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澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

時流になびかず軍拡競争に異を唱えた石橋湛山の姿勢に学ぶ

(2023年1月7日)
 人が自分自身の考えや意見をもつことは、実は幻想に過ぎないのではないか。これが自分の意見だと思いこんでいるもの、自分が選び取ったと思いこんでいる普遍性をもった思想も、実のところ、誰かから刷り込まれたものに過ぎないのではないのか。

 自分の精神の核になるものが、他からの意図的な働きかけで形作られているのかも知れないということは、自分とは何であるのかという根源的な問に関わる恐ろしさをもっている。

 他からの強制や意図的な働きかけに安易になびくことを排して、揺るがぬ自分自身でありたい。自律した自分自身の意見をもちたい。そのために大事なことは、まずは権力や社会の多数派とは反対の位置に身を置くことだと考えてきた。権力を疑え、権力につながる一切に抵抗せよ、社会的同調圧力に抗え、という姿勢を堅持することだ。

 そのように意識して初めて、大勢に流されぬ自覚した自分を確立できることになる。「そりゃ当たり前だ。何も力んで言うほどのこともなかろう」と思っていただけたらありがたい。

 本日の毎日新聞朝刊2面のコラム「土記」に、「一切を棄つるの覚悟」というタイトルで、その実践者に触れた記事を興味深く読んだ。筆者は伊藤智永(専門編集委員)、時流の大勢に流されなかった実践者とは石橋湛山である。

 その書き出しがよい。「世論の大勢にサオささない。多数派の「常識」を疑う。一般記事と違うコラムの役目だろう」。これに、「権力から距離を置き」あるいは「権力に抵抗しても」と加えれば満点となるところ。

 戦前・戦中を通し頑固に自由主義の論陣を張った経済ジャーナリスト、石橋湛山(戦後、首相)は、世間から「理路整然と間違ったことを言う始末の悪い男」とうあきれられたという。

 彼が、ワシントン軍縮会議直前の1921(大正10)年、経済雑誌「東洋経済新報」に匿名で書いた社説「一切を棄つるの覚悟」には驚かされる。

 「(米国からのワシントン会議呼びかけで)先手を取られた日本は、列国を驚かす大覚悟で臨まなければ失敗する。植民地の朝鮮、台湾、樺太(サハリン)を棄てよ。中国、旧満州(現中国東北部)、シベリアから兵を引け。明治以来の日本が勝ち得た何もかも棄ててかかれば、奪われるものはない。

 世評はこれを空想的平和主義の空論と冷笑するか。…しかし、わが軍備は脅威ではない、侵略しないというが、いつの世もそれで軍拡競争は起きる。植民地経営に実利はない。民族自立は歴史の流れ。世界に先んじて本土だけの国に戻り、世界中から信頼される貿易立国として繁栄しよう。

 コラムはこう言う。「それでもあざけり、ののしり、黙殺した政府と国民が20年後、太平洋戦争を始める。死者310万人、沖縄戦、本土空襲、原爆投下の末に『一切を棄つる』日本となって、湛山が予言した経済大国を実現したのは周知の通り」

 あの時代に、権力にも圧倒的な国民世論にもなびかず臆せず、自分自身であり続け、これだけのことを言ってのけた石橋湛山には敬意を表するしかない。

 このコラム、最後がまたよい。
 「湛山なら今、何を書くか。軍拡増税反対、ウクライナ即時停戦、日朝国交正常化、中国首脳訪日、天皇訪韓、日露平和条約締結。八方から怒声を浴びること必定。」というのだ。

 「天皇訪韓」だけは抜き、「改憲阻止、核禁条約批准、全方位平和外交、野党の連携、学術会議の自律性堅持、原発再稼働反対」を加えれば、ほぼ満点だと思うのだが。そして今、湛山が苦労した時代ではない。けっして八方の全てから怒声を浴びることにはならないはずではないか。

スポーツの日に思い起こす、1964東京オリンピックの頃。

(2022年10月10日)
 天候は忖度しない。爽やかな秋空がひろがる今日ではなく、雨模様のどんよりした、「体育の日」改め「スポーツの日」。この祝日の起源は、1964年の東京オリンピック。当時私は大学2年生でアルバイトに明け暮れていた。オリンピック当日に雨が降ろうと雪が降ろうと、何の関心もなかった。

 私は典型的な苦学生だった。高校卒業以後、親から仕送りを受けたことはない。奨学金と学費免除制度と学寮があったから進学を決意し、生活費は全てアルバイトで稼いだ。贅沢とは無縁の生活。私の貧乏性は、当時の暮らしで身についたもの。

 若さとは大したもの。その当時に、辛いとも苦しいとも惨めとも思ったことはない。が、啄木の、「わが抱く思想はすべて金なきに因するごとし 秋の風吹く」という思いはまさしく、私のものでもある。

 本日、たまたま久しぶりの同窓会幹事会で当時の大学に足を運んだ。駒場寮のなくなったことはさびしい限りだが、キャンパス全体の風景はさして昔と変わらない。往時を思い出させるに十分である。

 あの東京オリンピック前には、土木工事のアルバイトに恵まれた。技術のない学生の日当も結構高かった。駒場構内の作業もあったことを記憶している。級友と一緒に、酒癖の悪い土方の親方の指示で働いたことなどを懐かしく思い出す。家庭教師と土方仕事。そして不定期な雑誌原稿のリライト。私にとっての割のよいアルバイトだった。

 今の学生の生活はどのようなものだろうか。親の経済力にかかわりなく、教育を受けることができるよう制度は進展しているのだろうか。機能しているのだろうか。

 ところで、長く10月10日は、「体育の日」だった。「国民の祝日に関する法律」では、その意義を「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」としていた。「東京オリンピック2020」以来、「体育の日」は「スポーツの日」となった。その意義も、若干変わった。「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う。」というのだ。なんとなく、そらぞらしい。

 「体育」には、軍国教育の臭いがつきまとう。「スポーツ」には商業主義と勝利至上主義が。社会に、スホーツ文化の成熟は未だしなのだ。だれもが、学びつつ、働きつつ、また老後にも、余裕をもって自分なりにスポーツを楽しむことができる文化の定着を願う。

 もう、私の人生には間に合いそうもないのだが。

宗教二世の目で、統一教会「宗教二世問題」を見つめる。

(2022年9月23日)
 実は、と前置きするほどのことでもないが、私は「宗教二世」である。ものごころついて初めて字を覚え、分からぬながらも初めて文章を読んだのは、その宗教団体の「教典」だった。

 私の父は、ある宗教の熱心な信者で、私が5歳のころにその教団の布教師となった。以来私は、高校を卒業するまで教団の中で育った。

 私にとって好運だったのは、その教団がけっして排他的でも閉鎖的でもなく、私の父母も、私の進路を拘束しようとはしなかったこと。そして、小中学校は、教団施設から公立校に通ったこと。

 それでも私はその宗教の色に深く染まった。何しろそれが世界の価値観の全てで、それ以外に拠るべき何物もないのだから。教団は穏やかで居心地のよい場所ではあったが、私が選び取った世界ではなかった。いつのころからか私は、自分にまとわりついた宗教色を拭い去って、教団からの脱出を夢みるようになった。

 高校生のころには、教団の経営する学校の寮舎で、同じ境遇の友人と石炭ストーブにあたりながら、「俺たちに『信仰しない自由』ってないんだろうか」「親が子どもの信仰を決められるんだろうか」「将来の自分にとって信仰がどんな意味をもつのだろうか」などと話し合ったことを覚えている。おそらく、この問が宗教二世問題の原点なのだろう。

 いま、統一教会問題をめぐって、宗教二世問題がクローズアップされている。
 9月16日、全国霊感商法対策弁護士連絡が集会を開き、「旧統一教会の解散請求等を求める声明」を採択した。文科大臣への統一教会についての解散請求を求める内容を中心としながら、6項目の要求をまとめている。そのうちの第4項が、「二世問題」である。

https://www.stopreikan.com/seimei_iken/2022.09.16_seimei01.htm

 厚生労働大臣、こども政策担当大臣及び各都道府県知事に対して、
(1)いわゆる「二世」と呼ばれるこどもが抱える問題について児童虐待と位置づけて、適切なこども施策を策定・実施されたい。
(2)その前提として、担当職員(特に児童相談所職員)に対し、専門家を招致して研修などを実施し、カルト団体の問題点及び「二世」が抱える問題点等についての知見を周知されたい。
と要求するものだが、その理由が具体的で詳細である。その中に、次の一節がある。

 「二世は、両親を通して当該宗教団体から以下のような人権侵害を受けており、児童虐待防止法上の児童虐待に該当するものも含まれる。

? 生まれたときから両親の信仰を強制される(信教の自由の侵害)
? 婚姻前の恋愛の禁止(幸福追求権の侵害)、信者以外との結婚禁止(婚姻の自由の侵害)
? 学費負担拒否(教育を受ける権利の侵害)
? 服装、下着、体毛処理、外出等の生活の全てを管理(幸福追求権の侵害)
? 親の指示に従わない場合の鞭などによる体罰(身体的虐待)
? 親の指示に従わない場合の監禁、軟禁(身体的虐待)
? 布教を優先した育児放棄(ネグレクト)
? 「悪魔、死ね」等の暴言(著しい心理的外傷を与える言動)
? 体調不良時に病院への付添拒否(著しい心理的外傷を与える言動)
? 二世であることを理由にした差別、いじめ(第三者による人権侵害)」

 私はこのうちの???までとは無縁だったが、「? 生まれたときから両親の信仰を強制される(信教の自由の侵害)」だけは、免れようのない宿命的課題として、対峙せざるを得なかった。

 「声明」は、こう述べている。

 「二世問題への対応の難しさは、?二世自身が自らの抱える問題を明確に自覚できていない、あるいは、自覚をしていても自らそれを外部に申告することができないこと、?両親に注意喚起、指導をしても、自らの行為は信仰に基づくものであり、間違っていないと信じ込んでいるため受け入れられず、むしろ、外部の介入が両親によるこどもに対する攻撃を増幅させる危険があることである」という。

 上記?については、自分の体験として頷ける。?についての実体験はないが、その危険と恐怖の深刻さはよく分かる。

 そのような難しさの中で、『二世の宗教選択の自由と、両親の信教の自由(あるいは、(親権者の子どもに対する教育の権能)との関係』をどう捉えるべきか。「声明」はこう語っている。

「我が国が批准している子どもの権利条約第14条は以下のように定めている。
 1 締約国は、思想、良心及び宗教の自由についての児童の権利を尊重する。
 2 締約国は、児童が1の権利を行使するに当たり、父母及び場合により法定保護者が児童に対しその発達しつつある能力に適合する方法で指示を与える権利及び義務を尊重する。

 両親がこどもに宗教教育を行う自由は認められているが(憲法第20条1項、自由人権規約第18条4項)、それは「児童に対しその発達しつつある能力に適合する方法」によらなければならない。」

 信仰をもつ親が、我が子にも同じ信仰をもってもらいたいとしての「宗教二世」の生産・再生産は、けっして親の信教の自由として無制限のものではない。なによりも、子どもの人格、人権の尊重を最優先とする制約に服さざるを得ない。

 子どもは、親次第でどのようにも育つ。子どもの心情は白紙というにとどまらない。親の愛情の中で育つ子どもは、親の信仰を積極的に受容しようとする。マインドコントロールの環境としてはこれに過ぎるものはない。これが、私の体験的「二世問題」の基本視点である。

 キーワードである「子どもの発達能力に適合する方法」の尊重は極めて大切な原則である。これを貫徹することの現実的な困難は明らかではあるが、困難であるからと放擲してはならない。全ての人に、あらゆる局面で、再確認し具体化する努力の持続が求められる。

 おそらくは二世ではない一般信者の獲得においても、子どもについての信仰教化の環境設定が理想として追求されることになるだろう。つまりは、被勧誘者に対して不都合な関連情報をシャットアウトすることと、勧誘者に対して好意を喚起する工夫を施すことである。こうして、「適合性を欠如した」信仰の伝道・教化の成功に結実する。

 なお、私がかつて教団で学んで今につながることもある。教団経営の高校授業には、週一回の「宗教の時間」があった。そこで教団の幹部から、戦前の教団弾圧の際の体験を生々しく聞かされた。このとき培われた権力を憎む心情は今も変わらない。

汲むべき教訓に満ちた、「お粗末極まる反共主義」の跋扈

(2022年2月15日)
 昨年暮の12月22日、自民党は今夏の第26回参院選・岩手県選挙区公認予定候補を決定した。広瀬めぐみという新人、第二東京弁護士会所属の弁護士だというが、まったく無名の人。何者であるか知られていないし、もちろん私も知らない。
 
 この人、はからずも自らのツイートで、自分が何者であるかを自己紹介するところとなった。正確に言えば、2月4日朝のツィートの内容と、その日の夕刻のツィート削除によってである。

 2月10日の赤旗に、要旨以下の記事が載っている。
 「自民候補 共産党に中傷ツイート」「『まず綱領を読んで』党県委の批判文に反響」という見出し。赤旗が紹介する「共産党に対する中傷」の内容は、
 「個人の資本を否定する共産党」
 「自分や他人が稼いだものすべてを党が管理し、分配する共産主義」
 「本質は個人の自由を認めない共産主義」
というもの。

 「共産党員から『まず綱領を読むべきでは』と批判されると、『拝見します』と返事をしたものの、4日夜には全文を削除し」たそうだ。

 この人、悪い人ではなさそう。でも、軽率で、およそ社会科学の素養に欠ける人。軽々に自信のないことを発言して、叩かれると直ぐに引っ込める。朝令暮改を地で行く自民党岸田政権の候補者としては、まことにふさわしいのかも知れない。

 日本共産党岩手県委員会の抗議文は、「党の綱領は、社会発展のあらゆる段階を通じて生活手段としての私的財産が保障されると明記」「共産党がめざす社会主義・共産主義は、人間の自由と全面的な発展が保障される社会」だと強調。「戦前の絶対主義的天皇制の下で平和と民主主義を掲げて不屈にたたかい、戦後も同じ党名で活動することができ、今年で創立100周年を迎える」というもの。この岩手の自民党候補、初めて耳にしたのではないか。

 この人が言う「個人の資本を否定する共産党」とは、「共産主義社会=私有財産制の否定」「共産主義=資本主義の否定」という、どこかで聞きかじったフレーズがごちゃまぜになってのわけの分からぬ文章。共産主義は生産手段の社会化を目指すものではあるが、消費生活に必要な財貨の私有化を否定するような愚を犯すものではない。

 「自分や他人が稼いだものすべてを党が管理し、分配する共産主義」とは、何を根拠とした妄想であろうか。この予定候補者、4年制大学の出身者で弁護士であるというが、ギラつく反共意識だけの人で、知性のかけらもない。慎重にものを言う姿勢もなければ、弱者に対する優しさも感じさせない。

 「本質は個人の自由を認めない共産主義」は、陳腐な反共スローガンだが、無内容。「共産主義の本質}をこう語るからには、その根拠を示す責任があろう。

 ところで、この件はいくつもの教訓に満ちている。

 大学教育を受けた者の知的水準の低下を思い知らされる。
 司法試験の合否は社会科学の素養や理解とはまったく無縁なのだ。
 こんな程度の人物が自民党の候補者になり、もしかしたら議員にもなる。恐るべきことではないか。
 「反共」とは、この程度の底の浅いものなのだ。
 深刻なのは、わけも分からずに「反共」を叫ぶのは、それが集票効果をもつと思わせる状況があるからだ。
 本来の社会主義・共産主義は、人間の解放を目指した思想であり運動である。なによりも、この社会において貧困や格差に苦しむ人々の寄るべきもの。
 だから、「反共」は、支配体制の宣伝による反知性の所産。おそらくは、スターリニズムや中国共産党の専制支配の悪影響なのだろうが、これが功を奏する現状を嘆かざるを得ない。
 しかし、歴史が教えるとおり、反共は、平和や人権や民主主義を擁護する運動の破壊物である。そのことを知らしめなければならない。このお粗末な岩手の候補者にも。

上野戦争での彰義隊、彼らは何のために死を賭して闘ったのか。

(2021年1月18日)
図書館とはありがたいもの。思いがけなくも、目についた「新彰義隊戦史」(勉誠社・大藏八郎編著)という新刊書を借り出した。大判600頁の大著、「彰義隊・百科事典」の趣である。ずっしりと重い。定価は7700円、とうてい自費で買う気にはならない。典型的な図書館本である。

私の散歩のコースは、不忍池どまりのこともあり、ここから石段を昇って上野の山に至ることもある。上野の山全体が、「上野戦争」の舞台であり彰義隊の遺跡でもある。彰義隊員の墓碑もあり、顕彰碑もある。

江戸期、この辺り一帯は広大な「東叡山寛永寺」の境内であった。京の「比叡山延暦寺」に見立ててのこと。不忍池は琵琶湖に見立てられ、当時は舟で渡るしかなかった池中の小島が竹生島に見立てられて弁天堂が建立されたという。

言うまでもなく、寛永寺は幕府の権力に奉仕する宗教施設であったが、幕府崩壊の際に、次ぎに勃興した権力に焼かれている。1968年5月15日の「上野戦争」である。ここに立て籠もったのが彰義隊。隊長天野八郎以下の隊員3000人という規模だが、戦闘参加者は2000人未満とされる。注目すべきは、江戸庶民の戦闘参加はまったくなかったこと。

上野に立て籠もった彰義隊を掃討した、薩・長・肥を中心とする官軍側は2万8000の大軍勢だったという。戦闘員の多寡だけでなく武器の差も大きかった。勝敗は一日で決した。寛永寺36坊はことごとく焼失し、彰義隊側死者数は200人余。負傷者はその数倍に上る。官軍はその屍体の埋葬を禁じて野に晒したという。

私の関心は、彰義隊の「義」とは何であったかということ。人が集団で行動を起こすときには、共通の大義が必要となる。この時代、反薩長の下級武士を結集し、彼らを鼓舞したイデオロギーが「義」であった。その「義」という曖昧で多義的な価値の内実は何だつたのだろうか。

この書の中で、「佐幕派や、彰義隊の『義』」の具体的な内容が、次のようにまとめられている。
(1) 佐幕は勤王のためであり、勤王と佐幕は一つであって、徳川幕府に国家統治の正統性があり彰義隊はそれに従った。
(2) 徳川家の君恩には一死を以て報いるのが幕臣たる彰義隊の節義である。
(3) 戊辰戦争は薩長土の政権奪取の野心から起こったもので幕府を倒し自ら代わることを企図したものに過ぎず、これを幕臣たる彰義隊は傍観できなかった。
(4) たとえ慶喜公が恭順したとしても、幕臣として、徳川家と徳川幕府の社稜を守ることが正しい道である。
(5) 幕府に弓を引く反乱軍に一矢も報いず降伏するのは武門の恥であり、彰義隊士が一命をかけて戦ったのは当然である(正月の鳥羽伏見で1度敗けただけでその後戦らしい戦もせず、お城を無血開城するのは武門の沽券にかかわる)。

また、「義」とは、武士道の徳目の筆頭、中核に位置付けられているもので、「条理に基づき、死すべきときは躊躇なく死し、討つべきときは討つという行動における決断力」であるともいう。どうやら「義」とは、先鋭化された、極端な「主君に対する忠義」であったようである。

今にして思えば、こんなイデオロギーに命を捨てるとはなんたる愚行と言わざるを得ない。皇国史観も、特攻の精神も同様である。大義のために命を懸けよ、という煽動に惑わされてはならない。

強権・スガ政権の正体が見えた。

(2020年10月1日)
スガ政権とは何か。その正体露呈の事態である。意に染まない官僚は切ると宣言した政権。そして、「それは当たらない」の一言で説明責任を拒絶してきた人物の率いる政権。その政権による「日本学術会議推薦の6人、任命されず」という報道に大きな衝撃を受けている。これは、大事件だ。あの、アベ政権ですらやらなかったことを、新米総理のスガがやったのだ。

50年ほどの昔のことだ。私は、23期(戦後の法曹養成制度が発足以来23年目)の司法修習生だった。1971年4月に、2年間の修習を終えた500人の同期生は、弁護士・裁判官・検察官それぞれの道に進んだ。ところが、裁判官希望者の内7人が採用を拒否された。最高裁当局は、「人事に関わる問題だから」として、その理由を一切開示しなかったが、明らかに思想差別であった。

同時に、人事権を握る最高裁当局は、裁判所内の青年法律家協会会員に執拗な脱退勧告を繰り返し、宮本康昭判事補に対する前代未聞の再任拒否まで行った。我々は、頑迷固陋な超保守主義者・石田和外を長官とする最高裁当局の、人事を通じての思想統制であると断じた。このままでは「司法の独立」・「裁判官の独立」が崩壊する、時の権力の意のままになる司法に堕すると危機感を抱いた。

あれから50年たった今、同じことが政権の学術会議会員任命をめぐって生じている。権力によるあからさまな思想差別であり、これを通じての思想統制である。裁判官も研究者も、権力からの介入に自由でなければならない。この度のスガ政権のやり口は、やってはならないことに敢えて汚れた手を突っ込んだのだ。

日本学術会議法による学術会議の会員は210名である。任期は6年で3年ごとに半数が交代する。同法第17条は「日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする」と定める。つまり、日本学術会議の候補者推薦以外に、会員となる道はない。明らかに、法は、形式上の任命権者である内閣総理大臣が専門家集団としての学術会議の推薦を尊重してこれに従うべきことを想定している。現実に、これまで、推薦した候補者が任命されなかった例はないという。

8月末、学術会議は恒例のとおりに、政府に105名の推薦書を提出した。しかし、任命されたのはそのうちの99名のみ。うち6名が任命されなかった。学術会議事務局が官邸に問い合わせたところ、「間違いや事務ミスではない」と返答があった、と報道されている。

推薦されながら任命されなかった研究者6名は、全て第1部門(人文科学分野)である。小澤隆一・東京慈恵会医科大教授(憲法学)、岡田正則・早稲田大教授(行政法学)、松宮孝明・立命館大教授(刑事法学)、芦名定道・京都大院教授(キリスト教学)、加藤陽子・東京大教授(日本近代史)、宇野重規東京大教授(政治学)。

この顔ぶれは、いずれも政権に尻尾を振る似非学者ではない。一見して、政権からその学問上の毅然たる姿勢を厭われたと言ってよい。当然のこととして、「日本学術会議法解釈の誤読」「思想差別」「学問の自由への乱暴な介入」「憲法違反」と批判が出ている。

一方、加藤勝信官房長官は本日の会見で「個々の候補者の選考過程、理由については人事に関することでありコメントは差し控える」「首相の所轄で、人事等を通じて一定の監督権を行使することは法律上可能となっている」「直ちに学問の自由の侵害ということにはつながらないと考えている」と述べたという。50年前の最高裁当局と同じだ。

「首相の所轄で、人事等を通じて一定の監督権を行使することは法律上可能となっている」という、コメントがおかしい。政権は、「人事等を通じて一定の監督権を行使」したことを認めたのだ。

あからさまに言えば、こういうことだ。「この度の日本学術会議会員任命人事において、政権に不都合な学問傾向をもつ被推薦者の任命を拒否することを通じて、政権の姿勢を明確に天下に示し、政権の意向に従順ならざる者に対しては峻厳に対応することを官僚だけでなく、国民一般に知らしめることで、政権の有する監督権を適切に行使した」というのだ。これが、スガ政権の正体というしかない。

これは、ウカウカしておられない。政権に対する最大限の反論・批判が必要ではないか。

あの自民党席からの野次の正体は、天皇制を支えた家父長制の亡霊なのであろう。

杉田水脈という話題の自民党女性議員。安倍政権にとっても自民党にとっても、たいへん重要な人物で大きな役割を果たしている。いや、議員として何かをなし遂げたというわけでも、優れた政策や見識を示したというわけでもない。単に、安倍晋三や自民党が言いたくても言えないホンネをしゃべくるだけの役割を受け持つ人。そのため政権と自民党にとってかけがえのない人だが、われわれ反安倍派にとっても安倍や右翼のホンネを教えてくれる貴重な存在である。

この人、1月22日衆院本会議での玉木雄一郎(国民民主党)代表質問に野次を飛ばして、一躍玉木質問に社会の耳目を集めるという立派な役割を果たした。夫婦同姓の強制が結婚の障碍になっているという玉木の指摘のくだりで、「だったら結婚しなくていい」と言い放ったのだ。しかも2度まで。さすがというべきだろう。

当初は、「自民党女性議員」の野次と報道されていたが、当人が報道陣から追及されて,発言を否定していない。周囲の証言もある。この人の発言と断定して間違いはなさそう。この人の発言であるうえは失言ではありえない。確信犯的発言である。堂々と発言を認めて所信を語るべきところ、そうはしない。この点のごまかしぶりは、安倍晋三とよく似ている。

この人にとっては、人と人とがその意思のみに基づいて障碍なく結婚できることよりは、結婚後の同姓の強制という制度維持の方が重要なのだ。かつてはLGBTを「生産性がない」と攻撃して一躍蛮名を轟かせたこの人が、「結婚による生産性より大切なものが夫婦同姓」というのだ。今の世になんと愚かなと思えども、「こんな人」が議員となっている現実があり、「こんな人」を推す勢力が現実にあるのだ。だから、選択的夫婦別姓がいまだに棚ざらしのままとなって実現していない。

産経ニュースで、杉田はこんなことを言っている。

「旧ソ連崩壊後、弱体化したと思われていたコミンテルンは息を吹き返しつつあります。その活動の温床になっているのが日本であり、彼らの一番のターゲットが日本」「夫婦別姓、ジェンダーフリー、LGBT支援などの考えを広め、日本の一番コアな部分である『家族』を崩壊させようと仕掛けてきました」

恐るべき認識である。この人の頭の中に満ち満ちているものは、「家族」である。それも、《修身斉家治国平天下》の文脈における「家」を構成する「家族」。教育勅語が、「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」とのたもうた国家の単位をなす臣民の「家」。より適切には、旧民法と旧戸籍制度に端的に表れていた「家父長制」下の「家」である。その「家」の尊重は、ひとり杉田水脈特有の突出したイデオロギーではなく、安倍晋三とその取り巻きにとっても同様であり、多くの自民党議員が共有している感性でもある。

 封建的身分制度を支え、天皇主権国家の基礎となったのが「家」であり、「家父長制」であった。「夫唱婦随」「孝」「兄弟の序」という《性差別・長幼の序》という家族内秩序を基本原理としてあらゆる中間社会の秩序が形成され、これを包摂して国家が組み立てられて、その頂点に天皇が位置した。

天皇の赤子たる臣民が、慈父たる天皇を仰ぎ見る構図なのだ。個人の自立、すべての人の平等という自明の理念を拒絶するものが、天皇制を支えた家父長制の「家」である。

明治政府がでっち上げ、国民に教え込んだ愚かなドグマが、いまだに払拭し得ていないのだ。1月22日、玉木代表質問の際のあの野次を発したものの正体は、もしかしたら杉田水脈ではなく、今の世になお成仏することなく彷徨っている「家父長制的『家』制度」の亡霊であったのかも知れない。
(2020年1月24日)

早期アベ退陣は、人類の生存への貢献でもある。

人類は、地球環境の中に生まれた。この環境から抜け出すことはできない。環境に適応して人類は生存を維持し、生産し文明を育んできた。生産とは、環境に働きかけて環境を加工し、環境からの恵みを享受することにほかならない。

太古の過去から現在に至るまで、人類は地球環境に依存しその恩恵を受けながら、環境を不可逆的に改変しつつ文明を築き上げてきた。しかし、地球環境は有限である。幾何級数的な生産力の増大は、人類に地球環境の有限性を意識させざるを得ない。いまや、成り行きに任せていたのでは、近い将来に地球環境は人類を生存させる限界を超える。このことが世界の良識ある人びとの共通認識となっている。

20世紀中葉、人類は戦争によって絶滅する危険を自覚した。にもかかわらず、人類は今日に至るも戦争の危険を除去し得ていない。愚かな核軍拡競争の悪循環を断ちきれないでいる。その事態で、もう一つの人類絶滅の危機、環境破壊問題に遭遇しているのだ。

人類の生産活動と生活様式が,地球環境を破壊しつつある。このまま手を拱いているわけにはいかない。もしかしたら、もう手遅れかも知れないのだ。今、喫緊になすべきことは、生産を縮小しても大気中の二酸化炭素を減らさねばならないこと。マドリードで開かれているCOP25(国連気候変動枠組み条約第25回締約国会議)が、その人類の課題に取り組んでいる。

国家の作用には2面性がある。資本の意を体して経済活動自由の秩序を守ることと、主権者国民の意を受けて資本の生産活動を規制することである。これまでは、前者の側面が強く出てきたが、今や、人類の生存維持のためには、公権力による経済活動の規制が必須だという国際合意の形成が迫られている。

しかし、資本の意を体した化石的抵抗勢力は、すんなりと環境保護のための規制を受け入れがたいとしている。その象徴的人物が、まずは世界の反知性を代表する米のトランプ。開発派のブラジル・ボルソナーロ。そして、石炭火力の継続に固執するアベシンゾーである。

アベの配下でしかないセクシー・進次郎は、今最大の問題となっている石炭火力の削減に言及できず、世界のブーイングを浴びることとなって、この会議中2度目の化石賞という不名誉に輝いた。しかし、これは彼の政治家としての理念の欠如や無能・無責任だけの問題ではない。主としてはアベ政権の姿勢の問題なのだ。政権の意思を決している国内資本の責任であり、こんな政権をのさばらせている、われわれ日本国民の責任でもある。

環境擁護派は、よい旗手を得た。16才の高校生グレタ・トゥンベリである。この若い活動家に、化石派のブラジル・ボルソナーロ大統領が、「ピラリャ」という言葉を投げつけて話題となっている。

私には、このポルトガル語の語感は理解し難いが、「ピラリャ」とは若輩者の未熟を侮辱するニュアンスで語られる品のよくない悪罵だという。「お嬢さん」「娘さん」「若者」ではなく、「ガキ」。これが日本語の適切な訳語だという。

環境保護派の旗手に、化石派から投げつけられた、「ガキ」呼ばわり。環境保護運動全体に投げつけられた悪罵である。しかし、いったいどちらがガキかは明らかではないか。理性的な論理で対抗する意欲も能力もなく、感情にまかせて論争の相手を「ガキ」呼ばわりする方が,真の「ガキ」なのだ。

一方、グレタは「最大の脅威は、政治家やCEOたちが行動をとっているように見せかけていることです。実際は(お金の)計算しかしていないのに」と言った。まさしく、進次郎の姿勢に、ぐうの音もいわさぬ批判となっている。

ブラジル・ボルソナーロ大統領だけではない。アベシンゾーも「ガキ」ぶりではひけをとらない。彼の悪罵は「キョーサントー」であったり、「ニッキョーソ」であったりするわけの分からぬもの。「ガキ」のケンカそのものではないか。

トランプ・ボルソナーロ・アベシンゾー。いずれがティラノか三葉虫。その化石度において、兄たりがたく弟たりがたし。こういう化石化した指導者に任せておくと、本当に人類の生存が危うい。アベを辞めさせることは、人類への貢献なのだ。
(2019年12月12日)

アメリカの若者に社会主義旋風。さて、わが国では?

昨日(9月25日)の赤旗、1面左肩に「米 若者が社会主義旋風」「格差問い予備選で番狂わせ次々」と大きな見出し。さらに3面にも大きな見出しの大型記事が続いている。「社会主義旋風起こす米国の青年」「わたしたちは資本主義の失敗をこの身で知った」「学生ローンに就職難、二大政党制への怒り…。」「国民の声を聞け」「多額の企業献金、ゆがむ政治」。そして、「『共産主義=悪』は古い価値観」。見出しを読むだけで、ほぼ内容かつかめそう。

アメリカ国内で若者の間に社会主義への共感が広がっていることは、以前から話題になっていた。民主党予備選でクリントンを激しく追い上げたサンダースの活躍が実に印象的だった。その「サンダース現象」は一過性のものではなく、2年を経て、11月中間選挙で再び旋風を起こすことになりそうというのだ。あの「サンダース現象」を担った多くの若者たちによって。
赤旗の記事は、現地特派員の記事。その一部を抜粋する。

「今中間選の新たな象徴は、28歳女性の「民主的社会主義者」です。2年前、サンダース氏の選挙運動に参加していた新人アレクサンドリア・オカシオコルテス氏は、6月26日、東部ニューヨーク州の下院予備選挙で、10期にわたり議席を保持し、民主党の次期下院トップと目されてきたベテラン現職を破りましだ。選挙戦で同氏は公立大学・学校の授業料無料化、国民皆保険制度の実現など、労働者目線の政策を訴え、36ポイント差で圧倒的劣勢とみられていた情勢を13ポイントの差をつけ逆転。予想外の勝利で政界に衝撃を与得ました。」

産経も引用しておこう。今年(18年)7月12日の「ウエートレスだった『非エリート』が現職を破った! 『怒り』の代弁者の勝利は続く」というタイトルの記事。

「お目当ては中間選挙に向けたニューヨーク州の民主党予備選(6月26日)で、重鎮の現職下院議員を破ったアレクサンドリア・オカシオコルテスさんだ。1年前までウエートレスとして働いていたヒスパニック系の28歳の女性が演じた大番狂わせは全国区のニュースとなり、時の人となった。
選挙から数日後、同地区にある小さな選挙事務所を訪れると、オカシオコルテスさん本人がいた。「日本の記者です」と自己紹介すると、気さくな笑顔で迎え入れてくれた。取材は「時間が取れない」とNGだったが、チャーミングでカリスマ性のある雰囲気に、一瞬にして引きつけられた。
急進左派の政策を掲げるオカシオコルテスさんは、自らを労働者層の擁護者と位置づけ、エリート層の現職候補との対決を「人々とお金の戦い」との構図を描き、勝利をものにした。
「移民・税関捜査局(ICE)の廃止」を訴え、トランプ大統領への批判も容赦ないが、皮肉なことに、2人には共通点も少なくない。反エリート主義で支持を伸ばし、大口献金に頼らない選挙戦を展開した。
米国人は「怒り」を抱え、その代弁者が勝利する。大統領選からの潮流は変わらない。(上塚真由)」

この記事を書いた産経記者は、アメリカ社会の「非エリート対エリート」の対決構図を描き、「非エリートの怒り」が彼女の勝利を支えたとみた。さすがに産経の記事には、社会主義は出てこない。しかし、赤旗の見方は異なる。若者たちの不満が資本主義そのものの批判に向けられているという報道である。

最も大きな活字の見出しは、「わたしたちは資本主義の失敗をこの身で知った」というもの。「資本主義の失敗」には、やや違和感がある。資本主義とは人の手によって設計されたものではなく、歴史的なある段階で生成した経済構造の現実である。その欠陥はだれかの「失敗」に帰せられるものではなかろう。が、「私たちの世代は、資本主義の失敗を、身をもって経験している」と、若い活動家が言えば、まことに説得力のある言葉となっている。そうだ。資本主義は失敗したのだ。いまや、これに代わるものが必要なのだ。

赤旗は、アメリカ最大の社会主義組織DSA(「米国民主的社会主義者」)の紹介に紙幅を割いている。16年秋には8500人だったこの組織が、この9月に会員が5万人を突破したという。そして、サンダース旋風以来、DSAを物足りないとする若者のアメリカ共産党入党が増加しているという。

今年(2018年)8月のギャラップの調査では、資本主義を好ましいとした若者(18?29歳)45%に対して、社会主義を好ましいとした者が51%にのぼっているという。これは、驚くべきことではないだろうか。

アメリカの若者は怒り、『共産主義=悪』の古い価値観に縛られずに社会主義運動に参加しつつあるのだという。その動きが、今、中間選挙を変えようといている。

さて、ひるがえって日本の若者はどうだろうか。アベに安全パイと思われているようでは情けない。ネトウヨが跋扈し、嫌韓・反中誌やアベヨイショ本が店頭に氾濫する現象は、アベ支持の国民が作り出したものだ。若者の投票行動が保守化著しいとされるのは、いったい何が原因なのだろうか。

若者よ、せめてだ。君の親くらいには社会に怒れ。国政を私物しているアベを批判せよ。社会主義・共産主義を好ましいとまでは言わずとも。

(2018年9月26日)

水俣公害の真の解決とはー石牟礼道子語録から

石牟礼道子が亡くなって、各紙に追悼記事が満載である。昨日(2月11日)には毎日が、本日(2月12日)は朝日が社説で取り上げた。

毎日の社説は、「石牟礼道子さん死去 問いつづけた真の豊かさ」というもの。
「石牟礼さんの代表作『苦海浄土』は鋭く繊細な文学的感性で水俣病の実相をとらえ、公害がもたらす『人間と共同体の破壊』を告発した。1969年刊行の同書は高度経済成長に浮かれる社会に衝撃を与え、公害行政を進める契機ともなった。」

この解説はそのとおりではあろうが、言葉の足りなさがもどかしい。この社説が「苦海浄土」から引用する下記の一節がすべてを語って余りある。これを引用した社説子に敬意を表したい。

「『苦海浄土』の中で老いた漁師が語る。
『魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい』
天の恵みの魚を要るだけとって日々暮らすような幸福。今は幻想とも思える、そんな充足感をどこかに失ってしまった現代を、石牟礼さんの作品は見つめ続ける。」

この漁師の述懐の中に見えるものは、公害行政への批判とか資本主義経済構造の矛盾の指摘などというものではない。それをそれをはるかに超えた、文明そのものへの批判や人の生き方についての省察である。

朝日は「石牟礼さん 『近代』を問い続けて」というタイトル。
「虐げられた人の声を聞き、記録することが、己の役割と考えた。控えめに、でも患者のかたわらで克明な観察を続けた。
運動を支えるなかで、国を信じて頼りたい気持ちと、その国に裏切られた絶望感とが同居する患者らの心情も、逃さずに文字にした。『東京にゆけば、国の存(あ)るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ』(苦海浄土 第2部)
権力は真相を覆い隠し、民を翻弄(ほんろう)し、都合が悪くなると切り捨てる。そんな構図を、静かな言葉で明らかにした。
…………
「水俣」後、公害対策は進み、企業も環境保全をうたう。だが、効率に走る近代の枠組みは根本において変わっていない。福島の原発事故はその現実を映し出した。石牟礼さんは当時、事故の重大性にふれ、『実験にさらされている、いま日本人は』と語った。明治150年。近代国家の出発が為政者から勇ましく語られる時だからこそ、作家が生涯かけて突きつめた問題の深さと広がりを、改めて考えてみたい。」

こちらは、文明論というよりは国家論となっている。
「東京にゆけば、国の存(あ)るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ」は、沖縄の思いでもあろう。「本土に復帰すりゃあ、祖国の存(あ)るち思うとったが、そんなものはなかったなあ」と。

昨日(2月11日)の毎日社会面に、石牟礼道子語録があり、そのなかに、「水俣だって補償金は勝ち取りましたけれども、(魂の対話)という本質はつぶされていますから」という一節が見える。73年の荒畑寒村との対談中の言葉だというから、「水俣だって」とは、「足尾鉱毒事件ばかりではなく…」という意味だろう。しかし、同じことはあらゆる公害闘争でも、原発被害でも、戦後補償問題でも、冤罪事件でも、言えることだろう。被害者が求めているものは、「(魂の対話)」を通じての、人間としての尊厳の回復である。カネの補償で済む問題ではないのだ。

慰安婦問題をめぐる日韓合意も、石牟礼のいう「(魂の対話)という本質はつぶされている」事態の典型だろう。加害者側が、「最終的かつ不可逆的な合意」などとうそぶいている限り、被害者の人間としての尊厳の回復はあり得ない。いま、この問題解決のゴールは遠のくばかりだ。
(2018年2月12日)

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