毎日新聞に、評論家若松栄輔の連続対談企画がある。「理想のかたち」という標題。
その第11回がゲストとして作家吉村萬壱を招いて「先進国でのテロ事件」を論じている。一昨日(2月27日)の朝刊。
リードは、「きれいごとでは済まない人間の姿を描いてきた吉村さん。昨年11月のパリのテロ事件を受けて、時代に抗する言葉はどう生まれるか、単なる反戦ではない「非戦」の意義などを話し合った」というもの。これなら読みたくなる。
吉村は、「『きれいな言葉』ってありますやんか。「愛」とか「平和」とか「祖国」とか。こういう言葉が流布するときは危ない。僕はきれいな言葉が、どうも好きになれない。小説ではそれを骨抜きにする作業をしています。」という。
これに、特に文句を言う筋合いはない。
若松「大事にしたいのは、反戦と非戦の違いです。目の前の戦争に反対して、その戦争を止めるまでが反戦。非戦は、戦うこと自体を徹底してなくそうと考える。反○○で解決はない。こちらが善で、こちらが悪の……。」
吉村「二項対立では解けない。犯罪者がなぜ犯罪を犯すのか。理由をさかのぼれば無限に遡行できる。刑法はそこに線を引いて直接の個人に罪を負わす。」
若松「限りなく不可能でも、敵を悪ではないと見なすところからしか平和は生まれないでしょう。」
ここまでは、結構。若松の『敵を悪ではないと見なすところからしか平和は生まれない』には共感する。ところが、次がおかしい。
吉村「インターネットでは、ISや中国や原発や安倍晋三首相や橋下徹氏……を『悪』と断罪して自分を善だと錯覚したい人ばかり目立ちます。でも、『自分は正しい』と思っている人が、自分は『悪人』だと自覚している人よりも善人だとは必ずしも言えない。」
なんだ。そりゃ。いったい。
吉村萬壱は「原発や安倍晋三首相や橋下徹氏……を『悪』と断罪して自分を善だと錯覚したい人ばかりが目立つ」ことを嘆いているのだ。これが、「敵を悪ではないと見なすところからしか平和は生まれない」の文脈と同義として語られるから混乱せざるを得ない。
これが、「時代に抗する言葉」だというのか。二項対立では解けない問題提起だというのか。これが、時代に切り込む姿勢だというのか。それが文学だともてはやされるなら、私たちの社会の前途は暗い。
もっとも、この手の発言は、昔から掃いて捨てるほどある。リベラルな発言をしておいて、そのあとに「私はけっして反体制ではありません」「危険思想をもってはいませんよ」と毒消しの発言をしておくあの手だ。「だから安心して私を使ってください」というアピールにしか聞こえない。二項対立の一方に立つ姿勢を示すなんぞ、ダサイ。愚か。いや損ではないかという態度。そういう手合いの一群。立派な日和見主義ぶりではないか。保身は、よぼよぼの老人になってからでも遅くない。
原発も安倍晋三も橋下徹をも「悪と決めつけてはならない」とは、この世のすべてを相対化すること。理想を揶揄し、権力に対する批判を嘲笑し、よりよい社会を作ろうと努力する人たちへの、冷ややかな醒めた視線。
毎日新聞も、貴重な紙面を割いてつまらない対談記事を載せたものだ。
もっともっと、熱くなって原発批判をしよう。安倍晋三批判もやろう。橋下徹批判も徹底しよう。そのエネルギーでしか、社会や歴史を変えることができない。
(2016年2月29日)
私は、「論語」をたいしたものとは思わない。所詮は底の浅い処世術としか理解できないと公言して、顰蹙を買うことがしばしばである。しかし、警句として面白いとは思う。どうにでも自分流に解釈して便利に使えばよいのだ。多分、使い手によっては、切れ味が出てくるのだろう。アベ政治への批判についても使える。
よく知られている顔淵編の次の一節。
子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立。
子貢、まつりごとを問う。子曰く、食を足らし、兵を足らし、民これを信ず。
子貢曰く、必らず已むを得えずして去らば、この三者において何をか先にせん。
曰く、兵を去らん。
子貢曰く、必らず已むを得ずして去らば、この二者において何をか先にせん。
曰く、食を去らん。いにしえより皆死あり、民、信無くんば立たず。
私なりに訳せば、以下のとおり。
子貢が孔子に政治の要諦を尋ねた。
「経済を充実させ、軍備を怠らず、民意の支持を得ることだね」
「その三つとも全部はできないとすれば、まずどれを犠牲にしますか」
「そりゃ、軍備だね」
「残りの二つも両立は無理だとすれば、どちらを犠牲にすべきでしょうか」
「経済だよ。民生の疲弊はやむを得ないが、民衆の信頼がなければそもそも政治というものが成り立たないのだから」
孔子は、政治の要諦として、「食(経済)」・「兵(軍備)」・「民の信」の3者を挙げた。おそらくは、きわめて常識的な考え。しかし、面白いのは、重要性の順序が必ずしも、常識のとおりではないこと。政治の中心的課題を「民のため」の政治というにとどまらず、「民からの信頼」と考えている。もちろん民主主義ではない。しかし、読み方次第では、その思想的萌芽を感じさせる一文ではないか。
アベ政権は、平和主義を放擲して戦争法までつくり、近隣諸国の危険性を鼓吹して国民の不安を煽り、軍事予算を増額するというのだから「兵(軍備)」の充実にだけはご執心だ。
しかし、既に「食(経済)」を足らしむことにおいて失敗している。アベノミクスがアホノミクスであることについては、誰の目にも明らかになりつつある。経済を投機化したことによって、実体経済は停滞し、格差貧困は拡大し、株価の維持まで危うくなっている。
さらに、最大の問題は「民の信」である。アベ政権が、そして政権与党が、国民の信に耐え得るか。安倍自身もこの点は、気にしているようだ。過日不倫騒動で辞任した宮崎議員について問われた際に、「信なくば立たず」と口にしている。宮崎の辞任の弁にも「信なくば立たず」があった。宮崎がやめることで「信が立った」か。とんでもない事態である。閣僚の妄言はあとを絶たない。これは民主主義の問題であり、立憲主義の問題でもある。
要するに、「兵」だけが突出して、「食」も「信」も、アベ政権にはない。孔子の教えに逆行しているのだ。そこに、直接に民意を問う国政選挙が迫ってきている。アベ政権を総体としてとらえ、分析し、迫った参議院選挙の投票行動の意義を見定めなければならない。こんな事態で、明文改憲を許す議席をアベ政権に与えてはならない。
私も編集委員の一人となっている「法と民主主義」は、4月号を、アベ政権の総体を問う特集とする。
特集の編集責任者は、清水雅彦さん(日本体育大学教授・憲法学)。以下のラインナップで、すべての執筆者のご承諾をえた。発売は、4月20日頃となる予定。是非、ご期待いただき、憲法の命運に関わる大切な選挙にご活用をお願いしたい。
もし孔子が世にあれば、必ずやこれを薦める内容になるはず。そしてこう呟くことになる。
子曰く、必らず已むを得えずして、アベ政権を去らん。
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2016年『法と民主主義』4月号(№507)
特集●アベ政権を問う〈仮題〉
■企画の趣旨
今号は、4月号ながら、憲法記念日近くに発行される予定です。この間の安倍政権による憲法破壊を批判的に検討し、憲法理念の実現に向けた理論提供を行う憲法特集号として位置づけております。ただし、憲法の個別テーマを扱った論文が各号に掲載されていることを受けて、今号では、これまであまり触れていないテーマをとりあげております。安倍政権の総体を問う特集になることを期待し、企画いたしました。
■特集企画の構成執筆予定者(敬称・略)
◆特集にあたって(特集リード) 清水雅彦(編集委員)
◆安倍政権下の憲法情勢森英樹(名古屋大学名誉教授・憲法学) 2015年国会で戦争法の制定を強行するなど、この間のconstitutional change を進めてきた安倍政権が、いよいよconstitutionのchangeの必要性を堂々と何度も主張するようになった。このような安倍政権下で進む憲法情勢について検討していただく。
◆アベ改憲論を問う──緊急事態条項論の検討 植松健一(立命館大学法学部教授・憲法学)
参院選で与党3分の2以上の議席確保を狙い、場合によっては衆参同日選挙もありうる中で、安倍政権が主張している緊急事態条項論や改憲論について、これまでの憲法学における国家緊急権論やドイツなど外国との比較から検討していただく。
◆アベの政治手法を問う──安倍政治の検討 西川伸一(明治大学政治経済学部教授・政治学)
従来の自民党政治には見られなかった強権的で異論を認めず、極右色の強い安倍政治の内容・特徴や、メディアへの圧力、極端な内閣法制局人事等への介入など、その独特の「お友だち」の活用と批判派の排除といった政治手法について検討していただく。
◆選挙を問う?衆参同日選挙、小選挙区制度などの検討 小松浩(立命館大学法学部教授・憲法学)
場合によってはありうる衆参同日選挙の問題点や、衆議院の小選挙区制度の問題点について、この間の定数是正違憲訴訟やご専門のイギリス(可能であれば、他国も)との比較に触れつつ、検討していただく。
◆若者の政治参加を問う? 18 歳選挙権と政治教育などの検討 安達三子男(全国民主主義教育研究会事務局長)
今後の18歳選挙権の実施と文部科学省による高校生の政治活動についての新通知などについて、『18歳からの選挙Q&A』(同時代社)の執筆者の立場から、文部科学省や教育委員会の問題点などについて検討していただく。
◆『一億総活躍社会』を問う?社会福祉・医療政策の検討 伊藤周平(鹿児島大学法科大学院教授・社会保障法)
安倍政権が打ち出した「一億総活躍社会」論によって、国民の生活と権利はどうなるのか、この間、急激に進む医療介護保険「改革」や「子育て支援新制度」などの社会保障、医療制度改革の動向とあわせて検討していただく。
◆市民は問う─その1 菱山南帆子
◆市民は問う─その2 武井由起子(弁護士)
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(2016年2月28日)
畏くも、第16代の天皇となられたオホサザキノミコトに「仁徳」の諡が献じられています。「仁」とは為政者としての最高の徳目ですから、この天皇こそが古代日本の帝王の理想像なのであります。
その仁政を象徴するものが、「民の竈は賑わいにけり」という、あのありがたくもかたじけない逸話でございます。あらためて申しあげるまでもないのですが、あらまし次のような次第でございます。
ある日、ミカドは難波高津宮の高殿から、下々の家々をご覧になられたのです。賢明なミカドは、ハタと気が付きました。ちょうど夕餉間近の頃合いだというのに、家々からは少しも煙が上がっていないのです。慈悲に厚いミカドは、こう仰せられました。
「下々のかまどより煙がたちのぼらないのは貧しさゆえであろう。とても税を取るなどできることではない」
こうして3年もの長きの間、税の免除が続きました。そのため、宮殿は荒れはてて屋根が破れ雨漏りがするようなことにもなりました。それでもミカドはじっと我慢をなさいました。
そして、時を経てミカドが再び高殿から下々の家々をご覧あそばすと、今度は家々の竈から、盛んに煙の立ちのぼるのが見えたのでございます。
ミカドは喜んで、こう詠われました。
高き屋に登りて見れば煙立つ民の竈はにぎはひにけり
こののちようやく、ミカドは民草が税を納めることをお許しになり、宮殿の造営なども行われるようになったのです。なんと下々にありがたい思し召しをされる慈悲深いミカドでいらっしゃることでしょう。
これが、天皇親政の理想の姿なのでございます。何よりも下々を思いやり、下々の身になって、その暮らしが成り立つことを第一にお考えになる、これが我が国の伝統である天皇の御代の本来の姿なのでございます。消費増税によって、民の竈を冷え込ませようというアベ政権には、仁徳天皇の爪の垢でも呑ませてあげようではありませんか。
でも、この話には、いろいろとウラがございます。仁徳ことオホサザキノミコトご自身が、のちに次のような回想をしていらっしゃいます。ここだけの話しとして、お聞きください。
ボクって、天皇職に就職して以来、下々の生活なんかにゼーンゼン関心なかったの。何に関心あったかって。不倫。一にも二にも不倫。二股、三股。もっともっと。ボクって美女に目がないの。古事記にも恐妻の目を逃れての好色ぶりが描かれているけれど、まあ、あれは遠慮して書いてあの程度のこと。ホントはもっと凄かった。で、不倫って結構金がかかるんだ。それでもって、使い込んで…。結局民の竈の煙が立たなくなっちゃったんだ。
ある日、ハタと気が付いたのは、竈からの煙がなくなったってことじゃないの。毎日、上から目線で見慣れた景色だから、竈の煙が薄くなり消えそうになっているのは、前から分かってた。
でも、ある日気が付いたんだ。このままだと、下々から税を取ろうにもとれなくなるんじゃないか、って。竈から煙が立たないって、民草は飢餓状態じゃん。これまで天皇や豪族が民草を「大御宝」なんて言って大切にしてきたのは、ここからしか税の出所がないからさ。文字どおり金の卵を産み続けるニワトリだからなの。その民草が飢えて死にそうじゃ、税も取れなくなっちゃうじゃん。税が取れなきゃ、ボクの不倫経費も捻出できない。
もう一つ気が付いたのは、少し恐ろしいことになっているんじゃないかってこと。これまでは、下々や民草は、絞ればおとなしく言われたとおりに税を払うと思っていた。だけど、竈に煙も立たない状態となると、窮鼠となって反抗しないだろうか。考えてみれば、ボクと下々の格差はすさまじい。民草が怒っても、当然といえば当然。捨て鉢で、宮殿に火を付けたりしないだろうか。テロられることにはならないだろうか。
それで、方針を変えてみたんだ。金の卵を産むニワトリがやせ細ってきたのだから、しばらく卵をとるのは我慢して、ニワトリを太らせなくっちゃ。そして、よい王様を演出して、下々から攻撃されないよう安全を確保しなくっちゃということ。宮殿が荒れ果てたって雨漏りしたって、火を付けられるよりはずっとマシ。
こうして、税を取らないことにしたんだけど、誰でも思うよね。その間、何をしていたのかってね。もちろん、不倫はどうしてもやめられなかった。でも、相当に努力はしたんだ。不倫相手の数も減らして、出費も縮小した。そうして蓄えを少しずつなし崩しに減らしていった。とうとう金庫が底を突いたから、もう一度高殿に登って、「民の竈はにぎはひにけり」ってやったんだ。ニワトリは、もう十分に太った頃だろうからね。この程度で「仁政」だの「聖帝」だのといわれているんだから、ま、楽な商売。
でも、ここからは真面目な話し。この件のあと、いったいボクってなんだろう、天皇ってなんだろう、って真剣に悩むようになった。ボクが税をとっているから、その分民が貧しくなる。3年でなく、ずっと税を取らなけりゃ、民の竈はもっもっと賑やかになるはず。ボクって、実はなんの役にも立っていないことに気が付いたんだ。おとなしい民草から、税を取り立てるだけのボク。自分じゃ働かず、人の働きの成果をむさぼっているだけのボク。いてもいなくてもよいボク。いや、不倫の費用分だけ、いない方がみんなのためになるボク。こんなボクって、いったい何なのだろう。
ちょっぴりだけど反省して、河川の改修や灌漑工事など公共工事なんかやってみた。やってみるったって、「よきにはからえ」って言うだけだけど。それが、記紀に善政として出ている。せめてもの罪滅ぼし。それでも、不倫は生涯やめられそうにない。
(2016年2月27日)
本日は、2月26日。80年前の今日、雪の降る東京の中枢部で、クーデターが起こった。翌2月27日、「戒厳」が宣せられている。今年の「2・26」は、「戒厳令」とともに話題にしなければならない。アベ政権の改憲構想が、緊急事態条項の新設から手を付けようとしているからである。
自民党改憲草案の緊急事態条項(「第9章」98条・99条)は、国家緊急権の発動の一態様としてある。戦争・内乱・大災害等の非常時に、憲法を一時停止して政権の専横を可能とするもの。戒厳もその一種類である。
大江志乃夫「戒厳令」(岩波新書・1978年)は、今読み直されるべき書である。戒厳令についての詳細を理解し、アベ改憲のたくらみの危険に警鐘を鳴らすために。
この書では、2・26の顛末を次のとおり、簡明にまとめている。
「いわゆる皇道派に属ずる青年将校が部隊をひきいて反乱を起こした「政治的非常事変勃発」である。反乱軍は、首相官邸に岡田啓介首相を襲撃(岡田首相は官邸内にかくれ、翌日脱出)、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監陸軍大将渡辺錠太郎を殺害し、侍従長鈴本貫太郎に重傷を負わせ、警視庁、陸軍省を含む地区一帯を占領した。反乱将校らは、「国体の擁護開顕」を要求して新内閣樹立などをめぐり、陸軍上層部と折衝をかさねたが、この間、2月27日に行政戒厳が宣告され、出動部隊、占拠部隊、反抗部隊、反乱軍などと呼び名が変化したすえ、反乱鎮圧の奉勅命令が発せられるに及んで、2月29日、下士官兵の大部分が原隊に復帰し、将校ら幹部は逮捕され、反乱は終息した。事件の処理のために、軍法会議法における特設の臨時軍法会議である東京陸軍軍法会議が設置され、事件関係者を管轄することになった。判決の結果、民間人北一輝、西田税を含む死刑19人(ほかに野中、河野寿両大尉が自決)以下、禁銅刑多数という大量の重刑者を出した。「決定的の処断は事件一段落の後」という、走狗の役割を演じさせられたものへの、予定どおりの過酷な処刑であった。
大江の2・26事件理解は、「実際に起こった二・二六事件は、『国家改造法案大綱』の実現をめざすクーデターが「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」にもとづくカウンター・クーデターに敗北し、カウンター・クーデター側の手によって軍部独裁への道が切り開かれるという筋書をたどった。」というものである。このことを書き留めておきたい。
この書の冒頭に、「戒厳」に関しての刺激的な2文書の紹介がある。
まず、「天皇ハ全日本国民ト共二国家改造ノ根基ヲ定メンガ為ニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ、全国ニ戒厳令ヲ布ク」(北一輝『日本改造法案大綱』)。
2・26事件を起こした反乱青年将校たちが自分たちの政治綱領として信ずることが厚かった『日本改造法案大綱』の第一条である。これは、大江によれば、初めてクーデターの手段としての戒厳を公然と主張したものだという。天皇親政を実現するために、憲法を停止する。具体的には、「貴衆の両院を解散し、全国に戒厳令を布く」というのだ。これが、皇道派青年将校が企図したクーデター。
そして、もう一つの文書が、カウンター・クーデター派のもの。
「現下の世相に鑑み政治的非常事変勃発に際しては、軍部は之を契機として国内事態改善の為常固なる決意を以て目的の貫徹を期す。(中略)国内非常に際し、軍の行う警備は皇室の擁護、資源の確保、軍の対立防止及大衆の保安を主とし、且つ、軍の企図する革新遂行を容易ならしむ。(中略)騒動中に軍隊の参加を当然予想せらるる事態にいたらばすみやかに戒厳を令す」(参謀本部第二部片倉衷大尉を座長とする幕僚将校グループが作成した「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」1934年1月成稿)。
「政治的非常事変勃発」「軍の騒動参加」をきっかけに、「断固、軍の企図する革新を遂行」というのだから、穏やかではない。これは、「『日本改造法案大綱』を奉ずる青年将校グループとは対立する陸軍中枢の少壮幕僚グループの研究成果をまとめたもので、かれらは、クーデターにたいするカウンター・クーデター(逆クーデター)として戒厳を宣告し、かれらなりの″国家革新″を実現することを期していた。これら幕僚グループの研究成果は成文化され、参謀本部の課長・部長に提出された。いわば、半公式的な性格のものである。」という。クーデターにたいするカウンター・クーデターにおいて、両者とも戒厳令を構想していたことに注目せざるを得ない。
大江は、「このように、戒厳令は、憲法を停止し、議会を破壊し、軍事独裁政権を樹立し、維持していくのに、もっとも好都合な法令である。」とまとめている。
戒厳令(太政官布告)の第14条だけを抜粋しておきたい。(「戒厳地境内」とは戒厳布告の範囲のこと)
第一四条 戒厳地境内ニ於テハ司令官左ニ記列ノ諸件ヲ執行スルノ権ヲ有ス但其執行ヨリ生スル損害ハ要償スルコトヲ得ス
第一 集会若クハ新聞雑誌広告等ノ時勢ニ妨害アリト認ムル者ヲ停止スルコト
第二 軍需ニ供ス可キ民有ノ諸物品ヲ調査シ又ハ時機ニ依リ其輸出ヲ禁止スルコト
第三 銃砲弾薬兵器火具其他危険ニ渉ル諸物品ヲ所有スル者アル時ハ之ヲ検査シ時機ニ依リ押収スルコト
第四 郵便電報ヲ開緘シ出入ノ船舶及ヒ諸物品ヲ検査シ並ニ陸海通路ヲ停止スルコト
第五 戦状ニ依リ止ムヲ得サル場合ニ於テハ人民ノ動産不動産ヲ破壊燬焼スルコト
第六 合囲地境内ニ於テハ昼夜ノ別ナク人民ノ家屋建造物船舶中ニ立入リ検察スルコト
第七 合囲地境内ニ寄宿スル者アル時ハ時機ニ依リ其地ヲ退去セシムルコト
戒厳令下、司令官は軍部独裁者として振る舞うことができる。人民に対してなんでもできる。
自民党改憲草案も読み較べておきたい。
第99条
1項 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
2項 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
3項 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。
緊急事態宣言下、内閣は国会を無視して独裁者として振る舞うことができる。国民は内閣のいうことを聞かねばならなくなる。内閣は、政令を作って「集会若クハ新聞雑誌広告等ノ時勢ニ妨害アリト認ムル者ヲ停止スルコト」ができる。もちろん、テレビの放送の停波など簡単なこと。
(2016年2月26日)
1月28日、DHCスラップ訴訟控訴審判決言い渡しの日の夕方、「バナナの逆襲」を作製したスウェーデン人の映画監督フレデリック・ゲルテンさんとお話しする機会があった。
その中で印象的だったのは、世界的大企業Dole社から仕掛けられた「スラップ訴訟」との闘いにおいて、「最も効果のあった闘い方は、スウェーデンでの不買運動方針の提起だった」ということ。映画の中でも描かれているが、まず消費者が声を上げる。「スーパーはDole社の商品を扱うな」と申し入れをする。理由を聞いたスーパーの経営者が、これに賛同してドール・バナナの入荷を拒否する。初めは小さかったその動きが、広がりそうな勢いとなったところで、ドールフード社が折れるのだ。なるほど、さもありなんと思う。
私は、長く消費者問題に取り組んできた。消費者運動では、単なる「消費者の権利」を超えた「消費者主権」が語られてきた。多義的に用いられる「消費者主権」だが、私は「市場での消費者の自覚的な選択を通じて消費者がよりよい社会を作っていく運動」(あるいはその力量)ととらえている。
具体的な消費者被害を通じて見えてくる現実の消費者像は市場の主権者という理想像とはほど遠い。広告に操られて怪しげなサプリメントを購入する思慮のない消費者であり、少しでも安価なものであれば安全に目をつぶっても飛びつく無自覚な消費者であり、必ず儲かるからという甘言に欺されて涙を流す金融商品購入者である。生産や流通を牛耳る事業者との対等な関係を築けていない。
それでも、消費者運動は着実に前進を見せている。理念としての消費者主権の確立を、運動の目標として高く掲げ続けている。消費者を営利の操作対象の地位から脱却させ、あるべき社会の能動的な形成者とする目標である。企業が社会を圧している現状において、市民が賢明な商品選択を通じて企業をどうコントロールするかという問題意識をもったときに、はじめて主権者としての消費者の力が現実化する。
その正反対の議論が、企業側から出て来る「対企業コントロール拒否論」である。「企業活動にもっと自由を」「労働市場も生産も流通も販売も、すべてを見えざる神の手に任せよ」「限りない規制緩和を」「規制をなくせ」という野放図なDHC・吉田嘉明流の規制緩和論である。その実現のために巨額の裏金の授受さえ行われている。
企業が提供する商品やサービスに関して、消費者が選択する基準が価格や外見だけであってはならない。広告・宣伝に踊らされてはならない。消費者には、「社会的な公正」や、「環境に配慮し自然と社会の健全な持続性」までを視野に入れた自覚的な消費行動が求められる。
ブラック企業や、アンフェアトレード企業の製品は安価かも知れない。しかし、そのような企業の跋扈は、社会的公正を害する。社会的不公正の放置は、消費者自身に手痛いしっぺ返しをもたらす。
市場における消費者の選択においては、よりよい社会を目指すための諸要素が重視されてしかるべきだ。軍需産業と結びついた企業の製品は買わない。差別や規制緩和推進を広言するような企業の商品はボイコットする。フェアトレードや原発反対を表明する企業の商品を積極的に選択する。そのなかに、スラップを提起して表現の自由を攻撃する企業を市場を通じて排除することも含まれて当然だ。
「バナナの逆襲」を観れば、産地に農薬禍をもたらしたDole社の商品はけっして買うまいと思う。アンフェアなトレードで知られるユニクロもそうだ。ブラックとして名高いワタミも同じ。せっかくの電力自由化だ。原発事故を起こした東電をボイコットして、他社に乗り換えよう。そして、スラップ訴訟の常連DHCにも同様の制裁を。
先日、姪の一人が「私、DHCはもうやめた。絶対に買わない」と言ってくれた。これは、正しい価値ある選択と言ってよい。「DHCの製品は買わない」ことの意味は、消費行動を通じての、表現の自由への攻撃を許さないという意思表示であり、規制緩和推進という消費者利益侵害への抗議でもあり、政治とカネの汚い癒着を徹底して糾弾するという宣言でもあるのだから。
この一人の選択は、第一歩として影響は小さいながらも正しい「一票」だ。選挙権の行使は投票日だけのものだが、消費者主権の行使は、日常の消費行動を通して、日々正義を実践することにほかならない。正しい「一票」は、積み上がった力となりうる。そのようにして、スラップ訴訟を仕掛けるようなダーティーな企業には、消費者主権が懲罰を与える。その経済的な打撃によって、表現の自由を擁護し、司法の健全化も実現する。
「バナナの逆襲」を観て、対DHC不買運動の提起も有効な選択肢たりうると思っている。現実の有効な手段とするためにどうすべきか。今後、大いに議論したい。
(2016年2月25日)
真正面からスラップ訴訟をテーマにしたドキュメント映画である。是非多くの人にご覧になっていただきたい。吉田嘉明だけでなくDHCの関係者にも広くお薦めしたい。自分のやっていることを見つめ直す機会になるだろうから。
スラップの標的とされた映画監督が、その顛末を自分を主人公として丸々1本の映画にしてしまった。これが、『バナナの逆襲』第1話『ゲルテン監督、訴えられる』。そして、スラップ訴訟で上映禁止を求められたドキュメンタリー映画が、『バナナの逆襲』第2話『敏腕?弁護士ドミンゲス、現る』である。
スラップを仕掛けたのは、世界最大の青果物メジャー・米国Dole社。DHCとはケタが違う大企業。同社が、スラップを仕掛けてまで知られたくなかったのが、中米ニカラグアにおける同社バナナ農園での農薬被害の実態なのだ。
しかし、Dole社のスラップは敗北した。結局のところ、却ってスラップのおかげで、Dole社のバナナ農園での農薬被害の実態が世界に注目されるところとなった。その一連の経過が『バナナの逆襲』なのだが、これは同時に『スラップに対する表現者の逆襲』でもある。そこが、私がお薦めする理由だ。このような映画を作った監督とこれを支えた人々、そして日本での上映に努力された人々に敬意を表するとともに、感謝も申し上げたい。
この映画配給者(「きろくびと」)による案内は次のとおり。
映画人の表現の自由は守られるのか?
弁護士は巨大企業の圧力に屈してしまうのか?
バナナ農園での農薬被害をめぐる世紀の裁判が、映画界も巻き込み大騒動に発展!
2009年、スウェーデン人映画監督フレドリック・ゲルテンがある多国籍企業に提訴された。中米ニカラグアのバナナ農園で農薬被害に苦しむ労働者が起こした裁判を追った、彼の新作ドキュメンタリー映画がロサンゼルス映画祭でプレミア上映されようとしていた時だった……。なぜ監督は訴えられたのか?超巨大企業は何を隠そうとしているのか?果たして映画は上映されるのか?
本作はスウェーデンのジャーナリストでもあるフレドリック・ゲルテンが2009年に制作した”Bananas!*”(第2話)と2011年制作の”Big Boys Gone Bananas!*”(第1話)の2作品で構成されている。日本においても、メディア界の自主規制やTPP問題が話題になっている今、あるバナナ農園の労働者を描いた映画とその上映をめぐるこの2作品は、多国籍企業のビジネス戦略や表現の自由、そして世界のいびつな構造について、さまざまな問題を投げかけている。
■第1話 ゲルテン監督、訴えられる Big Boys Gone Bananas!*
バナナ農園での農薬被害をめぐる裁判を描いた新作ドキュメンタリー映画が、ロサンゼルス国際映画祭でプレミア上映されることが決まり、意気揚々とアメリカに乗り込んだゲルテン監督。しかし上映直前、企業側はなんと映画祭に上映中止を要求し、監督を訴える。われわれの想像を超える過激な妨害工作と、そこから見えてくるアメリカのメディアの暗部。果たして映画は無事に上映されるのか?(2009年/87分)
2012年 ミラノ国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞
2012年 ワン・ワールド映画祭観客賞
2012年 サンダンス映画祭正式出品
2011年 アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭正式出品など
■第2話 敏腕?弁護士ドミンゲス、現る Bananas!*
中米ニカラグアの12人のバナナ労働者が、使用禁止農薬による被害を訴え、米国の超巨大企業に対する訴訟を起こした。あまりにも強大な企業の力を前に、勝ち目はないと思われたが、裁判を請け負ったヒスパニック系弁護士ホアン・ドミンゲスは画期的な闘いを挑む!多国籍化する食料生産システムの闇だけでなく、TPP問題やグローバリズムといった世界のいびつな構造を描き出す、サスペンス・ドキュメンタリー。(2009年/87分)
上映は、2月27日(土)から。渋谷・ユーロスペースで
下記回上映後のトークも用意されている。
2/27 (土) 11:00回 横田増生さん(ジャーナリスト)
2/28 (日) 11:00回 原一男さん(映画監督)
3/05( 土) 15:00回 小林和夫さん(オルター・トレード・ジャパン) 、石井正子さん(立教大学異文化コミュニケーション学部教授)
渋谷・ユーロスペースでの上映時間は下記URLで。
http://kiroku-bito.com/2bananas/index.html
3月19日(土)からは、横浜シネマリンで公開です。さらに下記劇場でも公開決定とのこと。
名古屋シネマテーク/大阪・第七藝術劇場/神戸アートビレッジセンター/広島・横川シネマ
1月28日、DHCスラップ訴訟控訴審判決言い渡しの日の夕方、この映画の主人公ともなったフレデリック・ゲルテン監督(スウェーデン人)と鼎談の機会があった。もうひとりの参加者は、『ユニクロ帝国の光と影』(2011年、文芸春秋)で、やはりスラップの標的とされた、フリージャーナリストの横田増生さん。最後を、監督がこう締めくくっている。
「私たち今日ここにそろった3人が発することのできる非常に重要なメッセージは、スウェーデンにしろ日本にしろアメリカにしろ、言論の自由、報道の自由というのは憲法で定められているのだから、訴訟を起こされることを恐れることはない、ということです。実際に裁判で勝つことができるんだと。もうひとつ重要なことは、ジャーナリストなど、他の誰かが攻撃されたときに、私たちは後ろで、援護射撃をしなくではいけない。支えなければならない。連帯ということが、非常に重要だと思います。
また、私の仕事の醍醐味というのは、世界中で同じように闘っている仲間と会えることです。私の作品を見て、本当にたくさんの人が私に会いに来て、自分の仕事や置かれている状況について話をしてくれます。韓国に行ったときには、どの上映会でも、自分の雇用主と闘っている組織ジャーナリストが声をかけてくれました。メキシコでは、たくさんのジャーナリストが殺害されている状況が続いていて、多くの観衆が涙を流していました。世界中のどこでもストーリーがあるのです。そして、今回お二人のお話を聞いて、日本にも兄弟がいると感じています。そういったことがとでもうれしいです。自分は一人じゃないのだと知ることはとても重要だと思います。闘い続けるためのエネルギーと勇気をくれますね。だから今日お二人にお会いできでとてもうれしく思います。またいつかお会いするまでそれぞれがんぱりましょう。そして、シンプルな話を語りつづけましょう。それこそがとても大きな力を持っているのです。」
席上、「Keep Fighting」と繰り返された。自由や権利を、紙の上の文字だけのものにせず、現実の社会に実現するには、闘い続けることが必要なのだ。この映画は、その教訓に満ちている。
(2016年2月24日)
2016年2月15日(月)の衆議院予算委員会の議事の記録を掲記する。政権与党の総裁であり、内閣総理大臣となっている安倍晋三という人物の反知性とそれを必死で覆い隠そうという低俗な人間性がよく表れている。これは国民必見の内容である。こういう人物が、日本の政治と行政のリーダーになっているという現実を、国民は見つめねばならない。
歴史を美化すること、歴史の恥部から目を背けることは許されない。過去に目を閉ざすものは未来に盲目となって、過ちを繰り返すことになるのだから。同様に、安倍晋三を美化し、アベ政治の恥部から目を背けることは許されない。政治の現状にも改革すべき未来にも盲目とならざるを得ないのだから。
正式な会議録はまだ公表されていない。しかし、中継動画で発言の正確性を確認することが出来る。質問者は民主党の山尾志桜里議員。以下は抜粋だが、出来るだけ恣意に陥らないように心掛けての掲載である。
○安倍首相
…それと、テレビ番組に出演していて、私は当然、自民党総裁として呼ばれているわけであります。私も呼ばれれば、他の党の人たちも呼ばれる。その中にあっては、党として、この編集の仕方はどうなんですかということは当然言う。これは、言えば、いや、そんなことは安倍さん、ありませんよ、こうこうこうですよと反論すればそれで済む話じゃないですか。
私は、当該番組に大分昔に出たことはありますが、そのときも、拉致問題について、大きな大会をやってもおたくの番組は全然取り上げませんでしたねということを言って、当時の、筑紫さんだったかな、全く黙り込んでしまったこともございました。私は、必ずしもテレビ番組の制作方向、こういう番組をつくりたいという方向に常に協力するわけではありません。私の考え方を勇気を持って申し上げますよ。
テレビ局に対して物を言うというのは結構大変なことなんですよ。私は、それを言ったがために、当該番組から、かつて総裁選挙のときに、七三一部隊の石井中将と顔をリンクさせられて、イメージ操作されたこともあったんですよ。そういうことすらあったんですよ。これは、私にとっては相当のダメージだった。それは、私が議論をしたからなんですよ。議論をすればそういうこともあるんですよ。そういうこともあるということは、どちらの方が大きな権力を持っているか。
私は別に総理大臣として、裏において、権力を行使するときにこの番組は問題があるからといって行政組織に指示したんじゃないんですよ。この番組に一出演者として出ていて議論をしているわけであります。そういう議論がおかしいということ自体が私は、全く間違っているな、このように思います。
○山尾委員
安倍総理がそういった答弁をされるのは、自分自身が内閣総理大臣であり、そしてまた政権与党のトップであるということ、自分がどういう力を持っているのか、政治権力とは何なのかということに全く無自覚であるから、そういう答弁ができるんだと思いますよ。
もし、自覚しておられてそういう答弁をしているのなら、総理は、憲法、特に21条、表現の自由について全く理解が足りないのではないかと思いますので、これに関して質問をさせていただきたいと思います。
総理、そもそも、時の政治権力がテレビ局の政治的公平性の判断権者となり、電波停止までできる、この制度解釈自体が検閲に当たり、許されないのではないか、こういう懸念の声もあります。総理、この電波停止ができるということは検閲に当たりますか、当たりませんか。
(高市が延々と答弁をする。)
○山尾委員
委員長が3回注意されて、私が尋ねてもいないことを延々と述べられて、それに与党が大拍手でこの質疑を遮るというこの運営、委員長、どうなっているんですか。質疑妨害もいいかげんにしてください。
私は、憲法の21条、表現の自由、これに対する総理の認識を問うているんです。総理がちゃんと憲法21条をわかっているかどうか、国民の皆さんの前で説明をしていただきたいと思っているんです。
尋ねます。
総理、この前、大串議員に、「表現の自由の優越的地位って何ですか」と尋ねられました。そのとき総理の答弁は、「表現の自由は最も大切な権利であり、民主主義を担保するものであり、自由のあかし」という、かみ合わない謎の答弁をされました。法律の話をしていて自由のあかしという言葉を私は聞いたことがありません。
もう一度尋ねます。優越的地位というのはどういう意味ですか。
私が聞きたいのは、総理が知らなかったからごまかしたのか、知っていても勘違いしたのか、知りたいんです。どっちですか。表現の自由の優越的地位って何ですか、総理。言論の自由を最も大切にする安倍政権、何ですか。
事務方がどんどんどんどん後ろから出てくるのはやめてください。
○安倍首相
これは、いわば法的に正確にお答えをすれば、経済的自由より精神的自由は優越するという意味において、この表現の自由が重視をされている、こういうことでございます。
○山尾委員
今、事務方の方から教わったんだと思います。
なぜ精神的自由は経済的自由に優越するのですか。優越的地位だということは何をもたらすのですか。
○安倍首相
いわば表現の自由が優越的であるということについては、これはまさに、経済的な自由よりも精神的な自由が優越をされるということであり、いわば表現の自由が優越をしているということでございますが、いずれにせよ、そうしたことを今この予算委員会で私にクイズのように聞くということ自体が意味がないじゃないですか。
それと、もう一言言わせていただくと、先ほど、電波について、とめるということについては、これは民主党政権、菅政権において、当時の平岡副大臣が全く同じ答弁をしているんですよ。その同じ答弁をしているものを、それを高市大臣が答弁したからといって、それがおかしいと言うことについては、これは間違っているのではないか、このように思うわけでございます。
○山尾委員
総理、ふだんは民主党政権よりよくなったと自慢して、困ったときは民主党政権でもそうだったと都合よく使い分けるのは、いいかげんやめてもらえませんか。
ちなみに、民主党政権では、個別の番組でも政治的公平性を判断し得るなどという解釈はしたことがありませんし、放送法四条に基づく行政指導もしたことがございません。明らかに、安倍政権と比べて、人権に対して謙虚に、謙抑的に、穏やかに向き合ってきました。
総理、もう一度お伺いします。
精神的自由が経済的自由より優越される理由、総理は、優越されるから優越されるんだと今おっしゃいました。これは理由になっておりません。これがわからないと大変心配です。もう一度お答えください。どうぞ。
○安倍首相
内心の自由、これは、いわば思想、考え方の自由を我々は持っているわけでございます。
○山尾委員
総理は知らないんですね、なぜ内心の自由やそれを発露する表現の自由が経済的自由よりも優越的地位にあるのか。憲法の最初に習う基本のキです。
経済的自由は大変重要な権利ですけれども、国がおかしいことをすれば、選挙を通じてこれは直すことができるんです。でも、精神的自由、特に内心の自由は、そもそも選挙の前提となる国民の知る権利が阻害されるから、選挙で直すことができないから、優越的な地位にある。これが憲法で最初に習うことです。それも知らずに、言論の自由を最も大切にする安倍政権だと胸を張るのはやめていただきたいというふうに思います。
(略)
○山尾委員
最後に、報道の自由度ランキングを御紹介して終わりたいと思います。
自民党時代、報道の自由は、42位、37位、51位、37位、29位。そして、民主党政権になって、メディアに対して大変オープンになり、11位まで上がりました。現在の安倍政権は61位、最悪のランキングです。憲法と人権に関する総理の認識を聞くと、ある意味当然の結果ではないかと私は思いました。
ぜひ、総理、もう一度憲法の趣旨をしっかり考えていただいて、本当の意味で豊かではつらつとした議論をしていただきたいと思います。
以上です。
山尾議員の問題関心は、「首相が、憲法の最初に習う基本のキがわからないでは大変心配」「総理が知らなかったからごまかしたのか、知っていても勘違いしたのか、知りたい」ということだった。これは、山尾議員ならずとも、国民の大きな関心事である。
国会で、権力によるメディアへの弾圧が話題とされているときに、一国の首相の憲法認識がこんな情けないレベルでは困るのだ。いや、情けないにとどまらない。実は、国民にとって恐ろしい事態といわざるを得ない。
安倍は、「今この予算委員会で私にクイズのように聞くということ自体が意味がないじゃないですか」と逃げを打ったが、これは「クイズ」ではない。国民が知りたい「首相の資格」の当否である。権力を預かる地位にある者が、委託されるにふさわしい資質を持っているか否かの確認であり検証なのだ。
結果は、明らかに落第である。安倍晋三には、表現の自由の重さ貴さに対する認識がないのだ。我が国の首相が、事務方のメモ(カンニングペーパー)に助けられてもなお、法学部1年生終了時の憲法理解のレベルに達していないことも明らかとなった。所轄の大臣が「歯舞」を読めないとか。環境大臣が放射線量の規制基準根拠を知らないとか、かつての首相が「未曾有」の読みを間違えるとか、そんなレベルの問題ではない。国民の基本的人権にとって、恐るべき事態が、現にここにあることを認識しなければならない。
なるほど、知らないということは恐ろしい。同時に、知らないということほど強いこともない。アベ政権が、表現の自由攻撃にかくも果敢であり、憲法改正にかくも積極的な理由も、無知ゆえとすれば合点が行く。
事態はおそるべきものであることを正確に認識しつつも、このような反知性の蛮勇に負けていてはならない。
(2016年2月23日)
高等学校生徒諸君
プラカードを高く掲げて街頭に躍り出た諸君よ
AGAINST WAR LAW
GO VOTE
諸君こそは
颯爽たる未来圏から吹いて来る
透明で清潔な風そのものだ
諸君はこの時代に強ひられ率いられて
奴隷のやうに忍従することを拒絶した
自らの手で
自由と平等と平和な未来を築こうと
声を上げた
AGAINST WAR LAW
GO VOTE
今日までの歴史を論ずるならば
われらの祖先乃至はわれらに至るまで
社会の不合理と不平等とは
意識的に温存されてきた
これを打ち砕こうとする心ある人々の
力や行動はいまだに足りない。
むしろ諸君よ
更にあらたな正しい時代をつくれ
AGAINST WAR LAW
GO VOTE
諸君よ
紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君は此の地平線に於ける
あらゆる形の山嶽でなければならぬ
宙宇は絶えずわれらによって変化する
時機を失してはならない
もう少し様子を見てから
経験を積んでから
そんなことを言ってゐるひまがあるか
さあ、われわれは一つになって
AGAINST WAR LAW
GO VOTE
新たな詩人よ
雲から光から嵐から
透明なエネルギーを得て
人と地球によるべき形を暗示せよ
新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系を解き放て
衝動のやうにさへ行われる
すべての労働を
冷く透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
芸術の域にまで高めよ
新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ
AGAINST WAR LAW
GO VOTE
潮や風、歴史や科学、知と友愛と……
あらゆる価値あるものを用ひ尽くして
諸君は新たな世界を形成するのに努めねばならぬ
戦争法廃止の声を上げつつある若者よ
君たちの目の前に、
君たちの受け継ごうとしているこの世の現実がある。
富を持つ者が支配者となり、
権力を持つ者が富を持つ者に奉仕するこの社会。
不本意ながら、これが現世代の君たちへの遺産だ。
富を持つ者はさらに収奪をくわだて
権力を握る者は、持たざる者の抵抗を押さえつける。
富める者、力ある者に、正義も理想もない。
巨きなる理想もて、卑小なる現実を拒否せよ
ああ諸君こそはいま
この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る
透明な風を感じつつあるのだ
AGAINST WAR LAW
GO VOTE
(2016年2月22日)
もうすぐ卒業式の季節。そして、入学式の季節が続く。春は、国旗国歌の季節であり、「日の丸・君が代」強制の季節なのだ。
なぜ、公権力はこうまでして全国の学校儀式に国旗国歌を浸透させたいのだろうか。敢えて現場の抵抗を押し切っての強制までし、多くの裁判を抱えながら。毎年考え込まざるを得ない。
その理由はともかく、多数派民衆の意識が学校行事における国旗国歌を肯定しており、その多数派の「日の丸・君が代」肯定意識に支えられて、国旗国歌強制策があることは疑いない。ちょうど、多くの国民が天皇制や靖國の存在を支持しているように、である。多くの国民の意識において、戦前の「天皇・靖國・日の丸君が代」は、切れ目なく現在につながっている。だから、「自主憲法制定」などというスローガンを広言する自民党が長く政権を担ってこれたのだ。
(参照「自主憲法制定」とは無法者のスローガンである。 https://article9.jp/wordpress/?p=2712)
「たかじんのそこまで言って委員会」なる関西系テレビ番組が、視聴者を対象に次のような意見を募集した。2004年3月のことである。
「春の卒業式シーズン到来。そこで皆さんにお聞きします。
あなたは学校の式典で「日の丸」を掲揚し、「君が代」を斉唱する ことに賛成ですか?反対ですか?」
これに対して、何通の回答があったのかは分からないが、調査結果は、
賛成 92%
反対 8%
とされている。
世論調査の正統手法に則ったものではなく、これが日本人の意識状況の正確な分布とは言えないものの、この質問であれば、賛成派が反対派を圧倒していることは間違いなかろう。今も、大きくは変わるまい。だからこそ、国旗国歌法の制定があり、石原慎太郎が「10・23通達」を出し、橋下徹が「君が代条例」を作るのだ。
国旗国歌問題は、多数派がその同調圧力で少数派の意見に介入する恰好のテーマとなっている。石原や橋下にとって、自らが多数派として、攻撃すべき敵を定める恰好のテーマでもある。
「賛成92%」の調査結果以上に興味深いのが、多くの「賛成の理由」である。賛成の理由について与えられた選択肢はなく、すべて自由記載。この回答群は貴重な資料である。アトランダムに、賛成意見の一部を抽出してみた。これをいくつかに分類してご紹介したい。
※ 学校式典に国旗国歌は「当然」「日本人である以上当然」とするもの。これが圧倒的な多数派。
◆日本人なら当たり前
◆自国の国旗掲揚、国歌斉唱をして当たり前是非を問う問題ですらない。
◆当然。
◆日本国民として当然
◆当然の話
◆当然でしょ。
◆当然のことだから
◆あたりまえ。いやな奴は国籍変えれば?
◆日本人として当然。
◆よその国でこれをやるなら、いざ知らず、ここは日本です。これが嫌な人、または都合の悪い人はどういう人?
◆日本国民としてあたりまえのこと。
◆ここが日本だから
◆日本人なら当たり前だと思う。反対してる奴はバカ
◆日本人として当然です!
◆なにか問題でも?こんなくだらない議論してるのは日本だけですよ。
◆いまさらこんな調査をすること自体がわからない。
◆当然のことだから
◆あたりまえ。いやな奴は国籍変えれば?
◆常識だろ
◆日本人なら当たり前だ
◆ここは日本です。
◆自分の国の国歌ぐらい歌えなあかんで。
◆歌わないヤツは非国民
◆このようなことが問題になること事態甚だ遺憾です。国家、国旗なんだから当たり前
◆当然過ぎて理由をいう必要もない。
◆君が代を斉唱することに何が問題?賛成です。
◆別に問題無いと思うけど。
◆いまさらこんな調査をすること自体がわからない。
◆国旗国家を尊重するのは当然だから。
◆当たり前
◆ここは日本です。大韓民国とやらじゃありません。
◆問題ないでしょ。
◆当たり前のこと
◆日本人なら当然。
◆当たり前だと思いますけど。こんなアンケートやってることに何か違和感を感じます。変な国・・・
◆自然なこと。問題視することではない。どうしても気に入らない、という人は、参加しなければいいのです。
◆当然の事
◆自国の国旗・国歌に敬意を払うのは当然のことだと思う。
◆国旗・国歌です。
◆当たり前のこと。
◆日本の常識。
◆こんなことで、とやかく言う人間は、日本人じゃないと思いませんか反対する人の心が知れない!クダラナイ
◆日本人として当然
◆日本人であれば当然の事だから。
◆日本人である以上、当然の行為と思われます。
◆国歌なのだから当たり前。
◆理由など無い
◆卒業式で国旗掲揚・国歌斉唱は当然だと思うからです。
◆当たり前のことは当たり前に行われるべきです。
◆日本の国旗、国歌だから。
◆だって、日本の国旗であり、国歌でしょ。
◆日本の国民として当然のこと。嫌なら日本から出て行くべきでしょう。
◆当たり前です。そう言えば俺も高校の時、電波先生が学校の前で日の丸反対のビラ配ってたなぁ。
◆日本国民なら当然のことである。
◆日本人なら当然。売国奴、国賊は国外追放。在日という名の不法滞在者は直ちに国外強制退去。
◆そんな当たり前の事に反対する人の気が知れない。
◆日本国民として当然の事をすべきではないのか?当たり前のことです。
◆なにか問題でも?こんなくだらない議論してるのは日本だけですよ。
◆日本国民であるから「日の丸」を掲揚し、「君が代」を斉唱することはあたりまえ
◆そうするのが当然。国歌、国旗を否定するのは反政府組織のすることというのは世界の常識。
◆日本国民ですから。日本国籍や日の丸・君が代を拒絶する人は、日本から出て行けば良い。
◆こんな当然の事を反対する理由がわからない。日教組の洗脳?
※ 儀式・式典なんだから当然とするもの
◆公式行事、儀式では当然やらなければならない。
◆式典なんだから当たり前。
◆「節目」の時に国歌を斉唱し国旗を掲げるのは普通のこと。何の問題があるのか逆に問いたい。
◆今まで普通に接してきたので違和感も何もありません。これからもそれでいい。
◆公的な場では当然のことと思うのですが。
※ 「反対理由が分からない」「理解できない」とするもの
◆なぜ日の丸と君が代が駄目なのか私にはわからない。
◆日本人が,自国の国歌「君が代」と国旗「日の丸」を否定するのは全く理解できない。
◆国民の当然の義務。反対する理由がわからない。
◆国歌ですから当然賛成です。反対する理由が分かりません。
◆反対する理由がわからん
◆反対する理由がない
◆反対する事がおかしい。
◆賛成するってより、別に国歌や国旗に意味はないのだから、反対する必要がないから。
◆自分の住んでる国の国旗・国歌を否定する理由が見つからない。
◆本来の意味を考えると、反対派の言っている理由付けは、これを拒否する理由にはならない。
◆てか、むしろこんな疑問がわくこと自体に疑問があるんですが。
※ 愛国心の確認・発揚・涵養の機会として必要というもの
◆賛成。愛国精神のない人間なんて信用できません。
◆日本国民として当たり前で、反対する理由も無い。自分の国を愛するという機会が無い今、必要かと。
◆日本人だから
◆日本が好きだから。
◆自国の国旗、国歌に誇りを持つためにも、式典では掲げ、歌うべきだ。
◆自分が帰属し、支え、庇護を受ける集団である「国」を認識する良い機会だと思う。
◆政治的云々でなく、自国のアイデンティティの象徴として必要だと思う。
◆歴史のある自分の国を愛せないって最低だと思う。
◆国に祝福されて学業を終えた事、成人として認められた事に感謝できたので。
※ 国旗国歌には敬意をもつべきだからとするもの
◆過去がどうであろうと、日本の国旗や国歌に表された理念に対して敬意を持っているから。
◆我が国のものに限らず、その国の象徴たる国旗と国歌に対する礼節は、義務教育の場で学んでおくべき常識。
◆つか、自国の国旗、自国の国歌に敬意を払えない屑はどっか他所の国に行ってください。
◆自国の国旗と国家を尊重するのは、他国のそれの尊重につながる。負の歴史があるのならそれをも背負うべき
◆日本人が長年愛し培ってきた伝統だから。フォーマルな式典で掲揚・斉唱は国民国家の基本。
◆日本という国に守られながら、そのシンボルに対し侮辱を唱えるのは、私にはひどく醜くく感じられます。
◆いいことも悪いこともすべてを引きずっての国家、国旗、国歌だと思う。
※ 日本の国旗国歌が優れているからとするもの
◆国旗はデザイン的に優れてるし、国歌は他に比べて平和的+個性溢れる。歴史を失わせるのが教育者?
◆ちなみに君が代は万葉の昔ほどでは無いですが、平安時代にはすでに在りましたよ
◆世界一のものだから
◆日本の国歌は美しいと感じるから
※ 公立校の儀式には国旗国歌が当然とするもの
◆少なくとも、税金で運営されている組織は日の丸君が代必須
◆公立の学校なら当然だと思う。それが嫌なら私立という選択肢もちゃんとあるんだから
◆公立学校=公的機関が行う行事は公的行事であり、国旗掲揚・国歌斉唱は当たり前。
◆教育には税金から助成金が出ているから、その税金で勉強させてもらったから当然のこと。
◆常識だから。嫌なら私立へ行ってください。私の学校は私立でも君が代斉唱してましたが
※ どの国においても普遍的なあり方だから、とするもの。
◆国旗掲揚、国歌斉唱を式典で行うのは世界の常識だから。
◆国旗・国歌を敬うのは世界中の常識。それが分かってないのが馬鹿な左翼。
◆ 日本人が、国家・国旗を尊重するのは当たり前。国際人としても、礼儀のうち常識です。
◆世界中見ても常識だろ。
◆どの国でも国旗と国歌に誇りを持つのは最低限の事。式典で義務付けるのは当然。歌う歌わないは自由。
◆アメリカの学校なんか毎日、朝礼で国旗に向かい国歌斉唱してますが何か?
◆尊重しなければならないと教えた方がいい。そうしないと世界に出て恥をかく。
※ 反対派に対する反感を理由とするもの
◆反対してる人って「中国の核はきれいな核」とか言っちゃってる人だけでしょ
◆反対派が、怪しいから。
◆ 反対派がサヨクだから
◆日本人として当然。さらに、反対する連中がうさん臭過ぎ。
◆反対する奴は,日本が嫌いなんでしょ!早く日本から出て行け!なめとんか!ふざけるな!
◆自分の意見を正義だと思い込んで「君が代=軍国主義!」と喚いてる平和主義者が嫌いだから、歌ってやります
◆人生の大切なセレモニーだから。一部の左巻きが生徒をだしに、デムパを出すのは、非常に不愉快。
※ 国旗国歌反対を強制されることが不当だから。
◆「国旗を掲揚せず、国歌を歌わない」事の強制に反対。ファシズムを許してはならない。
◆教育現場に「日の丸反対」「君が代反対」を持ち込むな!「強制」するな!
◆反対を強制されるのはおかしいと思う。
※ 国旗国歌は郷土愛の表れだから、とするもの
◆みんな日本がふるさとで日本が我が家でしょ?その象徴に背を向ける行為をしちゃいけないだろ。
◆郷土を愛する気持から国旗・国歌を敬うのは当然です。
※ 国際的常識を理由とするもの
◆他の国もみんなやってるから、良いと思う。
◆反対している連中は、サッカーやオリンピックの応援で日の丸は振らないのか?
◆だいたいサッカーなどのイベントで、国歌や国旗でもめたという話を聞かないしねぇ。不思議だ。
◆国旗掲揚のときに脱帽しない、無礼者の金メダリストを輩出しないためにも
◆海外勤務での経験から一言。国旗国歌に敬意を払はないと、相手は「侮辱」と受け取ります。
◆国旗国歌に敬意を払うこと、社会生活、国債慣習を身につける意味でも学校で習っておくべきでしょう。日本の旗に限らずどの国に対しても敬意を払う態度をとるのが常識です。
◆自国の国旗国家に敬意をはらえない人間は他国に対しても鈍感になる。
◆どくの国にも国旗や国歌はあるものやし、反対する人たちが何を気にしてるのか分からない。
※ 自分の学校体験から
◆母校は、朝晩、学園中に国歌が流れ直立不動で国旗掲揚していたので違和感は無い
◆ 私の学校では毎年歌っています。今年、卒業生なのでみんなかなりの気合が入ってました!
※ 賛成だが、強制すべきでないとするもの
◆基本的賛成、但し強制的にせよというなら反対です。国籍の違う人間が国歌う必要性は無いですから。
◆反対する権利は認めるが、国旗で国歌である以上は当然。
◆歌わない自由もあれば歌う自由もある
回答を呼びかけた番組自体が、国民全体の意見を聞くにふさわしいものではないとしても、公権力の国旗国歌強制を支えている民衆の生の意識がよく見える。「日の丸・君が代」強制との闘いは、実はこのアンケートに表れた、社会意識との論争が主戦場なのかも知れない。
(2016年2月21日)
頑迷な都教委との、10・23通達関連訴訟は熾烈に継続している。とうてい先は見えない。国旗・国歌(「日の丸・君が代」)に対する敬意表明の強制は違憲・違法である、との主張をめぐる攻防である。
愚かな都教委が強制をやめるか、最高裁がすべての事案について違憲判断をすることになるまで、この訴訟は継続し続けることになる。
いま、第4次の処分取消訴訟が一審に係属中であり、その第7準備書面を作成の作業中である。今回の私の担当は、憲法20条1項・2項(信教の自由保障規定・政教分離ではない)を根拠とする、「日の丸・君が代」強制の違憲論。
周知のとおり、最高裁は、神戸高専剣道授業拒否訴訟において、信仰上の信念から剣道の授業は受け容れがたいとした学生の訴えを認容した。剣道の授業が客観的に宗教性を帯びると認めたのではない。それでも、剣道の授業強制が特定の信仰者の信教の自由を侵害することを認めたのだ。「日の丸・君が代」強制は、これによく似ている。似ているどころではない。もともと「日の丸・君が代」は神なる天皇と結びついた国家神道のシンボルであった。信仰者が受け容れがたいとする理由の明白さにおいて、剣道の授業とは比較にならない。
論争の応酬の一コマではあるが、その書面のドラフトの比較的まとまりがよい部分を読み易く整理した形で、ご紹介したい。何が、どのように、論争の対象となっているか。その一端をご理解いただけるものと思う。
☆被告(都教委)は、「日の丸・君が代は、国旗・国歌法によって日本の国旗・国歌と定められたものであって、それ自体宗教的な意味合いを持つものではない。」という。この文章の論理自体がきわめて曖昧である。むしろ、ことさらに曖昧な文章とされたものというべきであろう。
あたかも、「日の丸・君が代」が「国旗・国歌法によって日本の国旗・国歌と定められたもの」である以上は、「それ自体宗教的な意味合いを持つものではない」と述べているごとくであるが、明らかに失当である。
「日の丸」は神話的な起源をもつデザインであり、「君が代」は神なる天皇の御代の永続を称える祝祭歌として、明治期に事実上の国旗・国歌とされた。「日の丸・君が代」を事実上の国旗・国歌とする天皇制国家は、国家神道を主権原理の根拠とした宗教国家であった。したがって、「日の丸・君が代」は、国家の象徴であっただけでなく、国家神道の宗教的な象徴でもあった。このことは動かしがたい、歴史的事実である。
その後、敗戦を経て神権天皇制は法制度上崩壊し、主権原理を転換した日本国憲法の時代となった。しかし、天皇制は象徴天皇制として存続し、宮中祭祀は「伝統」を固守し続けている。国家神道を支えた各地の神社も宗教法人に衣替えして往時の姿をとどめている。国家神道を支えた社会基盤も社会意識も崩壊に至っていない。その社会基盤と社会意識に支えられて、「日の丸・君が代」も廃絶されることなく、日本の社会に生き残り、国旗国歌とされるに至った。
「日の丸・君が代」の宗教性の有無は、法によって決せられるべき事項ではない。国旗国歌法が成立しようと廃絶されようと、なんの消長も影響も受けるものではない。とりわけ、今議論の局面は、憲法20条1項および2項の基本的人権としての個人の内面における信教の自由をめぐってのものである。国会の多数決の議決によっても動かしがたいものなのである。このことについて、被告が無自覚であることが恐るべきことなのである。
被告都教委の「日の丸・君が代は、国旗国歌法によって日本の国旗・国歌と定められたものであって、それ自体宗教的な意味合いを持つものではない。」という、恐るべき無自覚、無神経が、原告教員らの積極・消極両面の信教の自由をないがしろにしていると嘆かざるを得ない。
☆また、被告は、「日の丸・君が代は、原告らが主張するように『国家神道と結びついた神的・宗教的存在としての天皇崇拝のシンボル』ではない。それまで日の丸・君が代が我が国の国旗・国歌であることが慣習として成立していたという事実的経過があって、議会制民主主義のもと、国民の多数の意思により法律により明文化されたものである。」ともいう。
問題は、個人の精神的自由の根幹をなす、自己の内面をいかに形成するかの自由を論じる局面にある。日の丸・君が代が『国家神道と結びついた神的・宗教的存在としての天皇崇拝のシンボル』であるか否かは、個人それぞれの判断にかかる問題であって、法がその判断に介入出来ることではない。
被告の主張の誤謬は、「議会制民主主義のもと、国民の多数の意思により法律により明文化された」という一文に象徴される。被告は、あたかも「議会制民主主義」や「国民多数の意思」が、人権を制約する大義名分としてオールマイテイであると考えている如くである。
しかし、議会制民主主義がなしうることには明確な限界があって、いかなる絶対多数によっても基本的人権を侵害することは許されない。被告主張の如くに、国会の議決によって、「日の丸・君が代」の意味づけが変えられて、信仰者の信教の自由や、無神論者の信仰を持たない自由が傷つけられてはならないのである。
しかも、国旗国歌法の内容はわずかに2か条、国旗と国歌のデザインと歌詞メロディを定めるだけのものである。それ以上の意味づけ規定はなく、国民の権利義務ともまったく無関係なものである。国旗国歌法の趣旨・目的は、国旗国歌を定義づけるだけのものであって、それを超えて、法の成立が「『日の丸・君が代』から『国家神道と結びついた神的・宗教的存在としての天皇崇拝のシンボル』を排除した」などという効果を生じるものではない。被告の主張は、何重にも牽強付会を重ね、何重にも誤っている。
☆さらに被告は、「国旗・国歌が国民統合の象徴の役割を持つことから、国旗・国歌を取り巻く政治状況や文化的環境などから、過去において、日の丸・君が代が皇国思想や軍国主義に利用されたことがあったとしても、また、日の丸・君が代が過去の一時期において、皇国思想や軍国主義の精神的支柱として利用されたことなどを理由として、日の丸・君が代に対して嫌悪の感情を抱く者がいたとしても、日本国憲法においては、平和主義、国民主義の理念が掲げられ、天皇は日本国及び日本国民統合の象徴であることが明確に定められているのであるから、日の丸・君が代が国旗・国歌として定められたということは、日の丸・君が代に対して、憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴としての役割が期待されているということである。」という。
これは、意味不明の無意味な主張である。いま、「日の丸・君が代」の宗教的象徴性について論じている局面で、被告の主張は論争テーマと関連性を持たない。
とりわけ、「日の丸・君が代が国旗・国歌として定められたということは、日の丸・君が代に対して、憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴としての役割が期待されているということである。」という一文は法律論ではない。政治的な宣言文書としては意味を持つかも知れないが、「役割が期待されている」との文言は、何らの法律要件とも法律効果とも結びつくものではない。
被告の論法では、「天皇は憲法において日本国及び日本国民統合の象徴であると定められているのであるから、天皇という存在は当然に憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴である」ということになる。また「『日の丸・君が代』も国旗国歌法において国旗国歌とされた以上は、当然に憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴である」ということにもなる。
憲法が天皇を制度上どう定めようと、また憲法上の天皇についての規定の有権解釈がどのようなものであろうとも、個人が天皇についてどのような見解を有するかは自由でなくてはならない。とりわけ、天皇制の形成過程や歴史的に果たした役割から、天皇の宗教的象徴性についての見解やそれをめぐる思想は完全に自由でなければならない。これは自明の理である。また、当然のことながら、その天皇に関する思想表明の自由には格別の保障がなされなければならない。
同様に、国旗国歌法が「日の丸・君が代」を国旗国歌と定めたとしても、国民個人が「日の丸・君が代」をどう位置づけ、どう理解し、どう評価すべきかという点に関して、いささかも影響されるところがあってはならない。国旗国歌法の制定如何に関わらず、信仰者である原告らについても、また信仰者でない原告についても、その「日の丸・君が代」をめぐる宗教性の有無についての考え方の自由は、最大限に尊重されなければならない。
要するに、基本権侵害を論じる主観的違憲論の局面において、国旗国歌法の出る幕は一切ない。被告が国旗国歌法を持ち出したこと自体が、見当外れの謬論なのである。
☆また、被告は「原告らにおいても、個人として信教の自由が保障されているが、公務員として全体の奉仕者としての地位にあり、しかも、その職務の内容が公教育を行うという公共性を有していることから、原告らが個人的な宗教上の理由から、教育を行うこと(すなわち、この場合は、国旗・国歌の指導を行うこと)を拒否することは、そもそも許されないのである。」という。
「そもそも教育公務員には信教の自由を保障する必要がない」という被告の粗雑な論法は、教育公務員をして精神的自由を持たない奴隷の地位に貶めるものと言わざるをえない。この論法は、社会生活を送るものに、そもそも信教の自由はないというに等しい。
「信教の自由が保障されている」というためには、最低限自らの信仰に反する行為の強制を受けないことが保障されていなければならない。外部的な行為と切り離されて純粋に内心に限定された信教の自由は、権利として論じる意味を持たない。
また、被告が「個人として信教の自由が保障されている」という意味は不明確であるが、「個人として」の意味が「社会生活とは切り離された純粋に私的な生活領域においては」という意味であれば、これも権利の保障に値しない。
きわめて常識的に、「国民のすべてに信教の自由が保障されている」とは、いかなる信仰を持つ者も、また持たざる者も、宗教に関わる理由で通常の社会生活に支障をきたすことのない社会環境が整えられていることを意味する。
キリスト教の信仰者である複数の原告に限らず、「日の丸・君が代」の宗教性に鋭敏な信仰者は数多く存在する。これらの信仰者が、「日の丸・君が代」の強制を甘受せざるを得ないことを理由にその宗教上の精神生活に支障をきたすようなことがあってはならない。換言すれば、通常の社会生活と信仰者としての精神生活との矛盾に陥らせてはならないということが、「信教の自由を保障する」という意味でなくてはならない。
信仰者である原告らは、自己の信仰者としての精神生活を堅持しながら、教育公務員としての社会生活を支障なく送るべく被告に配慮を要求する憲法上の権利を有し、被告にはこれに対応する憲法上の義務があるというべきなのである。
☆被告がいう「その職務の内容が公教育を行うという公共性を有していることから、原告らが個人的な宗教上の理由から、教育を行うこと(すなわち、この場合は、国旗・国歌の指導を行うこと)を拒否することは、そもそも許されないのである。」との主張は、著しく偏頗な一面的な議論に過ぎない。原告らの憲法上の権利性を全面的に否定し、教育公務員という属性を理由に、原告らに信仰者としての精神生活の保障を排除する結論となっているからである。
また。被告の立論は、一方的に結論を述べているが、理由や根拠に触れるところがないが、憲法上の権利の制約を容認すべきとする主張は、制約の根拠についての主張・挙証の責任を負うべきが当然なのである。
☆なお、原告らとしても、教育公務員としての職務の遂行が当該教育公務員の宗教上の信念と衝突する場面において、いかなる場合にも宗教的信念の保障が優越すると主張するものではない。
信教の自由という精神的自由権の中核的権利についての制約が許容されるか否かは、合違憲判断の常道として、制約の目的、制約の手段、目的と手段との関連性の3面における、厳格な違憲審査基準の適用をもって判断されなければならない。
目的審査は、当該教育公務員に課せられる具体的な職務上の義務が真にやむを得ない利益を達成するためのものであるか否か。手段審査は、その利益を達成するための必要不可欠な手段であるか否か。そして、(目的と手段の)関連性審査は、その義務によって課せられる信教の自由に対する制約が必要最小限度のものであるか否か。この3面における検証のすべてに合格して始めて憲法上の人権の制約が許容されることになる。
厳格審査基準からしても、教員の本来的な職務である生徒に真理を教授する場面において、自己の宗教的信念を貫くことは許容されない。「天地は神が創造したもうた」「進化論は聖書に反する誤った考えである」「日本の建国は神武の即位に始まる」などを、真理ないしは真実として教授することは許容されない。子どもの教育を受ける権利を全うする目的から上記3面の審査による制約は容易に肯定されうることになろう。
しかし、「日の丸・君が代」への敬意表明を強制することは、何らの真にやむを得ない利益を達成するための目的を肯定することにはならない。国旗・国歌ないしは「日の丸・君が代」の強制は、生徒たちに国家意識あるいは愛国心を醸成することを目的とするものであろうが、このことは真理の伝達とは異なり、教育公務員の本来的な職務ではない。むしろ、国家をどのように位置づけ理解するかは、優れて価値観に関わる問題として、教育にも強制にも馴染まない。少なくとも、そのような教育公務員の信念は尊重されなければならない。とうてい、「真にやむを得ない利益を達成するためのもの」とは言えない。
また、仮に卒業式等の儀式における秩序維持が肯定されるべき目的ないし利益だとしても、全教員に対する起立・斉唱の強制が、この目的を達成するための必要不可欠な手段であるとも、必要最小限度のものとも到底言えない。積極的に式の進行を妨害することなく、国歌斉唱時に静かに坐っているだけの教員に懲戒処分を科してまで起立や斉唱を強制する必要はあり得ない。
以上のとおり、原告らが、憲法20条1項および2項にもとづいて有する基本権が、「日の丸・君が代」への敬意表明強制によって制約されることは許容し得ない。被告の主張は誤りである。
(2016年2月20日)