はてなキーワード: 純文学とは
直近十年くらいの純文学は個人の日常生活のある部分を切り取ってそこだけ異様に高い解像度で書くやつがウケがちという風潮があったので(井戸川射子とか町屋良平とか高瀬隼子とか)
街でプロテスト活動をしている人の日常生活を透明化してんじゃん実際居る人なのにさ、みたいな批判はまあ在り得るだろうなと思うのだが、
Twitter(Twitterではない)で大量発生している「リベラルに支配された芥川賞はもうダメだ」と嘆く人々は安堂ホセが恐らく揶揄しているのであろう「ここはとても速い川」みたいなのは読んでない(ヤツらが全員読んでいるなら純文学はもっと売れている)から“政治的なプロテスト(抗議)があるとすごく動揺する。それっておかしくないか”という一文を中心に小っちゃいパラレルワールドが展開しているように見える。
https://anond.hatelabo.jp/20250105165945
上の記事を読んで、ドワンゴの中の人として糸柳で思い出したこと、彼を雇ったドワンゴがどんな会社だったのかを書いてみようと思う。
糸柳を雇ったのは、ドワンゴのエンジニアのトップだったS君だ。ここでは鉄男(仮名)と呼ぶことにする。
糸柳を雇う少し前、僕は鉄男を叱責したことがある。「お前は自分の使いやすい人間しか採用してない。だからてめえは小物なんだ。自分にない能力をもった奴を採用しろ」みたいなことを言った。
鉄男は中卒だ。そう、ドワンゴのエンジニアのトップは中卒だった。いや、鉄男だけでなく、ドワンゴの幹部エンジニアの半分以上は中卒、あるいは高卒だった。
これは当たり前で、当時のドワンゴは天才エンジニアみたいなやつがゴロゴロいる職場だった。同じ天才エンジニアなら、高校も大学も行かずにずっとプログラミングをやっている中卒エンジニアが一番能力が高くなる。プログラムを書く速度が圧倒的に速い。実装力が桁違いだ。
だから、ドワンゴでは中卒高卒エンジニアが情報学部を出たような大卒エンジニアを見下す風潮があって、ぼくはそれを懸念していた。
天才中卒エンジニアは創業メンバーみたいな連中だけで、新卒で入ってきて補充されるようなことはない。インターネットはUNIXの文化で、ようするに大学などのアカデミックな世界からやってきた技術だ。
ドワンゴもコンピュータサイエンスを学んだ大卒エンジニア中心に変えていかないと将来的には戦えないと、ぼくは危機感をもっていた。
だが、ドワンゴでは実装力でエンジニアの格を判断する文化があって、そういう基準で新卒の採用も行われすぎているとぼくは思っていた。
自分にない能力をもったエンジニアを採用しろと鉄男を叱ったのは、個人技ではないチーム開発、スクラッチから全部自前でコードを書くんじゃなくて、世の中にあるライブラリを活用してソフトウェアを組み上げていくのに長けているような、つまりは今後主流になっていくだろうが、これまでの鉄男やドワンゴのスタンスとは違うエンジニアをイヤかもしれないけど積極的に採用しろ、という意味だ。
しかし、なにを勘違いしたのか、鉄男が連れてきたのが糸柳だった。
ぼくに叱責されて反省し、使いやすい社員じゃなく、圧倒的に使いづらいネットでも有名な頭のおかしい問題児を採用したのだという。
「凄いというわけではないですが・・・、まあ、ふつう、ぐらいですかね」
「ふつうで問題あったら普通以下ってことじゃん。なんで採用すんだよ」
ドワンゴはプログラミングの能力が高ければ、メンヘラだろうが、コミュ障だろうが、性格に問題があろうが、もちろん学歴があろうがなかろうが、採用するという方針だった。
これはベンチャー企業だと、そういう難ありの人間でないと優秀なエンジニアなんて採用できなかったからで、なにも難ありを好き好んでいるわけではない。
難ありはプラスじゃない。難ありでも優秀な社員であれば結果的に得をするから雇っているだけだ。
鉄男は自信ありげに答えた。
「ドワンゴの評判が上がります。いえ、世の中全部で上がるわけではないですが、ネットの中の一部で糸柳を雇うなんてドワンゴはなんて懐の深い会社だという評判になります」
「それってかなり偏ったネットの一部だよね。それって本当に得なのかな?」
ぼくは鉄男とその後もしばらく話したが、どうしても糸柳を雇いたいというので、その怪しげな理屈を一応は信じてみることにした。ただ、会社は慈善事業じゃないから、宣伝だけのために頭のおかしい社員を雇うわけにはいかない。ちゃんと普通のエンジニアとして仕事をさせることを条件として糸柳を雇うことを了承した。ちなみにぼくはドワンゴで糸柳を庇っている側の人間と思われていることが多いと思うが実際は違う。鉄男には早く糸柳はクビにしろとよく言っていた。ぼくが庇ったのは糸柳を庇おうとしているドワンゴ社員の気持ちであって、結果的に糸柳を庇うように見えてただけだ。
糸柳は本当に頭がおかしかったが、とにかく普通の社員として扱う、そう決めた。
例えば、当時、糸柳は毎日、twitterに世の中の全ての人間を自分は憎んでいて滅んでしまえとか、なんかおどろおどろしい呪いの言葉を連投して書き込むのが日課だった。
そういう書き込みを見かけたら「おはよー。今日も元気そうじゃん」とレスをつけることにした。返事はなかったが、やがて呪いのツイートは減っていった。糸柳と仲のいい社員から後から聞いたけど、彼はぼくのつけたレスを、さすがだと喜んでいたらしい。
糸柳の数々の奇行はどうせ構って欲しいだけの拗らせだと思っていたので無視して、興味も持たないことにした。なので、よくは知らない。ただ、文章が上手いのは本当だと思ったので、それだけ褒めた。彼は自分は昭和初期の私生活を晒す系の純文学者みたいな文章しか書けないんだと謙遜しながらも嬉しそうだった。
糸柳はドワンゴに入って自分の居場所と幸せを手に入れた。しかし、それはとても不安定なものだった。
糸柳にとって不幸だったのは当時のドワンゴのエンジニアの中では、彼の能力が足りてなかったことだと思う。少なくとも彼はドワンゴで技術力でマウントが取れないと判断したのだと思う。実際のところはともかく、彼が組織で仕事として安定したアウトプットを出すと言うことに向いてなかったのは間違いない。
だから、糸柳は自分がドワンゴに入れたのは、自分が狂っているからだという妄想にしがみつくことになり、一層の奇行に走った。
糸柳の周りの社員から聞いたところによると、ドワンゴ時代の糸柳は年に1回のペースで失踪し、警察から連絡があったという。定期的に暴れて、物を壊したり、他人に迷惑をかけた。会社の階段の壁を殴って穴を開けたのも彼だという。
また、糸柳を雇ったことで、ドワンゴに変な奴の応募が増えた。変だけど優秀な奴の応募もあったが、それ以上に、自分には能力ないですけどメンヘラです、とか謎のアピールをするような応募が増えた。糸柳の周りにはドワンゴの中でも変な社員が集まってきて、いろいろ変なことを始めた。
彼らは頼んでもいないのに糸柳の周辺の近況報告をぼくに教えたがった。
曰く、ネットでニートが集まって共同生活をするギークハウスという企画が話題になったことがあり、彼がいろいろ現代アートみたいなことをやりはじめて話題になり、テレビでも特集された。そこでニートとして紹介されたメンバーのうち半分は糸柳周辺のドワンゴ社員だった。ドワンゴ社員はニートじゃねーだろ。そして彼らが作った現代アートを村上隆が面白がって高額で買い取ってくれた。それらはガラクタの寄せ集めみたいな物なんだが、その中にある冷蔵庫の中身は糸柳が作ったものだ、等々。
糸柳は自分をドワンゴに救ってもらったという感謝の念から、自分も他の誰かを救いたがった。ある日、糸柳が地方から出てきて食べるものがないとネットカフェで呟いていた高校生を拾ってきた。
これは糸柳だけでなくドワンゴエンジニアの多くにいえる特徴だが、人生の進路に悩んでいる若者への助言はワンパターンだ。「なるほど、よくわかった。お前はプログラミングを覚えてエンジニアになれ」。プログラミングの腕だけあれば人生が変えるという神話を信じているのだ。
ネットカフェで拾ってきた高校生はドワンゴのバイトになり、優秀だったのでやがてエンジニアとして正社員になった。
しかし、糸柳は上野で浮浪者を拾ってきて自分の部屋に住まわせ始める。浮浪者がプログラミングを覚えてエンジニアになったという話は聞かなかった。
代わりに浮浪者の一人に女の子がいて、糸柳が恋をしたという話を聞いた。
糸柳に救われた元高校生のエンジニアが糸柳のためを思って、その恋を止めようとしたが、糸柳は逆上し殺害予告をした。糸柳は本当に刃物とかを振り回して実行しかねないので、元高校生をぼくの長野の別荘に匿った。
糸柳はぼくのところに怒鳴り込んできた。ぼくも糸柳と揉み合いになり怒鳴り返した。
半年後、もう大丈夫だから、そろそろ戻ってこいと長野に見に行くと元高校生は彼女を連れ込んで同棲していた。早く会社に戻れと追い出した。
そうこうしているうちに運命の東日本大震災が起こる。糸柳が悪ふざけで、サーバールームに閉じ込められたので助けてくれとかいう、デマツイートをして日本中のネットユーザーが彼のツイートを拡散するという事件が起こる。
冗談だったという事実が分かると、彼はあっという間にパブリックエネミーとなり猛烈な批判にさらされることになった。糸柳の脆い精神は極めて不安定になった。
ぼくは糸柳に金を渡して、すぐに被災地に支援物資を持ってボランティアに行けと言った。そして被災地に支援に行くことは絶対にネットで書くな。言い訳に使うなと厳命した。同時に、ぼくは絶対にネットでは会社の件で謝罪をしないというポリシーでTwitterを使っていたが、この件で、はじめて会社を代表して糸柳の代わりに謝罪をした。
こんなことで糸柳を辞めさせるわけにはいかないと思った。糸柳がやったのはただの悪ふざけだ。こんなので辞めさせるんだったら、糸柳はとっくに100回ぐらいはクビになっている。なんだかんだいって糸柳を雇ったのは善いことをしようとしたからで、そのためにこれまで散々な苦労をしてきたんだろう。糸柳を非難するネット世論からよく思われたいために糸柳をクビにするとしても、それはよく思われたいだけで善ではない。偽善だ。善とはそもそも人知れずにやるものだし、なんなら世界中から非難されても正しいと思うことを貫くことだ。今回の件では、糸柳はクビにしないと社内で宣言した。
しかし、もともと糸柳の存在を心良く思ってなかった人間は社内に多く、批判の声も大きかった。糸柳はドワンゴのエンジニアとして平均的なパフォーマンスを出していない。宣伝効果があるとか言っていたけど、デマツイートの件で、むしろマイナスの宣伝効果になった。糸柳はもう庇えないんじゃないか。理屈としては正しかった。
糸柳の代わりに自分がその分もっと働くからクビにしないでくれという社員が何人も現れた。そういうことを言って守ろうとする社員がいるのであれば、会社としてはやっぱり守るべきだという新しい理屈を、ぼくは社内に宣言した。
しかし糸柳の精神状態は不安定になっていて、仕事のパフォーマンスは出ないばかりか、周りに迷惑をかけ始めた。糸柳を守ろうとした社員が、糸柳の世話をするうちに次々とメンタルをやられ始めた。
もう糸柳を守る理屈はなかった。1人の社員を守るために2人以上の社員が犠牲になるなら、もう会社としては守れない。ぼくは最後の理屈を社内に宣言した。
糸柳が退職した時、鉄男は泣いていた。ぼくは「これに懲りちゃダメだ。もう、一回やろう」と鉄男に言った。「これで僕らが諦めたら、糸柳みたいな人間に関わるなという前例を世の中に残すことになる。そんなことになったら、僕らのこれまでの努力は無駄になるじゃん。絶対に懲りちゃダメだ。何度でもやろう」
鉄男は「正直、自信がない。でもやってみます」と言った。
しかし、その後、中卒の鉄男はドワンゴに増えた大卒エンジニアたちの突き上げにあって、エンジニアのトップを追われた。ドワンゴも大卒の優秀なエンジニアが中心の会社になった。その後、糸柳のような人間を雇ったという話は聞かない。
1年後だか2年後だか、風の噂で糸柳が真面目にエンジニアとして働いていてしかも優秀だという話を聞いた。なんだと思った。ドワンゴ以外ではやっていけないんじゃないかという、僕らの思い込みは傲慢な思い違いだったんだと思った。ドワンゴで奇人変人を無理に演じるより、そんなことでは許してもらえない実社会の荒波に揉まれた方が結局は良かったんだなと思った。
糸柳がよく言っていたのは、自分は糸柳家のエリートだ、という話だ。聞くところによると家族は全て精神病患者で自殺したり入院したりで、糸柳自身も障害者手帳を持っている精神病患者ではあるものの、ちゃんとまともに社会生活を送っているただ一人の人間なのだという。だから、自分は糸柳家に珍しく生まれたエリートなんだと自慢していた。
人間は誰しも与えられた環境で勝負している。遺伝子だったり家庭環境だったり、所属するコミュニティや経済的制約の中で生きていて、それによって人生の選択肢は決まってくる。
世の中の多くの失敗者と呼ばれる人たちは人生の最初からウルトラハードモードのゲームをプレイしているだけであって、彼らの失敗をイージーモードやノーマルモードのゲームプレイヤーが見下したり笑ったりする資格が本当にあるのだろうか。
ぼくにも子供が出来て思うのは、小さい子は全ての瞬間を一生懸命に生きているということだ。その健気な姿に感動するし、誇らしくなる。一生懸命に生きるということこそ、人間のもっとも美しい本来の姿ではないか。
人生をもっとも一生懸命に生きている人間とは、どういう人なのか?それは大谷翔平でもイーロンマスクでもないと思う。彼らは成功者であり、彼らの一生懸命は成功によって報われていて、本人の自覚としては、それほど苦労した努力をしているわけではないのではないかと思う。
生涯を一生懸命に生きている人とは、一生懸命に生きざるを得ないような人たちであり、それはいくら努力しても認められず、仲間はずれにされ、敗者の烙印を押されて、それでもなお生きようと足掻きながら死んでいくような人たち、なんなら自ら命を断つような人たちの中に存在しているに決まっていると、ぼくは思う。
冒頭のドワンゴ以降の糸柳の人生についての記事を読んだが、それでも糸柳は最後まで与えられた過酷な人生の中で一生懸命に戦って立派に死んでいったとぼくは思う。そして僕たちもドワンゴで短い間ではあるが糸柳に対して一生懸命に向き合った。それは良い思い出というにはいくばくかの悲しみを伴う思い出ではあるが、大切な思い出だ。
おしまい。合掌。
いや、本がどうこうじゃなくて、娯楽作品を出力させるなら商用LLMだけじゃなくてローカルLLMが必要だぞって現実の話をしてます
純文学や児童文学作品なら商用LLMでも出力できるけど、元増田はそういうの読みそうもない(噓松では?)って話をしてます
ちな、戦闘シーンなし、性描写なし、殺人事件なしのテキストに限定するなら、このくらいであればパパッと書いてくれる
彼は湯気の立つポットを静かに手に取り、その湯をカップの中に注ぎ込んだ。湯が乾いた麺を覆う音が、小さな部屋の静寂をわずかに乱した。夜の台所はひどく寒く、窓の外に月の光が白く降り注いでいる。彼はその光をちらりと見やったが、ただ視線を戻し、静かに蓋を閉じた。
「三分か……。」
彼はそう呟き、時計を見る。その目はどこか遠い場所を見つめているようだった。
ポットから立ち上る湯気が、冬の冷たさをほんの少しだけ和らげてくれる。しかし、その温もりは彼の指先をかすめるだけで、心の深い部分には届かない。
時計の針が、一つ、また一つと動く音が聞こえる。彼はじっとカップを見つめた。蓋の隙間からわずかに湯気が漏れ、その香りが彼の鼻腔をくすぐる。その香りには懐かしさがあった。だが、それが何を思い出させるのか、彼は思い出せない。ただ、遠い昔、誰かと一緒に湯気の立つ何かを待っていた記憶がぼんやりと浮かぶ。
やがて三分が経った。
彼は蓋を開け、箸で麺を軽くほぐす。湯気が一気に立ち上り、眼鏡が曇る。彼はその曇った視界の中で、ふと微笑んだ。まるでこの曇りが、彼自身の曖昧な記憶を映し出しているかのようだった。
「いただきます。」
彼はそう小さく呟き、箸を静かに口元に運んだ。
外は冷たい冬の夜。カップラーメンの湯気だけが、彼に寄り添う静かな伴侶であった。
暗闇の中で、空気が震えた。
アリスは手に持つ杖を軽く回し、余裕の笑みを浮かべた。額に滲んだ汗を指先で払うその仕草さえもどこか挑発的だった。目の前には鋭い眼光を放つ敵の魔導師が立っている。だが、彼の威圧的な視線など、今のアリスには何の意味もなかった。
魔導師が言ったと同時に、彼の周りの空気が一変した。大地が割れるような音とともに、魔力が集まり、空間が歪み始める。
目の前の魔導師が手を一振りすると、空間が裂け、巨大な氷の槍が次々と現れ、アリスに向かって猛然と突き刺さる。氷の刃が、まるで命を持つかのように速く迫ってくるがアリスは動じなかった。杖を高く掲げ、魔力を集中させる。
「炎の守護!」
杖の先端から、炎の壁が瞬時に立ち上がり、迫る氷の槍を弾き返した。火花が散り、氷が溶けて蒸気となって空中に消えていく。
「ほう、なかなかやるな。」
魔導師は冷笑を浮かべて再び手をかざすと、今度は大地が揺れ、巨大な岩の塊がアリスに向かって迫った。岩の塊は巨大で、まるで山そのものが動いているかのようだ。
だがアリスは動かない。彼女の目はすでに一点を見つめていた。杖を前に突き出し、低く呟く。
「雷の鎖!」
その瞬間、雷鳴が轟き、空から一条の雷がアリスの杖を包み込んだ。雷の力が渦巻き、鋭い稲妻となって地面に落ち、岩を砕いた。その光景は一瞬で周囲を照らし、爆風が吹き荒れた。
「なんだと?!」
「私を舐めないで。」アリスは冷たい声で言い放った。
アリスの周りに小さな火花が舞い、彼女の魔力はさらに高まっていく。杖の先端からは、再び炎の光が漏れ始める。
「終わりよ。」
魔導師が身構えた瞬間、アリスは足元から力強く蹴り出すと、瞬時に目の前に現れた。杖を目の前で一閃させると、炎の刃が魔導師を貫いた。
彼の体が一瞬で焼け焦げ、炎が消えたとき、静寂が訪れる。
アリスは冷ややかな目でその場に立っていた。かすかな息が漏れる。
戦いは終わった
確かこれが初めて読んだビートニック文学の一つだった。車でアメリカ大陸の各地を巡っては行き当たりばったりの旅をする話で終わりも尻切れトンボ、「なんだこりゃ」とひっくり返りながら読んだ。だが、こいつら一生そのまま放浪するんだろうなという感じがあっていい。ちなみに、これ以降も細部には触れないとはいえネタバレをガンガンかましてくので嫌な人は読まないでほしい。あと、この文章は半ばが自分語りというか、酔っ払いが管を巻いているようなものだと思っていただきたい。そもそもこの感想だってほとんどが曖昧な記憶と印象を頼りに書いているのであり、いたっていい加減なものだ。そもそも、僕は正規の文学教育を受けていない、一介の理系のアラフォーのおっさん、文学少年崩れに過ぎないのである。
ところで、これを薦めてくれた友人は「ブローティガンを読むといい」と教えてくれた。文学サークルで村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の幻想パートをもとにした小説を書いていた僕に、その元ネタの一つだと言って手渡してくれたのが「西瓜糖の日々」だった。妙な世界なんだけれども向こうは完全に常識だと思っている語りがすごく好きだし、こちらの世界に存在する物事がいくつか欠落しているのもなんだかいい。
なお、厳密には池澤夏樹の文学全集ではなく文庫版で読んだのだけれど、訳者が同じだったのでここに記載する。そもそも全部順番に読んだわけじゃないしね。
年端もいかない少女と同棲したり酒を飲んでだらしない生活をしたりするゴーギャンとその祖母の過激派フェミニストの二人を主役に据えたお話。この二人が現実に同じ一族から出ているのがまず面白いのだが、自分が生きたいように生きたというかそういう風にしか生きられなかった点ではよく似ている。型どおりに生きられないのよね。
このゴーギャンの祖母フローラ・トリスタンは、作中ではどこにでも出かけては結婚制度の有害さで一席をぶったり、関係ないときにも社会改革の話をしたり、貴族の子弟が幼い少女の性を慰み者にしたと突然告発したりと、かなりアグレッシブな人のようにも書かれているのだが、当時の人権状況はそれ以上にヤバかったってのは頭の中に入れて置かないといけないし、彼女のキャラは作中の誇張もあるだろう。余談だけど作中で言及されるフーリエの空想的社会主義って輪廻転生や数万年後の未来史を含んでいて結構オカルトっぽいのね。
タイトルがまずかっこいい。
プラハの春・ソ連侵攻前後のチェコを舞台にした四角関係小説なんだけれど、いろんな人の現実に向き合う態度が批評されている。その中で全体主義に埋もれてしまう人間の弱点を指摘しているのだけれども、真摯というよりもどこか軽やかというかシニカルだ。ドイツのことわざにいわく、「一回やっただけではやったことにならない」。しかし、人生は一度きり。さて、それでは本当に生きることってできるのか? 屁理屈のようだが、深刻な問いだ。
時系列が入り組んでいるし、作者がちょくちょく顔を出してスターリンの収容所で死んだ息子とか関係なさそうな話をするもんだからちょっとややこしいんだけれど、浮気者の外科医が政治の嵐で一介の窓ふき職人として暮らしているっていう設定の恋愛劇、面白そうでしょ?
ちょくちょく出てくる作者の言葉、これは政治批判というよりも、人間の弱さや神の不在に対する諦念に近い。でも、例えば美しい理念に酔って自己満足に浸る「キッチュ」な態度をはじめとして、クンデラの作品でうまく言語化されていることは多い。個人的に純文学は基礎研究だと思っていて、みんな知っているけれども名づけていない(しばしば望ましくない)感情に名前を与えることがその役割の一つだ(余談だが、僕は政治的にはかなり左寄りなんだが、リベラルの人が正しさ競争というか、自分がどれだけアンテナと意識が高いかを鼻にかけてしまう瞬間に気づくことがあり、そんなときにたいそう居心地が悪いし、無数の人が実際に正しいかどうか自分の中で検討せずに「価値観をアップデート」していくのがプロパガンダみたいですごく怖い。まず自分の価値観・内面をどうするかは完全に個人の問題なのに、価値観や思想にまで触れてこようとするのが見知らぬ他人のベタベタした手がどこからともなく伸びてくるみたいだし、何も考えずにアップデートした人たちはバックラッシュが起きたときに結局それに流されて、下手すりゃ前よりも悪化してしまうだろう。たぶんリベラリズムが好きでもリベラリストはそうでもないんだ。閑話休題)。
作者の顔が割と見えるというか、虚構が虚構であると割り切っているところがあるのがクンデラのメタフィクション風の長編なのだけれど、芥川龍之介の「煙草と悪魔」を読んで以来、こういう語り口がすごく好きなのだ。そういうわけで、某創作講座でメタフィクションを書いたら「言い訳しながら小説を書くな」「このままでは一生成功はおぼつかない」とボロクソに貶されたことがある。悲しい。
あとは、登場人物が普通にモテるので、そういうのが気に食わない人にはあまりお勧めしない(というか、クンデラの小説のキャラってときおり人生における性的快楽の総量を最大化しようと行動している節がある)。僕がテレビドラマを見ないのもそれが理由だ。自分よりも顔のいい男がモテているのを、労働ですり減って帰って来たあとに見る気にはなれないし、ではモテていなければどうなるかと言えば、自分の不器用な振る舞いを指差して笑っていると感じるのである笑。
それはさておいてクンデラは面白かったので何冊か買ったし、再読もした。
これは読むタイミングがあまりよくなかったなと感じている。というのも、この本を読んでから数年後に、経済的には困っていないか、経済的には困っているのだけれども事態を解決しようとしない自堕落な貴族や金持ちの話を読むのが猛烈に好きになった時期があるのだ。たぶん金に困らない奴がうだうだする話が好きになったのはプルースト「失われた時を求めて」以来だ。「人間は暇になると恋愛遊戯に走るか、虚飾にまみれた儀礼を作るか、格付けや番付を作り始める」という趣旨の磯田道史「殿さまの通信簿」か何かの記述を思い出す。あらすじを調べると、上の感想とはかなり懸け離れてるのだが、読んだ内容と心に残していくものは若干ずれているものだ。
この話は基本的には悪魔が魔術・幻術で社会をひっかきまわすドタバタなのだが、冒頭の首ちょんぱがお好きならハマる。背景のイエス・キリストの実在とか彼の処刑にかかわったピラトの救済とか(を描いた劇中劇)はわからなくてもいい。勢いがすごい。ブルガーコフはこういうドタバタが多い。強烈なのは「犬の心臓」で、これは犬を手術で人間にしたらガラの悪い野郎になって人間の権利を侵害するようになるんだが、これはどう見ても革命に乗じてやりたい放題やっているならず者の風刺である。「運命の卵」は確か放射線かなんかを当てた卵からかえった動物が巨大化して街を襲う怪獣大行進である。
自分は悪魔の話が好きだ。ゲーテ「ファウスト」のように際限なく願いを叶えるのも好きだし、アシモフ「小悪魔アザゼル18の物語」のように、悪魔が契約を忠実に守るが穴があり、うまくいかず皮肉な結果になったりするのも好きだ。こういうアイロニーというか、破滅の運命を避けようとして逆にドツボにハマるのは、ギリシア神話やシェイクスピア「マクベス」なんかでも見られ、好物だ。
昨今の情勢からロシア文学が好きだとは言いづらいのだが、自分はまちがいなくロシア文学に命を救われている。ドストエフスキーの、激重感情で身が今にもはち切れそうな人々や、自分の狂気を強烈な理性で押さえつけてはいるものの今にもバランスを崩してしまいそうな人々の存在が、自分のことを受け入れることのできなかった二十代の自分を救ってくれていた。世界に平和が訪れたら、サンクトペテルブルクを流れる白夜のネヴァ川沿いを歩いてみたい。……とここまで書いて気づいたのだが、ブルガーコフはキーウ出身でゴーゴリと同じくウクライナ文学に分類されるじゃないか! 知識が古いままだとうかつなことが言えない。
残雪「暗夜」はカフカが好きな僕は楽しんだ。基本的に何かが欠落したよくわからない世界で、よくわからない理由で翻弄される人間の話が好きだ。これは偏見だが、共産圏は映画を含めてこういう不条理な作品がひたすらうまい。現実が同じくらい不条理だからかもしれない。それが理由で、共産主義時代の東欧文学や映画にハマった時期がある。当時は自分の周りのあらゆることが不条理に感じられていたのだ。とはいえ、カフカのところでも述べるが、これだけ人が苦しんだということは胸が痛い。当時の僕は自分の悩みと痛みのことしか考えられず、不条理なものを求めて東欧に接近していたのである。
バオ・ニン「戦争の悲しみ」はよくわからなかった。これを読んだのが二十歳を迎えるかどうかの頃で、戦争で傷ついた女性がなぜ相手かまわず性交渉を行うようになるかが作品から読み取れなかった。ただ、自分が文学から女性の性について学ぼうとし始めた遠因かもしれない。なんで文学から学ぶんだよというツッコミはしないでほしい。他に学ぶルートが無かった。だから偏ったサンプルばかりで、ある程度バランスの取れた、ハッピーな性生活を送っている人はどうなのかが全然わからない。だって極端な人じゃないとフィクションにするのって難しいからね。
続く。
社会人5年目の男。
社会人1年目の入庁2日目から5年目ももうすぐ終わる今日まで毎日頭の中が「仕事行きたくない」で埋まっている。
朝の電車、帰りの電車、週末の飲み会、彼女とのデートや旅行、家族旅行、友人との旅行や遊び…
そのすべての瞬間において「もう仕事いきたくない」が脳内の大半を占めている。
この4年と8ヶ月、有給意外で仕事を休んだことや休職することなく過ごすことができたのは本当に奇跡だと思ってる。
この地獄のような日々を抜け出すべく今まで小さなことから大きなことまで色々とやってきた。
公認会計士の勉強に仕事以外の時間を費やしたこともあった(途中で監査法人に勤務してる間は今と変わらない生活であることに気がつき断念した)。
小説家になるべく純文学もどきの作文を群像や新潮の新人賞に送りつけた。
ライトノベル作家になろうとなろうとカクヨムにテンプレート盛り盛り増し増しのルサンチマン晴らし小説を連載した。
影廊やFNAFに影響されゲーミングPCを購入してアンリアルエンジンとC#を学習しSteamにいくつかの作品をリリースした。
飲食店を開業すべく仕事終わりや休日にラーメン、ハンバーガー、ピザ、スパイスカレーなどをひたすら作り利益率や開業資金など考えたり飲食店開業の本やサイトを読み漁る日々もあった。
鬼滅の刃に影響されワコムの液タブ、イラストや漫画の入門書を買い漁りジャンプ好きの子供がチラシやカレンダーの裏紙に描くような漫画をいくつか書いて出版社に持ち込むという迷惑行為も行った。
YouTubeにGoProで撮影したドライブ動画や歌ってみた動画なども投稿してきた。
定期的に看板猫が有名な江戸川区の某宝くじ売り場まで出かけ宝くじを購入。
しかし、相変わらず俺は毎日毎日役所まで通勤して窓口で市民からごねられ、電話口で語られる支離滅裂な陰謀論に誠実に耳を傾け、国や県から求められる意味のないデータ入力を行い、メンタル休職している心の風邪ひきさんたちの穴を埋め、係長や課長補佐や課長に対してよろしいかよろしいかよろしいかよろしいかよろしいかよろしいかの毎日だ。
わかってるんだ。
勤め先や被雇用者という立場に縛られない生き方ができている人たちは何も毎日の早起きや通勤が嫌でそういう生き方を選んだわけじゃない。
何かやりたいことがあり、実際に行動し、それに対応した才能や資質が備わっていたから電車と職場に縛られない生活ができているのだ。
俺は結局、毎朝の早起き、電車と雑踏、息の詰まる職場、狂った住民、何もしない見ざる言わざる聞かざるの管理職たちから逃避したいだけなのだ。
そんな人間が何かを成し遂げて経済的成功を納めて電車と職場から抜け出せるわけがない。
俺の毎日は変わらない。
苦しい。
長期連載それ自体は悪くないという人もいるだろうけど、影響を考えると結果としてやはり文化を衰退させるものがあると思う。
長期連載漫画はキャラクターが増え、因縁も増え、連載初期に比べて一話の内容が展開としては薄く(キャラクター関係の描写中心に)なりがち。
そういう漫画ばかりに業界人も読者も慣らされると、新連載漫画も展開の早さで心を掴んでいくより連載後期みたいなキャラクター中心の書き方になっていくようだ。
しかし、まだ話に引き込まれてもいないのにいきなり自己陶酔みたいなキャラクター心理ばかり描かれても、読者はついていけないよ。
新しい話に読者を引き込むそういう力技がないので、必然と売れる漫画はどこかで見たような、最初から特定の読者層を狙いうちにしているようなものばかり。
実際この流れで衰退した文化、日本にはいっぱいあるね。邦画。純文学。
最初は誰にでも楽しまれる娯楽だったのに、だんだんマニア、評論家気取りしか見なくなって市場は雀の涙。
何にも知らない、通りすがりの新規読者にもパッと飛びつけるわかりやすい「面白さ」を提供できないと、漫画もこの道を進むしかないだろう。
漫画は、技術がこなれて芸術性は上がっているかも知れないが、独りよがりで娯楽性が薄れているのではないか? それで良いのか?
業界はもういちど考えてみても良いと思う。
先週出た異世界転生ものに対する、「純文学者」による読者・作者への人格全否定が辛い。
『チートスレイヤー』の時もそうだったけど、雑なイメージで作品を語って、否定して、何が楽しいん?
娯楽小説よりも純文学があまり売れないのは、昔からのことだよ? それ覚悟でこのジャンルを選んでるんじゃないの?
たくさんいる書き手さん、読み手さんの人生がさっと丸めて、戦ってない、みたいなこと、何で言えるの?
昔、子どもが「現世に使命があって転生してきた」系の話を読んで、自分がごっちゃにしてオーバードーズみたいなことをして、騒ぎになったことがあったけど、今の転生ものの読者は(揶揄されるように)年のいった社会人で、別にそういうことも起きてないし。
「異世界にいきます」ってトラックに飛び込む人とか増えてるなら問題だけど。そんなこともなさそうだし。
こんな風に騒ぐのも、炎上商法に乗っかってるのだろうと思うけど、苦しくて吐き出しに来ました。じゃ。
これ結構がんばってもろもろ読んだ(というが「大転生時代」読んでないので問題外だけど)けど、どこらへんで「白人酋長」ってキーワードでてるんだっけ。
たぶん「なろう系は白人酋長ものの一類型だ」みたいにいってるのがあるとおもうんだけど、ちょっと今回の関連でジャストそのものを見つけることは出来なかった。目の前の箱もつかいきらんアホでもうしわけないが、可能なら例示してほしい。
で、なんだけど、白人酋長ものって結構揶揄されること多いけど、別に廃れた古いジャンルってわけじゃなくて世界的に定着した物語の一類型なわけじゃん。おっさんだから新しいのもってこれないけど、モロそのものである「ラストサムライ」とかもそうだし、「アバター」とかなんで宇宙の果てでスペースインディアンを宇宙海兵隊がどうこうとかさ。日本でも転スラなんかよりよっぽど前に幕末にタイムスリップして無双するJIN-仁-なんてのがヒットしてたわけだし、市川沙央も島田雅彦もしらんわけないよな。
つうかそもそもここで言われてる転生ものって「ぼくの地球を守って」とかのオカルトブームのリバイバルじゃねえの?いまのキッズたちよりお前の父ちゃん母ちゃんのほうがよっぽどガチで熱狂してたよ!ギブミーチョコレートとか持ち出す前に戦士症候群とか段階を踏めよ!つかまあ、市川沙央氏はある意味純文学の業界に過剰適応しちゃってるひとなのかもな。しんどいはなしではある。
たとえば市川沙央氏の最近の作品を1〜2作読んだだけで"現代の純文学のあり方はどうのこうの..."と語り出したら、そりゃ全方位からツッコミを受けてもしょうがないのでは。
氏が書いたのはそのくらいに雑なジャンル評だったので。
本読みすらしない人には理解できなんだろうけど
純文学なら純文学の歴史や文脈があって、なろう系ならなろう系の歴史や文脈があって
「なろう系みたいなことをする純文学」ができるのはそれぞれの界隈の文脈がなきゃ成立しないし、
批判してる増田にぶら下げる内容でもないと思ったので別個に書く
https://bunshun.jp/articles/-/73450
まず大前提として、あれは「大転生時代」という書籍の書評である
と読み解いたわけだ
その読解について、著者である島田の言で進めるのではなく、市川沙央の言で書き進めているので
「自分の言いたいことを他人の作品の書評の体で書くなや」みたいな歪なものに仕上がっている
巷でなろう系と呼ばれるものは、ゲームをゲームのまま小説にした作品群なのだ
ゲームを小説化すると、大抵はゲームから離れてリアルに寄ったものになる
漫画になっても同様で、「破壊神を破壊した男」みたいにしてしまう
なろう系作品は、そこを正面から堂々とゲームゲームした世界として描く
何より「世界観の共有」という側面が強い物ではあるだろう
レベル、スキル、ステータス、アイテムボックス、アルファベットのギルドランク
そういう理が働く簡略化された世界が、一般的にイメージされるなろう系だ
防御力が全てをはじき返す
「本当の異世界はあんなゲームみたいにイージーな世界じゃない(キリッ」
ロム兄さんのように颯爽と現れて「まてぃ」が出来るイージーな世界を設計したのだ
なろうにはそうでない作品(言葉が通じない、レベルやスキルなどが存在しない)も探せばあるが
ドラゴンランス戦記じゃなくてフォーチュンクエストが読みたいわけ
言ってしまえば娯楽小説でしかなく、極端な話駅のスタンドで買って乗車中に読み、終わったら捨てる、みたいな消費を前提とした作品群なんだが
そこに、物書きがマジレス・ウエメセな感じで、僕ならこう書くよと言って作品を出してくる場合、大抵は「凡庸な」一般小説になる
そりゃそうだ
ゲームの理を排し、極端な異能を取っ払い、現実延長の世界に描き出すISEKAIとやらなのだから