「毛利元就」(1497年4月16日 - 1571年7月6日)とは、日本の戦国大名。
人物概要は、概ね次の通り。
- 弱小領主の次男として生まれながら、権謀術数を駆使して勢力を拡大。一代で中国地方を制覇する。
- 傑出した戦略家・謀略家。戦国時代最高の智将、『謀神』とも呼ばれる。
- 息子達に家族の結束をくどいほどに訴えた、筆まめで心配性な教育パパ。家康も顔負けの健康通。
- その死後も、周囲に影響力を遺した賢人。彼の政治基盤は、後の長州藩の母体となる。
彼曰く、
能や芸や慰め、何事も要らず。
武略、計略、調略こそが肝要にて候。
謀多きは勝ち、少なきは負ける。
・・・とのこと。
これは、頼りない一面も併せ持っていた嫡男・隆元に言い渡した訓戒の1つである。愛する息子へ向けたにしては厳しく過酷な言葉だが、これは彼の歩んできた人生そのもの。そしてそこから得た教訓でもあった。
生涯
雌伏の青少年期
安芸国(現在の広島県西部)の国人領主の1つ、安芸毛利家の当主・毛利弘元の次男として生まれる。
幼名は松寿丸。
先祖は天皇家(朝廷)や源頼朝(鎌倉幕府)に仕えた文学者・政治官僚であり、軍学者でもあった大江広元。大江氏は源氏平氏にも負けず劣らぬ名門なのだが、その一派である安芸毛利家は室町時代には衰退して、安芸の小領主という立場にまで落ちぶれていた。
しかも、元就の登場までは当主の夭折や急死が相次いでいたため、井上氏や坂氏、渡辺氏といった重臣達が強権を振るい、横領や恣意的政治が横行するなど家中は腐敗していた。(元就の祖父・豊元に始まって父・弘元、長兄・興元ら全員が20代~30代で夭折していた。この若死にの連鎖により、家臣の中には毛利家が呪われていると信じ込み、尼子家から養子を迎えようと画策する者もいたという。恐らくは、某謀聖の差し金だろうが・・・)
ましてや元就は、その次男坊だった。しかも利発な性格だった(いわゆる「うつけ者」だったとも言われる)ため、本家に害を及ばさぬように遠ざけられた。
父・弘元の隠居所でもあった多治比猿掛城で、家臣の井上元盛に後見されながら、元就は育つはずだった。
だが、その後見役だった元盛にナメられて城と領地を横領されてしまい、城下のあばら屋で過酷な生活を強いられた。
その貧窮ぶりは、家臣領民達から「乞食若殿」と貶されるほど悲惨なものだったとされる。(この恵まれぬ少年期を、経済面・精神面の双方で支えてくれたのが父の継室・杉の大方だった。彼女は、元就の人間形成に非常に大きな影響を与える)
だが元就は、その逆境をバネにするかの如く、成人後は政軍両面で辣腕を振るった。兄・興元が急死し、その子である幸松丸(幼児)が当主になると、元就は叔父として後見人として、それまで有力家臣達に襲断されていた毛利本家の政治体制を立て直し、正常化していく。
その後、元々病弱だった幸松丸が夭折すると、元就と異母弟・相合元綱との間に後継争いが生じる。この御家騒動の黒幕は、元就によって既得権益を脅かされた毛利家の重臣達、そして元就の才覚を危険視する出雲の王・尼子経久であった。
この事実を察知していた元就は、尼子家との断交を決意し、元綱とこれを支持する有力家臣・坂広秀一派を討伐。同時に嫡男・隆元を大内家へと人質に出し、同盟を締結して迅速に後背を固めた。以後は大内家との同盟関係を軸に、様々な謀略・政略を展開。尼子家との抗争を戦い抜いていく。(家督相続の際に弟を殺した事は、元就の人生のトラウマともなった。息子達に兄弟の結束を訴えたのも、これと無縁ではないだろう)
無論、戦においても元就の武勇と知謀は存分に発揮された。初陣である有田中井手の戦い(当時20歳)や鏡山城の戦い、吉田郡山城の戦いなどでは兵力的不利や逆境を克服して勝利を重ねる。これらの勝利は、先述の謀略と相乗効果を発揮して、元就の武名と毛利家の立場を更に高めていった。
だが、大内家の主導で行われた出雲遠征では、元就自身は軍権を握れずに不利な戦いを強いられ、自身も死の危険に晒されるほどの手痛い敗北を喫してしまった。
それまでの人生で、数多くの苦渋を舐め続けてきた元就も、この出来事にはさすがに腹を煮やしたらしく、以後の彼はまるで別人のように、強引かつ拙速に権勢拡大を図っていく。大大名の使いっ走りとして、辛苦を押し付けられないようにするためには、自らが強くなるしかない。それが戦国乱世の習いであり、彼なりの『悟り』だった。
「百万一心」
▲元就が、本城・吉田郡山城の増築工事の際に、人柱の代わりに埋めた石柱に刻んだ言葉。オリジナルの石柱は紛失しており、実際はどう書かれていたのか定かでない。
この言葉は、漢字を崩すと「一日一力一心」とも読める。元就の人生のテーゼ的な言葉である。
覇業へと乗り出す
元就は、それまで積み重ねた政治工作と地盤固めを活かし、一気に覇業へと踏み切った。
手始めに、有力豪族である吉川家と、強力な水軍を持つ小早川家にそれぞれ次男・元春と三男・隆景を新当主として強引にねじ込み、これを吸収した。
そして元就自身は名目上「隠居」し、当主職を嫡男・隆元に委譲。自身は後方で謀略活動に専念しながら、毛利・吉川・小早川の三家を包括的に指揮する体制を創った。
これが、後に名高い「毛利両川」として、毛利家の存続に大きく寄与するのである。
これに続き、それまで内政面で強い発言権を持ち、横領や法度違反などの専横が目立った井上一族(子女含めて30名以上)を粛清した。
この政治空位を埋めたのが、隆元と共に立ち上げた五奉行(豊臣家の同名制度とはまた別物)制度であり、これで毛利本家の内政は勿論、それまで有力家臣が個別に行っていた外交部門も一本化された。これにより安芸備後の両国は、静かに、しかし着実に毛利家の領国と化していった。(この間に元就は、大内義隆に言い寄って「安芸国は毛利殿の裁定自由」というお墨付きを貰ったりした。転んでもただでは起きない!)
しかし同時期、主家の退廃に危機感を抱いていた大内家臣・陶隆房と、徐々に関係を硬化させていった。
陶隆房は九州の大友宗麟から主家養子として大友晴英(後の大内義長)を迎え入れて傀儡化し、政治に興味を失い奢侈に走っていた義隆を廃すべくクーデターを起こす。これが西国のみならず日本全体の政治経済に大きな影響を与えた大寧寺の変である。
西国の支配者だった大内義隆は陶隆房に討たれ、それまで大内家が主導していた中国地方の政治力場に大きな変化が生じた。元就は表面上、この変事に陶方として参加し、安芸国内の秩序維持に専念しているが、実際はそれ以上の関与をしていたとされる。(大寧寺の変の直前、元就は元春・隆景を連れて、大内家の本拠・山口を訪れている。その際、陶隆房のみならず、親義隆派の冷泉隆豊とも接触していた)
ターニングポイント・厳島の戦い
その後、隆元の意見も聞き入れた形で陶晴賢(陶隆房から改名)と断交。世に名高い厳島の戦いに発展する。だが毛利軍と陶軍(4千対2万とも)の戦力差は歴然としており、元就の不利は明らかだった。これに対し、元就は間諜と虚言を用いた謀略戦を展開した。
元就は決戦に際し、以下のような謀略を展開した。
- 厳島で陶軍を奇襲し、総大将の陶晴賢をも討ち取るため、厳島に急造の城を建設。その上で元就自ら「厳島の城は防備が薄く、攻められたらひとたまりもない。私の知恵の鏡も、老いて曇ってしまった・・・」と漏らし、間諜を通じて陶軍に伝わるようにした。陶軍を誘引するためであった。
- 直情的な陶晴賢を激怒させるため、厳島の城に元陶軍の武将である宮里宮内、己斐直之を入れて挑発した。
- 元就のことをよく知る陶軍の重臣・江良房栄を排除するため、陶方に「房栄は毛利軍と内通している」と偽報を流して、晴賢に房栄を誅殺させた。(異説として、房栄は最初から元就に内通していたが、恩賞の関係から元就に愛想を尽かされ、逆に内応の情報を晴賢に流され、誅殺されたというものがある。)
- かつて元就に反逆して殺された坂広秀の甥にあたる重臣・桂元澄に、偽りの内応を促した。元澄に「元就を討ち、一族の恨みを晴らしたい。陶軍が厳島を攻めてくれれば、私はその隙を突いて吉田郡山城を奪う」という、嘘八百の文書を晴賢に送らせた。
- 瀬戸内の交通料徴集を巡って、陶晴賢と対立していた村上水軍を買収。決戦に際し、毛利軍に全面的に協力することを確約する。(決戦当日、村上水軍は小早川隆景と共に、毛利軍の別働隊として陶軍と戦った。また、陶晴賢の脱出用舟艇も沈める大功を挙げた。)
- 尼子家による介入を避けるため、当時尼子晴久との間で微妙な間柄となっていた新宮党の首領・尼子国久に内応の噂を流した。この時、元就は領内で捕らえた罪人を山伏の姿に仕立て、懐に元就と国久の親密な間柄を臭わせる文書を忍ばせた上で、尼子家の領内に斬り捨てておいた。結果、国久と新宮党は晴久によって誅殺され、尼子家は混乱。厳島の戦いの最中、毛利家を攻めることはできなかった。(近年では元就の関与はなかったとされているが、この時期の家内粛清によって尼子家が動けなくなったのは事実である。)
陶晴賢は、元就の目論見通りに主力部隊と共に厳島へ渡海。そこに、暴風雨を突いて厳島に潜伏していた毛利軍が陶軍本隊を奇襲した。
大軍だった陶軍は、厳島の狭い戦場では思うように動けず、即座に混乱してしまった。陶晴賢は危険を感じ、厳島からの脱出を図るが、脱出用の船は沈むか、兵達に乗り逃げされてしまっていた。追い詰められた晴賢は自刃し、陶軍は瓦解する。元就は一世一代の大謀略戦に勝利し、中国地方全域を統べる戦国大名として、第一歩を踏み出した。当時、元就は59歳だった。
主君であった大内家を滅ぼして下克上を果たした、という風にいわれることがよくあるが、正確には元就が下克上を果たしたわけではない。
先に大内家当主であった大内義隆に反逆した陶晴賢&大内義長こそが下克上の当事者であり、元就はその仇討ちをしただけである。(事実はどうあれ、元就は義隆の仇討ちと権力継承を名目として、中国地方の統一事業を進めた。元就の性格から推測するに、そういった体裁を取った方が無難だと踏んだのであろう。)
厳島の戦いに勝利すると、元就は防長平定を行う。これにより大内家は滅ぼされ、毛利家はその旧領と遺産の多くを引き継ぎ、中国地方を代表する大国へと変貌した。
子孫へ遺したモノ
大内家併呑によって大国へ成長した後も、元就は休むことはなかった。残る大敵である尼子家にも、積極的に攻勢を仕掛けていったのである。
尼子晴久の急死によって動揺した尼子家に対し、元就は足利義輝の調停活動を利用して、不平等な和平協定を締結。その動きを封じ、ドル箱となる石見銀山を入手する。
その後は、物量攻勢と謀略戦を巧妙に併用して尼子家を追い詰めていき、遂には1566年(永禄9年)に月山富田城を兵糧攻めにして攻略。中国地方は毛利家の支配下に置かれた。
元就が50年以上もの歳月を掛けて築き上げた領国と財産は、後に元就自身すら「なんとか天運味方して、危機をことごとくすり抜けてきた」と謙虚に述懐するほど巨大だった。
だが・・・元就が中国地方平定を成し遂げた頃、中央では織田信長が上洛に成功し、天下布武の準備を着々と進めつつあった。
1567年当時、元就は70歳。片や信長は33歳。元就は、この若き俊英と天下を争うことの愚を悟り、その存命中は織田家と対立することを極力避けた。
元就は迫り来る寿命の恐怖にもめげず、1569年(当時73歳)の立花山城の戦いと多々良浜の戦いにも、自ら鎧具足を身に付けて出陣し、実際に戦闘を行っている。(またあっちの方もお盛んだったようで、71歳の時に九男の秀包が生まれていたりする。孫よりも若い息子とか、どうなんだろうね・・・)
最晩年に行われた大友家との戦いでは、大友宗麟(正確には彼の軍師・吉岡長増)の策略に足下をすくわれ、領内に大内家残党の侵攻を許すなど失態を演じた。これにより元就は九州進出計画を諦めることになるが、領内の鎮定に専念したことで大内家の復活を阻止し、その後の出雲動乱(山中鹿介の侵攻)にも対応することができた。
元亀2年6月14日(1571年7月6日)、毛利元就は吉田郡山城で逝去した。享年75歳。戒名・洞春寺殿日頼洞春大居士。
まだまだ手のかかる息子や孫達を置いて、謀神と呼ばれた男は独り静かに旅立った。その最期は三男・小早川隆景が看取り、その知謀と志は彼に受け継がれる事になった。
智万人に勝れ、天下の治乱盛衰に心を用いるものは、世に真の友は一人も有るべからず。
千載の上、千載の下に、真の友は有るべき也。
是人を同ふして生まれなば、彼を害するか、彼に害せられるるかの二つ也。
▲元就が珍しく酒に酔って、こぼした愚痴の一文とされる。意訳は次の通り。
「俺みたいに頭が良くて、その才能を政治や戦争の道具に使うような奴には、友人なんて1人もいない。過去千年と未来千年の間にこそ、真の友人というものはいるものだ。でも、もしその友人と同じ時代に生まれたら、結局この時代の群雄のように互いに争って殺し合うしかないんだ。それでも、その友人同士、群雄同士が心を1つにすることができれば、天下の万民を安堵させ、四海に太平をもたらすことなど難しくもないのに。悲しいことだ。」
権謀術数によって多くの人命と人心を弄んできた、謀将には似つかわしくない言葉である。だが、血も涙もない謀略の数々の裏に、こういった人間的な一面を持っていたからこそ、元就は最期まで道を誤らなかったのだろう。
後世の評価
現在でも戦国時代随一の知将・謀将として名を馳せており、戦国時代最高の名将の一人とも評価されている。合戦よりも、政治的謀略に長けた政治家と見られがちだが、武勇や軍略面でも優れた功績を残す。
最近では「謀神」という異名で呼ばれるが、これは上杉謙信の「軍神」同様、後世の人々が後付けしたもの。
その人生の大半は合戦や内紛、政争劇によって彩られているため陰湿なイメージが強いが、『三本の矢』に代表される人間味にあふれた逸話が多い人物でもある。有名な三本の矢の逸話は、元就が三人の息子へ向けてしたためた『三子教訓状』がモデルになっている。
現存している直筆の書状は、いずれも非常にくどい内容のものが多く、筆まめな上に心配性でもあったらしい。
また、現在明らかになっているだけでも生涯220戦以上の合戦を経験しており、その勝率も八割五分と他の武将を圧倒していることも特筆したい。
しかも70代という高齢を迎えてもなお戦陣に立ち、直接軍勢を率いて戦い続けた伝説の老兵であり、リアル高性能じいちゃんだった。(嫡男の隆元が早世しなければ、もう少し早く隠居できたんでしょうけど・・・)
生没年は1497年(明応六年)~1571年(元亀二年)。平均寿命が約50年、文字通り『人間五十年』の時代にあって、75年もの生涯を全うした長寿の人物でもあった。
徳川家康も顔負けの健康通であったとされ、孫の輝元に飲酒を控えるようたしなめた書状が残っている。(その背景には、酒害で卒去した父・弘元や兄・興元の轍を踏むまいと考えたためとされている。ただし元就自身も、自分で育てた薬用菊を漬けた薬酒を飲む習慣などがあったらしい。どんなに無欲な人にも、嗜好品はあるものである。)
大内家併呑直後の1557年(弘治3年)に、財政難に苦しんでいた正親町天皇に多大な献資を行い、その即位式を実現させた。
これにより元就は朝廷にもその名を覚えられることとなり、その死から300年近く経過した1869年(明治2年)に明治天皇から「豊栄」の神名を与えられ、1908年(明治41年)には正一位を追贈された。現在、元就は主祭神(仰徳大明神)として、隆元や輝元と共に山口市の豊栄神社に祀られている。
同じく謀将として知られる尼子経久とは、浅からぬ因縁がある。詳しくは当該項目を参照。
『三本の矢』の真実
毛利元就といえば『三本の矢』と言われるほどにメジャーな逸話だが、これには虚飾が混じっている。この逸話の元ネタとなったのが、元就の発行した『三子教訓状』である。(そもそもの元ネタとなったのは、中国の魏書吐谷渾阿柴伝に記述のある20本の矢の話である、との説もある)
三本の矢といえば、兄弟同士の情に訴えた甘っちょろい精神論と受け取られがちだが、事実は真逆である。実際に元就が書いた教訓状は、毛利家の現状と行く末、そして乱世の処世術と人間の宿業をシビアに綴った、いわば毛利家の経営方針と、それを踏まえた訓辞だった。
三子教訓状は紙幅にして2.85mにもなり、そこには政治的な話は勿論のこと、どうでもいい世間話や思い出話なども交えて記載されている。(そんな長ったらしい教訓状を、わざわざ息子達のためにしたためた元就の愛情と凝り性は、確かに評価には値する。だが、実際に父親に持ったら凄く面倒臭そうである。)
また、元就と息子達の間には「読んだ手紙はすぐに返却する」というルールがあった。防諜のためでもあるが、同時に息子達との信頼関係を維持するための、元就流の気遣いでもあったと言われている。
当家(毛利家)の事を好かれと思う者は、周囲には勿論、我が領国内にもいないだろう。
▲三子教訓状に添えて、元就が隆元へ向けてこっそり発行した文書の内容を、掻い摘んだもの。
元就の才覚によって急成長した毛利家は、当然ながら多くの者から恨まれている。元就亡き後、そういった者達が足下を掬おうと企むのは目に見えていた。
それまでの人生で、人間の醜い面を嫌というほど見てきた元就は、息子達に『互いに心が離れれば、三者とも同様に滅びるぞ』と、脅迫気味に訴えたのである。
元春と隆景が、吉川と小早川の名を継いだのは、あくまで当座(取り敢えず)である。
毛利の二字を、決して疎かにしてはならないし、忘れる事があってはならない。
三子教訓状:第2条より
▲他家へと養子に出した次男・元春と三男・隆景に向けての文言。外側から毛利本家を支える事を切実に訴えている。
三本の矢の逸話(正しくは三子教訓状)の中心人物である、元就の三人の息子・・・毛利隆元、吉川元春、小早川隆景(俗に言う毛利三兄弟)はそれぞれ得意分野に違いこそあったものの、優秀な将でありその後の毛利家の発展を支え続けた。(長男の隆元は元就よりも早く死んでしまったが)
お前達の亡き母・・・妙玖への追善と供養を欠かさぬようにせよ。
三子教訓状:第7条より
▲元就が生涯愛した女性にして、三兄弟の母だった女性への言及部分。
個性が強く、容姿も性格も不揃いだった三兄弟。だが、三者とも母親への供養は律儀にこなした。元就の人心掌握の巧みさと、元就という人物の人間的魅力が同時に現れている一例である。
「一本では容易く折れる矢も、三本纏めれば折れない。」
▲後世の歴史譚にも取り入れられた、代表的な謳い文句。 三本の矢は創作ではあったかもしれないが、毛利家の家訓をわかりやすく伝える話ではある。
また、教養人でもあった元就が、中国の古典にも通じていたであろう事は想像に難くない。それになぞらえて元就がまだ幼い三子に実際に矢を折らせた事もあったかもしれない。その辺は、後世に生きる我々が自由に想像して、補完してもいいのではないだろうか。
▲元就が臨終に際して、居合わせた息子や孫達に言って聞かせたという言葉。
織田信長などが天下統一を目論んで邁進するようなご時世だったにもかかわらず、元就は息子や孫達に「天下を争う事なかれ」と言い残し、過ぎた野心を持つことを戒めた。
単に彼が謙虚だったわけではなく、当時の毛利家が、国人領主(早い話が地方豪族達)の寄合所帯的な要素が強く、織田家のように独裁的な大名組織ではなかったことを誰よりもよく知っていたためである。
▲死の少し前、嫡孫・毛利輝元に送った手紙の一文。
人界に生を受けて75年。戦いに戦いを重ねてきて、なおも楽隠居を許されることなく、孫や息子達から頼りにされる日々を、皮肉っぽく言い表した一言である。なんとも居たたまれない気持ちになるのは筆者だけであろうか。
輝元に関しては、先立った隆元の遺児ということで思い入れも強かったのか、「幸鶴(輝元)の将来が心配でかなわん」といった内容の書状を幾つも書いている。筆まめな一方、心配性でもあったようだ。
元就の死後、輝元はなし崩し的に織田家との戦いに突入して劣勢に陥り、一時は滅亡の危機に晒された。そしてその後の関ヶ原の戦いに際しては、迂闊な行動により改易寸前となってしまう。結局、元就の危惧は現実のものとなったのである。仕方ないね。
謀将でもあり家庭人でもあり、苦労人でもあった。ずる賢いイメージはあるが、憎めないお人である。
元就の息子達
元就の息子といえば隆元・元春・隆景の三兄弟が有名だが、それ以外にも穂井田元清や天野元政、小早川秀包などの庶子(正室・妙玖が死んだ後、娶った側室との間にできた子達)が6人ほどおり、彼らもまた毛利家存続のために粉骨砕身し、そして歴史に名を残した。二宮就辰? はて、誰だろう?
- 毛利隆元(1523~1563)
嫡男。内政手腕に優れ、毛利家の財政基盤を整備する。自己卑下の激しい性格で、元就に対して畏怖を抱き、その偉業を失墜させてしまう事を病的に恐れていたとされる。元就の隠居後、家督を継いで毛利家当主となるも、早世してしまった。死後、毛利家の財政が一時期悪化した。そこ、地味長男とか言わない!
- 吉川元春(1530~1586)
次男。山陰地方の柱石として、母の実家でもある吉川家に養子として入る。家中最強の猛将として知られ、元就すらも「戦の腕では元春に敵わない」と音を上げた。山陰地方を舞台に活躍した他、山陽地方でも主要な合戦には必ず参戦した。武骨で無愛想な性格だったらしく、元就は隆元との書状の中で「昔から細やかな気遣いのできる奴ではない。だからベタベタ仲良くするのは諦めた方が良い」と評している。
- 小早川隆景(1533~1597)
三男。山陽地方と瀬戸内海の水軍勢力取り込みのために、小早川家へと養子入りする。元就の才覚をもっとも色濃く受け継いだ傑物であり、元就没後の毛利家を事実上統括する。後に輝元と共に、豊臣家五大老となる。
同じ知恵者だったためか、父・元就とは非常に馬があったらしく、書状のやり取りは三兄弟の中でも割合がかなり多い。またお互いを愛称(隆景=又四、元就=もと就)で呼び合ったりなど、雰囲気が非常にフレンドリーである。三子教訓状でも、隆景は次兄の元春を差し置いて、隆元の次に名前を書かれている。元就が、隆景に寄せた絶大な期待のほどが窺える。
- 穂井田元清(1551~1597)
四男。備中の豪族である穂井田家の名跡を継ぐが、後に毛利姓へと復する。三兄・隆景の下で、織田家との戦いや朝鮮出兵に従事する。また、広島城の普請事業も主導するなど、政治家としても活躍した。最近は『毛利家四本目の矢』とも呼ばれている。後に、彼の血統は毛利家嫡流となる。
- 椙杜元秋(1552~1585)
五男。毛利元秋、富田元秋とも。尼子家滅亡後に月山富田城主となるが、若くして病死。
- 出羽元倶(1555~1571)
六男。17歳で夭折する。
- 天野元政(1559~1609)
七男。上月城の戦いや朝鮮出兵、関ヶ原の戦いにも参戦する。後に毛利姓へと戻り、減封後の毛利家を精力的に支えた。元就の遺歯をお守りとして所持していたと伝わる。分家・右田毛利家を興す。
- 末次元康(1560~1601)
八男。朝鮮出兵では、当主・輝元の名代として渡海する。後の関ヶ原の戦いでは、大津城の戦いに参加する。有力分家の1つである厚狭毛利家を興した。
- 小早川秀包(1567~1601)
九男。元就が71歳の時に生まれた子。元服した時は元総(もとふさ)という名前だったが、後に豊臣秀吉の元へ送られた際に一字を賜り、秀包と改名した。三兄・小早川隆景の養子となるが、諸々の事情(小早川秀秋の入嗣)により別家する。分家・吉敷毛利家を興す。
- 二宮就辰(1546?~1607)
婚外子。萩藩閥閲録の記録によると、母親(矢田氏)が就辰を身籠もった時はまだ妙玖が存命だったため、体面を考慮した元就によって、家臣・二宮春久に払い下げられた。後に元就の息子である事が公表され、毛利輝元の側近として仕えた。異母弟上司の穂井田元清と共に、広島城の普請を担当した。
信長の野望における元就
織田信長や武田信玄と並ぶ、公式チートの1人。知略と政治力が抜群に高く、特に知略は北条早雲や尼子経久といったレジェンド武将を除けば最高値を誇る。
性能は完璧超人だが、ほぼ唯一の欠点は年齢。ゲーム上の仕様で、シナリオは信長準拠で纏められているために、登場当初から既に老齢である(寿命が近い)ことが多く、いかに元就存命中に領土を広げられるかが毛利家の戦略上の鍵となっている。(大名死亡=ゲームオーバーという作品もあるため、毛利家で天下統一をするのはかなり難易度が高い。設定で寿命の概念を無くせる作品ならば無問題だが)
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 94 | 政治 | 100 | 魅力 | 98 | 野望 | 87 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 86 | 政治 | 100 | 魅力 | 95 | 野望 | 52 | 教養 | 82 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 97 | 戦闘 | 85 | 智謀 | 100 | 政治 | 98 | 野望 | 47 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 178(A) | 智才 | 200(A) | 政才 | 196(A) | 魅力 | 97 | 野望 | 94 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 84 | 智謀 | 100 | 政治 | 97 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 93 | 戦闘 | 65 | 智謀 | 100 | 政治 | 96 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 95 | 智謀 | 98 | 政治 | 97 | 野望 | 95 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 82 | 知略 | 90 | 政治 | 89 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 82 | 知略 | 90 | 政治 | 88 | 教養 | 76 | ||||||||
革新 | 統率 | 92 | 武勇 | 69 | 知略 | 105 | 政治 | 98 | ||||||||
天道 | 統率 | 93 | 武勇 | 69 | 知略 | 105 | 政治 | 98 | ||||||||
創造 | 統率 | 97 | 武勇 | 80 | 知略 | 100 | 政治 | 96 | ||||||||
大志 | 統率 | 97 | 武勇 | 78 | 知略 | 100 | 内政 | 91 | 外政 | 88 |
関連動画
ニコニコ動画では大河ドラマや、信長の野望関連の動画が多い。毛利元就の名を世に広めるきっかけの1つとなった大河ドラマは、戦国モノにしては珍しく、三英傑(織田豊臣徳川)が1シーンも登場しない。(ちなみに、大河ドラマの題字は、元就直筆の書状から引用しているため、元就自身がキャスティングされている)
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能や芸事、慰みごとは一切要らないよ。くどいようだけど。
戦国無双における毛利元就
愛称はヤン・モウリー(後述)、大トロ(OPで毛利輝元に「大殿!」と呼ばれるシーンがあるがそれが「大トロ」と聞こえるため)。既に死んでいると家臣に言い残し、隠居しており歴史関連の書物を書いている。しかし、織田信長による西方攻略により歴史の表舞台に引きずり出されてしまう。
夢は「歴史家として過ごす、安穏とした老後」。そのため戦国無双Chronileでは桶狭間の戦いなどを元就が解説イベントがあり、タイトルで「毛利先生」と称されている他、彼が歴史に関するクイズを出題する外伝シナリオも用意されている。
現時点で無双武将の中には、陶氏や尼子氏などの史実で対決した相手は登場していないが、元就の全盛期に関してもちゃんと描かれている。3Empiresでは大内・尼子との対決、chronile以後では厳島合戦や行った謀略などのシナリオ・イベントも用意されている。
その上で3Empires・chronile・4と続いて陶家の重臣であるモブの弘中隆包との友情と死別が描かれており、毛利元就の掲げる百万一心論も亡き弘中隆包の影響を受けている設定になっている。
モーションはどことなく爺臭く、他の無双武将よりも精神年齢が高めに描かれている。また他の無双武将達よりも史実において活躍した時期が早いためか、世代的に若い武将達に予言めいたことを度々口にしたり、状況を客観的かつ第三者的な視点で見ることが多い。3では若々しい外見だったが、4では息子のPC化に合わせて髪の色が白になった上に顎髭が追加され、小じわやほうれい線が強調されて若干老けた印象になった。
武器は矢手甲で、攻撃する度に三本の矢を発射する。そのため、コンボを稼ぎやすい特徴を持つ。
彼の性格(信長のような天下布武や独裁体制ではなく、1人1人の意思を尊重しつつ結束していくという、後世の民主主義に近い『百万一心』論を信奉していたりなど)や無双演武は、銀河英雄伝説の主人公の1人であるヤン・ウェンリーのパロディとなっている。ボサボサのヘアスタイルと、本来真っ直ぐ被るべき烏帽子を斜に被っている、OROCHI2のアナザーカラーが同盟軍らしくなるなど、外観もヤンを意識したものとなっている。彼の演武(章)も「銀河英雄伝説」のパロディであるため「戦国英雄伝説」「誾英伝」などと言われている。他に後世に冷酷無比な謀将であったと思われるのを嘆いているような描写もある。
ちなみに真・三國無双シリーズのキャラクターやその他大勢とのクロスオーバー作品である無双OROCHI2では、三国志を始めとする多くの歴史上の英傑が集うという歴史家としてこれ以上ないぐらいに魅力的な状況のため、非常にイキイキした元就公を見る事ができる。
・・・が、立花誾千代によって、彼の書く文は冗長で人を殺すという風聞が流れてしまい、ギリシャ神話の英雄アキレウスから「歴史家くずれが、くたばれ!」「ホメロスの出来損ない」などと散々に言われてしまっている。(同時に、オデュッセウスにも劣らないとも言われているが)
戦国BASARAにおける毛利元就
詳しくは毛利元就(戦国BASARA)へ
戦国大戦の毛利元就
4枚のカードが存在する。正しくは6枚あるがスタータースペックと戦国鬼札が2枚あるので割愛。
SRの元就はコスト3の割武力は8と寂しい。だが統率は最高クラスの11、伏兵と魅力持ちな弓足軽。欲を言えば焙烙が欲しかった。
計略は「謀神の掌上」。士気8という重さの見返りに事実上の永続計略となる大名陣形。毛利家の味方の武力が上がり、敵の統率が下がる。毛利家は焙烙という統率差ダメージが無士気で放てる特技があるため、陣形上で喰らえば大ダメージは免れない。
ただ、毛利家が登場したVer1.20当初はあまりに対士気効果が見合わないものだったため、登場数日で乙SRの烙印を押され、謀聖と並び聖神コンビとして本スレでネタにされた。
Ver1.20Bでやっと士気9並の上下値になり、スタートラインに立ったと言える。
更にVer3.20Aでコスト3.5→3に、武力と統率が1ずつ下がる修正を受けた。
これにより全カード中最高統率という地位は失ったものの、全体的に小回りが利きやすくなり
少なくとも残念SRという立場からは脱出した…かもしれない。
ちなみに、群雄伝で使用できるのは二章から。
「三本の矢よ、今こそ一つとなれ!」
Rの元就は2.5コスト、武力8統率10、防柵・魅力と中々の高スペックな弓足軽。制圧が欲しかった…がそうなると武田信繁に怒られる(スペック的な意味で)。
計略の三矢の采配は、毛利家の味方の武力を上げ更に弓足軽なら撃っている相手の武力を下げる大名采配。更に三本、つまり三部隊以上で同じ敵武将を弓で撃った場合は武力の低下が激しくなる上に移動速度も下げる。大名采配ではあるがその真価は三部隊以上で撃ち敵を1体ずつ確実に潰す事にあり、弓サーチ能力が必要となる。漫然と撃っているだけではあまり戦果は出ないので、思ったより難しい。
2.2で追加された厳島の戦い直前の元就。コスト2相応の武力6統率8に防柵・魅力・新星を持つ。新星のお蔭で最終的には武力8統率10と上のRの自身に並ぶ数字になる。弓足軽とはいえかなり優秀なスペック。制圧が欲(ry
イラストは上のRの自身より若々しいが、実は厳島の戦いの時点で元就は既に60近い高齢…。ちょっと無理がありませんかね。
計略の「厳島の恩寵」は範囲内の毛利家の味方の武力を上げ、弓足軽であれば強弓を撃てるようになり、弓を当てた敵部隊の武力と統率を下げるというもの。武力上昇値も強弓1回辺りの低下量は低めだが、複数の弓足軽で集中攻撃する事でみるみる敵のステータスを下げる事が出来、効果時間も長めでハマれば強い。その上新星Lvが最大であれば消費士気が下がる。ただし移動速度を下げる事はできないので、超絶騎馬は天敵中の天敵。槍と弓の連携が肝になる、毛利らしい1枚。
3.2で追加された「共宴」元就。2コスト武力6統率11という謀神らしいステータスに加え、防柵・魅力・軍備と豪華な特技が揃う。制圧が(ry
計略は他の共宴持ち計略と同時に使用する事で、効果を共有する特殊な計略。
共宴相手が弓なら弱体効果付き強弓、槍なら盾槍付与+タッチで吹き飛ばし、鉄砲隊なら射撃回数を減らす代わりに2発同時射撃になる。
いずれの効果も強力で、特に威力が跳ね上がる鉄砲効果が強い。敵を容易く押し返せる槍効果も魅力的。
強弓効果はそれそのものより共宴相手の効果と重なる事で真価を発揮する。特に複数部隊に射撃できるようにする共宴鶴姫との相性は抜群。
戦極姫における毛利元就
初代と2では、穏和な性格の美少女として登場。
若くして家を継ぎ、強大な勢力に囲まれながらも、主人公や志道広良の助けもあって成長するほのぼのの物語が展開される。ただ、父や兄を亡くした影響からか酒乱の人間に対しては厳しく、井上元兼もわざと酔っぱらった状態で元就の前に出たため、粛清のGOサインを出すことに繋がったようである。
ちなみに外見は美少女として登場させている都合上、子供達(毛利三兄弟姉妹)はそのまま出すのは難しく、かといって削るとシナリオの難易度が上がってしまうため、元就が拾ってきた化け猫(猫娘)という形で登場している。
3以降は超常キャラを出さない仕様になったため、元就の設定年齢もかなり上がり、三子の母親キャラ(無論だが攻略可能)として登場する。年齢が上がったことで、初代の頃の初々しい雰囲気は消え、計算高さと老獪さが加わった。だが、優しい心根は変わっていない。
関連項目
- 毛利隆元
- 吉川元春
- 小早川隆景
- 穂井田元清
- 毛利輝元
- 尼子経久
- 大内義隆
- 陶晴賢
- 毛利重就(長州藩主。子孫の1人)
- 戦国時代の人物の一覧
- 高性能じいちゃん
- 伝説の老兵
- 毛利元就(大河ドラマ)
- 戦国無双
- 戦国BASARA
- ニコニコ歴史戦略ゲー
- iM@S架空戦記シリーズ
- サンフレッチェ広島(Jリーグ)
- 毛利元就 誓いの三矢
- 三本の矢
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