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インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

一生かかってもここにある本をすべて読めない

図書館とは「そこを訪れた人たちの無知を可視化する装置である」と、内田樹氏が書いておられました。氏の著作を韓国語に訳されている朴東燮氏が、韓国語版オリジナルとして企画された一冊『図書館には人がいないほうがいい』の日本語訳ーーじゃないですね、もともと日本語で書かれた文章ですから、この場合は日本語版ですかーーに出てくる一節です。

どこまでも続く書棚のほとんどすべての書物を僕はまだ読んだことがない。そして、自分に残された時間の間に読むこともできない。この世界の存在する書物の99.99999……パーセントを僕はまだ読んだことがないし、ついに読まずに終わる。その事実の前に僕はほとんど呆然自失してしまうのです。(23ページ)


図書館には人がいないほうがいい

この「呆然自失」という感覚、とてもよくわかります。図書館もそうですが、私は比較的規模の大きな書店に行くときにも、よくそういう感慨にとらわれます。でも、大きな書店ではあっても蔦屋書店とかジュンク堂とかブックファーストだとあまりそういう感慨にとらわれることが少ないのは、あれはなぜなのかしら。

それはさておき、自分にとって忘れがたいのは、いまはもうなくなってしまった渋谷の大盛堂書店です。たしか「本のデパート」というキャッチフレーズを掲げていたような。スクランブル交差点にはいまも小さな大盛堂書店がありますが、あれとは別店舗で、渋谷駅から公園通りに沿ってすぐのところ、西武百貨店のお向かいぐらい、たぶんいまZARAがある辺りじゃなかったかな。

間口は狭かったものの上の階までぎっしり売り場があって、奥のほうはけっこう複雑な構造だった記憶があります。あまりポピュラーではなさそうな専門書なども多く揃っていて、あの売り場で「ああ、一生かかってもここにある本をすべて読めないんだなあ」といった焦燥感みたいなものに駆られるのがつねでした。

最近、津野海太郎氏の『生きるための読書』を書店で偶然「本に呼ばれて」読んだのを皮切りに、氏の『最後の読書*1、『百歳までの読書術』、『かれが最後に書いた本』など片っ端から読んでいます。さらにその合間に小田嶋隆氏の『諦念後』や藤原智美氏の『スマホ断食』なども読むにつれ、あらためて、ああ、じぶんが生きているうちに読める本はもうそんなに多くない、SNSやネットニュースや動画サイトやゲーム(これはもとから縁がないけど)にうつつを抜かしている場合ではない、とつよくつよく思うのです。


生きるための読書

もとより私は、マンガを除いては電子書籍が読めない(読んだ気がしない・記憶に残らない)体質であることは実証ずみですので、ネットやスマートフォンからはこれまで以上にできるだけ遠ざかって、そのぶん紙の本を読もうと思います。ただでさえ呆然自失とするくらい死ぬまでに読めない本がほとんどだというのに、それがさらに減るのはカンベンしてほしいです。

これも最近、『東京わざわざ行きたい街の本屋さん』の改訂新版が出まして、それほど規模は大きくないものの心ときめく個性的な本屋さんがあまた紹介されています。これからは仕事のない週末に「街の本屋さん」巡りをして、少しでも多く「本に呼ばれる」体験をしよう、Amazonのリコメンドにたよるのではなくてーーそれをこれからの趣味にしようと思い立ちました。


改訂新版 東京 わざわざ行きたい 街の本屋さん

*1:しかも恐ろしいことに、ほんの2年半ほど前にもこの本を読み、このブログにもそのことを書いておきながら、あらためて読んでみたらほとんど内容を覚えていませんでした。若い頃にはまずなかったこうした現象が、ここ数年たびたび起こっているのです。リアルな「老い」を感じます。

Tpongさんのこと

今朝、はてなブログの「購読リスト」を見に行った際、Tpongさんの訃報に接しました。

tpong.hatenablog.com

Tpongさんとは「はてなダイアリー」の頃にオンラインでつながりができ、何度かオフ会でお目にかかったことがあります。自分のブログを検索してみたら、「お話を聞くのが楽しい」とか「時間があっという間に過ぎた」とか、現在の「出不精でコミュ障」な自分からは想像もできないくらい楽しい飲み会だったみたい。

鳥類の写真撮影をライフワークとされていたTpongさん。北京で仕事をしていた時に、大学のキャンパスでよく見かける鳥のことをブログに書いたら、すぐにコメントで「喜鵲(カササギ)ですね」と教えてくださったことを思い出します。

qianchong.hatenablog.com

ネット上でのコメントと、数回のオフ会でつながりがあっただけで、しかもその後は自分の仕事や暮らしの変化もあってほとんど接点はありませんでしたが、こうして存じ上げていた方の訃報に接すると、やはりいろいろと胸に去来するものがあります。私自身もこの歳になって、知人や私淑していた同年代の方々に「さよなら」を言う機会が増えました。

Tpongさん、楽しい思い出をありがとうございました。どうぞ安らかに。

オススメ本とAIによる校正

勤め先の学校には比較的大きな図書館があって、書籍を貸し出す際には、一番最後のページに貼ってある紙に返却期限の日付がスタンプされます。まだ一度も貸し出されたことがない本にはこの紙が貼られていないので、司書さんが紙を貼ったうえで日付を捺します。ときには何十年も前に購入され、現在は閉架になっている本を取り寄せてみたら、私が最初の貸出者だったということもあります。

その図書館が発行しているニュースレターに、「座右の書」を推薦する文章を寄稿してほしいと言われました。学生さんがその本を読むことで、何がしかの気づきを得てくださったらという趣旨だそうです。私は若いころ、ロシア語通訳者・米原万里氏の『不実な美女か貞淑な醜女か』を読んで通訳者を志したので、この本をオススメする文章を書きました。


不実な美女か貞淑な醜女か

文章を書いてから、ふと思いついてAIに校正してもらいました。日本語として不自然な部分や文意がロジカルでない部分を指摘してもらい、それを参考に書き直すためです。私の文章の大意としては、米原万里さんの本をオススメしたうえで、今後生成AIがどんなに進歩したとしても、人間が外語(外国語)を学ぶ意義はなくならないのではないか、というものでした。

そうしたら、Claudeさんからは「全体として、筆者の外国語学習に対する情熱と意義は伝わってきますが、いくつかの論理的飛躍や表現の不正確さが見られます」と言われました。またChatGPTさんからは「文全体として、主張には熱意があり、読み手に共感を与える力はあります。ただし、いくつかの部分で事例や理論の補足が弱く、説得力をもう少し強化する余地があります」とのこと。

そのうえで「『意義はなくならない』と述べていますが、文章全体として、なぜ『意義がなくならない』と言い切れるのかがやや曖昧です。『生成AIの限界』や『人間にしかできない具体的な要素』をもう少し論理的に補強する必要があります」とか、「『世界の切り分け方は言語によって異なる』という主張は言語相対論(サピア・ウォーフの仮説)を基にした考え方として正しい方向ですが、これに異論がある点も触れると説得力が増します(例:人間は言語に依存しない共通の認知基盤を持つという説もある)」とか、「最終段落の『人類は退化していく』という主張は、言語学習の意義を強調するための誇張と見なせます」など、細かい指摘が入りました。キビシイです……。

先日、高橋秀実氏の『ことばの番人』を読みました。よき文章と出版物にはよき校正者と編集者が必要であり、文章は出版物はひとり筆者のみでは成立しないということがよく分かりました。素人の私にはそんな校正者や編集者はいませんから、それをAIにやってもらったわけです。


ことばの番人

なかには明らかに的外れだと思う指摘もありますが、客観的な視点で厳しく突っ込んでくれるのはありがたかったです。ただ、こうやってAIを使って「壁打ち」のように何度もやり取りをしながら自分で自分の文章を校正するのはいいなと思う一方で、あまりやりすぎると自分が自分でなくなってしまうような不安も感じました。

なんというのか、AIに引っ張られすぎると「漂白」されてしまう気がするのです。文章に多少の瑕疵はあっても、その瑕疵がまさにいまの自分のありようなのですから。自分の「不完全さ」を引き受ける勇気みたいなものも大切なんじゃないかと思いました。

AIの指摘をもとに自分で何度も書き直して、原稿を図書館に送りました。実はこの米原万里さんの本、以前に図書館から「学生さんに読んでもらいたい本」を推薦してほしいという要請があってオススメし、購入していただいていました。それで今回の原稿を書いたあとに図書館で『不実な美女か貞淑な醜女か』を探してみました。書棚にそれはあり、裏表紙をめくってみたら、まだスタンプ用の紙は貼られていませんでした。そっと裏表紙を閉じて、書架に戻しました。

ゲーテはすべてを言った

鈴木結生氏の『ゲーテはすべてを言った』を読みました。新聞の書評欄で「文芸ミステリー仕立てながら」、「無限の知の世界を逍遥する楽しさを示してくれる」と絶賛されていたので興味を持って、仕事帰りに寄った書店で買い求め、一気に読了してしまいました(以下、おそらくネタバレになるかもしれない記述があります)。


ゲーテはすべてを言った

ゲーテの名言「とされる」言葉をめぐって、アカデミズムの世界に生きる人々の生態(?)がちょっと衒学的にすぎるんじゃないのくらいの勢いで描かれます。でも決して高慢でもなく鼻につく感じでもなく、博覧強記な作者が次から次へと投げ込んでくる知識やエピソード*1に「へええ」、「ほおお」などと好奇心を刺激されつつ、最後はある種の爽やかさまで感じる……そんな読了感でした。

ドイツ語、英語、ヘブライ語に中国語まで登場するので、語学好きな人間にはことに興味をひかれる一冊です。さらに「済補(スマホ)」とか「文字文字(もじもじ)する」という日本語も新奇だけれどやけに説得力がありますし、登場人物の名前が「博把統一(ひろばとういち)」とか「芸亭學(うんていまなぶ)」とか、いかにも意味ありげなのがまた楽しい*2。そういえば統一の娘の名前「徳歌(のりか)」はひっくり返すと中国語の“歌德(gēdé:ゲーテ)”ですね。

この小説は「名言」をめぐるお話ですが、その名言や格言なるものにまつわる一種の危うさや「いかがわしさ」についても踏み込んでいて、それもまた個人的にはツボでした。先般、アン・モロー・リンドバーグの名言とされる「人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない」の出典が見つからない件について、このブログで追いかけてみたところでしたから。

qianchong.hatenablog.com

作者の鈴木結生氏ご自身はアカデミズムの世界に身を置いておられる方のようですが、その氏がアカデミックなものに対するある種の偏愛ぶりと同時に、どこか冷めた視線をお持ちなのもいいなあと思いました。

*1:思想書や文学書はもちろん、映画から音楽からマンガまでものすごく幅が広いです。

*2:芸亭」は日本最古の図書館とされている施設で、そこで学ぶと読んでもいいですし、「芸亭」を「げいてい」と読めばまんま「ゲーテを学ぶ」という感じで言葉遊びが楽しいです。「藝」が「芸」になったいきさつも中国語学習者ならおなじみの「うんちく」も加味されて「分かる人には分かる」楽しさが追求されています。

冷凍餃子

「夜ご飯しんどくて」冷凍餃子を調理して出したら、子どもは「美味しい!」と喜んだものの夫が「手抜きだよ」と言い放った……という「冷凍餃子手抜き論争」がネット上をにぎわせたことがありました。この話の前段には、スーパーの惣菜売場で高齢男性が「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と言い放って立ち去ったという、いわゆる「ポテサラおじさん論争」もありました。

いずれも「炎上」しやすいことこの上ない話題です。私もふだん炊事を担当しているので、かつてSNSを使い倒していた頃だったら、論争に真正面から突っ込み、憤慨と興奮とSNSでの反応のチェックに心穏やかではいられず、結果、数日は仕事がほとんど手につかない状態に陥ったでしょう。いまさらながら、心惑わすSNSから降りてしまって本当によかったと思います。

ただ「冷凍餃子手抜き論争」に対しては、「味の素冷凍食品」の公式アカウントが「冷凍餃子を使うことは『手抜き』ではなく『手“間”抜き』です」と投稿して喝采を浴び、冷凍餃子のイメージアップにもつながったという展開がありました。もう誰も覚えていないかもしれませんが、中国製の冷凍餃子に高濃度の農薬成分が混入していた事案で大騒ぎになったころ(15年くらい前でしたか)からすれば、隔世の感があります。

かく言う私は餃子を皮から作るのも好きですが、よく冷凍餃子のお世話にもなっています。それこそ「夜ご飯しんどい」ときには重宝するんです。しかもきょうびの冷凍餃子は商品開発の工夫が半端ではなく、油も水もフライパンの予熱なども一切不要で、ただ冷たいフライパンに餃子を並べて蓋をしてから、弱火で5分から7分ほど焼くだけできれいな羽根つき餃子ができてしまうという「進化」っぷりです。

私は冷凍ではない、いわゆるチルドの餃子や生の餃子を買って帰って焼くこともあるものの、昨今の冷凍餃子はそれらに勝るとも劣らないものがあります。味の素には「米粉でつくったギョーザ」というのがあって、これは中高年にもうれしい「さっぱりめ」の味で、スーパーで見つけたら買っています。けっこうレアな商品みたいで、うちの近所のスーパーではたまにしか入荷しないんです。

さらに先日、おなじ味の素の「海老大餃子」というのがスーパーで売られていました。こちらはか・な・り・おいしかったです。bibigoの「王マンドゥ」も春雨が入っていたりして好きなのですが、それをはるかに越えて、もはや「お店屋さん」の餃子みたい。価格は「米粉でつくったギョーザ」の3〜4倍くらいしますけど、これも見つけたら即買いです。

東急ストア三軒茶屋店

私は東急世田谷線の沿線に住んでいて、いつも利用しているスーパーマーケットは松原と上町の「オオゼキ」、それに三軒茶屋の「東急ストア」です。その三軒茶屋の東急ストアがしばらく休業していたと思ったら、昨年末にリニューアルオープンしました。これまではどちらかというと庶民的な雰囲気だった店内が、すこし高級スーパー寄りに変身していたので驚きました。

同社のプレスリリースによると、「三軒茶屋は単身や2人世帯が多いエリア」だとして、その客層に向けた商品のラインナップを意識したようです。確かに、オープンキッチン方式の鮮魚売場や惣菜売場ができ、オーガニック食材や高級食材の冷凍食品スペースがぐんと増え、ワインやクラフトビール、それに合わせたチーズやハムなどおつまみ系の品揃えが充実。ペット用の冷凍食品まで専用の冷凍庫ができていたのは驚きました。

なんというか、かつての西友とかマルエツとかサミット的な雰囲気だったところから、ビオセボンとピカール成城石井に寄せた雰囲気になっていたのです。う〜ん、余計なお世話かもしれませんが、三軒茶屋ってそこまでセレブリティな街ではないんじゃないかと、私などは思うのですが。同僚には「お世田谷にお住まいで」などと冷やかされますが、ほかのエリアはいざ知らず、世田谷線沿線はけっこうひなびた*1庶民的な街だと、じっさいに住んでる自分は思います。350mlの1缶が600円も700円もするクラフトビールがこの街でそんなに売れるかなあ……。

個人的には見ていて楽しい品揃え(あまり手は出せないので申し訳ないけれど)なので、このリニューアルが成功してほしいと思います。それに以前はなかったセルフレジが大量に導入されていて、これも「コミュ障」気味の自分にはとてもありがたいですし。

ちなみに同時期にオオゼキ三軒茶屋店がオープンしたので、こちらもかなり期待して出かけてきたのですが、スペースが狭いせいかオオゼキにしてはちょっと平凡な品揃えになっていて残念でした。オオゼキは店舗によって鮮魚とか野菜とか精肉とか、何かしら個性があって私はいちばん好きなスーパーなんですけど。

*1:都内でも屈指の空き家率の高さだそうです。

東京サラダボウル

コミュニケーションにおいてはいわば「黒子」であるはずの通訳者、それも中国語の通訳者が主人公という珍しいドラマが始まるということで、とっても期待して見たNHKドラマ10の『東京サラダボウル』。原作は黒丸氏のマンガとのことで、こちらも電子書籍版を購入し、並行して読み始めました。

www.nhk.jp


東京サラダボウル ー国際捜査事件簿ー

ドラマは全9回のうちまだ2回目までしか放映されていませんが、いまのところおおむねマンガのプロットに沿った作りになっているみたいです。となれば、やはりこれは、近年「『人種のるつぼ』ではなく『人種のサラダボウル』」論で語られるようになったアメリカ社会を念頭に置きつつ、さまざまな人種や言語や文化、そしてセクシュアリティが混在している現代の東京を描き出していくというストーリーになるのでしょう。

仕事柄とても興味をそそる内容ですし、第2回目で主人公の有木野了(松田龍平氏が演じています)が中国人の沈一諾という人物に通訳の種類(逐次通訳や同時通訳など)についてレクチャーするところなんかは、「まるでうちの学校でやってる授業みたい!」と同僚と一緒に盛り上がりました。中国語のスラング“打臉”をキーワードにした誤訳騒動も、すごく興味深い(というか身につまされます)。

ただ、松田龍平氏はとても頑張ってらっしゃる*1ので、こんなことを言うのは無粋なのですが、やはりセリフの中国語じたいはとても拙く、聞きづらくて、私自身はどうしてもドラマに入り込めませんでした。このドラマを見るのは主として中国語を解さない日本語母語話者の方々なのですから、そのへんのリアリティなど最初から追求していないことは分かっているとはいえ。

あと、無粋ついでに申し上げれば、ほかの出演者の演技もかなり表層的というか「つくりもの感」が否めません。どうして日本のドラマはこうなっちゃうのかな。中国語圏にもいわゆるアイドルドラマみたいなのはあって、お世辞にも質が高いとはいいがたい作品もあります。でもその一方で、俳優の演技に知性と技術の深みに加えて人間の深さをも十二分に感じる、こちらが襟を正されるようなドラマも多い。

かつて私は、自分が日本語母語話者だから日本人俳優の演技やセリフに対して不当に点が辛くなるのだと思っていました。逆に中国語圏や英語圏のドラマに優れたものを感じるのは、畢竟それらの言語が母語ではないからなのだと。でもここ数年、職場で接する多くの外国人留学生が異口同音に「どうして日本のドラマは演技のヘタなアイドルが主役をやるんですか」と言うのを聞いて、やはり現代日本の(かつてはいざしらず)ドラマの質は諸外国に比べて相対的に低くなっていることを認めざるを得なくなりました。

実際、私はもう長い間、朝ドラも大河もその他のドラマも、日本のものはほとんど見なくなりました。といってもテレビじたいをほとんど見なくなっているので、私が言ってもあまり説得力はありませんが。


井上純一『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』p.5

かつて劇作家・演出家の平田オリザ氏が、諸外国では演劇専門の高等教育機関があるのに日本にはそれがないと指摘されていました。その後平田氏らが旗振り役となって兵庫県豊岡市の芸術文化観光専門職大学が開校したりしていますが、これとてまだ緒についたばかり。中国の「中央戯劇学院」、「上海戯劇学院」、「中国戯曲学院」や台湾の「国立台北芸術大学演劇学院」みたいな国立の学府はいまだありません。東京藝術大学にも演劇学科はないものね。

日本のドラマや映画をすべて見ているわけでもないくせに、ちょっと大風呂敷を広げすぎました。でも今回久しぶりに日本のドラマを見て、これは作り手の問題とともに受け手の問題でもあるのではないかと思ったので、こんな一文を書いてみた次第です。受け手がもっと厳しい意見(悪口ではなく批判)を持たなければ、日本のドラマや映画の凋落はもっとひどくなるのではないかと思うから。

*1:「中国語を話す役は初めてで、先生にマンツーマンで丁寧に教えてもらいました」とインタビューで語っておられます。

翻訳をジェンダーする

職場の専門学校では、外国人留学生が通訳訓練の一環として日本語の演劇に取り組んでいます。脚本は私が書いているのですが、一昨年に上演した、擬人化されたさまざまな料理たちが「世界三大料理」の座を争うというコメディ『世界三大料理〜帝国の逆襲〜』には、こんなセリフがあります。

アメリカ料理:Make America great again and again and again! 茶番は終わりよ!
フランス料理:ちょっとあんた、まだ性懲りもなく表舞台に登場するつもり?
アメリカ料理:なんだかんだ言っても、やっぱりアタシが出張らないと、世界の秩序は保てないの。実力と人気を兼ね備えた存在って、ある意味、罪よね。
中華料理:ふざけないで! 独りよがりな価値観を押しつけられちゃ迷惑なのよ。世界はもうとっくに多極化してるんだから。
ロシア料理:いかにも。たかだか二百数十年しか歴史のないアメリカ料理が料理界の秩序うんぬんだなんて、片腹痛いでアナスタシア。
中華料理:いいこと言うじゃない。
ロシア料理:これはどうも、痛み入りマトリョーシカ
中華料理:どう? ここはひとつ、アタシと組まない?
フランス料理:あんた、だんだん節操がなくなってきたわね。

脚本を書く際、私は自分が担当している外国人留学生のうち、特定の誰かを想定してセリフを作っていません。同じ配役の学生がお互いに学び合うという学習効果も期待してダブルキャストやトリプルキャストにするので、なるべく誰が演じてもよいようにしているつもりです。でも上掲のセリフの日本語からは、ひとつだけ比較的はっきりと読み取れる属性があります。それは性差です。

「終わりよ」、「アタシ」、「罪よね」、「迷惑なのよ」、「なくなってきたわね」……これらの語尾(文末詞)から受ける印象は、人によって多少の意見の相違はあるでしょうけど、おおむね「女性らしい」感じではないでしょうか。いわゆる「役割語」というやつです。「そうじゃ、拙者が存じておる」と言えば時代劇に出てきそうな武士で、「そうや、わてが知っとるでえ」と言えば関西のお笑い芸人さん……みたいな*1

こうした役割語のうち、特に「女性らしい」文末詞について分析した、古川弘子氏の『翻訳をジェンダーする』を読みました。この本では、小説作品における女性の登場人物の話し方について、上述したような「女性らしい」文末詞がどれくらい使われているのかを、翻訳作品・日本人作家による日本語作品・児童文学作品などで比較し、さらに翻訳者の性別や年令によって差があるのかについても調べています。


翻訳をジェンダーする

またそうした作品における「女性らしい」文末詞が、実際の女性の会話ではそれほど使われていないことも示されています。つまり、ここには女性に対するステロタイプな見方が存在するとして、古川氏はそれを「保守的」と呼んでいます。氏の分析によれば「女性らしい」文末詞の使用頻度、つまり「保守的」な度合いは、実際の女性<日本人作家による日本語作品の中の女性<翻訳作品の中の女性と強まり、また同じ翻訳作品でも大人向けの文学作品<児童文学作品と強まり、さらに女性翻訳者<男性翻訳者と強まるのだそう。

つまり「保守的」であればあるほど、ステロタイプの度合いが強い、つまりは「よ」、「よね」、「わね」、「なのよ」などを多用するというわけです。実際の女性はそこまで多用していないにも関わらず。なるほど、私が上掲のお芝居のセリフで多用している「女性らしい」文末詞の数々も、そうしたステロタイプな見方の産物とも言えそうです。

ただ、うちの学校の外国人留学生に限って言えば、私がほぼ無意識のうちに女言葉や男言葉を用いてセリフを書いた台本を読んで、当の留学生諸君は各自のジェンダーにかかわらず、言葉の性差にあまりこだわることなく役柄を選び、そのまま女言葉や男言葉を用いて演じています。なんというか、かなりユニセックスな感じが自然に醸し出されてくるのです。

もしこれを日本語母語話者の学生さんたちが演じるとしたら、役柄の選択から演技まで、かなりジェンダーのバイアスがかかるのではないかと想像します。男性が女言葉を喋るのは恥ずかしいとか、女性が男性言葉を喋るのは不自然だとか……してみると、留学生のみなさんにユニセックスな雰囲気が備わるのは、日本語を母語としていないために、かえって日本語の女言葉や男言葉に先入観や抵抗がないからではないかと思いました。

外語でも、例えば英語の“He/She”とか中国語の“他/她(発音は同じ)”とか、この本でも取り上げられている言葉の性差はあり、またそれらを超克するための三人称単数としての“They”やスウェーデン語の性を限定しない代名詞として定着しつつあるという“hen*2”などもこの本で紹介されています。それでも日本語における男言葉/女言葉のボリュームに比べれば、少なくとも英語や中国語ではそうした性差はかなり少ないです。

こうした文末詞などに無意識のうちに織り込まれている「女らしさ」や「男らしさ」をどう乗り越えていけばよいのかという本書の提起には考えさせられるものがたくさんありました。とはいえ、では実際に上掲のような台本のセリフをいわゆる役割語を極力排して書こうとすると、これがなかなか難しいのです。なんというか、とてもフラットではあるけれど、お芝居のセリフとしては活き活きとした感じが欠けてしまうというか。

この点で私は、この本で主張されている「女らしさ」や「男らしさ」へのステロタイプな(保守的な)スタンスへの批判に共感しながらも、文学作品や、私が書いたような台本の言葉遣いと、現実の言葉遣いに差異があることを、フィクションとしてある程度受け入れる余地は本当にないのだろうかと考えました。それらを完全に取り払ってフラットにするのが本当にいいのかどうかについては、私自身まだ答えが出せないでいます。

外国人留学生が操るユニセックスな感じの日本語の台詞を聞いていて、もしかしたらこういうふうに女言葉/男言葉を凌駕して自由に話すことができるようになることこそ、ひとつの止揚になるのかもしれない……そんなことを夢想しました。

*1:金水敏『バーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店

*2:この本によれば、もとより性差のない三人称代名詞として存在していたフィンランド語の“hän”を参考にしたのだそうです。

かしわうどん

よんどころない事情があって、年末と年始にそれぞれ一度ずつ、東京と実家がある北九州市を往復しました。ハイシーズンで航空券の価格がとんでもないことになっているので、いつも利用する羽田・北九州間のスターフライヤーを断念して新幹線を利用しましたが、思いのほか快適でした。いまの「のぞみ」は品川・小倉間で4時間半ほどなんです。空港へのアクセスや待ち時間などを考えたら所要時間は変わりませんし、それなら都心に直結している新幹線を利用したほうがはるかに便利だと思いました。

北九州市内の移動にローカル線も使いました。それで思い出したのが、駅のホームにある「立ち食いうどん」屋さんです。もう思い出せないくらい昔に一度食べたことがあるだけの「かしわうどん」を食べてみようと思って。関西では鶏肉のことを「かしわ」と呼びますが、この「かしわうどん」は鶏肉を甘く煮付けたのが薄味だしのうどんの上にのっているのです。

「ぶらっとぴっと」という人を食った名前のこのお店、うえやまとち氏の『クッキングパパ』にも登場したことで有名です。金丸産業の新入社員・江口くんが社長や荒岩主任などを連れてわざわざ博多から食べに来たのがこのホームにある立ち食いの「かしわうどん」。社長が言うように「細かくスライスされた甘辛いかしわとあっさりしたスープがよくあって実にうまい」のです。寒空のもとで食べていると、関西弁の「しゅんでる」という言葉が脳内に浮かびます。


『クッキングパパ』第59巻

江口くんは必ず小倉駅の7・8番ホームにある「ぶらっとぴっと」で食べるそうですが、実は1・2番ホームにも同じお店があって、こちらのほうがよりローカルな路線なので空いています。新幹線で東京に戻る際、駅の売店にこの甘辛く煮込んだ「かしわ」だけパックされたのが売られていたので、お土産に買い求めました。

そういえば小倉駅の名物駅弁といえば、この「かしわ」と錦糸卵と海苔がのった「かしわめし」で、こちらも帰りの新幹線の車内で食べたいなと思っていたら、現在は入荷が止まっているとのことでした。残念ですが、またの機会に。

寄付としての宝くじ

昨年の末に「ジャンボ宝くじ」を買いました。「3連バラ*1」と「福連100*2」と「福バラ100*3」をそれぞれ1セットずつ、合計230枚=69000円です。しかもジャンボ宝くじを購入したのは今回が初めてではありません。年に5回あるジャンボ宝くじ、すなわちバレンタイン、ドリーム、サマー、ハロウィン、年末のいずれも同じ買い方をしているので、1年間に69000円✕5回=345000円を宝くじに投じていることになります。

宝くじは「愚者の税金」とか「情弱ビジネス」とか「隕石に当たって死ぬ確率のほうが高い*4」などと言われています。どんなギャンブルよりも還元率が悪く、あんなものを買うなんてお金をドブに捨てるようなものだ、正気の沙汰とは思えない……と散々な言われよう。かくいう自分も、かつてはそう思っていましたし、年末の寒空のもと宝くじ売り場に長蛇の列をなす人々を信じられない気持ちで眺めていました*5。でも「新しい贈与論」を主宰されている桂大介氏のこの記事を読んで、少し考え方が変わりました。

theory.gift

「当たれば儲けもの、外れたら寄付。宝くじは人心にフィットした贈与の仕組みなのかもしれない」。この記事によれば、宝くじは還元率(当選金として支払われる)が47%、手数料(運営や広報のために使われる)が14%、控除率(公共事業などに使われる)が39%ほどだそうです。そして、仕組み自体が似ているという「ふるさと納税」は還元率30%、手数料10%、控除率60%であるよし。

私は「ふるさと納税」について、税金の一部を牛肉やカニなどの贅沢品として消費しちゃうというのはよいことなのだろうか……と疑問に思ってきました。それでこれまで一度も利用したことはなかったのですが、はたしてこちらの記事では「ふるさと納税」制度について、それは「未来を食べて”今”の享楽にふける」行為であり、「本来、子や孫、あるいは老後の自分が受けるはずだった未来への投資利益を肉や魚に変えて今食べてしまっている」と批判されています。ようは、単なる税金のムダづかいではないかと。

www.businessinsider.jp

それなら宝くじを買うほうが、まだマシではないかと思うのです。口幅ったい言い方になりますが、私は若いころから、収入のせめて1割くらいは社会に還流させたい、つまりは寄付をしたいと思ってきました。「金は天下の回りもの」を信奉しているというわけです。それで以前は応援したいと思えるNPO法人クラウドファンディングなどを選んでは寄付をしていました。でもそれなら宝くじを通して社会に還流させるのもいいのではないかと思ったのです。

宝くじを通して寄付をしても、地方自治体がそれをきちんと活かした使い方をしてくれるかどうかはちょっと信頼を置けないところがあります。ムダな公共事業ってのもままありますから。でも、自分でNPOなどの団体を選んで寄付をするのが最良かといえば、それはそれで短所があるように感じます。結局は広報能力のある「有名どころ」を選ぶ結果になりがちですし、そういう広報能力があるところからやけに豪華な報告書が送られてきたりすると「こんなところにお金をかけずに、もっと本来の活動に振り向けてほしいな」と思うこともあったりして。


https://www.takarakuji-official.jp/kuji/kisekae-qoochan/

ご案内の通り、宝くじは連番の場合、10枚に1枚はかならず7等(300円)が当たることになっています。また「福連100」や「福バラ100」は下2桁が00から99まで入っているので、6等(3000円)も必ず1枚は当たります。というわけで、「3連バラ」と「福連100」と「福バラ100」で、最低でも合計12900円はかならず当たることになり、さらに「宝くじアプリ」からのネット購入だとポイントがつく(690ポイント)ので、実質的な購入金額は69000円−12900円−690円=55410円となります。

もちろん、ときにはほかの等級に当たることもあります。今回の年末ジャンボ宝くじでは「3連バラ」で6等(3000円)が1枚、「福バラ100」で5等(10000円)が1枚当たるなどして、合計25900円の当たりとなりました。アプリのポイントも差し引いて実質的な購入金額は42410円。ジャンボ宝くじは年間5回発売されているので、こんな感じで1年間におおよそ25万円ほどを寄付していることになるわけです。

所得税に住民税、消費税……ただでさえ重税にあえいでいるのに、そのうえ年間で25万円も国に寄付するなんてやっぱりバカじゃん、愚者じゃん、情弱じゃんと思われるでしょうか。でも私としては、上述したように、これは収入の一部を社会に還流させている(Pay it forward)と思えばよいのです。しかもこれですら当初のいささか高邁な理想である収入の1割にはいたっていませんから、クラファンなどへの寄付も折に触れて行っています。

そして、まずありえないものの、万万が一、高額当選などするかもしれないという「ワクワク感」も楽しめます。宝くじアプリには自動再生で1枚1枚当たりを確認する機能などもあったりして、抽選日にはけっこう盛り上がります。「新しい贈与論」の記事にはこんな意見が紹介されていましたが、私もほぼ同意見です。

宝くじの高揚感を味わいつつ、そのお金が一部寄付に回るというのは一石二鳥でよいモデル

宝くじを通じた都道府県や都市への「寄付」は、薄く広くではあるけれども「天下の回り物」としてのお金の還流としてはそんなに悪くないのではないかと思うのです。もっとも、「当店から当たりくじが出ました!」と大書されている宝くじ売り場にこぞって並ぶというのは、いまでも解せませんが。

*1:バラ10枚のそれぞれの組・番号が3枚連続になる購入方法。

*2:組は10種類で、各組の番号の下2ケタを「00~99」でそろえた購入方法。

*3:組は100種類で、各組の番号の下2ケタを「00~99」でそろえた購入方法。

*4:よく考えるとこれはちょっと眉唾ですが。だって宝くじに当たる、それも高額当選する人は毎年何十人もいますが、隕石に当たって人が死んだという話はこの1年間はおろか、過去何十年にわたっても聞いたことがないですもん。

*5:このブログにも「愚者の税金」というタイトルで書いたことがあります。

絵本『戦争は、』とSNS

ポルトガルの詩人でジャーナリストのジョゼ・ジョルジェ・レトリア氏と、その息子でイラストレーター・編集者のアンドレ・レトリア氏の共作絵本『戦争は、』を読みました。昨年末の新聞記事でこの絵本を知ったのですが、ネット書店では「入荷待ち」の状態。それで紙の書籍と同じ値段の2200円は正直ちょっとお高いなあ……などと思いながらKindle版を購入しました。


戦争は、

紙の手触りが味わえないのはちょっと残念でしたが、電子書籍でこの絵本を読んでよかったとも思いました。というのも、アンドレ・レトリア氏のほとんどモノクロームに近いシンプルな、しかし細部まで神経の行き届いた絵を大きなディスプレイで見ると、かなり迫力があるのです。紙の絵本にある「のど」(本を開いたとき中央にくる、綴じ目の部分)がないので、それだけ一枚の絵としての訴求力が増します*1

新聞記事でアンドレ・レトリア氏は、戦争の本質は病であり、病を引き起こすようなウイルスに感染しないよう常に自分の頭で考え、目を覚ましていなければいけないと述べています。

SNS(交流サイト)の短い言葉やテレビの映像で私たちは物事を分かった気になり、なるべく考えないように日々トレーニングされています。深い思考を持った生物ではなくなりつつある。でも、考えることをやめると、どんどん私たちの内面はもろくなり、外部からコントロールされやすくなる」


東京新聞2024年12月25日朝刊

いや本当に。ここ数年私は、SNS的なものから可能な限り遠ざかるよう意識してきました。それは自分の思考と時間が限りなく奪われていくことに恐怖を覚えるようになったからでした。これも最近読んだキャサリン・プライス氏の『スマホ断ち』には、巻頭にこんな印象的な献辞があります。「人生は自分が注意を向けたものでできている」。まさにSNSがそのビジネスの本質としている「注意経済(アテンション・エコノミー)」を強く示唆した警句ではありませんか。

私たちがスクロールしながらSNSに向ける注目は、どの瞬間のものであれそのすべてが、よそのだれかの利益を生むために使われている。(中略)人は注意を向けたものしか経験できず、注意を向けたものしか記憶にとどめられない。それぞれの瞬間に何に注意を向けるかを選ぶことは、ある意味ではどんな人生を生きたいかを決めることと同じだ。(65ページ)


スマホ断ち

「なるべく考えないように日々トレーニングされてい」る私たちが、SNS的なものから距離を置く、あるいは主体性を持って自覚的に使いこなすのは容易ではありません。私はほとんどのSNSから降りてしまいましたが、それでも気がつくとスマートフォンを手にして検索をかけ、ネットのコンテンツに引き寄せられています。絵本『戦争は、』の発行元である岩波書店の公式サイトにある「編集部より」にはこんな解説がありました。

まるで知らぬうちに進行してしまった病のように、密かに忍び寄り、瞬く間にはびこってしまうもの、それが戦争。

www.iwanami.co.jp

「なるべく考えないように日々トレーニングされてい」く過程も、これによく似ていると思います。ネットも、スマートフォンも、もはや我々の暮らしには欠かせないものになっていて、それらをすべて断ち切ることはできませんし、またすべきでもないでしょう。ただその取り扱い方にはおそらく、自分が想像しているよりももう少し強い緊張感、あるいは警戒感のようなものが必要なのだろうなと感じています。絵本『戦争は、』にみなぎる雰囲気は、まさにそんな緊張感や警戒感を自分に促しているようにも思えました。

追記

SNS的なものから距離を置こうと言っておきながら矛盾しているようですが、『戦争は、』の出版元である岩波書店のこのYouTube動画はとても見応えがあります。ただし「ネタバレ」になるので、絵本を先に読んでから視聴したほうがよいと思います。


www.youtube.com

*1:電子書籍版を購入して、そのままブラウザのKindle for Webで読むと「のど」の部分で切断された状態で表示されます。KindleアプリやKindle電子書籍リーダーで読めば「のど」は表示されないようです。

内田百閒に共感する

読書をしていて楽しいことのひとつは、作者の言葉に共感するあまり「ああ、ここに私と同じ感覚の人がいる」、あるいは「ああ、これは私に向けて書かれているに違いない」と思える瞬間があることです。よくよく考えてみればこれは不遜きわまりない態度ですし、もとよりそうやって多くの人の心に響くからこそ広く読まれている作品であるわけで、私ひとりが特別な読者であるわけはないのですが。

内田百閒は、私にとってそんな特別感を味わうことができる作家のひとりです。といっても私は『百鬼園随筆』と『蓬莱島余談』、それに『ノラや』の三冊くらいしか読んだことがありませんし、そのよさが分かるようになったのは歳を取ってからでした。読んでいて、ついつい付箋を貼ってしまうのは、たとえば『百鬼園随筆』の「大人片傳」に出てくる、天丼を食べた際のこんな描写です。

暫らく振りに天丼を食う。初の二口三口は前後左右の物音も聞こえなくなる程うまい。しかし凡そ半分位も食い終わると、又いろいろ外の事を考え出す。御飯が丼の底まで汁でぬれている。天丼と云うものは、犬か猫の食うものを間違えて、人間の前に持ち出したのだろう。ああ情けないものを食った。明日からは、もう何も食うまい。腹がへったら、水でも飲んでいようと考える。


百鬼園随筆

そうそう! 私にとっては天丼って、まさにそうした食べ物です。歳を取って、もう若い頃のように「わしわし」と丼物を食べられなくなってからは特に。若い頃のように食べられなくなったといえば、『ノラや』の「千丁の柳」に出てくる、こんな記述にも思わず膝を打ちます。

私は腹がへつてゐる。ふだんならまだへる時間ではないが、今日はもう何を食べようかと云ふことを考へてゐる。私は腹がへつてゐる情態が好きなので、腹がへつてゐる間は愉快である。何か食べると万事がつまらなくなつてしまふ。


ノラや

そうそう! お腹が空いているときのあの頭が冴えたような気持ちのよさに、「何を食べよう」というどこか高揚したような気持ちが加わる。確かにあの時間がいちばん幸せなんじゃないかしら。これも歳を取ってから実感できるようになりました。

さらにまた『ノラや』の「泣き虫」に出てくる、ノラとクル、二匹の飼い猫を失ったあとの嘆息。

私はたつた一匹づつの猫でこんなひどい目に遭ふ。さうしてその後を引いていつ迄も忘れられない。猫は人を悲しませる為に人生に割り込んでゐるのかと思ふ。

そうそう! 私もかつて猫や犬を飼っていたことがありますが、「後を引いていつ迄も忘れられない」がゆえにそれからはどうしても新しい猫や犬を飼うことができずにここまで来てしまいました。

内田百閒の随筆をもとに作られた、黒澤明監督の遺作ともなった映画『まあだだよ』にも、この『ノラや』のエピソードが盛り込まれていましたね。また、おなじく映画に出てきた内田百閒の誕生会「摩阿陀会」については、Wikipediaの「内田百閒」項にこんな記述がありました。

持ち前のいたずらっ気やユーモアもあって、特に法政大学教授当時の教え子(百閒自身はこの呼称を嫌い「学生」と呼んだ)達から慕われた。還暦を迎えた翌年から、教え子らや主治医・元同僚らを中心メンバーとして、毎年百閒の誕生日である5月29日に「摩阿陀会(まあだかい)」という誕生パーティーが開かれていた。
内田百閒 - Wikipedia

この「教え子」という呼称が嫌いだったいうのがまた、私にとっては共感するところしきりなのです。それにしても昔の人の還暦というのはかくも風格があったものなのですね。私など、同じ還暦を迎えてもまだあの映画に出てきた教え子たち、もとい、学生たちと同じか、さらに軽い風采しか持ち合わせていませんから。

世界は経営でできている

読み手を選ぶ一冊だと思います。私は無事に読了できましたが、独特の文体(筆者の岩尾俊兵氏ご自身は「昭和軽薄体」の向こうを張って「令和冷笑体」と命名されています)ゆえに読み進めるのがツラいと感じる方もいるでしょう。

この本は「経営」をキーワードにして、筆者の説く「無限価値思考」を社会の様々な視点から検討するものです。筆者によれば本来の「経営」とは、「価値創造という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げる対立を解消して、豊かな共同体をつくりあげること」だそうです。

価値は無限に創造することができるからこそ「他者と自分を同時に幸せにすること」ができるのであり、その価値を有限だと誤解して他人と奪い合っていることが自他ともに幸せになれない根本の原因ーーそれがすなわち「経営の不在」なのだーーというのが筆者の主張です。そしてその考え方に沿って、貧乏、家庭、恋愛、勉強、虚栄、心労、就活、仕事、憤怒、健康、孤独、老後、芸術、科学、歴史という15の視点から、加えて最後の「おわりに」で人生という視点からエッセイが展開されます。


世界は経営でできている

通常の「経営」という概念を念頭に置いて読むと「経営を全然説明していないじゃないか」と思うかもしれませんが、それはお門違いというもの。上掲の岩尾氏による「経営」の本質を踏まえて読めば個人的にはとても共感できる内容でした。ただこう言っては大変失礼ながら、「はじめに」と「おわりに」だけ読んでもそのお考えのエッセンスは理解できるかもしれませんが。

あと、さらに失礼の上積みをするようで申し訳ないのですが、こちらの記事だけ読んでもいいかも(ただしスクロールを止めると左右からマックロクロスケみたいなキャラが出てくるWebデザインは、読み手の気を散らせることこの上ないという点で疑問です)。

unique.kaonavi.jp

とはいえ「令和冷笑体」のエッセイがハマる方にはとても楽しい読書体験になりますし、小見出しのタイトルが古今東西の文学作品や映画タイトルなどのもじりなので、もとの作品名をどれだけ言い当てられるかで教養の多寡を競い合うという趣味の悪いゲームに興じることもできます。また岩尾氏ご自身が文学を志されたこともあるとのことで、これ以外にも有名な文学作品の一節のもじりやパロディがそこここに。ちょっとスノッブですけど、それを当てっこするのも楽しいかもしれません(……と、岩尾俊平氏的な諧謔をものしてみました)。

ひとつだけ腑に落ちなかったのは、本書に二度ほど出てくる「戯曲化」という言葉です。「戯曲化(dramatization)」は文学作品などをセリフやト書きで構成された戯曲(脚本・台本)にすることで、本書のように経営の不在によって引き起こされる悲喜劇を紹介するくだりで使用するなら、それはおそらく「戯画化(caricaturing)」ですよね。編集者も気づかなかったのかしら。「令和冷笑体」のこの本に私も影響されたのか、ついこんな冷笑的なコメントまで書いてしまいました。

ヴォイニッチ写本

ヴォイニッチ写本といえば、1912年にイタリアで発見された不思議な古文書として有名です。この写本が有名なのは、その奇妙な彩色画とともに謎の文字が全編を埋め尽くしているからで、この文字は未だ解読されていません。100年以上にわたって世界中の研究者が取り組んできたものの、それが未知の言語なのか、暗号なのか、それともまったくのデタラメなのかさえ、確たるところは分かっていないのです。

beinecke.library.yale.edu

私は、この写本に関する書籍の定番ともいえるゲリー・ケネディ氏とロブ・チャーチル氏の共著『ヴォイニッチ写本の謎』を15年ほど前に読んで関心を持ちました。それから何度かネットでは「解読された」とか「謎が解けた」といった情報が流れ、そのたびに私は「おお!」と興奮したものですが、結果としてはいずれも不確かな情報でした。

そこへ偶然書店でこの新書に出会ったものですから、またまた思わず「おお!」と声を上げてしまいました。安形麻理氏と安形輝氏の共著『ヴォイニッチ写本 世界一有名な未解読文献にデータサイエンスが挑む』です。この本は上述の『ヴォイニッチ写本の謎』までの研究成果を踏まえ、その後の研究の進展を特にデータサイエンスの立場から紹介するものです。


ヴォイニッチ写本 世界一有名な未解読文献にデータサイエンスが挑む

ヴォイニッチ写本の新説に関しては上述したようにかなり玉石混交の「石」ばかりといった印象で、なかにはほとんどオカルトやスピリチュアルまがいのものも多いです*1。でもこの本は、そもそも写本とはなにか、羊皮紙とはなにか、書誌学とは、データサイエンスとは……とごくごく基本的なところから解説があり、さらに写本研究におけるアプローチ方法のあれこれなどもていねいに説明されています。徹底的に科学的・論理的な姿勢が貫かれているとても勉強になる一冊でした。

ヴォイニッチ写本は、使われている羊皮紙の放射性炭素年代測定や、インク・顔料などの成分分析から、15世紀ごろに作られたことはほぼ確実とされています。さらに(ここからは「ネタバレ」になりますが)……





この本の著者による「テキスト解読可能性」の判定(テキスト自体を解読することよりも、解読可能な構造を持ったテキストなのかどうかを判定する)によって、「既存の言語体系によらない人工言語または未知の言語で書かれた可能性が高い」と結論づけられています。つまりまったくのデタラメな文章ではなかったのです。なんとも「胸アツ」であります。

この実際の判定や分析の方法について解説している部分はやや複雑で難しいですが、私のようなデータサイエンスの素人でもなんとかついていけますし、読んでいて本当にわくわくします。そしてデータサイエンスの現代的な意義と位置づけ、専門の研究者だけではなく在野の市民も参加する形で研究が進められる「シチズンサイエンス」のありようについても知見を得ることができます。

さらにはヴォイニッチ写本にインスピレーションを得た文学やアート作品、音楽などまで紹介されているのも楽しい。脚注で紹介されていた、こちらのTEDトーク:ウィリアム・ノエル氏の『失われたアルキメデスの写本の解読』(日本語の字幕がついています)にも興奮しました。


www.youtube.com

ともかく、薄い新書ですが、とても濃い内容です。ヴォイニッチ写本、私が生きているうちに解読されるかなあ。これはリーマン予想と同じくらい、門外漢でもじゅうぶんにワクワクできるテーマなのです。

*1:Amazonなどで「ヴォイニッチ」をキーワードに検索してみると『ヴォイニッチ手稿の秘密』という本がたくさん表示されます。カスタマーレビューは星4.4と高評価なのですが、かなり「ヤバそう」な感じ。それで私はこれまで手を出さないできましたが、果たして今回の『ヴォイニッチ写本』でも一切触れられていないどころか、注釈や参考文献などにも登場しません。まっとうな研究者からすれば、やはり「トンデモ本」だったのですね。

プロット・アゲンスト・アメリカ

書評家の豊崎由美氏が新聞のコラムでつよくつよくお勧めされていたのに促されて読みました。フィリップ・ロスの『プロット・アゲンスト・アメリカ』。1940年、戦時を理由にそれまでの慣例を排して三選目の大統領選に立候補したフランクリン・D・ルーズベルトを、大西洋単独無着陸飛行で国民的な英雄になっていたチャールズ・リンドバーグが破って当選したら……という「歴史改変SF」です。

リンドバーグナチス・ドイツに親和的なうえ、反ユダヤ思想の信奉者だったそうで*1、この小説ではそんな彼が大統領に就任したことで起こるユダヤ人に対する差別や迫害、暴力などファシズムが進行していくさまが7歳のフィリップ少年の目を通して描かれていきます。


プロット・アゲンスト・アメリカ

ありえない人物がアメリカ大統領になる話といえば、つい現代の我々が目の当たりにしている光景と引き比べて考えたくなります。が、翻訳者である柴田元幸氏による文庫版あとがきによれば、当のフィリップ・ロス氏ご自身は「リンドバーグイデオロギー的にはともかく英雄飛行士ではあったのに対し、トランプはただのいかさま師だ」と、その類似性よりも相違性を強調していたそうです(2016年のトランプ氏初当選時)。

確かにトランプ大統領を生み、さらには再選させた背景を鑑みるに、それは確かに第二次世界大戦時の世界情勢とはまったく異なっています。またアメリカ、ひいては世界中のあちこちで見られるようになった社会の大きな分断と、世界の多極化やアメリカ自身のプレゼンスの低下なども絡んでいるわけで、安易な引き比べはしないでおきましょう。

それよりも私は、私たちのそれなりに平穏で幸福な暮らしが(現実には公私ともにいろいろと心悩まされるあれこれはあるにせよ)最初は些細なところから徐々に変質しはじめ、それがあるところまではそこはかとない不安や怖れで「くすぶっている」程度だったのが、気がついたら一気にエスカレートして激変してしまう……という恐ろしさを描いたものとしてこの作品を読みました。

実際この作品では、フィリップ少年の暮らすニューアークニュージャージー州)のユダヤ人地区が街のお店や通りのひとつひとつにいたるまでていねいに描かれ、少年を取り巻く人物も家族を含め、そのほとんどが実在の人物に仮託して描かれていきます。そんなきわめてリアリティのある物語世界が、中盤から後半にかけて一気にテンポを増し、あり得ないけれどあり得たかもしれない状況に突入していくのです。そこに私は恐怖を覚えました。

プロット・アゲンスト・アメリカ(The Plot Against America)とは「アメリカに対する陰謀」と作中でも語られています。アメリカに対して誰がどんな陰謀をはたらいているというのかーーリンドバーグとトランプの引き比べは安易だとしても、この陰謀という視点から読めば、現代の私たちもじゅうぶん反芻し、内省するに足る気づきを得られるはずです。

余談ですが、柴田元幸氏のたいへんに巧みな翻訳によって、SFを読むのが苦手な私もこの600ページになんなんとするこの小説を一気に読み通すことができました。SFとはいえ実在の歴史と人物に材を取った「近過去」小説ですからSFの範疇には入らないかもしれませんが。またこれも最近、かつて一度チャレンジして挫折していた伊藤計劃氏の『虐殺器官』を通勤途中にKindleでちびちび読みながら読破できました。

虐殺器官』は近未来SFですが、こちらもかなり現実の世界情勢に近しいところで物語が進行しています。してみるとやはり私は、想像力の桁が外れまくった物語への想像力がまだまだ欠けているということなのかもしれません。

qianchong.hatenablog.com

*1:この小説にはその妻のアン・モロー・リンドバーグも登場します。巻末の資料によれば彼女も当時はけっこうなファシズム容認派の立場だったみたい。『海からの贈物』を読んで受けた感銘がいささか色褪せてしまうなあ……。