奉公衆とは、室町幕府における官職の一つで将軍直属の軍事力ともいえる存在である。
概要
室町幕府は割と有名ではあるが、それぞれの守護大名の連立政権ともいうべき存在で、将軍もそれぞれの有力守護大名に頼るところが大きかった。しかしこれもまた有名であるが、将軍はお互い勝手に勢力争いをする守護大名に代わって自身の権力を強化しようとする動きをたびたび見せており、その過程で生まれたのが守護大名にではなく将軍そのものに仕えるこの奉公衆である。なお御供衆とは両者を兼ねている家もちらほらいるが、外様衆と兼ねることはできず同じ苗字がある場合ある時代に移ったか、一門の別の系統かのいずれかである。
その起源は議論も多いが、大体足利義満の時代にはもう組織としては調えられていた。その後も将軍の戦いの度にその軍勢として行動し(正直ほぼ負け戦とか言ってはいけない)、戦国時代足利将軍の権限がどんどん縮小されるにつれてこちらも徐々に小規模になるが、詰衆番衆として再編成されてからも、足利義輝が三好方に襲撃された永禄の変の際には義輝と共にこれにあたったり、足利義昭時代にもある程度の規模が整えられていたりと大体室町幕府の最末期まで維持されており[1]、明智光秀の部下にはこのつながりを思わせる存在もちらほらいる。
主な役割は将軍の直轄部隊として、平時には将軍の直轄領である御料所の管理を、有事には数千もの将軍の軍勢として活動するものである。
長年体系的な研究は福田豊彦による古典的なものしかなかったが、2018年に木下聡が自身の外様衆に関する論文に大幅加筆することで研究書を刊行し、平成に進行した室町時代後期の基礎研究もだいぶ反映された。
構成員
おおよその構成員は
の3通りに分かれる。とりわけ鎌倉時代に代々守護につき、足利氏第二の故郷とも言っていい三河の関係者は構成員の2割近くを占めている。また、関東のどこかで見たことがあるような苗字も多いが、そちらは大体鎌倉時代に地頭職などを与えられた西の方の所領を治めている庶家である。
また奉公衆は一番から五番の番方に編成され、それぞれ
- 一番番頭:細川淡路左京亮家(細川氏の主流になる頼春ではなくその弟師氏の子孫で淡路守護の庶流)
- 二番番頭:桃井治部少輔家(足利義兼の庶子で一時期は守護も務めたが観応の擾乱で直義派につき失脚)
- 三番番頭:上野民部大輔家(足利泰氏の庶子)か畠山播磨守家(管領を務めた義深の子孫とは別系統)
- 四番番頭:畠山中務少輔家(管領を務めた義深の子孫とは別系統)
- 五番組頭:大館刑部大輔家(新田政義の庶子)
が率いていたらしい。なおこの番頭は桃井氏以外は御供衆にもなっている。
また一部の家が節朔衆として番頭に次ぐ存在になっている。
さらに番頭以外においても番方は家ごとにある程度は世襲されており、同じ番方内でのつながりが行動などに影響を及ぼしたほか、明応の政変などで将軍家が割れ奉公衆も分裂していった際は同じ一族でも番方が異なる家は行動を共にせず異なる動きを見せるなどもあった。
なお各番衆はそれぞれ50~100人、総数350~400人となっており、従者も含めると数千人近い動員が可能だったと考えられる。
ほぼ九割がた個人が特定できる右筆方とは異なり、はっきり言って史料が史料だけに[3]構成員それぞれを完全に特定することは不可能に近いが、一応どの家がそれを構成していたかについてまとめておくと
ア行 | カ行 | サ行 | タ行 |
---|---|---|---|
|
|||
ナ行 | ハ行 | マ行 | ヤ行 |
ラ行 | ワ行 | ||
特になし |
ということらしい。残っている史料の関係で足利義教時代以前はよくわからず、たぶん他に赤松氏の庶流なんかもいたんじゃないかと思う。
鎌倉公方の奉公衆
室町幕府の一機関であり、足利基氏に始まる足利氏の庶流がトップを務めていた鎌倉府にも鎌倉公方に直接使える奉公衆がいたことがあちこちの記録に残っている。どうやら将軍に対応する目的で権力増強を務めようとした足利持氏によって整備されたらしい。
とはいえこちらにはリストそのものが特に残っていたわけでもないのであくまでも研究者による傍証に過ぎないが、
- 足利氏一門(この辺は完全に庶流の庶流レベル):吉良氏、渋川氏、一色氏、今川氏、加子氏、畠山氏
- 足利氏被官:上杉氏、高氏、彦部氏、大高氏、大平氏、高南氏、木戸氏、野田氏、寺岡氏、梶原氏、海老名氏、設楽氏、梁田氏
- 鎌倉幕府官僚出身:二階堂氏、長井氏、町野氏
- 信濃国人:小笠原氏
- 駿河国人:大森氏
- 甲斐国人:武田氏、逸見氏
- 伊豆国人:伊東氏、河津氏
- 相模国人:本間氏、愛甲氏、三浦氏、座間氏、飯田氏、香川氏、曾我氏
- 武蔵国人:江戸氏、品川氏、平子氏
- 上野国人:里見氏、山名氏、新田氏、田中氏、那波氏、高山氏
- 下野国人:佐野氏、薬師寺氏、長沼氏
- 常陸国人:宍戸氏、筑波氏、小田氏、島崎氏、大掾氏
- 下総国人:海上氏、印東氏、竜崎氏、木内氏、神崎氏
- 上総国人:椎津氏、高滝氏
- 所属不明国人:常法寺氏
- その他:佐々木氏、殖野氏、吉原氏、佐藤氏、冷泉氏、園田氏、板倉氏、小滝氏、加島氏、沼田氏、名塚氏、中沢氏、水守氏
らがその構成員だったんじゃないかと言われている。当然将軍への対抗のために組織されたので、将軍と結びついた京都扶持衆の佐竹山入氏や宇都宮氏といった面々は入っていない。
関連項目
脚注
- *「礼銭遣方注文写」などの史料によると、足利義昭が織田信長に京都から追放されて以降も真木嶋昭光、一色藤長、一色昭秀、伊勢上野介、伊勢左京亮、飯川信堅、上野秀政、細川輝経、曾我晴助、大舘藤安、畠山昭清(四番番頭)といった奉公衆層の人々が付き従っている。
- *高氏、上杉氏、横瀬氏、粟飯原氏、寺岡氏、彦部氏、海老名氏、村上氏、設楽氏、小島氏、南氏、源民部氏、明石氏、梶原氏など。
- *文安年間の「文安年中御番帳」、「蜷川文書」、宝徳~永享年間の「永享以来御番帳」、「室町殿文明中番帳」、長享年間の「長享元年九月十二日常徳院御動座当時在陣衆着到」、「室町殿在陣衆名簿」、明応年間の「東山殿時代大名外様附」といった15世紀後半の奉公衆の名簿をその他史料で補っている。
- *観応の擾乱でほぼ壊滅したが永禄の変の頃までは残っていたらしい。
- *播磨にいた旧越前守護の家系。
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