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鶴岡法斎に関するnisoku2のブックマーク (11)

  • 伊藤剛さんへ - 鶴岡法斎のブログ

    http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20080501 そうですか。メールは不要ということで。了解しました。 今回のことだけでなく(それをキッカケにしようしていましたが) 「昨年暮れぐらいから何とか久しぶりに話ができないものか、と思って」いたのですが、まあ諦めます。 あと >1998年ごろオタク系テキストサイトをやっていた青年を「おまえなんてミジンコ以下」とかなんとか(文言は正確に記憶していませんが)、中学生みたいな悪口でいじめ抜いたこともあったよね? これって自分が記憶している人と同じ人だろうか。だとしたらいま自分のマイミクにいます。この前、たまたまイベント帰りに2人きりになって、この当時のことをいろいろ話しました。 特にとりとめのない文章ですいません。

    伊藤剛さんへ - 鶴岡法斎のブログ
  • 鶴岡法斎君へ - 伊藤剛のトカトントニズム

    鶴岡法斎の放浪都市 http://blog.goo.ne.jp/t-housai/e/a735f202d9461d2ac68986a1c0603add あと伊藤剛さんからのご意見ですが、記憶的に曖昧な部分もあります。「そうだっけ?」と思う箇所もあるのですが、伊藤さんがそう思っている、という事実を受け止めます。 またこれを機会に、なんですが昨年暮れぐらいから何とか久しぶりに話ができないものか、と思っていました。メールとか出していいですか? ぼくにメールを出すよりも、自分が何をしてきたかを真摯に問うことが先ではないですか。 あなたは唐沢俊一という「師匠」の尻馬に乗り、ひとを攻撃し、誹謗中傷し、嘘をつき、いい加減な仕事を垂れ流してきた。 他人を攻撃しても、自分の価値はまったく向上しないにもかかわらず、あなたは他人を攻撃してばかりいた。それは記憶しているよね? ぼくのあずかり知らないところで、あな

    鶴岡法斎君へ - 伊藤剛のトカトントニズム
  • m9の連載などなど - 鶴岡法斎のブログ

    m9の連載は他の方々と比べて自分、ちょっと残念です。 次回は頑張ります。 あと伊藤剛さんからのご意見ですが、記憶的に曖昧な部分もあります。「そうだっけ?」と思う箇所もあるのですが、伊藤さんがそう思っている、という事実を受け止めます。 またこれを機会に、なんですが昨年暮れぐらいから何とか久しぶりに話ができないものか、と思っていました。メールとか出していいですか?

    m9の連載などなど - 鶴岡法斎のブログ
  • 唐沢俊一ホームページ :: 日記 :: 2000年 :: 04月 :: 14日(金曜日)

  • m9 - 伊藤剛のトカトントニズム

    買ってきました。 いまどき鶴岡法斎に依頼するあたりに、編集者の手抜きというか、見識&センスのなさを感じてスルーしていたんですが、ココロ社id:kokoroshaさんと、しろうとid:sirouto2さんの原稿が面白そうなので購入。これから読みます。 参考:http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~yanataka/manga.html m9(エムキュー) (晋遊舎ムック) 出版社/メーカー: 晋遊舎発売日: 2008/04/26メディア: 単行 クリック: 466回この商品を含むブログ (42件) を見る ※追記:ある方から、鶴岡法斎氏には「今は個体認識できるほど存在感がない」というコメントをいただきました。そうか、そういえばそうだな。となると、これ以上はいじめてるみたいになるかもしれないが、まあ「宿縁のある」間柄だそうだから、多少ネチネチやらせてもらうよw。 もっと

    m9 - 伊藤剛のトカトントニズム
  • 4コマガロ - 鶴岡法斎のブログ

    白取さんが「4コマガロのこと」という文章をブログにアップされた。 考えたら、自分もここからスタートした人間だった。 俺の記憶が確かなら「鶴岡法斎」という名前が人前に登場したのは4コマガロの投稿者として、だった。当時、高校生。 マンドラゴラが主人公のよくわからん4コマだった。 掲載されたのは確か一回限りで、それ以外は「今月の惜しい人」みたいな扱いでほぼ毎月名前が出ていた。それでも嬉しかった。 自分はマンガ家、ないしはデザイン関係の仕事に進もうと思っていた(そもそもそれ以前に中学三年の時にガロに持ち込みをしていまは亡き長井さんに「滅茶苦茶するなら徹底的にやるんだよ」といわれて根敬さん(など)のマンガを見せられた、という思い出も。またそれは別の話か)。 そうしたら父親に美大進学を反対され大喧嘩して半ば自暴自棄的にサラリーマンになった。 そして東京で暮らした。 当時、いろいろ憎んでいたのだと思う

    4コマガロ - 鶴岡法斎のブログ
  • ペド恐怖 - 鶴岡法斎のブログ

    ネットというものは便利で日記などは過去のものを簡単に閲覧できる。 自分がこの問題にいつ頃から悩んでいたか、時系列で説明できるかもしれない。 まあとにかく諸々が炸裂したのが04年だということは間違いない。 これはもうちょっと整理して発酵させてからちゃんと書きたい。 個人的な事柄と友人間の事柄と仕事の人間関係の事柄と血縁の事柄と世間との事柄と恋愛との事柄と世の中との事柄が複雑怪奇に絡み合っている。 ここから何かを確実に意識している。 こうやって文章化する勇気を持つまで3年半かかったか。まあ、いい。 また断章だけ書く。 自分は、どうしても幼女に対して性愛を抱けない。むしろそれに恐怖してしまうのだ。 理由はわからない。昔はただ興奮しない、というだけだったと思う。しかし20代の頃あたりから、徐々に嫌悪感を持つようになった。 ぶっちゃけこの業界ってロリとかペドの人が多いので自分も話を合わせるために頑張

    ペド恐怖 - 鶴岡法斎のブログ
  • 誰でもオタク系ライターになれた。いまは無理 - 鶴岡法斎のブログ

    要するにバブルなんですよ。 オタクバブル。そういうものがあって(自分の認識では95年~現在)、編集者などは「書き手」を探していたから。とりあえず表に出ることは出来た。でももう無理だろ。 だって座席埋まっているもの。 俺の独断だけど米澤さんが亡くなってしまって、表現論以外のマンガ評論に関しては確かに不在感がある。 でもコミケは米澤さんの遺志を継いだ実行委員が(たとえ永久に続かなくても。それはコミケがいろいろな問題を内包しながら継続しているから)続けるだろうし、評論に関してだって自分の見た感じ、別に誰もいない、って気はしない(「不在感がある」と書きながら。な)。 まあね、別にいいんだよ。マンガ評論ってえないから。マンガって基的に立ち読みとかできるから事前情報ってそんなに必要じゃないのね。いまの膨大な数のマンガが出ている状況では水先案内すべき人は必要だと感じるけどそれが専業となるかは別。 た

    誰でもオタク系ライターになれた。いまは無理 - 鶴岡法斎のブログ
  • マンガ原作者になった話 - 鶴岡法斎のブログ

    忘れもしない。自分の人生の一大転換期がここに。 「マンガロン」を出版した直後のロフトプラスワンのトークイベント。休憩中にある人から名刺を渡されたんです。 そこには「辰巳出版」と書いてありました。 自分はエロ仕事をしていたのに何故かこの会社とは縁がなかったのです。それも自分が読んでいるパチンコマンガ雑誌の編集さんだと。 ちょっと嬉しかったですね。当時はもうパチンコ、あんまり打ってなかったのですが、それでも一時期は羽根モノでっていた人間ですから何か嬉しくて。 それでトントン拍子でコラム連載したんですよ。 また余談ですが自分のアイデアでバンド「人間椅子」のベーシスト、鈴木研一さんがパチンコが好きで、バンドでもパチンコにちなんだ歌を作っているので、鈴木さんを主人公にしたエッセイマンガ的なものをやったらどうだろうって話したんですよね。で、一回だけ打ち合わせしたんですよ。 鈴木さんとマネージャー

    マンガ原作者になった話 - 鶴岡法斎のブログ
    nisoku2
    nisoku2 2006/11/08
    鈴木研一と大槻ケンヂ。
  • 脚本家になりかけた話 - 鶴岡法斎のブログ

    前のエントリの続きではないです。申し訳ない。 多分この「オタクバブルと俺の20代シリーズ」(いま勝手に命名)は「思い出したら書く」という感じなんである程度まとまってから各自が編集、コラージュ、解読などを施すと少し読みやすくなると思います。 何しろ余談から余談が生まれ、複雑に絡み合っているから性質が悪い。 自分の頭のなかで整理できたことから順に書きます。 数年前の話。ある人から「映画の脚家やってみない」っていわれたんですよ。 自分は当時もうマンガの原作やっていまして。評論よりも物語を作るほうが自分は向いている(書いていてストレスがない。むしろ快感が多い)と思っていたので「経験はないですけど、やれるものなら是非」っていっておいたんですよ。 同じ話を何度もしますけどね。父親から美大進学を反対された自分はとにかく経済力で父親に勝とうとしていたんでしょうね。まあその情熱はいつも裏目に出ていましたけ

    脚本家になりかけた話 - 鶴岡法斎のブログ
    nisoku2
    nisoku2 2006/11/07
    「悪魔が出てくる悪魔のような映画」
  • 思い出しシリーズ - 鶴岡法斎のブログ

    オタクバブルシリーズ(?)です。 自分はまずあるでアニメの評論を書いたことが、実質のデビューなのかもしれない。 でも違うんだよな。当時(96年頃)の自分はエロのライターがメインの仕事。それもSMとかスカトロとかのマニア誌。そういうところで風俗店を取材したりAVのレビューを書いたりしていた。あとインタビューとか。 時間を遡れば自分はライターになるつもりが全くなかった。 父親に美大進学を否定された高校時代に自分はヤケクソになっていた。 高校の頃の自分は美術部にいて、美大に進学したかった。それでショーウィンドウとかを作る人(多分いまなら空間プロデューサーっていうの?)の仕事がしたかった。それで稼いだ金で一年に一回くらい、小さなギャラリーでいいから個展が出来たらいいなあ、と思っていた。 それが美術の大学なんか役に立たないから行くな、だった。 いろいろ抵抗したものの、結局自分は父親に逆らいきるこ

    思い出しシリーズ - 鶴岡法斎のブログ
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