図書館とは「そこを訪れた人たちの無知を可視化する装置である」と、内田樹氏が書いておられました。氏の著作を韓国語に訳されている朴東燮氏が、韓国語版オリジナルとして企画された一冊『図書館には人がいないほうがいい』の日本語訳ーーじゃないですね、もともと日本語で書かれた文章ですから、この場合は日本語版ですかーーに出てくる一節です。
どこまでも続く書棚のほとんどすべての書物を僕はまだ読んだことがない。そして、自分に残された時間の間に読むこともできない。この世界の存在する書物の99.99999……パーセントを僕はまだ読んだことがないし、ついに読まずに終わる。その事実の前に僕はほとんど呆然自失してしまうのです。(23ページ)
この「呆然自失」という感覚、とてもよくわかります。図書館もそうですが、私は比較的規模の大きな書店に行くときにも、よくそういう感慨にとらわれます。でも、大きな書店ではあっても蔦屋書店とかジュンク堂とかブックファーストだとあまりそういう感慨にとらわれることが少ないのは、あれはなぜなのかしら。
それはさておき、自分にとって忘れがたいのは、いまはもうなくなってしまった渋谷の大盛堂書店です。たしか「本のデパート」というキャッチフレーズを掲げていたような。スクランブル交差点にはいまも小さな大盛堂書店がありますが、あれとは別店舗で、渋谷駅から公園通りに沿ってすぐのところ、西武百貨店のお向かいぐらい、たぶんいまZARAがある辺りじゃなかったかな。
間口は狭かったものの上の階までぎっしり売り場があって、奥のほうはけっこう複雑な構造だった記憶があります。あまりポピュラーではなさそうな専門書なども多く揃っていて、あの売り場で「ああ、一生かかってもここにある本をすべて読めないんだなあ」といった焦燥感みたいなものに駆られるのがつねでした。
最近、津野海太郎氏の『生きるための読書』を書店で偶然「本に呼ばれて」読んだのを皮切りに、氏の『最後の読書』*1、『百歳までの読書術』、『かれが最後に書いた本』など片っ端から読んでいます。さらにその合間に小田嶋隆氏の『諦念後』や藤原智美氏の『スマホ断食』なども読むにつれ、あらためて、ああ、じぶんが生きているうちに読める本はもうそんなに多くない、SNSやネットニュースや動画サイトやゲーム(これはもとから縁がないけど)にうつつを抜かしている場合ではない、とつよくつよく思うのです。
もとより私は、マンガを除いては電子書籍が読めない(読んだ気がしない・記憶に残らない)体質であることは実証ずみですので、ネットやスマートフォンからはこれまで以上にできるだけ遠ざかって、そのぶん紙の本を読もうと思います。ただでさえ呆然自失とするくらい死ぬまでに読めない本がほとんどだというのに、それがさらに減るのはカンベンしてほしいです。
これも最近、『東京わざわざ行きたい街の本屋さん』の改訂新版が出まして、それほど規模は大きくないものの心ときめく個性的な本屋さんがあまた紹介されています。これからは仕事のない週末に「街の本屋さん」巡りをして、少しでも多く「本に呼ばれる」体験をしよう、Amazonのリコメンドにたよるのではなくてーーそれをこれからの趣味にしようと思い立ちました。
*1:しかも恐ろしいことに、ほんの2年半ほど前にもこの本を読み、このブログにもそのことを書いておきながら、あらためて読んでみたらほとんど内容を覚えていませんでした。若い頃にはまずなかったこうした現象が、ここ数年たびたび起こっているのです。リアルな「老い」を感じます。