御家人とは、以下の意味の語である。
- 奉公人を意味する「家人」に御を付けたもの
- 1が転じて、鎌倉幕府の将軍家に仕える家人を指す語
- 2が転じて、室町幕府の将軍家に仕える、奉公衆などに編成されていない、お目見え以下の家人
- 2が転じて、江戸幕府の将軍家に仕える、旗本より下位の、お目見え以下の家人
ここでは2について説明する。
概要
上にもある通り、要約すると鎌倉将軍家の家人。しかし、ただの家人よりは圧倒的に規模が大きく、所領の給恩を媒介している、という点で、日本史における従者集団としては一大画期にあたる。
そもそもの起源としては、治承・寿永の乱序盤に、源頼朝が東国の武士を反乱軍として組織したことにある。とはいえ、源頼朝は侍所を直ちに設置して、システマチックにこれを展開。東国にいた有象無象を次々に叩きのめす。しまいには平氏追討のために、西国の武士をも御家人として取り込んでいき、御家人制は全国規模になった、というわけである。
この御家人制の基盤となっているのが、源頼朝が所領を御家人に与えたというものである。とはいえ、ただの伊豆にいた流人が与えられるモノはない。ただし、敵対者を殲滅すれば、話は別である。かくして、尻上がり的に源頼朝の領域は広がっていき、御家人もネズミ算式に増えていった、というわけである。
とはいえ、問題となったのは平時である。建久年間になると、誰が御家人かを明確化するために、御家人交名というリストが各国で作成された。つまり、御家人が選別され、御家人制が整理されたのだ。もちろん、ここでもう一つ問題になったのが、本来全国の土地は朝廷に属する人々が知行国制だの荘園制だので管理していたことである。そこで、このタイミングで朝廷と土地の管理をどうしていくかとして話し合い、合意として発案されたのが、あの地頭制であった。
加えて、源頼朝以来の鎌倉幕府は、いつの間にかふんわりと全国の治安維持も任されていく。そこで御家人も鎌倉将軍家に仕える治安維持組織とみなされていき、公的な存在と化していったのである。そして、以後中近世を通して、御家人制を武士の基本的な在り方とみなす空気は共有されていったのであった。
御家人制よくある質問
Q1:武士はみんな御家人だったんですか?
違います。あくまでも鎌倉幕府に仕える武家の惣領たちが御家人であって、その惣領に仕える郎従たちや、鎌倉幕府に仕えていない惣領たちは御家人ではありません。
なお、鎌倉幕府に仕えていない武士「本所一円地住人」をどうするか問題になったのが、元寇の後です。安達泰盛等がモンゴルの脅威の中、御家人以外も組織化して取り込もうとした弘安徳政を起こし、反発されたのが霜月騒動ともいわれています。
Q2:もしかして武士以外もいるのでしょうか?
います。有名どころでいうと大江広元、三善康信あたりの文士の子孫が御家人です。他にも陰陽道や医道等の官人も仕えていったので、武士以外の御家人も案外います。
Q3:御家人にはどんな種類がいるんですか?
御家人に身分の差などありません。全員将軍の下に一列に仕える「仲間」ともいうべき存在です。
……という理想論が最後まで鎌倉幕府にはありました。とはいえ、幕府の下にある執権・北条氏、寄合衆家、評定衆家、北条氏に仕える御家人・御内人の上から二番目の家格だった執事補佐家、あたりが研究史上特権的支配層と呼ばれる存在であり、それに並び立つ足利氏、その下の守護級豪族、六波羅探題関係者、鎮西探題関係者やら大規模御家人から、従者さえおぼつかない弱小御家人に至るまで様々います。というか、先祖が御家人だったら無足になっても御家人として認める方針でややこしくなったのが鎌倉時代末期です。
また、上にも書いた通り、源頼朝反乱序盤に加わった東国御家人は、承久の乱あたりで西国で御家人になった国御家人が次第に消えていった結果、西遷御家人として落下傘的に一門を配置していったため、後世の武士は大体東国御家人の子孫が多いです。
Q4:御家人は全員でどれくらいなのでしょうか?
ぶっちゃけわかりません。というのも御家人全員を載せた史料が残らなかったからです。
一応、不完全なものとして、『六条八幡宮造営注文』という史料があるので、後でそれをリスト化したものを載せます。
Q5:つか、そもそも武士って何?
よくわかっていません。今のところは、2つの武士の誕生に至る要因があったと説明されます。
そもそもの大前提として、腐敗した朝廷を打倒した革新勢力こそが武士であったという英雄史観が戦前にあり、戦後しばらくはマルクス主義経済学に基盤を置く在地領主論がもっぱらだったため、あなたの武士のイメージはこの2つのキメラの可能性があります。
1960年代以降、ようやく武士とは何ぞや、という話がスタートし、70年代に国家の武力としての武士・国衙軍制研究がスタート。1980年代までに、中央軍制が着実に成果を上げ、武士は一種の官職として成立したんだ、という話になりました。以後、この職能論的武士論が成果を上げ、軍事貴族ともいうべき武家の棟梁すらいた、というのが最近の武士像です。
以下、要するに武士って何、の話をいよいよします。ます、朝廷には財政難でくいっぱぐれた弱小の賜姓皇族や、貴族がおり、地方には郡司などの豪族の末裔などの有力者がいました。そして、この時代の最大の問題は、東北以北にいた蝦夷です。彼らは強いので、関東の国司等はこの蝦夷やその俘囚等ともやり取りをしなければならず、早い話強い必要がありました。
ここで一つポイントなのは、国司はだれがなったかというと、そこそこの朝廷人です(戦国時代の官途名乗りで勘違いされますが、国司なんて摂関レベルの貴族からすればパシリです)。こうして、中央であぶれた貴族が国司になり、ひどいとそのまま土着しました。そして、蝦夷からの防衛のために、蝦夷の軍事技術を修める必要があったのが、東国です。
後はわかりますね?そう、承平・天慶の乱、平将門・藤原純友の反乱です。ここで、国司をやった後土着し、地方豪族とよろしくやっていた連中に蟲毒的なことをさせた結果、反乱鎮圧の功労者という先例で武を司る家が誕生します。そうした家は、中央で検非違使や滝口の武者といった武を司る破魔の役割と、地方で押領使・追捕使といった反乱鎮圧を期待されます。こうして、軍事貴族のトップともいうべき清和源氏・桓武平氏・秀郷流藤原氏といった家が、中央と地方にネットワークを築きます。一方、中央に出れなかった存在も、普段は在庁官人として国衙で働きながら、こうした中央に顔が利く家に取り込まれていきます。
こうやって、数世代にわたって淘汰しあいながら勝ち組ができ、最終的に一大激変が起きたことで転換点となったのが、保元の乱・平治の乱・治承・寿永の乱だった、ということらしいです。
Q6:御恩と奉公ってなんすかね?
鎌倉幕府の画期は、働くことで将軍から地頭になる権利が与えられるシステムを作ったことです。なお、よく勘違いされるのですが、土地を与えていたわけではありません。
この大前提となるのが、知行国制と荘園制です。
知行国制とは、国司が形骸化しまくり、中央の知行国主と彼らが任命権を持つ名国司、そして現地の国衙で実際に働く目代と在庁官人という孫請けの孫請けのような地方統治システムに平安時代末期になっていたというもので、実は武士の多くは国衙を実際に差配する目代だの在庁官人だのになっていました。
また、荘園制とは古い教科書に出てくる現地民が開墾した土地を中央の貴族にあげるあんな単純なシステムじゃありません。そもそもこの時代の荘園は免田型荘園ではなく、院政期に中央の権門達が地方に任せて広げてもらった領域型荘園と呼ばれるものであり、実際の現地で開墾していた、コンビニのフランチャイズ展開の時に元居た酒屋だのからそっくり引き継いだ店長のような人々・開発領主もまた武士でした。
要約すると、武士はすでに色々な偉い人からアウトソーシングされていた存在というわけです。
ここで源頼朝がやったことはただ一つ、自分がアウトソーシングする偉い人になったことでした。それが地頭制です。
他にも御恩としては、官位をあげたり、幕府として法的な保護を与えたりすることもあります。
ただし、天皇家や中央の貴族全員に成り代わる程の正当性は持てませんでした。なので、鎌倉時代の最初は、御家人が元々アウトソーシングされてた土地と、平家や謀反人から取り上げた土地の任命権だけです。ところが、ここで第二の画期が起きます。そう、承久の乱です。というわけで将軍が御家人にアウトソーシングできる土地がとてつもなく増えたわけです。
ここで奉公の話に入ります。奉公のひとつ目としては、要するに軍隊として矢面に立てということで、そのために普段から鍛錬しろというものです。二つ目として、金です。なお、鎌倉幕府は六波羅探題として京都の治安維持も任されたので、奉公だろ?よろしくな?というのがあの京都大番役です。
ちなみに、西国御家人になってくると割とややこしくなります。彼らにとって奉公とは御恩よりも自分が御家人であり続けるためのものだったともいわれているからです。
Q7:じゃあ、武士が全国を統治したの?
正直言うと、地頭が置かれてた荘園は全部ではありません。まだ旧来の郡司や郷司が納めていた荘園も結構あります。加えて、荘園以外の国司が管理している国衙領もまだいっぱいあります。
1個ややこしい話をすると、鎌倉将軍家もまた、おおよそ武蔵・相模・伊豆・駿河の知行国主、つまり国司の任命権をころころできる立場にあります。要約すると、御家人制とはまだ古代末期からのシステムと並列関係にあります。
それが変わりだすのが、悪党の話です。荘園領主は地頭に任せていたところ以外(本所一円地)ですら悪党の訴訟問題の採決を鎌倉幕府に委任しだし、その後すべてごちゃごちゃになっていくわけです。
Q8:じゃあ、守護ってあれ何?
実はある勘違いがあるのですが、鎌倉時代に全国に一律に守護が設置されていた証拠が、まだ鎌倉時代中期のものがたった1点のみ2010年代後半にもなって発見されたレベルで、存在しません。
また、守護になったからといって御家人の上に立つ、ということを鎌倉幕府は嫌っていました。なので、大犯三箇条を粛々と行使する警察のトップでしかないのが、鎌倉時代の守護です。というか、国によってムラがあり、東国に守護がいたかどうか割と怪しいです。
Q9:もしかして地頭って、御家人だけじゃない?
その通りです。だから女性地頭なんかもいますし、寺社なんかにもホイホイ与えています。
ちなみに、この御家人じゃない地頭の有名な例が、源実朝から細川荘の地頭職を与えられた藤原定家です。
Q10:ところで御成敗式目は何だったの?
ただの裁判の基準がスタートです。そもそも本当はもっと法令が少なかった可能性が指摘されています。
この背景には、承久の乱後の西遷御家人が訴訟をあちこちで起こされていたこと、加えて大飢饉や天変地異があります。北条泰時としては、朝廷の法曹官僚に打ち負かされ不利益を被る御家人のために、わかりやすい裁判基準を慣例等から作った、くらいの意図だったのでしょう。
なお、この法律はいつの間にやら他の人々にも認められ、裁判で使われる法として広く認知されていきます。なお、鎌倉幕府の裁判は三問三答のような、とてもシステマチックだったことに特徴があります。
ただし、最大の問題として、追加法があります。幕府が管理している御成敗式目と、「式目追加」、その外側で幕府のあずかり知れない追加法群があったという、近現代の法律からするとあまり感覚のわからないものです。かいつまんで説明すると、中世は法律を知っていたほうが利益を被る世界にある、ということです。
Q11:それはそれとして、なんでこの制度続いたん?
これの最大のポイントは、将軍をアウトソーシングすることを前提とした、圧倒的に偉い人に後々させたことです。そう、摂家将軍と親王将軍です。
この人たちは、武力なんて全くありません。ただ、偉いのです。ただただ、偉いのです。源氏将軍なんかよりも圧倒的に、偉いのです。
個人的に、室町幕府研究で最近言われるようになった、室町将軍は武力でフルボッコにするのと、戦う気をなくさせるイデオロギー工作をするのと、両方を行った結果、足利義輝がアウトソーシングだー作戦する前は存続できていた、というアレと親近性を感じます。つまり、黎明期に武を示し、後はその体制に違和感すら覚えないようにする、というのはこの時期にも感じます。
ということを遡及すると、牧氏の変・伊賀氏の変といった将軍の地位を変える運動を北条政子らが全力で叩きのめした、というのがやっぱり大きいのではないのでしょうか?
Q12:やっぱり元寇が悪かったんすか?
全くわかりません。正直言うと、鎌倉幕府、というか執権北条氏は内ゲバを続けつつも、明らかに権限が増加し続けていました。後醍醐天皇が突如として勝った理由は、実はよくわかっていません。
実は、鎌倉幕府の徳政令は永仁の徳政令が最後です。しかも、そのメインターゲットは御家人所領勝手に手放すな、御家人所領勝手に移るな、裁判の判決後に文句言うな、といった御家人統制の強化が目的だった、はずでした。ただし、結果は土地や金を元に戻すことの主張が繰り広げられるようになったというのは、古典的な理解の通りです。
ちなみに、鎌倉幕府の滅亡とされるアレソレも、厳密にいえば北条氏がごっそり抜けただけともいえます。
御家人研究の歩み
ここはあまり面白くない話なので、すっ飛ばしても構わない。御家人が、どのように研究されてきたか、というものである。
御家人制について初めてちゃんと体系的に研究したのは、戦前の三浦周行である。彼の視点としては鎌倉幕府の体制基盤としての御家人研究(誰が御家人になれるの?東国と西国でなんで差があるの?)と中世国家史の中の御家人研究(御家人の収めていた税ってどんなの?幕府が御家人に金を取り立てることで在地にはどんなことが起きたの?)という2点がまとまっていた点にある。
このうち、この後大きく進展したのが前者・鎌倉幕府の体制基盤としての御家人研究である。ここで出てくるのが、鎌倉幕府は東国に成立した新しい政権だと主張した、佐藤進一である。つまり、鎌倉幕府は順次朝廷から権限を接収していったとし、これを受けて御家人にも鎌倉殿に仕える東国御家人と京都大番役を中心とした西国御家人の違いがある、としたのが五味克夫であった。
以後、60年代くらいまでは、恵良宏、五味克夫、瀬野精一郎、田中稔、外山幹夫らが、各国の御家人はどんな存在だったのかを、御家人交名や大田文を使って調べていった時期が続く。
80年代、黒田俊雄が、幕府を率いる武家が公家や寺社と連合・競合していた状態にあったとする、権門体制論を唱える。要約すると、幕府は朝廷などと補完関係にあったということである。その結果わかったことが、公家政権の運営に幕府が大きく関わっていたことであり、御家人の経済的負担の関東御公事が承久の乱を契機としていたことを気づいた安田元久などが登場した。
以後、飯沼賢司、青山幹哉、筧雅博らが端緒となり、七海雅人、高橋典幸などが御家人役を研究していく。一方、上杉和彦、白川哲郎、本郷恵子らが端緒となって、御家人制が公家政権にリンクする構造が明らかになり、高橋典幸が武家領対本所一円地体制→寺社本所一円地・武家領体制の変動を中世期にみていくのである。さらに、清水亮が御家人所領のすべてを圧わせて関東御領と呼ばれるようになっていたことに気づいたのも、この時期である。
つまるところ、朝廷と幕府がリンクして、一連の経済システムを動かしていた、というのが鎌倉時代だった、というのがこの時期分かってきた。要約すると、1980年代以降、三浦周行の掲げた2つの論点が、連携して飛躍的にわかっていることが増えたのである。
最近のトピックとしては、鎌倉幕府御家人制が室町幕府の権力編成にどう影響したのかを考察する吉田賢司、鎌倉幕府の御家人の武家領とその他の荘園領の関係が実は思っていたのと違っていた井原今朝男・高橋一樹、東国御家人と西国御家人の違いが室町時代に向かうにつれてどうなっていくかを検討した田中大喜、御家人の中で偏差があったことを追求した菱沼一賢、儀礼から政治史を見直していく桃崎有一郎らがある。
実のところ、80年代くらいの研究が大きなフレームワークになったまま、まだ見直しが進んでいないのが、御家人制である。ぶっちゃけた話、鎌倉時代は鎌倉遺文が戦後早くに作られていたこともあり、室町時代よりも研究が厚かったのである。なので、ようやく、また新しい動きが見てとれるような……というのが御家人制研究なので、尻切れトンボだがここで筆を置かせていただく。
御家人の一覧
六条八幡宮造営注文
あくまでも金を出した人間だけなので、ほとんど有力な人間だけで全員ではない。
鎌倉中
人名 | 比定者 |
---|---|
相模守 | 北条時宗 |
武蔵前司入道跡 | 北条経時? |
最明寺跡 | 北条時頼 |
武蔵守 | 北条義政 |
陸奥入道跡 | 北条重時(北条時茂?) |
武蔵入道跡 | 北条長時? |
修理権大夫跡 | 北条時房 |
越後入道 | 北条時盛 |
左京権大夫跡 | 北条政村? |
遠江入道跡 | 北条朝時 |
備前前司跡 | 北条時長 |
足利左馬入道跡 | 足利義氏 |
駿河入道跡 | 北条有時 |
越後守 | 北条実時 |
長井左衛門大夫入道跡 | 長井時広?長井泰秀? |
城入道跡 | 安達義景 |
隠岐入道跡 | 二階堂行村? |
信濃前司跡 | 二階堂行盛? |
近江入道跡 | 佐々木信綱 |
中条出羽前司跡 | 中条家長 |
千葉介 | 千葉頼胤? |
同次郎跡 | 千葉泰胤? |
佐原遠江前司跡 | 佐原盛連 |
小山下野入道跡 | 小山朝政 |
宇都宮入道跡 | 宇都宮頼綱?宇都宮泰綱? |
下野前司 | 宇都宮景綱? |
武田入道跡 | 武田信光 |
小笠原入道跡 | 小笠原長清? |
上野入道跡 | 結城朝光 |
淡路前司跡 | 長沼宗政 |
葛西伯耆前司跡 | 葛西清親?葛西清時? |
嶋津豊後前司跡 | 島津忠久 |
太宰少弐入道跡 | 藤原為佐 |
伊東大和前司跡 | 伊東祐時 |
矢野和泉前司跡 | 天野政景 |
畠山上野入道跡 | 畠山泰国 |
少輔入道跡 | 大江親広?大江佐房? |
那波刑部少輔跡 | 那波政茂 |
毛利右近入道跡 | 毛利季光?毛利親光?毛利経光? |
駿川次郎跡 | 駿河経親? |
左衛門佐局 | |
摂津入道跡 | 中原師員 |
加賀入道跡 | 町田康俊?町田康持? |
上野前司跡 | 大曽根長泰? |
伊東薩摩前司跡 | 安積祐長 |
伊賀式部入道跡 | 伊賀光宗 |
同隼人入道跡 | 伊賀光重? |
同判官四郎跡 | 伊賀朝行? |
葛西伊豆前司 | 葛西朝清 |
同壱岐七郎左衛門入道跡 | 葛西時重 |
同河内前司跡 | 葛西重村 |
同三郎太郎跡 | |
伊達入道跡 | 伊達朝宗 |
伊佐大進跡 | 伊佐為宗 |
同次郎跡 | 粟野義広? |
相馬五郎跡 | 相馬義胤 |
同六郎跡 | 相馬常家? |
千葉七郎跡 | 遠山師胤? |
同八郎跡 | 白井八郎? |
武石入道跡 | 武石胤盛?その子孫? |
大須賀四郎跡 | 大須賀胤信 |
国分五郎跡 | 国分胤通 |
東兵衛入道跡 | 東重胤 |
木内下総前司跡 | 木内胤朝 |
風早入道 | 風早胤泰 |
平右衛門入道跡 | |
小野寺左衛門入道跡 | 小野寺秀道 |
同中務丞跡 | |
武藤少輔入道跡 | 武藤景頼? |
宇佐美左衛門尉跡 | 宇佐美祐政? |
周防入道跡 | 塩谷朝親 |
安芸前司跡 | ?親光 |
白河判官代入道跡 | ?為親 |
平賀右衛門尉 | |
松葉入道跡 | 松葉助宗 |
綱嶋左衛門入道跡 | |
中民部入道跡 | 中仲業?中元業? |
足立八郎左衛門尉跡 | 足立元清 |
同九郎左衛門跡 | |
刑部大輔入道跡 | ?道成 |
狩野馬入道跡 | 狩野宗茂? |
塩谷兵衛入道跡 | 塩谷朝業? |
鎌田入道跡 | |
内藤肥後前司跡 | 内藤盛時 |
内藤豊後前司跡 | 内藤盛義 |
加藤左衛門尉跡 | 加藤景長? |
大見平次跡 | 大見家秀 |
越中七郎左衛門跡 | ?政員 |
隼人入道跡 | 三善泰清 |
善右衛門尉跡 | 三善泰盛? |
長右衛門入道跡 | |
長兵衛入道跡 | 長谷部信綱? |
近江太郎左衛門入道跡 | 大原重綱 |
弥次郎左衛門入道跡 | ?親盛 |
狩野六郎左衛門入道跡 | 小泉頼行? |
二木四郎跡 | |
牧七郎左衛門尉跡 | |
弥次郎左近入道跡 | |
平左衛門入道跡 | 平盛綱 |
諏訪兵衛入道跡 | 諏訪盛重 |
都筑民部大夫跡 | |
美作蔵人入道跡 | ?朝賢??朝親? |
深栖紀伊前司跡 | 深栖仲重? |
都築右衛門尉跡 | 都築経景 |
伊賀次郎左衛門尉跡 | 伊賀光宗?伊賀光房? |
藤肥前前司跡 | |
小川右衛門尉跡 | |
紀伊刑部入道跡 | |
近藤七跡 | 近藤七国平?近藤七親家? |
図書左衛門尉跡 | |
菅左衛門入道跡 | |
目黒左近入道跡 | |
小野澤左近入道跡 | 小野沢仲実 |
□左衛門尉跡 | |
近藤中務丞跡 | |
近藤武者跡 | |
得法入道跡 | |
内藤権頭跡 | 内藤親家 |
下山兵庫助跡 | |
平右兵衛入道跡 | |
都築左衛門入道 |
在京
人名 | 比定者 |
---|---|
小早川美作入道跡 | 小早川茂平 |
遠山大蔵権少輔跡 | 遠山景朝 |
備中刑部権少輔跡 | |
波多野出雲前司跡 | 波多野義重 |
内藤伊勢前司跡 | 内藤盛親 |
頓宮兵衛入道跡 | |
古岐左衛門尉跡 | |
海老名籐左衛門尉 | 海老名忠行 |
大田次郎左衛門尉跡 | 太田? |
野瀬大進跡 | 野瀬頼綱? |
水谷伊賀前司跡? | 水谷重清 |
若狭兵衛入道跡 | 若狭忠季 |
書博公士跡 | 中原師俊 |
源筑後前司跡 | 源頼時 |
久美左衛門尉跡 | |
俣野中務丞跡 | |
源次郎左衛門入道 | |
日向前司跡 | 宇佐美祐泰? |
酒勾中務入道跡 | |
遠藤右衛門尉跡 | |
波多野弥藤ニ左衛門尉跡 | 波多野盛高 |
拓枝左衛門尉跡 | |
佐々木帯刀左衛門入道跡 | 佐保時綱 |
大野右近入道跡 | |
神澤左衛門尉跡 | |
牧野五郎左衛門尉跡 | |
隅田五郎兵衛入道 |
尾張国
人名 | 比定者 |
---|---|
治部権少輔跡 | ?経景? |
内海左近大夫跡 | |
山田左近大夫入道 | |
佐久間二郎兵衛入道 | |
平尾出雲前司跡 |
三河国
人名 | 比定者 |
---|---|
中条馬助入道跡 | |
下条左衛門大夫入道跡 | |
足助佐渡前司 | 足助重方? |
和田右衛門尉跡 | |
西郡中務入道跡 | |
和田四郎左衛門尉 |
遠江国
人名 | 比定者 |
---|---|
野部介 | |
山名荘地頭等 | 山名? |
赤佐左衛門跡 | |
井伊介跡 | |
平岡太郎跡 | |
左野中務丞跡 | |
貫名左衛門入道跡 | |
西郷入道跡 | |
内田庄司跡 | |
東西谷五郎跡 |
駿河国
人名 | 比定者 |
---|---|
矢部七郎左衛門入道跡 | |
同八郎左衛門入道 | |
吉河左衛門入道跡 | |
加嶋左衛門尉跡 | |
矢部六郎左衛門尉跡 | |
松野左衛門入道跡 | |
岡部左衛門尉跡 | |
興津左衛門入道跡 | |
船越右衛門尉跡 |
伊豆国
人名 | 比定者 |
---|---|
土肥本助跡 | |
三戸尼跡 | |
狩野弥三郎入道跡 | |
南条七郎左衛門入道跡 | |
江間平内兵衛入道跡 | |
田代豊前前司跡 | |
平井三郎入道跡 |
甲斐国
人名 | 比定者 |
---|---|
南部三郎入道跡 | 南部光行 |
秋山太郎跡 | 秋山光朝? |
阿仏利入道跡 | |
逸見入道跡 | |
奈古蔵人跡 | 奈胡義行 |
加々美美濃入道跡 | |
板垣入道跡 | |
河内太郎、同次郎跡 | |
平井次郎跡 | 平井隆頼? |
曽祢入道跡 | |
尼遠江局跡 | |
鮎沢六郎跡 | |
飯田五郎跡 | |
上藤中務丞跡 | |
工藤右衛門尉跡 | |
室伏六郎次跡 | |
市河別当入道跡 | 市河行房? |
同庄司跡 |
相模国
人名 | 比定者 |
---|---|
長江四郎入道跡 | 長江明義 |
同八郎入道跡 | 長江師景 |
杢助跡 | 長江景光 |
中村入道跡 | |
土肥左衛門入道 | |
大多和次郎跡 | 大多和義成 |
高井兵衛三郎入道 | 高井時茂? |
征谷入道跡 | 渋谷重国? |
同左衛門尉跡 | 渋谷? |
梶原上野入道跡 | 梶原景俊?梶原景綱?梶原景信? |
山内首藤刑部大夫跡 | 山内首藤経俊 |
同六郎入道 | 山内首藤通時 |
香河人々 | |
二宮左衛門尉跡 | |
本間馬允跡 | 本間義忠? |
波多野少二郎入道跡 | 波多野宜経 |
大山次郎入道跡 | |
河村人々 | |
松田左衛門尉跡 | |
波多野中務丞跡 | 波多野忠綱 |
小早河ニ郎左衛門尉跡 | |
同三郎左衛門尉跡 | |
飯田入道跡 | |
曽賀入道跡 | |
海老名太郎入道跡 | |
原宗三郎入道跡 | 原宗宗房 |
治田小太郎跡 | |
池上左衛門尉跡 | |
荻窪入道跡 | |
酒勾刑部入道跡 | |
佐々木中務丞跡 | |
古席小太郎跡 | |
寺田縄弥源二入道跡 |
武蔵国
人名 | 比定者 |
---|---|
川越次郎跡 | 河越重時 |
同三郎 | 河越重員? |
江戸入道跡 | |
石戸入道跡 | |
押乗斉藤左衛門尉跡 | |
豊嶋右衛門尉跡 | |
同兵衛尉跡 | |
同六郎跡 | |
須久左衛門尉 | 清久? |
大河戸四郎跡 | 大河戸行平 |
廣澤左衛門尉跡 | 広沢実能?広沢定能? |
毛呂豊後入道跡 | 毛呂季光 |
岩淵山城前司跡 | |
泉入道 | |
三田入道跡 | |
鳩谷八郎跡 | |
大宮五郎跡 | |
葛貫三郎跡 | 葛貫盛重? |
新開荒次郎跡 | 新開実重 |
大井人々 | |
品河人々 | |
平子馬允跡 | 平子有長? |
片山人々 | |
若児玉次郎跡 | |
大串野五跡 | |
長井斎藤五郎左衛門尉跡 | 長井宗貞? |
塩谷民部大夫跡 | 塩谷家経 |
浅羽小大夫跡 | |
阿佐美右衛門尉跡 | 阿佐美実高? |
蛭河刑部丞跡 | 蛭川高家? |
庄太郎・同次郎跡 | 庄家長?庄弘定? |
越生人々 | |
小代人々 | |
弦久平太入道跡 | |
秩父武者次郎跡 | 秩父行綱? |
藤田右衛門尉跡 | |
岡部平六兵衛跡 | |
内嶋三郎跡 | |
𤭖尻三郎 | |
仙波人々 | |
金子十郎跡 | 金子家忠? |
同餘一跡 | 金子近則? |
阿保刑部丞跡 | 阿保実光 |
加治人々 | |
古郡右近将監跡 | 古郡時貞? |
中村新馬允跡 | 中村時経の子? |
中村八郎馬允跡 | |
青木左衛門入道跡 | |
瀧瀬右衛門入道 | |
勅使河原俊四郎跡 | 勅使河原直兼 |
保古右馬入道跡 | |
忍入道跡 | |
箕田入道跡 | |
津戸入道跡 | |
弘田人々 | |
栢間左衛門入道跡 | |
多賀谷六平ニ跡 | 多賀谷光基? |
鬼窪太郎入道跡 | |
渋江人々 | |
久下権守跡 | 久下直光? |
熊谷三郎入道跡 | |
西條人々 | |
中澤三郎跡 | |
同御家跡 | |
成田入道跡 | |
別府左衛門尉跡 | 別府行助? |
別府刑部丞跡 | 別府義行? |
小河太郎入道跡 | 小河宗弘? |
立河馬入道跡 | 立河恒成? |
西権三郎跡 | |
平井太郎跡 | |
田村馬允跡 | 田村盛忠? |
河田八郎跡 | |
稲毛五郎跡 | 稲毛行重? |
高廉左衛門尉跡 | |
志村人々 | |
山田太郎跡 | |
恩田太郎跡 | |
須賀入道跡 | |
真下右衛門尉跡 | |
須久留兵衛尉跡 | |
久米七郎跡 | |
土渕矢三入道跡 | |
小田弥二郎跡 |
安房国
人名 | 比定者 |
---|---|
安東太郎跡 | |
東条悪三郎跡 | |
安西大夫跡 | |
丸五郎跡 | 丸信俊? |
多々羅七郎跡 | |
山下太郎 |
上総国
人名 | 比定者 |
---|---|
角田入道跡 | |
秋元二郎跡 | |
印東入道跡 | |
天羽入道跡 | |
長南入道跡 | |
馬野五郎跡 | |
海北次郎跡 | 海上? |
松馬三郎跡 | |
奥沢兵衛入道跡 | |
榎澤太郎跡 | |
菅生四郎太郎跡 | |
横田悪四郎入道跡 |
下総国
人名 | 比定者 |
---|---|
白井四郎入道跡 | |
飯昌入道跡 | 飯富?飯高? |
椎名入道跡 | |
豊田人々 | |
幸嶋四郎跡 | 幸島行時 |
常陸国
人名 | 比定者 |
---|---|
益戸左衛門跡 | |
下河邊右衛門尉 | 下河辺行光? |
美濃国
人名 | 比定者 |
---|---|
伊志良左衛門跡 |
信濃国
人名 | 比定者 |
---|---|
若槻下総前司 | 若槻頼隆子の若槻頼胤か? |
同伊豆前司跡 | 若槻頼定 |
大井太郎跡 | 大井光長 |
高梨判官代跡 | 高梨盛高?高梨頼高? |
波多判官代跡 | |
仁科三郎跡 | |
和田肥前入道跡 | |
村上判官代入道跡 | 村上基国? |
同馬助跡 | 村上経業? |
出浦蔵人跡 | 村上成国 |
屋代蔵人跡 | |
東田太郎跡 | |
須田太郎跡 | |
海野左衛門入道跡 | 海野幸氏 |
望月四郎左衛門跡 | 望月重隆?その兄弟? |
同平四郎跡 | |
藤澤四郎跡 | 藤沢清親 |
浦野三郎跡 | |
窪寺入道跡 | |
桐原中務入道跡 | |
中野四郎左衛門尉 | |
神林馬允跡 | |
春日刑部丞跡 | 春日貞親?春日貞幸? |
諏訪部入道跡 | |
四宮左衛門跡 | |
奈胡人々 | |
市村右衛門尉跡 | |
河田次郎跡 | |
白河次郎跡 | |
井上太郎跡 | |
棒田次跡 | |
塩尻三郎跡 |
上野国
人名 | 比定者 |
---|---|
里見伊賀入道跡 | 里見義成 |
山名伊豆前司跡 | 山名義範 |
小野蔵人跡 | 小野時信? |
桃井三郎跡 | 桃井頼氏 |
佐貫右衛門尉跡 | 佐貫成綱?佐貫広綱? |
大胡太郎跡 | 大胡重俊? |
高山三郎跡 | |
同五郎跡 | |
和田五郎跡 | |
長野刑部丞跡 | |
寺尾入道跡 | |
倉賀野三郎入道跡 | 倉賀野高俊 |
下野国
人名 | 比定者 |
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上野次郎跡 | |
那須人々 | |
佐野太郎跡 | 佐野基綱 |
氏家五郎跡 | 氏家公頼? |
阿曽沼民部丞跡 | 阿曽沼広綱 |
園田淡路入道跡 | 薗田俊基 |
木村五郎跡 | 木村信綱 |
陸奥国
人名 | 比定者 |
---|---|
陸奥国 | |
留守 | |
宮城四郎跡 | 宮城家業 |
信夫右衛門入道跡 | |
岩崎三郎跡 | |
小平人々 | |
泉田兵衛尉 | |
楢葉太郎跡 | 楢葉隆祐? |
標葉四郎跡 | |
河原毛太郎跡 | |
新田太郎跡 | |
古河左衛門尉跡 | |
三澤二郎 | |
新開三郎跡 |
出羽国
人名 | 比定者 |
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大泉兵衛尉跡 | |
由利中八跡 | 由利維平 |
伊豆十郎権守跡 | |
神足六郎跡 | |
国井人々 |
若狭国
人名 | 比定者 |
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掃部蔵人跡 | |
昌羽左衛門入道跡 | |
山面兵衛尉跡 |
越前国
人名 | 比定者 |
---|---|
勘解由左衛門大夫跡 |
加賀国
人名 | 比定者 |
---|---|
冨安介 | |
中興左衛門跡 | |
戸樫四郎跡 | |
宮永三郎跡 | |
安江三郎跡 | |
津端弥三郎入道跡 |
能登国
人名 | 比定者 |
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三室判官代入道跡 |
越中国
人名 | 比定者 |
---|---|
大田左衛門入道跡 |
越後国
人名 | 比定者 |
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祢智入道跡 | |
吉益太郎跡 | |
高梨蔵人跡 | |
木津源内跡 | |
平井七郎入道跡 | |
金津蔵人跡 | 金津資義? |
同三郎跡 | 金津信賢? |
村山次郎跡 | |
宇佐美平太跡 | 宇佐美政光? |
丹波国
人名 | 比定者 |
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酒井兵衛次郎跡 |
丹後国
人名 | 比定者 |
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山田左衛門跡 | |
佐野右京進入道跡 | |
松田左衛門入道跡 | |
鹿野監物跡 | |
竹野馬入道跡 |
但馬国
人名 | 比定者 |
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八木三郎跡 | |
朝倉八郎跡 |
伯耆国
人名 | 比定者 |
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金持三郎左衛門尉跡 | |
同兵衛太郎跡 | |
長田右衛門入道 | |
小鴨又二郎 |
石見国
人名 | 比定者 |
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石見左衛門尉跡 |
美作国
人名 | 比定者 |
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相賀三郎跡 | |
庄四郎入道跡 | |
摂津藤四郎右衛門尉跡 | |
江見民部入道跡 | |
真嶋庄地頭 | |
建部五郎跡 |
備前国
人名 | 比定者 |
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王藤内小太郎跡 | |
黒坂太郎入道跡 |
周防国
人名 | 比定者 |
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吉敷十郎入道跡 | 吉敷成保? |
大内介 | 大内弘成? |
鷲頭筑前前司 | |
石国二郎入道跡 | 岩国兼秀 |
紀伊国
人名 | 比定者 |
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湯浅入道跡 | 湯浅宗重 |
藤並太郎跡 | 藤並明 |
関連項目
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