベスターの生存者救助の目的で飛び立とうとしたイギリス空軍第25飛行隊所属のB-24リベレーターが離陸直後に墜落。満載していた燃料や爆弾が誘爆して大炎上、パイロット5名が焼死してしまっている。機体の残骸は尾翼以外ほぼ残っていなかった。
オーストラリア西部を北上してスンダ海峡の合流地点へ到着した時、U-862は初めて無線封鎖を破って通信を放った。この通信文も連合軍に解読されたものの肝心な合流地点までは割り出せなかったため敵潜の待ち伏せは無かった。2月14日にジャワ島近海で浮上、17時頃に対潜哨戒機のアラドAr-196Aが飛来してU-862を出迎え、日本の誘導船の後に続いて翌日バタビアへ入港。帰投後、ティム艦長と乗組員は他のUボート乗員から労いの歓待を受けている。最後にティム艦長は「作戦計画上のミスは海域が広すぎた事だった。シドニー南北の海上交通路を集中攻撃すれば、より良い結果が期待出来る」と締めくくった。劣悪な環境下においてもティム艦長と乗組員は高い士気を維持し続けており、それが今回の戦果に繋がったと思われる。
2月18日、ドイツ補給船ボゴタとともにバタビアを出港。バンカ海峡を通過して2月20日にシンガポールセレター軍港へ回航されて第101工作部で入渠整備。ここで回転翼を持つ艦載偵察機フォッケ・アハゲリスFa330 A-1を積載。操縦する軍医のショブスト・シェーファーには脱出用のパラシュートが支給される。いよいよ次の出撃で帰国する事が決まり、ドイツ本国向けの生ゴムを可能な限り搭載し、道中のアフリカ南東で通商破壊を行うべく8本の魚雷を装備した。帝國海軍は帰るついでにインドのマドラスへ工作員を上陸させて欲しいと依頼したがベルリン側から拒否されている。
4月25日に主機関のテストが終わり、出港日は5月12日とされた。
1945年5月5日、東京の在日海軍武官パウル・ヴェネッカー大将は東南アジアの全Uボートに向けてコード信号「リューベック」を送信。これはドイツ本国がイギリスとの敵対行為を止めた事を意味していた。
5月6日にとうとうドイツが連合国に降伏。ドイツ軍の将兵は一切の戦闘行為を禁じられてしまう。ティム艦長は全乗組員に甲板へ集まるよう指示。正午頃、セレターで入渠中のU-862とU-181のもとへ第10方面艦隊司令福留繁中将や第13航空艦隊の参謀等が現れ、モンスーン戦隊司令の面々に抑留される事を告げた。東南アジアに取り残された他のUボートや乗組員も当日中に抑留される。同日16時頃、日本軍のトラック数台が埠頭にやってきて、U-862と向かい合わせに武装兵が陣取る。乗組員たちは「もしや武力でU-862を接収するつもりでは」と一瞬考えたが、彼らはU-862から武装を撤去し、数分以内にドイツ海軍の戦闘旗を降ろして代わりに旭日旗を掲げただけだった。ドイツ人乗組員は無言で退艦するとともにトラックに乗せられて宿舎へ戻った。その夜、福留中将はヨーロッパ式の夕食会を開き、ドイツ軍将校に対してこれまでの戦争協力に感謝した。5月7日、ドイツ人乗組員からの自発的な申し出と協力により修理を続行。
在シンガポールの海軍部隊は至急日本人乗組員の配置を第6艦隊に要請、海軍部としても本土決戦が秒読み段階に入っている現状を鑑み、一刻も早いUボートの回航を望んでいた事から人員配置は思いのほかスムーズに進んだ。内地においてもUボートの存在は噂になっていたようで乗り組み希望者が多かったが、軍令部は要職の艦長、水雷長、砲術長、航海長、下士官(呂500乗務経験あり)は内地から、他は現地の基地隊員から抽出する事に決めた。補充の目途が立つとドイツ人乗組員をトラックに載せてマラヤ南部バドゥパハトにある元イギリス人所有のゴム農園へ移送。シンガポールには取り残された邦人が多数おり、Uボートに内地帰還の希望を見出していたのか、よく関係者に接触を求めて来たという。またUボート各艦には物資や人員の移送用にマレー人の運転手付き車が1台ずつ配置されていた。
6月22日、U-181とU-862に配属する要員9名を乗せた伊351が佐世保を出港、危険な海域を突破して7月6日に無事シンガポールに到着。山中修明少佐(艦長)、木村貞治大尉(水雷長)、鴨野輝夫大尉(機関長)、宮持優中尉(航海長)の4名が着任し、参謀長朝倉少将のもとへ挨拶に訪れた。
7月15日、帝國海軍はU-862を接収して伊502に改名、第13方航空艦隊に配備される。これによりU-862は作戦行動が取れるようになった。戦力化に向けて30人のドイツ人乗組員が日本人乗組員に操艦方法を教え、8月1日からより高度な訓練を実施。技術大国ドイツの産物だけあってUボートは従来の伊号潜水艦より発達しており、各所の機械化で信号長が手持ち無沙汰になったり、ツリム計算も極めて簡易になっていたりと実に先進的であった。
予定では8月下旬まで訓練し、孤立したアンダマン諸島への輸送に投入した後、日本の魚雷に対応するため本土へ回航して発射管の改造をするはずだった。8月11日午前、艦隊司令部へ各級指揮官が集められ、敵の攻撃に対しては反撃するものの、先に敵を見つけた場合は攻撃しない方針が知らされた。またこの日よりポツダム宣言受諾の噂が広まり始める。
そして8月15日、最初の試験航海を行うべくシンガポールを出港するが、その翌日にポツダム宣言受諾と降伏を知らされて中止。伊501(元U-181)ともどもセレター軍港に回航されて大破した重巡洋艦妙高に横付けする。
1945年9月12日、イギリス軍がシンガポールへ進駐した際、元ドイツ人乗組員やティム元艦長は身柄を拘束された。11月30日に除籍され、イギリスの監視下で元ドイツ人乗組員による重要部品の取り外しが行われた。ドイツ本国で降伏したUボートは戦勝国に分配されたが、東南アジア在泊のUボートは分配リストに含まれておらず、速やかなる破壊が求められていた。12月15日、米英ソからなる三国構成海軍委員会は東南アジアにおけるUボート破壊はイギリス海軍の責務であると伝達。
1946年1月24日14時11分、英海軍本部は東インド諸島担当のクレメント・ムーディ中将に「2月15日までに4隻のUボートを遅延なく破壊せよ」と命令。そして2月13日に伊502は正式にイギリス海軍へ引き渡された。2月14日、フリケード艦ロック・ローモンドに曳航されて伊501ともどもマラッカ海峡へ引っ張り出され、翌15日にロック・ローモンドが装着した爆薬により爆破処分された。竣工から戦没まで誰一人として死者を出さなかった幸運な艦である。
元乗組員は逐次釈放されていき、最後に残ったティム元艦長も1948年4月に釈放。彼らはドイツに帰国したり、北ウェールズのキンメル収容所に収容されたが、後者の中にはソ連に抑留されるのを恐れてウェールズに定住した者もいた。
一部ネット上では「沖縄戦にUボートが参加し、リバティ船2隻を撃沈した」と語られているものの、実際はU-862の戦果をベースにしたデマである。確かにUボートは太平洋にまで進出したが、ロバート・J・ウォーカーが太平洋での唯一の撃沈記録で、またその船が撃沈されたのは沖縄戦開始のおよそ2ヵ月前。そしてその戦闘哨戒でU-862が挙げた戦果は「リバティ船2隻撃沈」。時期が近いからか混同してしまったのだろうか。
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1 ななしのよっしん
2024/01/12(金) 10:07:25 ID: 5aEPyYIK3Y
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最終更新:2025/01/14(火) 04:00
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