そうそう。あれは武装の意味があるよね。
メイクなんてまさにそう。
ノーメイクで往来歩くなんて、丸腰で戦場に放り出されたようなもの。
一人で出かけるんだったら、
特に何かに撃たれたりする訳じゃないんだけどね。
言ってることはわかるけどそんなこと言われたってじゃあどうすればいいのかわからない。私に向けられたことじゃないってことはもちろんわかるけど、その枠の中に私が入っているっていうことは事実で。もっと悪い状況だったらいいとはもちろん思わないけど今のうちは言ったってだれも覚えてくれないし考えてくれない。てゆか嘘か大袈裟に言ってるかに思われてんのかね。私にとって重要なことはみんなにとっては重要じゃない。気を使ってほしいわけじゃないけど忘れないでほしいなんて勝手な言い分だって分かってるけど。何かの手助けが必要なほどのものじゃないけど支障がないとはいきれない。私はこれから何年かしたら社会に出ていかなくてはいけないけどこのことは言わなくてはいけないのかな。言わなければあのひとのように詐欺だと罵られるんだろうか。でも私にとってはそんなに大したことではなくても、文面の上では結構なことに聞こえる。それがわかってるから言いたくない。でもやっぱり支障がないとは言えないし。でも障害だって認められれはしない。みんなに言うときだって勇気をふりしぼってるんだよ。冗談じゃない謙遜じゃない本当なんだよ。
これだよ、これしかない。
心の中でも、声に出してもいい。
泣いている自分をイメージするんだ。
イメージの中の自分は大声で泣き叫び、じたばたと暴れまわる。
イメージの中でなら机を叩き割っても良いし、柱をガリガリ引っかいてもいい。
とにかく、泣くんだ。大声で。
実は、私自身も流されているという落ちですか。
ということは、流されるままに生きている人は、自分が流されているままに生きているのか、
自分自身に問いかけることすらしないということですか。
二人!?つまり二人いるんですね。ワッフルワッフル。
KYKY言うのはやっぱり正直感心しないと思ってるモンとして一言。
先輩に敢えて逆らっても自分を主張した彼は、それによって『信用』を得ている。『信用』という言い方が分かりにくければ『キャラ』と言い換えても。
つまり彼は「曲がったことには何が有ろうと黙っていない人間だ」ということを非常に効果的に表現したとも言えるよね。その称号が彼に何をもたらし何を奪うかは分からないけど、この先の彼の世界を確実に変えはするだろう。そしてその世界は彼にとって、より居心地の良い世界なんだ。だって彼は「みんなの和を壊しても良い」と思うほど、その「場」が居心地悪かったわけだから。
つまり、彼には彼なりに「みんなこそ空気読めよ!ここは反論すべき場だろうが!」と感じていたとも言える。この場合、問題は「空気を読むか読まないか」ではなく、「和と個人のプライドはどちらが大切か」という話に過ぎない。それは単なる宗教的教義論争であり、不毛だよ。
結局、空気嫁論争が不毛で、そしてKYKY言うのにおれが感心できないと思ってるのは、実はそれが単に相互的なコミュニケーションの無さ、他者に対する無理解しか意味してないんじゃないかと思う場面が多いからなんだよ。
うーん、理屈ではあるんだけど、あなた自身が「英語や中国語を教えろ」って言ってたことと衝突しないかな。実際、英語とか中国語とか、それから高校レベル以上の数学とか理科とか、あとは歴史とか倫理とかでもそうだけど、学校で学んでも実社会で使ってる人なんてそんなにいないでしょ。
矛盾はしないさ。現在使われている言語(つまり、英語、国語、数学、あるいは今後は中国語なども)を習得することは、それ以外の学科を学ぶ基礎になるでしょ。だから、優先的に学ぶ必要がある。まず、国語の読み書き能力が無ければ、数学や理科社会も理解できない。英語ができなければ、英語で書かれた論文や新聞記事やネット上の情報は読めない。今後は、英語に代わって中国語がそういうポジションに台頭する可能性があるから、中国語も習ったほうがよいかもしれない。対して、その他の理科や社会などの科目っていうのは、英語や国語、数学といったリテラシーさえ学んでしまえば、あとは独学でもどうにかなってしまうものだ。だから、学校で強制して学ばせるものとしての優先順位は劣る。
これは半分当たってる。半分違ってる。まず違ってるところから説明すると、エリートって、「選ばれた人」でしょ?「選ばれた人」は、ある特定の価値基準で「選ばれた人」なわけだ。ある特定の価値観で競争したピラミッドの頂点にいる人が「エリート」。そういう人を生み出すための公教育なんて、くそ食らえだとおれは思ってる。当たってるのは、「基礎となる教育を」っていうところ。色んな人が色んな状況や価値観のもとに生活していて、色んな能力を持ってるのがいいとおれは思う(一握りのエリートがピラミッドの上に立ってるイメージよりは、生態系の網の目のイメージね。)。だけど、最低限の基礎は共有してる必要がある。それが読み書き(聴き話し)能力。数学とか英語とか国語とかのね。(もっと言うと、平面や立体の造形技術や、プログラミング能力も、「読み書き能力」として、あれば良いなと思う。)こういったものさえあれば、全然畑違いの人とでも、コミュニケーションは成り立ちやすい。それに、学校を卒業した人がどんな分野に進もうと、独学するための基礎が固まってるから安心でしょ。
古典が知的権威であるって言ってるの。つまり、古典を知っているかいないかってのが、「教養があるかないかの踏み絵になっている」ってことね。
古典が知的権威なのは、まあ同意。でも、それを学ぶことを全員に押し付けるのはやめたほうが良いって言う話。その理由は前述したとおり。色んな方向に進みたい人たちが共通して学ぶべきものではないよ。強制されるのは最低限でいい。古典については必要ならやればいい。必要ないならやらなくていい。そこは個々人の判断で選択できるようにすべき。
これって…トートロジーじゃね?
そもそもからして、
「この人にとって、理解できない人たち」=「女性」
「この人にとって、理解できる人たち」=「男性」
という「定義」にしてあるから、そこから生まれる結論が「えーい理解できん!」なのは、当たり前と言うよりも、完全なるトートロジーであり何をしたいのかさっぱり意味不明だ。本当は意味不明ってわけでもないが……おそらく、意図的にマイ定義「女性a」「男性a」(便宜的にaをつける)と、一般的に言われる定義の「女性」「男性」を意図的に混合して、さも単なるトートロジーを「自分の論が正しい」というように見せかけようとしているのだ。そしてこういうやり方をやる人は結構いるのでさして意味不明ではない。俺嘘ついた。
要するにファッション命でもない女性とかファッション命である男性、などは、そもそも彼の「男性」「女性」という区分け外の生物であるということだ。あるいは彼の論にあたって、都合のいい結論になってくれるような都合のいい女性・男性サンプルだけを拾い集めて女性、男性の全てということにしているといってもいいが。
こういう人は、「自分の言い分(今回でいえば女ってマジわかんなくね?ファッション命とかマジわかんなくね?)を認めて欲しいけど、主観満載だから突っ込まれちゃう…」ってことが分かっているからこそこうして変にいじくりまわしてなんかいっちょまえの論っぽく体裁整えてるわけで、結局は、自分の言い分に自信がないけど認めて欲しいという気持ちの裏返しなわけだ。この論が通用しないというのはだから本人が一番良く分かっていて、俺が今更「トートロジーじゃんwwwwpgrwwwwww」とかする必要もないけど俺は意地悪だからするのだった。
全員が自分の価値観で生きたら、それはそれで社会が崩壊しそうですがw
「一匹狼同士は気が合うのか合わないのか」
…とりあえずヒキコモリ同士とか結構気が合いますよね。意外と大丈夫なんじゃないかと思います(笑)
本人は意思の元に行動しているつもりでも、傍から見れば流されているようにしか見えないのかも。
つまりは・・・って、もう言わんとすることはわかるよね。
地元奈良では、市民団体とやらが「別なマスコットを新たに勝手に公募キャンペーン」とかやってます。今日のニュースだけど。だから実際に「不評」の声はかなりの規模で上がってるんですよね。
まあ確かに「遷都1300年祭」自体がかなり強引に進められてる事への反動とか、そういう背景もあるわけだけど、実際かなり切ない。デザインがどうとかであんな騒ぐのやめようよ。みんな必死過ぎ。いい加減にしなさいよ、という感じです。
空気よめとか、空気よめてないとかいまいちその言葉自体がピンときてなかったんだけど、この間「もしかしてこれがKYってやつか?」て場面にぶちあたった。
サークルでのことだったんだけど。その場には一人先輩がいて、そのほかは俺含めて皆同い年だった。
それで先輩が、得意げに「そーいや最近のニュースでさ」とあるニュースの事について語り始めた。
「ほんと間違ってるよな世の中!」的な感じでヒートアップしてきて、ま、これはいつもの事なんで、俺含めほとんどのやつは「はは」「まーそうっすねー」と適当に流していたんだが、そこで俺の友達がなんか急に対抗して語り始めたのよ。
「いや、それは違うんじゃないっすか」って立ち上がって、先輩に負けじと熱弁奮いだした。
先輩とそいつ以外の皆、全員「え…?」って感じの顔してたけど、そいつは全くおかまいなしで続けた。
「そういうのは違う」「いやでもこうだから」と先輩とそいつは言い争い始めた。もともと先輩の言い分は酔っ払ったオッサンぽい感じで、たいした内容でもなければ論理もあんまり通っていない、ありがちな論だったため、ガチに議論し始めた俺の友達に押され始め明らかに不機嫌になってきた。うわ、これヤバいわ、と思って結局俺たち他の人間が「まあ色々その辺はあるよな」「なんでも一長一短ってあるし」的に誤魔化し、次の話題へ移行させて事なきを得たんだが……
正直、その友達に俺は少々呆れていた。
なんでそこでガチに議論をし始めるのか?
先の予測がつかないのか?と。
大体、ガチ議論をして、一体何をする気だったのか?
そこでガチに言い返したところで、先輩は不機嫌になるだけで、「そうだなお前の論もありかもな」なんて収まるわけがないし、第一、その友達自身やや思い込みが激しいタイプだから、自分の論を曲げるはずもなく、議論を始める前からお互いに和解する気は100パーない、相手を口で倒すことのみが目的の議論になるというのは分かりきっていたことだ。
若いくせして団塊のオッサンメンタリティを持つ先輩にそんな事を言えば、不機嫌になってサークルのミーティングもgdgdになりと散々な目になるということは安易に予測できる事だ。そして、議論をしたところで先輩の考えが変わるわけないことも。
その上で、なぜ、言い返してしまうのか?
俺は正直呆れた。
そんなもの、適当に流しておけばいいのだ。どうせ言い返したところでまともな議論が実る相手ではないのだから。(というと先輩はうだつのあがらん最低男のようだが、別にそういうわけでもない。他の面ではしっかりしてるしそこそこいい人だ)
そこでなぜわざわざ言い返す?言い返して、誰が何を得るというんだ?先輩は勿論不機嫌になるし、友達だって不機嫌になるし、俺らは俺らでそんなピリピリしたムードの中それでもサークルの話し合いを進めていくためにフォローせねばならない。一体それで誰が何を得するっていうんだよ。何も得られないのに、言う必要もないのに、何故言い返すのか?本当に分からない。言い返して、一体、何がしたかったのか?先輩を黙らせたかったのか?先輩に「お前の論が正しかった」と反省させたかったのかよ?お前が正しいって、皆に認めて欲しかったのか?
何もいつなんどきでもあわせてろというんじゃない。ただ敢えて言い返す必要性のないときに、言い返したところで何も得られないどころかマイナスの結果しかもたらさないであろうことが容易に予測できるときに、それをするっていう神経が分からない。
そう思ったとき、俺はこういう友達がいわゆる「KY」と言われているのかと思い当たった。
たとえば、酒が飲めない人が、「おいおい、空気よんで飲めよ」といわれたりした場合にはそんな空気なぞぶち破って言えばいいと思う。それは、必要性もメリットも十二分にあるからだ。そういうことならどんどん言えばいいし空気も破っていけばいいが、今のばあいのような、「で、それをして何になるんだよ?!」って時に敢えてやる奴は確かに俺も「空気読め」と言いたい。空気読めというか、「予測しろ」といいたい。予測したらとても言う気になれないだろ?不毛な言い合いが続いて、皆の気分が悪くなって終わり。それでもするって奴は一体何がしたいんだよと。「言い負かしてやりたい」ってことだろ、結局は?そんなくだらない個人の欲望に振り回されるこっちの身にもなってほしい。そんなことは二人きりのときにやればいいことだろ。
空気読めっていうとすぐ、「周りに迎合しろというのか!!」と憤る奴がいるけど、そもそもコミュニティ、社会ってもんはそういうもんだろ。皆が皆好き勝手やってたら、社会なりたたないだろ。勿論さっきもいったようにどんな時でも読まねばならないわけじゃなくて、言う必要性・メリットがあるなら空気を読むべきじゃないよ。でもそれらがないのに、いたずらに空気をかきまわして終わる奴は「わがまま」なんじゃないのか。自分のことだけ考えてるだけ。自分の権利を主張するだけ。
それでまだ、「空気をかきまわした責任を取る」っていうんならいいよ。でもおおくの「KY」者は、かきまわすだけかきまわして、後は知らん、だ。今回の場合も、友達は言うだけ言って、あとは不機嫌そうにむっつり黙り込んで終わりだ。そんなん、空気かきまわした責任もとれないくらいなら、余計に言うなよ。無責任で自分勝手すぎだろ。周りの被害ってもんを考えろよ。空気読みたくない!っていうなら、読まなかった場合の責任はお前がとれよ。空気読みたくない上、そんなKYな僕を受け入れてなんて勝手すぎる。なんでお前一人だけ自然体で受け入れてやらなくちゃいけないんだよ?KYでいい、ってんなら、「KY」って言われても憤慨するべきじゃないだろ。空気読みたくないけど、それで「KY」って言われるのは嫌だ、なんて、わがまますぎる。どうしてお前一人だけ自然体で迎え入れなきゃなんねーの?社会ってのは誰かしらちょっとずつ我慢して譲り合って成り立つものなんだよ。それが度をこえたときには空気破ったっていいけど、この程度のことでいちいち破るなんてそりゃ「KY」って言われるよ。
……って、友達を見てて思った。思ったっていうか言ったけど。そんでギャーギャー言い合いして今に至る。
(言い合いの内容
友「でも真実を言うべきなんだ!」
友「でもいやなんだよ!なんか黙っていられない!」
俺「お前が黙っていられないせいで俺らがどんだけ苦労したと思ってるんだよ!そのくらい制御しろよ!ガキじゃないんだし適当にあわせるくらいへでもないだろ」
友「でも嫌だ!あわせるってのが嫌だ!」
俺「お前なぁ、合わせることなしに人間生活どうやって成立させる気だよ。皆はお前のカーちゃんじゃねーんだよ。いちいち世話してらんねーんだよ」
俺「哲学書読みすぎだって」
俺「分かった。じゃあ続きはメールで」
)
そう思っていた時期が、僕にもありました……
……というわけではありませんが
「誰もが気づかないうちに『他人の価値観』に依存して生きていたりするもの」であることを明らかにし、そしてなにより「『他人の価値観』に依存して生きるな」というメッセージこそが我々を取り巻く近代的価値観の実態であることを明らかにした先人達の仕事を踏まえれば、人生はもっと豊かになるかもしれない。つまり
問題は、『幸せ』とは何か?ということです。
かといってガンバリすぎても相手の期待とは違うかもしれないしね。
悩みどころだね(笑)
肩の力を抜いて、「いわゆる定番」を少しアレンジ(そして、できれば少しバランス悪くても無理矢理二人のイニシャルをデザインに組み込むとか)あたりで流すのが一番歓迎されそうですよ。
「靖国」上映中止:右翼団体が試写会 「妨害」イメージ解消 --都内で18日
http://s02.megalodon.jp/2008-0412-2240-29/mainichi.jp/enta/cinema/news/20080412dde041040053000c.html
ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映を中止する映画館が相次いだ問題で、複数の右翼団体の代表者らが発起人となり、東京都内で右翼活動家向けの試写会をすることが分かった。
試写会を準備している別の発起人は「映画を見たが、反日的とは思わない。一部が街宣活動をしたのは事実だが、右翼全体が上映をつぶしたというイメージは事実と違う」と主張している。
ほほう。
そこで、ある推測。
そうすると結局反対してるのは誰かってことなんだけど、熱心に活動してる姿が目立つ議員さんたちは確かに保守よりの人々ではあるけれど、同時に『小泉チルドレン』でもあるんだよね。でもって映画の予告編映像を見ると実に効果的に小泉さんの映像が……要するに「小泉首相靖国参拝」の画が流出するのが厭なだけなんじゃないか、彼ら、という。小泉元首相と靖国イメージが結びつくことを警戒してるのかという推測。
外国でばんばん上映されて評価もされてる映画を日本で差し止めたって宣伝にしかならないわけで、一体何がしたいのかと思っていたけど、確かに「国内的な小泉株」の上下には関係あるよな。アンチ福田な空気を盛り上げつつ、彼の再登場に向けて着々と足場を固めてるときにこの映画、確かにマズいわな色々と(笑)。
結局、この映画を潰そうとしてる話についちゃ右も左も関係なくて、最終的に糸を引いてるのは、小泉氏でもう一花咲かせたい例のメディア対策がお得意な元秘書なんかなんですかね。誰かあの人にコメントでも取りにいかねえかな。
全部ひっくるめてリンク先のページに問い合わせてみればいいと思うお。