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澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

《NHK文書開示請求訴訟》次回口頭弁論期日・9月6日(火)11時、103号法廷で。

(2022年8月31日)
 NHKと森下俊三経営委員長の両名を被告として、NHKの報道姿勢と内閣任命の経営委員会のあり方を根底から問う《NHK文書開示請求訴訟》。その第4回口頭弁論が、以下の日程で開かれます。
 9月6日(火)午前11時
 東京地裁103号法廷

 今回の法廷では、原告主張の要約をパワーポイントを使って、原告代理人が説明いたします。原告のお一人浪本勝年さんの意見陳述もあります。ぜひ傍聴をお願いいたします。
 
 なお、今回傍聴券の配布はありません。先着順に入廷してください。余裕をもって時間までにお願いいたします。
 また、引き続いて報告集会を開催いたします。
  同日午後1時から、
  参議院議員会館102会議室で

こちらにも、ご参加下さい。資料を配付し法廷よりも時間をたっぷりとって、パワポの解説をいたします。

 この訴訟は、興味津々の進行となっています。提訴以前には意図的に隠蔽されていた問題の経営委員会議事録(「NHK会長を厳重注意した会議の議事録」)ですが、提訴後にそれらしきものが出てきました。いま、問題は「粗起こしの議事録草案」と言われる、「議事録みたいなもの」の取り扱いが問題となっています。

 放送法第41条は、経営委員会委員長(被告森下俊三)に経営委員会議事録の作成と公表を義務付けています。この「公表」の実行は、NHKがそのインターネットホームページ(NHKの公式サイト)に掲載して、視聴者の誰もが閲覧できるようにすることになっています。NHKは準備書面において、経営委員長(被告森下)の指示さえあれば、ホームページへの掲載に何の差し支えもないことを明言しています。

 放送法で義務付けられている経営委員会議事録の公表がなぜ実現しないのか。その責任は、NHK執行部にではなく、もっぱら被告森下俊三の側にあることが明白になりつつあります。放送法32条2項によって禁じられている番組編成に対する露骨な介入の違法を隠蔽しようという動機以外には考えられません。

 しかも、一定の場合、議事録公表義務には免除の規定がありますが、議事録作成の免除はありません。だから、「公表されてはいなくても、存在するはずの議事録を開示せよ」というのが原告の主張です。もし被告森下が議事録を作成もせず、公表もしないとなれば、明白で重大な法律違反です。任命した安倍内閣の責任も生じますし、現内閣には罷免事由になるものと考えます。

 そして、もう一つの問題は、「議事録みたいなもの」の原資料である録音データです。この資料は作成者の記載はなく、正確性を確認する術はありません。そこで、録音記録を出せと要求したら、何と、「消去しました」というのです。

 えっ? こんな大事なものを簡単に消去? いつ、誰が、どうして、誰の指示で消去したの? バックアップはあるはずでしょう? と問い質したのですが、大事なことはけっして回答しません。森下俊三、そりゃひどい。
 法廷では、この点をパワーポイントを使って、原告代理人が説明いたします。

 もとはと言えば、「クローズアップ現代+」の「かんぽ生命保険違法勧誘問題」報道に端を発した「会長厳重注意の議事録」隠蔽問題です。放送法違反の違法行為を重ねた被告森下俊三の責任だけでなく、これを選任した政権の責任問題が浮かび上がっています。そして、森下を罷免しない現政権の責任も。

 NHKが暴走することのないよう、放送法は、NHKの最高意思決定機関として経営委員会を置き、その重責を担う経営委員12名を「国民の代表である衆・参両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する」という制度設計をしました。当然に良識を備えた経営委員の選任を想定してのことなのです。

 ところが、この経営委員の選任が、安倍政権以来ムチャクチャというしかないのです。政権の思惑で送り込まれた、明らかな違法をして恥じない経営委員たちが、今回の事件を起こしているのです。この訴訟は、その問題に切り込んでいます。
 ぜひとも、ご注目ください。傍聴にも、報告集会にもお越しください。

被疑者山上徹也の弁護人の発言はないのか。

(2022年8月30日)
 世は、安倍国葬と統一教会への対応で揺れている。岸田内閣の支持率は大きく低下し安閑としておられない事態となった。黄金の3年間どころではない。泥沼の政権運営となりつつある。

 何もしないことで支持率を保ってきた岸田政権だったが、決断して動いたことで世論の批判を招くことになった。安倍国葬と内閣改造である。その発端は、安倍晋三銃撃事件。銃撃犯山上徹也の動機は、統一教会への復讐であったという。なぜ、安倍銃撃が統一教会への復讐となるのか、その理由が明らかになるにつれて、統一教会批判が大きな世論となった。統一教会批判は、これとの結びつきを暴かれた安倍への批判にも跳ね返り、安倍国葬反対の世論が噴出した。慌てた岸田は、統一教会との結びつきを指摘された閣僚を挿げ替えようとしての内閣改造に失敗して、さらなる窮地に陥っている。

 あらためて確認しておこう。統一教会とは、宗教団体(カルト)であり、反共政治団体であり、かつ経済的収奪組織である。

 山上徹也は、安倍晋三銃撃という手段で、この三位一体構造を撃った。反共政治団体としての統一教会が反共政治家と緊密に結びついていたからこそ、安倍晋三銃撃が統一教会全体を撃つことになったのだ。

 その山上徹也の現在の動向を知りたいと思うのだが、まったく報道がない。現在鑑定留置中で、その期間は7月25日から11月29日までとされている。長い。そして、常識的にこの被疑者が刑事責任能力を欠如しているとは考え難い。

 まさか、検察側に山上を心神喪失者として起訴を避け、公開の法廷で安倍晋三と統一教会との癒着の立証を回避したいということではなかろう。とすれば、国葬が終わるまではできるだけの世論の静謐を保ちたいとの政権の思惑を忖度してのことなのだろうか。

 ともかく、間接的にもせよ、今山上が何を考えているかを知りたい。起訴前弁護を受任している弁護士がいるはずではないか。被疑者本人に代わって語るべきことはないのだろうか。

 近しい弁護士から教えられた。山上徹也の伯父(徹也の亡父の実兄)は、どうやら大阪弁護士会に所属していた29期の弁護士であるようだ。現在はリタイアしているが、信頼できる弁護人を紹介することは容易な立場だ。また、奈良弁護士会が複数の被疑者国選弁護人を推薦したとも聞く。

 弁護人が山上本人と接見して社会の様子を伝え、その意向を確認したうえで発言を控えているのならそれでよい。が、予想される裁判員裁判で、選任される裁判員が山上にとっては不本意な報道による思い込みにさらされないとも限らない。鑑定留置中に接見できるのは、弁護人だけである。被疑者のスポークスマンとして果たさなければならない役割もあるのではないか。

『DHCスラップ訴訟』「松の廊下事件」紹介 ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第206弾

(2022年8月29日)
 本日は、私の誕生日。夏の終わりの誕生日、誰も気にする人とていない、のだが、「お誕生日おめでとうございます」の便りが届いた。 はて? 私の誕生日を知る人とてないはずだが…。たよりの末尾に、「2014年のお誕生日とは違う、よい誕生日でありますように」という一文。ああ、この方、『DHCスラップ訴訟』を細かく読んでくださったのだ。

 DHC・吉田嘉明から、私に2000万円の名誉毀損損害賠償請求の訴状が届いたのが2014年5月16日。その後当ブログで反撃に出たところ、2000万円の請求が6000万円に跳ね上がった。その、6000万円請求拡張記念日が2014年8月29日、はからずも私への高額な誕生日プレゼントとなった。

 この方の読後感も、「松の廊下事件」に言及している。献本差し上げた方からの暑中見舞い・残暑見舞いの中のこの本の感想が面白い。私と妻のことを知っている人は、口を揃えて「東京高裁松の廊下事件」のくだりが一番面白い、とおっしゃる。それは、そうかも知れない。その一節の抜き書き。

?東京高裁「松の廊下」事件
 反撃訴訟結審の日のこと、思いがけない小事件が出来した。私の妻・政子の筆になる一文を記録しておきたい。

 「閉廷します」と裁判官3名が正面扉の奥に消えると同時に私は素早く、傍聴席後ろにある出入り口の前に立った。
 6年余り、1回も休まずこの裁判傍聴に通っていたので、DHC吉田氏側代理人の今村憲弁護士と会うのは、これが最後の機会と思ったからだ。今村弁護士は、判決の法廷には姿を見せないし、いつも法廷が終わるとさっと消えるように法廷を立ち去ることも知っていた。
 いつもの通りそそくさと帰りを急ぐ今村弁護士の前に立ちはだかって、私は声を上げた。「今村さん、私は澤藤の妻です。今日で法廷が終わりなので、もうお会いすることもないでしようから、一言申し上げたいのです。…本当にこの6年間、大きな迷惑を被りました。こんな裁判の代理人をして、弁護士として恥ずかしくないのですか」と一気に言った。それに対して、今村弁護士は「ハア」と言いながら廊下に出ようとした。相手にしたくはないという感じ。
 続いて私も廊下に出て、しつこいと思いながらも「こんな事件の代理人をして恥ずかしくないんですか」と、再び言い募った。すると今村弁護士は、「仕事ですから」とだけ言いながら、脱兎のごとく駆け出した。私は思わず追いかけた。「あなたは仕事ならなんでもするのですか」「こちらにはたいへんな迷惑ですよ」と大声で言いながら、東京高等裁判所の長い広い廊下を大の男が逃げ、小さな白髪の私が追いかける珍妙なことになってしまった。
 おそらくこの人は、これまでこんな羽目に陥ったことが一度もないんだろう。でも逃げるんだから、きっとやましい思いはあるに違いない。そう思いながら追いかけた。弁護士が逃げるので同伴していたDHCの社員らしき人も必死について行く。
 それを私がわめきながら追いかける。法廷から出てきた私の息子が、これもなにごとならんと追いかけてくる。思い出せば思い出すほどにおかしい。
 今村弁護士も、きっと悪人じゃないんだ。他人には言えない事情があって代理人引き受けたんだろうなとは思ったが、それでもこんなことはやっちゃいけない。もう2度と、こんなみっともない仕事をすることがないようにと心から祈るばかり。
 息子(澤藤大河弁護士)には忘れられない情景になったろう。どんな事情があろうとも自分は、こんな恥ずかしいことはするまいと心に刻んだに違いない。

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DHCスラップ訴訟 」ースラップされた弁護士の反撃そして全面勝利

著者名:澤藤統一郎
出版社名:日本評論社
発行年月:2022年07月30日

≪内容情報≫
批判封じと威圧のためにDHCから名誉毀損で訴えられた弁護士が表現の自由のために闘い、完全勝訴するまでの経緯を克明に語る。

【目次】
はじめに
第1章 ある日私は被告になった
1 えっ? 私が被告?
2 裁判の準備はひと仕事
3 スラップ批判のブログを開始
4 第一回の法廷で
5 えっ? 六〇〇〇万円を支払えだと?
6 「DHCスラップ訴訟」審理の争点
7 関連スラップでみごとな負けっぷりのDHC
8 DHCスラップ訴訟での勝訴判決
9 消化試合となった控訴審
10 勝算なきDHCの上告受理申立て
【第1章解説】
DHCスラップ訴訟の争点と獲得した判決の評価 光前幸一

第2章 そして私は原告になった
1 今度は「反撃」訴訟……なのだが
2 えっ? また私が被告に?
3 「反撃」訴訟が始まった
4 今度も早かった控訴審の審理
5 感動的な控訴審「秋吉判決」のスラップ違法論
【第2章解説】
DHCスラップ「反撃」訴訟の争点と獲得判決の意義 光前幸一

第3章 DHCスラップ訴訟から見えてきたもの
1 スラップの害悪
2 スラップと「政治とカネ」
3 スラップと消費者問題
4 DHCスラップ関連訴訟一〇件の顛末
5 積み残した課題
6 スラップをなくすために
【第3章解説】
スラップ訴訟の現状と今後 光前幸一

あとがき
資料(主なスラップ事例・参考資料等)

https://nippyo.co.jp/shop/book/8842.html

石川啄木と難波大助と山上徹也と

(2022年8月28日)
よく知られた啄木の短い詩に、「ココアのひと匙」がある。

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき心を。

 明らかに、「おこなひをもて語らむとする心」を肯定したテロリストへの共感が詠われている。この詩には、「一九一一・六・一五 TOKYO」と付記があるが、同じ日付の詩に、「はてしなき議論の後」がある。「われらは何を為すべきかを議論す。されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、‘V NAROD!’と叫び出づるものなし」という、あの鮮烈な言葉。こちらは、理論倒れで行動に出ることの出来ない軟弱な自分を責めている趣きがある。

 啄木がこの詩を編んだ1911年の1月18日、「大逆事件」の判決が言い渡されている。幸徳秋水以下24名が死刑となった。罪名は大逆罪、よく知られているとおり、「(天皇等に)危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス」という条文。「危害ヲ加ヘントシタ」だけで死刑、未遂でも、予備・陰謀でも、死刑なのだ。他の刑の選択の余地はない。

 管轄は大審院、一審にして終審である。上訴はない。早々と1月24日に11名、25日に1名の死刑が執行された。他は、「天皇の慈悲による」特赦で無期刑に減刑という。恐るべし天皇制、恐るべし天皇制刑法とその運用。ムチャクチャというほかはない。

 こんな時代、「奪はれたる言葉のかはりに おこなひをもて語らむとする心」に共感を寄せつつも、「冷めたるココアのひと匙を啜りて、そのうすにがき舌触りに、われは知る、テロリストのかなしき心を」と唱うことが精一杯であったろう。

 啄木はかなり詳細に、大逆事件でっち上げの経過を知っていたようである。従って、啄木が共感したテロリストを秋水とするのは当たっていないようだ。

 むしろ、啄木没後の1923年、関東大震災直後の虎ノ門事件(1923年12月27日)における難波大助の方がテロリストのイメージに近い。当時の皇太子裕仁(摂政)をステッキを改造した仕込銃で狙撃した。銃弾は車の窓ガラスを破って同乗していた東宮侍従長車が軽傷を負ったが皇太子にはかすり傷も負わせなかった。それでも、死刑である。

 これは大事件だった。震災復興を進めていた第2次山本権兵衛内閣は引責による総辞職を余儀なくされた。警視総監から道すじの警固に当った警官にいたる一連の「責任者」の系列が懲戒免官となっただけではない。犯人の父はただちに衆議院議員の職を辞し、門前に竹矢来を張って一歩も戸外に出ず、郷里の全村はあげて正月の祝を廃して「喪」に入り、大助の卒業した小学校の校長ならびに彼のクラスを担当した訓導も、こうした不逞の徒をかつて教育した責を負って職を辞した、と丸山眞男の「日本の思想」(岩波新書)の中に、「國體における臣民の無限責任」という小見出しで記されている。

 山上徹也は皇太子ではなく、元首相を銃撃した。こちらは既遂である。時代は変わった。難波大助に比較すれば、まともな裁判を受けることができるだろう。そして、今、世論の風当たりは山上にけっして厳しくなくなっている。

 さて、仮に石川啄木が今にあって山上徹也に、「われは知る、テロリストの かなしき心を」と共感を寄せるだろうか。私は思う。けっしてそんなことはない。あの時代の、あの天皇制の苛酷な支配下の大逆事件であればこそ、啄木は「テロリストへの共感」を詩にし得た。今の世、山上の行動への共感は詩にならない。

 今の世、まだ言葉は奪はれてはいない。奪われた言葉のかはりにおこなひをもて語らむとする心は、詩にも歌にもならない。
 やはり100年無駄には経っていないのだ。私はそう思う。銃撃に倒れた安倍晋三をいささかも美化してはならないにもせよである。 

「日の丸だけは我慢できない。日の丸を掲げた日本軍は、夫を息子を娘を殺した」

(2022年8月27日)
 本日午後、「『日の丸・君が代』不当処分撤回を求める被処分者の会」の総会。
 石原慎太郎都政下の悪名高い「10・23通達」発出以来、もうすぐ19年になる。石原慎太郎も今は鬼籍にある。思えば、なんと長い闘いを続けてきたものか。

 この間いくつもの裁判を重ねて、今は処分取消の第5次訴訟を東京地裁で闘っている。今日の総会には、この間の闘いの中心にいた人々が集まった。憲法を大切に思い、教育の理念を曲げてはならないと自覚した人々である。

 日の丸・君が代の捉え方は多様であり、運動参加者でもけっして一色ではない。だが、この旗と歌とが、かつての侵略戦争と残虐な加害責任の象徴であったことの認識は、共通のものだとは言えよう。朝鮮で、中国で、シンガポールで、ビルマで、仏領インドシナで、フィリピンで…。この旗と歌に鼓舞された天皇の軍隊が、暴虐の限りを尽くした。

週刊金曜日の最新(8月26日)号の巻頭に崔善愛さんが、「日の丸の加害責任」について書いている。全国平和教育シンポジウムでの栗原貞子の講演を引用してのもの。ちょうど50年前1972年の9月、日中国交回復のために田中角栄が北京を訪れた際の、「日の丸」に関するエピソードの紹介である。

 「田中角栄訪中の北京空港で大日章旗が引きおろされる事件が起きた。一人の高齢女性が捕まった。彼女は涙もふかず訴えたと言う。
 『国交回復は結構だが、あの日の丸だけは我慢できない。あの時、日本軍は夫を息子を娘を殺し、私は一人ぼっちとなった。それからの苦しみと悲しみは筆舌に尽くせない。どうか日の丸だけは……』と。
 この憎しみはアジア諸国民の日の丸館の一つの典型ではないでしょうか
 続けて栗原さんはこのように話した
 〈マスコミ始め国民が侵略戦争のシンボルだった日の丸君が代の犯罪性に沈黙し、大勢に順応しているとき、平和教育の中でこのことを教えるのは困難であります。国民の精神的支柱として再び日の丸・君が代・教育勅語を復活させる一方で、被爆国をとなえ、原爆の悲惨を訴えても、「ああ広島」と世界の人々は共感してくれません〉
 栗原貞子の思想を私は深く噛み締める」

 富国強兵・尽忠報国をスローガンに侵略戦争に明け暮れた天皇制国家。その野蛮な国家と分かちがたく結びついた「日の丸・君が代」である。戦後、日本国憲法制定後もなお、加害者としての戦争責任の自覚なく、自らの手で戦争犯罪者を処罰することもなかった我が国であり、国民である。

 本当に侵略戦争を反省し、我が国は生まれ変わったのだという主張をするなら、旧体制とあまりに深く結びついた「日の丸・君が代」を廃棄すべきであった。だが、これを捨てなかったことは、ことさらに「無反省」を誇示するものと受けとめられたであったろう。

 その思いが、北京での戦争被害女性をして、『「日の丸」だけは許せない。あの戦争のとき、「日の丸」を掲げた日本の侵略軍は、戦闘員でもない夫を殺し、息子を殺し、娘を殺し、私は一人ぼっちとなった。それからの苦しみと悲しみは筆舌に尽くせない。私の人生の不幸は「日の丸」によってもたらされた。どうか「日の丸」だけは、私の見えるところに持ちこまないで……』と言わせたのだ。 

 「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱せよ」という職務命令には服しがたいという教員は、この国に再び侵略戦争を起こさせてはならない。そのような兵士を育てる教育であってはならないと自覚した教員である。

 そのような教員の良心が、鞭打たれていることを知っていただきたい。

安倍国葬に反対します。ぜひあなたも、それぞれの立場から、声を上げてください。

(2022年8月26日)

安倍晋三氏の国葬に反対します。ぜひ、あなたも反対の声を。

 私たちは、1969年に最高裁の司法修習生となった同期の仲間です。1971年に弁護士や裁判官となって以来今日までの50年余、一貫して日本国憲法の理念を大切なものとする立場で職業生活を送ってきました。
 これまで、司法研修所卒業時の理不尽な同期生罷免と法曹資格回復の取り組みを振り返った「司法はこれでいいのか」の書籍出版を行ったり、気の合う仲間として忌憚なく話し合ってきましたが、初めての経験として、この仲間で意見をまとめて声明を出そうということになりました。
 その内容は、現内閣が閣議決定によって9月27日に執り行うとしている安倍晋三氏の国葬に反対するというものです。
 併せて多くの皆様に、それぞれの立場から、個人でもグループでも、「国葬反対」の声を上げていただくようお願いいたします。それぞれのご意見を、お手紙やビラやポスターにするか、メールやSNSやプログに掲載して、お知り合いにお伝えいただきたいのです。「安倍氏の国葬に反対する」という声が、全国到る所から湧き上がり響き合って大きな圧倒的世論となることが、戦争ではなく平和、独裁ではなく民主主義という声を力強いものとすることになると思うのです。それは安倍氏が進めてきた憲法破壊の政治と憲法改正の動きへの抵抗の力ともなります。
 私たちが、「安倍氏の国葬に反対する」理由は、以下のとおりです。

1 安倍氏の国葬は、国民に弔意を強制するものとして許されない
  国葬とは、全国民こぞって弔意を捧げるという意味づけの行事です。安倍氏国葬とは全国民にかわって国が同氏への弔意を表明することになります。国民一人ひとりが、国に束ねられて安倍氏への弔意を表明することにされてしまいます。全国民から徴収した税金を財源に費用を支出する点においても、全国民にこの儀式への参加を強制することにもなります。
  安倍氏の国葬については現に、弔意の押し付けはごめんだという多くの人たちがいます。そして、そのような人々の意見や心情は、憲法上の権利(「思想・良心の自由の保障」憲法19条)として、尊重されなければなりません。私たちもまた、各々の思想・良心に基づいて、このような形での安倍氏への弔意の表明を拒否します。こうした意見を無視する安倍氏国葬の強行は、到底容認することができません。

2 安倍氏の国葬は、岸田内閣による政治利用として許されない
  葬儀とは、死者を悼む人々が集う営みですから、本来私的なものであるべきです。同時に国葬そのものにも重大な問題があります。
  安倍氏が衝撃的な亡くなり方をしたことによって、いま同氏への批判を口にしにくい雰囲気があります。岸田内閣が、これを奇貨として、安倍氏への批判を封じるために国葬を画策したとしか考えることができません。そのことは、ひとりの政治家の死を、現政権が政治的に利用しようとするもので、道義的政治的に許されないものです。
  生前の安倍氏は首相として何を行ったでしょうか。教育基本法の「改正」、特定秘密保護法、共謀罪法、集団的自衛権行使を容認した「安保法制」諸法の強行採決は特に記憶に残るところです。権力に物言わせて、政治の私物化、ウソとごまかしの政治手法、行政情報の改竄隠蔽でも世を騒がし、モリ・カケ・サクラ・クロカワ・カワイ等々の不祥事を、不誠実な対応で未解決のままに放置した人物でもありました。戦後レジームの解消をとなえ、国家主義的・軍国主義的な政治姿勢が顕著であり、一面復古的な歴史修正主義者でもあり、他面新自由主義的な経済政策で格差貧困の社会を作った重い責任もあります。このような政治家について国葬を強行実施することに反対の声が広がりつつあることはごく自然なことと言わざるを得ません。

3 国葬は、法律の根拠を欠き財政民主主義に反するものとして許されない
  国のあらゆる財政支出には国会の議決に基づく法的根拠が必要です。この点を憲法は、「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない」(憲法83条)と財政民主主義の原則を宣言し、「国費を支出…するには、国会の議決に基くことを必要とする」(憲法85条)と具体化しています。国葬に国費を投じてよいとする法的根拠はどこにもありません。
  戦前には、国葬令(勅令・1926年制定)が民間人の国葬の根拠となって、当然に国費の支出も可能とされていました。しかし、この勅令は日本国憲法に不適合なものとして「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力に関する法律」1条に基づき失効しています。その後、これを復活すべきとする議論はありません。
  岸田首相は、内閣府設置法上の内閣の所掌事務として「国の儀式」にあたるとして、閣議決定があれば実施可能としています。しかし、国葬令が失効しているにも拘らず、そんな解釈を認めてしまえば、国会の議決を無視した閣議決定でなんでもできることになってしまいます。行政府に対する議会の統制を強化してきた歴史の流れを無視し、憲法の財政民主主義をないがしろにする「岸田流解釈」はとうてい通用するものではありません。

4 安倍氏の国葬は、旧統一教会による被害の拡大に手を貸すものとして許されない。
  安倍氏銃撃事件はなぜ発生したのか。今、安倍氏本人と旧統一教会との深い関係が明らかにされつつあります。まだすべてが解明されたわけではありませんが、いま急ピッチでその全容が明らかになりつつあります。
  少なくとも、祖父岸信介氏以来三代にわたる安倍氏と統一教会との緊密な関係が国民の目に印象深く刻まれました。また、巨額の悪徳商法被害を出し、信者家族の生活を破壊した旧統一教会に対して、安倍氏や他の少なからぬ自民党議員が支援者・庇護者として振る舞っていたことも強い印象を刻んでいます。安倍氏が国葬にふさわしい人物なのかどうかについてはこの点からも強い疑問を抱かざるを得ません。
  安倍氏の国葬を強行すれば、今後の同氏と統一教会との関係、さらには自民党政治と統一教会とのつながりについての徹底解明を阻害することが危惧されます。
そして、名称をかえて現在もなお活動を続けている旧統一教会への追及そのものが放置され、そのことによって、さらなる国民への被害拡大につながることが強く懸念されます。

23期弁護士ネットワーク


 本日記者会見をしてこの声明を発表した。当初は23期だけの声明のつもりだったが、「それだけではややさびしい。賛同者も加えて」との発案があって、少しにぎやかになった。合計賛同者は118名である。

※ この声明を出した趣旨は、「この声明に賛同してください」「この指止まれ」ではありません。私たちは、雑談仲間の雑談の中から、安倍国葬反対の声明を出すことにしました。今やだれもが発信のツールをもつ時代。そのツールを活用して、いろんなグループで、あるいは個人で、それぞれに「安倍国葬に反対」の意志表明をお願いしたいのです。反対理由は、けっしてみんな同じということはなく、それぞれのはずでしょう。それぞれの立場から、それぞれの切り口で、至るところから、多様な「安倍国葬反対」の声を上げていただくよう是非お願いします。

※ 国葬反対の理由には、国葬そのものに反対と安倍国葬だから反対の二派があります。もちろんその折衷派もあります。ちょうど、国旗国歌そのものの強制に反対という原理派と、日の丸・君が代という特定の歴史と結びついた旗や歌だから反対との二派があるのによく似ています。どちらも、原理的に、あるいは具体的に国家と個人との関係を浮き彫りにしています。
  ご注意いただきたいのは、国葬に伴う黙祷や歌舞音曲停止という具体的な行為の強制を問題としているのではなく、国葬を行うということそれ自体が、国民に対する弔意の強制だということです。

※ もう一つ。「国葬は当たり前だ。やらなかったらばかだ」という政治家の発言がありました。私は、この種の発言を恐ろしいと思います。この国は、無謀な国策を止めることができません。理性的な民意を顧みて、立ち止まり振り返ることができないのです。戦争も、原発も、辺野古も、そして今始まった国防国家化も、「征きてし止まん」なのです。せめて、安倍国葬くらいは本当にやめてもらいたい。

「人を不幸にする自由はない」― 信教の自由を盾にする悪徳商法を許さない

(2022年8月25日)
 日弁連は、「消費者法講義」(日本評論社刊)を発刊している。2004年10月に第1版を出し、現在は第5版(2018年10月)となっている。消費者委員会の然るべき執筆者が担当するもので、ロースクールの教科書にもなっていると聞く。

 その第4版までには「宗教トラブルと消費者問題」の章が設けられていた。山口広弁護士が執筆し、これに私のコラムが付けられていた。コラムのタイトルは、「消費者事件の間口と奥行き」というもの。霊視商法弁護団を代表しての執筆であるが、今、あらためて統一教会の霊感商法に世の注目が集まっている。引用して紹介させていただく。


 1989年10月31日、オウム真理教の幹部が横浜法律事務所を訪れた。「われわれには信教の自由がある」との言に対して、坂本堤弁護士は「人を不幸にする自由はあり得ない」と切り返している。その3日後、坂本弁護士は家族とともに非業の最期を遂げ、この言葉が彼の遺言となった。人を不幸にする「宗教」はオウムだけではない。「宗教」を金儲けの手段として、善男善女から金品を巻き上げ利をむさぼる輩はあとを絶たない。犯罪性を指摘されると、彼らが呪文のごとく唱えるのが「信教の自由」である。

 その典型が霊視商法。真言宗の一派を名乗る宗教法人が大量にチラシを撒き、「3000円で特別の能力を持った霊能師が霊視鑑定をする」と集客する。霊視鑑定の結果、例外なく「水子の霊が憑いている」「種々の霊の崇りがある」ことになり、「この霊を供養しない限り不幸は去らない。さらに大きな不幸が来る」と除霊供養料250万円からの被害が始まる。東京都の消費生活センターが調査に乗り出したが、「信教の自由」の壁に阻まれた。「行政が宗教に介入するのか」「宗教弾圧だ」とまで言われたという。

 「信仰の自由」「宗教活動の自由」は憲法上の崇高な理念である。しかし、宗教団体が国家権力と対峙する局面と、宗教団体が私人(消費者)と向かい合う局面とを明確に区別して論じないと、同種悪徳商法を野放しにすることとなる。
 信教の自由はいささかも悪徳商法を許容するものではない。宗教の名による悪徳商法を糾弾し、消費者被害を救済するに際していささかの妥協も怯みもあってはならない。「人を不幸にする自由はない」は、信教の自由の限界を端的に表現した名言として記憶されねばならない。

 組織的な加害に対しては、個別的な被害救済だけではとうてい対応し得ない。とりわけ、この種の大規模事件においては、被害の拡大阻止ないし根絶も受任弁護士の責務となる。弁護団を結成し、集団で多面的な対応が必要である。世論へのアピールも欠かせない。1992年に結成された霊視商法対策弁護団は、憲法問題にも踏み込みつつ、刑事告訴、損害賠償訴訟、破産申立て、宗教法人法上の解散命令申立てなど考えられる限りの法的手続きを行い、被害救済と被害拡大阻止の両面で成功を収めた。「消費者事件」の間口の広さと奥行きの深さを象徴する事件であった。

[澤藤統一郎(弁護士)]

拝啓 ウラジーミル・プーチン大統領 殿

(2022年8月24日)

2022年8月24日

〒106?0041 東京都港区麻布台2丁目1?1
 駐日ロシア連邦大使館気付
 ウラジーミル・プーチン大統領 殿 

                  東京都文京区本郷          
                      澤 藤 統一郎       

 本年2月24日、貴国の地上軍が国境を越えてウクライナに侵攻を開始してから、本日で6か月になりました。両国間の戦争に終結の兆しは見えていません。今、世界が抱える最大の憂慮が未解決のままと言わざるを得ません。

 この半年の間に、ロシア・ウクライナ両国の人々のおびただしい血が流され、尊い命が失われました。人々の住む街が破壊され、故郷を追われた無数の人々が難民となって逃げまどうています。悲惨この上ない現状に、人々の心の中には、恐怖と絶望、憎悪と復讐の気持ちが渦巻いています。

 私は、思います。この事態の責任は貴国にあります。なかんずく、貴殿にあります。人を殺し、建物を壊し、街を焼き、略奪をし、子どもたちの未来を奪い、婦女を辱め、多くの人を故郷から追い立て、飢餓に陥れた、野蛮な行為の責任です。文明に対する罪なのです。
 それだけではなく、大量の核兵器を保有していることを誇示し、その使用を示唆して世界を脅していることについても、貴殿の責任はこの上なく大きいと指摘せざるを得ません。

 戦争とは、殺人と強盗と詐欺と業務妨害と建造物破壊の集積です。侵攻した貴国が戦況優勢であるとすれば、貴国の兵士がウクライナの人々に数々の犯罪を積み重ねていることにほかなりません。また、ウクライナが戦況を押し戻すとは、貴国の若者が大量に死ぬということを意味します。人の血が流れれば、その家族の涙が溢れます。戦争が長引けば、人々の不幸も積み重なります。どちらかの勝利で決着すれば、敗戦国の被害が甚大となります。

 私は思います。戦いを始めた貴殿には、この悲劇の連鎖をすみやかに終わらせる責任があります。そして、戦いを始めた貴殿であればこそ、戦いを終わらせることもできるのではありませんか。
 このまま戦争が膠着して長引けば、悲劇はさらに積み重なります。貴国への国際的な非難はさらに高まり、貴国の権威は地に落ちることにもなります。貴殿の罪と、貴殿に対する怨嗟はさらに深いものとなり、後世の歴史はあなたに「悪人」の烙印を押すことにもなりかねません。

 今、世界が望んでいることは、すみやかな停戦に向けての貴殿の決断です。停戦の実施に伴う具体的な手順は、国連の事務総長と安全保障理事会にお任せすればよいことと存じます。
 一刻も早く、ウクライナに侵攻した貴国の軍を撤収していただき、両国間の平和を回復されるよう、心から要請いたします。それが、両国民と貴殿自身を救う唯一の方法であると確信いたします。


プーチン大統領に抗議・要請のハガキを出そう
ウクライナヘの侵略はやめよ。直ちに侵略軍の撤退を。

たとえば、次の一言でも。
☆国連憲章に違反するウクライナヘの侵略に抗議します。
☆どんな理由があっても、軍事侵略は許されません。
☆人を殺さないでください。人を殺させないでください。
☆戦争に反対する人を逮捕しないでください。
 逮捕した人は釈放してください。
☆けっして核兵器を使わないでください。実戦にも脅しにも。
☆話し合いで解決する努力をしてください。
☆もうこれ以上、血を流さないでください。
☆直ちに、戦闘を停止してください。
☆直ちに、軍隊をロシアに返してください。
☆終戦処理を国連の安保理事会で話し合ってください。
☆このままでは、あなたがヒトラー。
☆絶対に核兵器を使ってはなりません。
☆あなたが始めた戦争です。あなたの責任で終わらせなさい。
☆侵略者ロシアはウクライナから撤退せよ
☆無法者プーチンよ恥を知れ

「思想新聞」主張に見る、勝共連合と安倍晋三との親密さ。

(2022年8月23日)
 これまで、統一教会や勝共連合のホームページに何の関心ももたなかった。が、今は若干の関心がある。生前の安倍晋三や自民党とのつながりがどうだったのか、安倍国葬にどんな見解をもっているのか、そして、世を挙げての統一教会バッシングをどう考えているのかを知りたいからである。

 統一教会のホームページでは、次の記事(2022年8月21日付)が目にとまった。

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報道機関各位

世界平和統一家庭連合広報部

【異常な過熱報道に対する注意喚起】

現在、民放のワイドショーや報道番組、新聞・週刊誌記事を中心として、世界平和統一家庭連合(以下、当法人)および友好団体等に対する異常ともいえる過熱報道が続いております。

(中略)

今後は、事実に反する報道や不当に当法人等を貶める報道に対しては、法的手段を講じて厳重に対処させていただく所存です。

以上

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 そして、勝共連合のホームページには、2022.07.28付「思想新聞」(機関紙)の主張が掲載されている。「我々は『勝共』の使命を貫徹する」という、悲壮感漂う記事。勝共連合自らが安倍晋三との親密さを表白するものとして紹介に値する。以下はその抜粋、但し括弧内は私の註である。

 安倍晋三元首相が銃弾に倒れた。令和4年7月8日、そのニュースが飛び込んでくると、ひたすら無事を祈ったが、安倍元首相は還らぬ人となった。遺憾にも凶悪犯は本連合の友好団体に恨みを持つ者で、その矛先を安倍元首相に向けたと報じられている。痛恨の極みである。安倍元首相は日本のみならず世界の「羅針盤」であった。その安倍元首相を失うことは世界史的損失である(勝共的な歴史観からは、安倍晋三とはかくも偉大で、その死を惜しむに値する人物なのだ)。心から哀悼の意を捧げたい。
 今事件で本連合についてもメディアでさまざまな情報が飛び交っている。中には共産主義勢力による悪意に満ちた偽情報が少なからずある。改めて本連合の設立目的を明記しておきたい
 本連合は政治資金規制法に基づく政治団体である(法の名称が間違い。「政治資金規正法」が正しい。こういう明らかな間違いは、少々恥ずかしい)。主義・主張は「勝共」すなわち「共産主義から人類を解放する」である。共産主義の解放に向けた思想啓蒙を主な使命としている。1968年に世界的宗教指導者の文鮮明師の提唱で笹川良一氏を名誉総裁、久保木修己氏を会長に創立された。

共産主義と戦う全ての人と連帯
 共産主義は大学界、マスコミ界、労働界など各界に浸透し「70年安保決戦」を呼号していた。本連合は学生・青年会員を中心に、「共産主義は間違っている」と、大学内、街頭において果敢に思想戦を展開し、共産主義の正体を暴いた。爾来、共産党は「狂信とデマの勝共連合」と中傷し続けている。今日に至るまで我々は一貫して彼らの誤謬を知らしめており、それゆえに共産主義勢力から攻撃を受けるのは宿命と考える。(自らの積極的な理想や理念は語らない。ただひたすらに、「共産主義は間違っている」というだけの「主義・主張」。虚しくないのだろうか。)

 自民党は立党宣言において「議会政治の大道を歩み、暴力と破壊、革命と独裁を政治手段とするすべての勢力または思想を排撃し、個人の自由と人格の尊厳を社会秩序の基本条件となす」と唱っている。野党では民社党(当時)が「左右の全体主義と戦う」とし、主に労働界で共産主義と戦ってきた。愛国団体・有志もまた然りである。(自分の仲間は、自民党・野党右派・右翼だという。今なら、自民・維新・国民というあたりか)

 こうした人士と連帯・連携して戦うのは当然のことである。本連合と関わる国会議員や有識者に対して非難中傷する向きがあるが、それこそ共産主義の分断工作と言わねばならない。(産経も読売も日本テレビまでもが、「共産主義の分断工作」に加担しているというわけだ)

 本連合は創設以来、運動方針に「憲法改正を実現しよう」を掲げている。70年代に岸信介元首相は自民党立党の原点である自主憲法制定へ全国的な啓蒙運動を展開されていた。共産主義勢力は中国共産党やソ連の意図を汲み日本弱体化を狙って護憲を唱えた。改憲は戦後日本の悲願であり、それなくして真の独立国たり得ない。本連合は同運動に参画し今日に至る。(改憲願望こそが、自民党と統一教会・勝共連合とを結ぶ、切るに切れない赤い糸なのだ)

未曽有の危機に備える国民運動
 89年11月に「ベルリンの壁」が崩壊し、東欧は共産主義の呪縛から脱し、91年にはソ連邦が解体し東西冷戦が終焉した。それに代わって今日、共産中国が台頭し台湾のみならずわが国への軍事侵攻を虎視眈々と狙っている。北朝鮮の核・ミサイル脅威も迫る。ウクライナ軍事侵攻のロシアも日本列島への野望を高める。未曽有の危機である。(自民党の現状認識と瓜二つ)

 これに対して本連合は「防衛力強化、スパイ防止法制定などを通して我が国の安全保障体制を確立する」を運動方針に掲げ、国民運動に取り組んでいる。国内では文化共産主義勢力が国家の基盤たる家庭や伝統、文化を破壊しようと策動している。同性婚合法化や行き過ぎた「LGBT」人権運動はその一端である。本連合はそれらに歯止めを掛け、「正しい結婚観・家族観」を求めている。(反共とは、「文化共産主義」への反対も含む。要するに、「なんでも共産主義のせい」「あれもこれも共産党が悪い」という珍説。)

 こうした勝共国民運動が安倍元首相の希求した「日本を取り戻す」の一助になれば幸甚である。我々は勝共の使命を貫徹する決意を安倍元首相の御霊前に捧げる。

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 記事に説得力は乏しいが、安倍晋三に対する敬意や、親近感や、弔意は伝わってくる。もしかしたら、勝共の諸君は、安倍晋三に対する宗教的な尊崇や畏敬の念を抱いていたのではないだろうか。そんなことを感じさせるほど、安倍晋三と勝共とは親密であったのだ。

統一教会の「家庭」と、安倍自民党の「家族」と、天皇制下の「家」と。

(2022年8月22日)
 統一教会の正式名称は、「世界基督教統一神霊協会(Holy Spirit Association for the Unification of World Christianity)」であった。現在は改称して、「世界平和統一家庭連合(Family Federation for World Peace and Unification)」となっている。

 旧名称には、「基督教」「神霊」という宗教団体らしい単語があったが、新名称にそれらしいものは一切なく、「宗」「教」「神」「霊」の一字すらない。新旧名称の共通単語は、「世界」と「統一」だけで、新名称には「平和」と「家庭」が入った。新名称での略称は「家庭連合」とされている。

 新旧の名称上の変化は、何よりも「家庭」の強調である。英文では、トップに「Family」。統一教会はこれが布教に有益で、かつ、彼らの政治主張にも適合的と考えたのだ。その思想は、自民党主流ないし右派と通底するものである。

 2012年4月に公表された「自民党改憲草案」では、日本国憲法24条に、次の1項を書き加えるものとなっている。自民党は、24条をいじりたい。憲法に「家族」のあり方を盛り込みたくてしょうがないのだ。
 「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」

 「個人」と「国家」との間には、いくつもの中間組織が重層的に存在する。そのうち個人に最も近いものが「家族」であって、強権国家・全体主義国家は、常に家族・家庭を通じての個人支配に虎視眈々なのだ。

 家族ないし家庭を国家統制の手段として利用することに熱心だったのは、戦前の天皇制国家だった。これは、儒教的伝統の「家」の活用でもあった。復古主義的自民党右派が、最も郷愁を覚えるのが、「民族の文化・伝統としての家族秩序」なのだ。端的に言えば、家父長制的「家」の復活への願望である。

 私の手許に、早川 タダノリ(編著)の「まぼろしの『日本的家族』」(青弓社ライブラリー・2018年)がある。これが、なかなかの優れもの。

 「右派やバックラッシュ勢力は、なぜ家族モデルを「捏造・創造」して幻想的な家族を追い求めるのか。家族像の歴史的な変遷、官製婚活、結婚と国籍、税制や教育に通底する家族像、憲法24条改悪など、伝統的家族を追い求める事例を検証する」と問題意識が語られている。一口に言えば、「改憲潮流が想定する『伝統的家族像』は、男女の役割を固定化して国家の基礎単位として家族を位置づけるものである」ということ。私流に翻訳すれば「全体主義国家は、家族を通じて個人を抑圧する」のだ。その典型が近代天皇制における「家」のあり方にほかならない。

この書は、7人の著者による7章からなり、それぞれに面白い。
第1章 「日本的家族」のまぼろし 早川タダノリ
第2章 右派の「二十四条」「家族」言説を読む 能川元一
第3章 バックラッシュと官製婚活の連続性― 斉藤正美
第4章 税制と教育をつなぐもの 堀内京子
第5章 家庭教育への国家介入の近代史をたどる 奥村典子
第6章 在日コリアンと日本人の見えにくい「国際」結婚の半世紀 りむ よんみ
第7章 憲法二十四条改悪と「家族」のゆくえ 角田由紀子

 私は、とりわけ第5章を興味深く読み、知らないことを教えられた。
 全国民のマインドコントロールに熱心だった文部省教学局が、1937年に「國體の本義」を、1941年に「臣民の道」を発刊したことは良く知られている。実は、これに続いて44年4月刊行予定の「家の本義」の編集に手を染めていたが、戦局悪化のためにこの計画は潰えたという。

 常識的に、天皇制国家は「家族国家観」を基礎として成立した。家庭内の秩序を国家大に拡大したイデオロギーである。道徳の基礎としてまず家庭内の秩序の形成と受容を求める。教育勅語の徳目羅列は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」から始まっている。臣民に対する教化の根幹は、「家を思い親に対する孝心を養え。その孝心を忠君愛国の精神に昇華せよ」というものである。

 ところが、未刊に終わった「家の本義」のイデオロギーはこれとは違うのだという。「真に家を思ふのであれば、家を忘れなければならない」「生まれた子どもは『我が子』ではなく、『陛下の赤子』である」「親の務めは『陛下の赤子』を天皇の盾へと育てあげること」と説くものなのだそうだ。「家」あっての「御国」という悠長なことを言っておられなくなり、天皇と国家への戦闘要員の供給源としての「家」を露骨に説くものとなったのだ。

 全体主義国家の家族観として、行き着くところを示したものと言うべきであろう。自民党の復古主義家族観の恐さを示して余りある。これと呼応するがごとき、《私たち統一教会は、家庭を中心として国家救援、世界救援を主張しているのです》という、統一教会の家庭の捉え方も恐ろしい。「反人権・親国家」のイデオロギーとしての「家族」「家庭」「家」、いずれもとうてい受容し得ない。

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