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澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

旧憲法から新憲法へ。法体系転換の狭間における「プラカード事件」判決

(2022年11月3日)
 本日は、「日本国憲法」公布記念日である。日本国憲法の冒頭に、「上諭」という天皇(裕仁)の文章が、目障りな絆創膏みたいにくっ付いている。下記のとおりの内容だが、これに1946年11月3日の日付が付されている。

 「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」

 ところで吉田内閣は当初1946年11月1日を新憲法公布の日と予定していた。ところが、そうすると半年後の翌年5月1日が憲法施行記念日となって、メーデーと重なる。GHQがこれに難色を示して、公布日が2日遅れの11月3日となったという説がある。

 まったくの偶然であるが、この1日と3日にはさまれた1946年11月2日に、東京地裁の重要判決が言い渡されている。旧憲法から新憲法に法体系転換の狭間を象徴する「プラカード事件」の東京地裁一審判決である。

 1946年5月19日の通称「食糧メーデー」(「飯米獲得人民大会」)での出来事。参加者の一人である松島松太郎の、下記プラカードの表記が不敬罪に問われたのだ。

 「詔書 ヒロヒト曰ク 國体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」(表面)
 「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」(裏面)

 不敬罪は刑法第74条。日本国憲法施行後削除されたが、当時はまだ生き残っていた。条文は、次のとおりである。

 「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ處ス」
 
 構成要件は、天皇等に対する「不敬ノ行為」である。何が犯罪となるのか曖昧至極ながら最高刑は懲役5年。『天皇は神聖にして侵すべからず』とされた時代の弾圧法規の遺物というしかない。

 松島は、三田警察署から出頭を要請されて拒否し逮捕される。そして、天皇制の終焉明らかなこの時期に、検察は敢えて不敬罪で起訴した。

 この事件の弁護団は自由法曹団の弁護士を中心に十数人で編成された。弁護団長布施辰治以下、上村進、神道寛次、正木ひろし、森長英三郎、青柳盛雄、梨木作次郎等々の錚々たる布陣。「ポツダム宣言の受諾によって天皇の神性も神聖性も根拠を失い、不敬罪は消滅した」「天皇、天皇制に対する批判を含む言論・表現の自由は確立しているはずだ」と無罪を主張して争った。

 面白いエピソードが伝えられている。1審の公判で、正木ひろしは、裁判長に「天皇を証人として喚問しろ」と要求したという。もし不敬罪ではなく名誉毀損罪として罪名を換えて処罰するのなら、名誉毀損罪が親告罪である以上、裕仁の告訴の意思の有無を確認しなければならない、という至極もっともな理由だった。

 しかし、裕仁の証人申請は却下されて、判決が言い渡された。新憲法公布の前日となった11月2日のこと。さすがに不敬罪の適用はなかったが、名誉毀損罪の成立を認めた。裕仁の告訴のないままにである。量刑は懲役8月、執行猶予はつかなかった。判決はこう言う。評価はさまざまである。

 「天皇の個人性を認めるに至った結果、かかる天皇の一身に対する誹謗、侮蔑などにわたる行為については不敬罪をもって問擬すべき限りでなく、名誉に対する罪条をもってのぞむを相当とする」

 1947年6月28日、控訴審東京高裁は「不敬罪に当たるが日本国憲法の公布にともなう大赦令で免訴」との判断を下す。この判決の評判はすこぶる悪い。最終的に1948年5月26日、最高裁判所で大赦による公訴権の消滅を理由に上告棄却となり、免訴が確定した。これが歴史上最後の不敬罪事件となった。

 松島は、敗戦直後の1945年11月に日本共産党に入党。田中精機に労働組合を結成して委員長に就任する。1950年以降は神奈川県川崎市に居住し、日本共産党の専従として活動。1960年の安保闘争では神奈川県民会議の代表幹事として運動を指導。衆院選、参院選に立候補したが落選。1973年11月、日本共産党中央委員に就任するとともに、神奈川県委員長を兼任。のち日本共産党中央党学校の主事を務めた。2001年8月9日、胃癌で死去している。

 後年、彼は、あのプラカードの文章を書いたことについて、こう語っている。

「号令をかけて国民を戦争に動員し、かつ生命や財産を奪った張本人はヒロヒト、すなわち昭和天皇ですよ。太平洋戦争は裕仁天皇の「宣戦の詔勅」で始まりました。これは厳然たる事実ですよね。そして「終戦の詔勅」で終結しました。裕仁天皇の意思で戦争が始まり、彼の意思で戦争が終わった。
 明治憲法のもとにおける天皇の臣民に対する命令と意思は、形式として「詔書」をもって周知されました。朕の言葉としてね。詔書は天皇の最高意思を示す形式ですよ。「詔書ヒロヒト曰く」はこの形式をもじったものです。あのプラカードは詔書という形式をとってなされる天皇政治をパロディー化したものでした。」

 「臣民=国民は裕仁天皇の“号令”があったからこそ、苦悶・葛藤しながら応召を受け、かつ戦争に命がけで協力したのです。結果は敗戦でした。
 憲法上、天皇の地位・立場がどうのこうのと言う以前に、最低限の問題として、裕仁天皇は日本国民やアジア各国民に対する道義的な責任があるのです。皇室典範などにおいて天皇の退位を定めていない、などと言って逃げてはいけないですね。 ところが広島と長崎に原爆を落とされ、敗戦となり、国民が戦争の惨禍で苦しみ、遅配・欠配で餓死寸前にあるというのに、その天皇がなお尊崇の対象とされていた。」

「天皇政治は「臣民ノ幸福ヲ増進」するどころか、生命財産を奪い、こんどは国民を飢餓に陥れました。プラカードに示される私の思いは、太平洋戦争であれ、現下の飢餓・欠乏であれ、すべての元凶が天皇制にあるのだということを国民に端的に訴えたかったのです。そうした意識が敗戦以来、私の脳裏に沈潜していたものですから、先ほど即興詩のように書いたと言いましたけれども、深く思案・推敲することなく書きなぐるように吐露できたのでしょうね。」

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