概要
1086年より白河天皇が、皇太子の善仁親王に譲位したことにはじまる、前の譲位した天皇(上皇、法皇又は院とも)が、譲位された天皇に代わって政治を行う体制を指す。上皇や法皇は、自身の邸宅である「院」において政治を行ったため、院政とよばれる。
ここで大事なのは権力の根拠である。院政は父の子に対する『父権』に基づいて行うため、ただ天皇が譲位するというだけでは意味がないことに注意が必要である。
例えば大河ドラマ『平清盛』でも、崇徳天皇が、鳥羽院の謀略によって、近衛天皇への譲位を”弟”にした事にされた為、鳥羽院の院政が続いて大いに憤慨する様子がかかれている。すなわち、天皇がその子や、その子が更に子(元の天皇からすれば孫)に譲位する事に意味があるのである。
日本史の学習の上では、白河院にはじまり、鳥羽、後白河、そして鎌倉時代の後鳥羽上皇の行った院政が典型的な院政として取り上げられている。この4人の権力は並々ならぬものがあったため、「治天の君」とよばれることとなる。しかし、院政は承久の乱で武士政権が確立されてからも行われており、後嵯峨上皇以来、光格天皇に至るまで16人の天皇が行っていた。
明治時代に入り、1889年に皇室典範が制定された際、第10条で天皇の譲位を禁止し、その規定は敗戦後に改めて成立した皇室典範でも第4条に引き継がれた。しかし、2016年に明仁(上皇陛下)が譲位を望むと、2017年に天皇の譲位を認める特例法が成立し、約180年ぶりに上皇が復活した。但し、これはあくまで称号であって、上皇に特別な権限を認めているわけではない為、院政とはみられていない。
院政という制度は世界でも稀にみる制度であり、国王や皇帝が生前に譲位した例は他国でもあるが、その後も実権を握り続けることを制度として続いた例はみられない。
ちなみに、院政という呼び方は江戸時代に、治天の君という表現は後嵯峨上皇と後深草天皇の体制が成立してから呼ばれるようになり、どちらも典型的な院政が行われた時代には用いられていない。
比喩としての院政
現在では、組織の実権が現在の首脳でなく、先代が握っている場合に「院政」とよばれることがある。
例えにはしばしありがちではあるが、もとの意味に厳密ではなく、先代と現在の首脳の関係が親子である場合だけでなく、重鎮や忠実な腹心をおいたりした場合に用いられる。
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- なし
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