結城朝光(1168~1254)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
概要
小山政光の三男。母親は八田宗綱の娘で源頼朝の乳母であった寒河尼(なのでこの人にも頼朝の御落胤説があるがまあそんなことはなかろう)。
はじめは宗朝と称したが1180年10月2日、源頼朝の武蔵入りに際して、母に連れられて頼朝に会うこととなり、彼が烏帽子親となった結城朝光という名前を与えられた。なおこのことは小山政光が在京活動で不在の中、家督代行者である寒河尼によって下野の両虎の片割れ・小山党が頼朝の傘下に入ったことも意味している。
その後は幼いこともあり源頼朝の近習として活動し、儀礼などでも役目を任じられたが、頼朝の叔父・志田義広が挙兵した野木宮の戦いで兄・小山朝政とともに義広勢を敗走させ、結城郡を与えられ結城氏を名乗るようになった。
奥州合戦の時は藤原国衡勢の主力・金剛別当秀綱を討ち取り、この功績で白川荘を得たとされる。
その後も文武両道の士として活躍していくが、梶原景時が失脚する原因を作ったりと後世から俯瞰してみた場合やらかしもちらほらしている。承久の乱でも東山道の大将軍として名を連ね、摂家将軍の時代にも「宿老」の一人として活動している。そのまま87歳という長い生涯を終えた。
関連項目
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