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澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

震災と裏ガネ。自然災害と政治の腐敗。実は無関係ではない。政治の腐敗とは、民主主義の論理が、敵対する資本の論理に敗北した事態である。資本の論理は、人間の論理と相容れない。カネの政治を打破して、人間の人間による人間のための政治を実現しなければならない。被災者救援のためにも。

(2024年1月31日)
 能登の震災に始まった、めでたいどころではない年明けだった。引き続く現地の報道に胸が痛む中で、正月が今日で終わる。政治状況も、めでたくもない醜悪さを曝しつつ月を越えようとしている。
 震災と裏ガネ。自然災害と政治の腐敗。実は無関係ではない。被災者を救助し救援し被災地を復興させるためにこそ、政治があり国家がある。自助ができない境遇の者に公助の手を差し伸べるべきが、福祉国家の使命ではないか。
 にもかかわらず、与党の政治家が政治資金を食い物にしている惨状を見るに忍びない。裏ガネにまみれた自民党や、くだらない人気取りの万博を強行しようという維新などを清算して、被災地の復興に専念する真摯な政治が必要ではないか。
 民主主義とは、人間の人間による人間のための政治手法である。当然に政治の主体は平等な一人の人間が単位となる。それゆえに、民主主義と福祉とは相性が良い。
 一方、キックバック・裏ガネにまみれた自民党政治は、人間ではなく資本の政治である。カネのカネによるカネのための政治。政治主体はカネであって、カネの多寡によって政治の方向が決まる。これは福祉とも公助とも相性が悪い。
 資本主義とは、カネが支配する経済体制であり社会でもある。民主主義とは資本の論理を排した人間中心の政治理念である。この世は、カネとヒト、資本主義と民主主義とがせめぎ合う場である。
 政治の腐敗とは、民主主義の理念が、敵対する資本の論理に敗北した事態にほかならない。資本の論理は、人間の論理と相容れない。カネの政治を打破して、人間のための民主主義にもとずく政治を実現しなければならない。震災と並んで、自民党、とりわけ安倍派の醜悪さが話題となっている今、このことは分かり易い。
 自分を傷付ける投票行動をやめよう。取りあえずは、自民党と維新とに投票してはならない。

無意味な関西万博はやめて、その費用を能登の救援にまわそう。関西万博は有害である。夢洲はカジノの予定地ではないか。万が一にも万博成功となったら、その次には公営賭場まで成功しかねない。カジノ建設阻止のためにも、万博はやめさせよう。そんな冗費は、喫緊の被災者救援と復興の費用に使おう。

(2024年1月6日)
 旧年は、良い年ではなかった。戦争が勃発し人権も民主主義も蹂躙された。世界中に軍事力信仰が蔓延し、国内でも軍拡大増税へと舵が切られた。政治経済文化すべてがよくない。今年こそはとの願いは虚しく、元日からの能登大地震である。

 報道陣がようやく現地に入れるようになって、3・11以来の惨状に息を呑む。これが2024年を象徴する出来事なのだ。今年も暗い。

 こんなときに、国家とは何のためにあるのか、と考えざるを得ない。所得の再分配が国家の主要な役割だと説かれる。過剰な利益に与る者から租税を徴収して、経済的に困窮する弱者の福祉に支出する。そのことによって、すべての人々の生存の権利が全うされ、社会は安定する。

 今、明らかに、能登の被災者に救援が必要である。インフラを再整備し、街を復旧し、壊れた家を直し、生業を建て直し、被災した人々の生計を支えなければならない。そのためには、国家財政の調整が必要である。不要不急な支出を削減して、有限な原資を救援に使わねばならない。

 とした場合、削減すべき不要不急の支出とは何だろうか。まずは、2023年度から5年間の防衛費43兆円を削って被災者の救援を優先すべきである。

 次は、毎年200億円を超える皇室関連費用の削減だろう。好色な天皇と記紀に描かれている仁徳だが、民の竈に煙の立たぬのを見て、3年間質素倹約して租税を免除したというではないか。徳仁も見習ってはいかがか。

 1月1日は、宮中祭祀の四方拝の日である。天皇(徳仁)は、四方の天神地祇に国民の安寧を祈ったのだろう。しかし、その日の内の大地震である。しょせん、天皇の祈りなど無益なのだ。

 天皇(徳仁)もショックであったろう。翌1月2日に予定されていた新年の一般参賀を中止にした。仁徳ほどではないが、国民の不幸に身を慎んだということなのだろう。もう一歩、足を踏み出して、3年間質素倹約して内定費返上くらいのことがあってもよいのではないか。

 そして、誰もが思うもう一つが、「万博の予算を被災地に」「万博やめて能登の救援を」「くだらん万博やってる場合か。その予算を被災地の復興にまわせ」。これは、誰言うとなく、湧くように出てきた世論であり、天の声である。詠み人知らぬまま、これは既に今年の流行語大賞ではないか。

 これに対して、吉村洋文は、愚かな「反論」を試みている。
 「(復興支援と)万博は二者択一の関係ではないし、関係するものではない。それがなぜ二者択一になっているのか、よくわからない」「万博があるから(復興の)費用が削減されるものではない」「万博と比較されたり、あるいは万博と二者択一になるものではない」

 「二者択一の関係」にあるなどと誰も主張してはいない。しかし、万博については、やる意味はない。くだらん。何の魅力もない。不必要だ。カネを喰い過ぎ、中抜き業者を儲けさせているだけだ。…等々の悪評芬々ではないか。その万博をやめるきっかけにちょうどよいと、みんなか思っていることなのだ。

 私は、関西万博は無駄と言っているのではない。万博は有害だと主張しているのだ。何よりも、夢洲はカジノの予定地である。万が一にも万博成功となったら、その次には公営賭場まで成功しかねない。カジノ反対であれば、万博もつぶさなければならない。

 あのミャクミャクというのがおかしい。あの不気味さを受容できる感性は理解しかねる。「世界ではじめて海の上でやる万博なんですよ」「空を見れば空飛ぶクルマが飛んでる」だと? 何と馬鹿げたことを。その程度のキャッチしかないのか。海の上、それがどうした。空飛ぶ自動車なんて、そんなものまっぴらご免だ。

 吉村洋文よ、どうせ失敗に決まっている関西万博だ。撤退する口実が出来たとは思わないか。動機は何であれ、被災者支援に有益となれば、案外維新への信頼も持ち直すのではないか。

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